燻る火種は、まだ消えない
翌日の昼休み。
糸川美鈴は、自分のクラスで友達と机を寄せ合い、普段と変わらず弁当をつついていた。
「ねぇ見た? 昨日のバラエティ」
「見た見た! あの芸人、完全に事故ってたやつ!」
「それな!」
笑う。ほんとうに、いつも通りに。
明るくて、元気で、よくしゃべる。美鈴はこの教室では、浮いても沈んでもいない“まんなか”の子だ。
……ただふと、美鈴は視線を窓に向けた。
向かいの隣クラスの前で、菅谷爽が男子数人と談笑している。
何でもない調子で、何でもない笑顔を浮かべて。
その笑顔は、今のところ――自分には向けられていない。
箸先が宙に止まる。
(……大丈夫。忘れてるだけ。きっと思い出してくれるはず)
胸の奥のざわめきを、笑い声で包み隠す。友達に合わせて、もう一度「それな!」と声を重ねる。
誰も気づかない。気づかせない。
美鈴は本当の自分を隠しながら、今日も一日を過ごし切る。
多分それは、明日も、明後日も、明々後日も続くだろう。
だがこの時の美鈴は、とっくに自分の中の何かが限界を迎えていることに、まだ気づいていなかった。
*
放課後。昇降口へ続く廊下に夕日の切れ端が伸びていた。
美鈴は爽の教室の前で足を止め、出てきた彼の背を呼び止める。
「爽くん、ちょっと……」
振り返った爽は、一拍だけ目を見開き、すぐに曖昧な笑みを作った。
「え、あぁ……。君は一昨日の……」
美鈴の胸が一瞬、大きく跳ねた。
覚えていてくれた――そのことがたまらなくうれしくて仕方なかった。
「そう! あの時、名前言いそびれてたんだけど……私、糸川美鈴っていうの」
「いとかわ……みすずちゃん?」
爽はその名を反芻するように口にし、少し間を置いてから首をかしげる。
「どこかで会ったこと……あったっけ?」
「うん、小学校に上がる前くらいに、何回か遊んだよ」
「そ、そうなんだ……」
「ごめん、覚えてないよね」
「うん……ごめん」
その答えを覚悟していたとはいえ、美鈴はやはりショックを隠し切れなかった。
けれど一瞬で、友人の前で作るような笑顔を取り繕いながら言葉を埋める。
「でも仕方ないよね! ずっと昔のことだもん、無理もないよ!」
自分に言い聞かせるように笑って、言葉を継いだ。
「ね、ねぇ! もしよかったらさ、今日、一緒に帰らない?」
胸の奥で跳ねる鼓動を隠しながら、できるだけ軽く言う。
爽はほんのわずかに視線を外し、短く息を吐いた。
「……ごめん。実は、部活があって」
その一言に、美鈴の胸の奥がずしんと沈む。
(部活?……入ってない、はずなのに)
笑顔を保ちながらも、心の奥では別のことに気づいてしまっていた。
――これはただの「忘れている」んじゃない。
自分という存在は、彼の中で何かの理由で“意図的に蓋”されている。
その理由が何かは分からない。けれど、少なくとも自分の力だけで開けられるものじゃないことだけは、はっきりと分かってしまった。
「そっか。……じゃあ、仕方ないね」
「ごめん」
「気にしないで! またタイミングが合ったら、一緒に帰ろ!」
「うん……またね」
それだけ。
次にあるかもわからない約束を一方的に取り付けて、彼は曖昧に言葉を残して去っていった。
爽は足早に人波へ紛れ、美鈴は取り残される。
その笑顔は、ほんの少し引きつっていた。
「みすずー! 一緒に帰ろ!」
背後から友達に呼ばれ、美鈴は振り向く。
「うん、行く!」
歩き出す足取りは重かった。
だけど努めて、その足取りを軽く見せてみる。
ふりの上に、さらにふりを重ねて。
――その頃、爽は進路指導室へ向かっていた。
昨日発足したばかりの「アウトドア同好会」について、担任の宏太を通じて校長から呼び出しを受けていたのだ。
廊下を歩きながらも、先ほどの少女の姿が脳裏をよぎる。
緑色の大きな瞳に、黒髪のポニーテール。
どこか幼さを思わせる顔つきなのに、年相応に成育した姿。
他の女子とは違う、暖かい面影。
「みすず……。糸川、美鈴……」
名前を何度か口にしてみても、心にかかる靄は晴れない。
自分は今、大切な何かを忘れている――ただその予感だけが胸に残り、爽は結局何も思い出せないまま、進路指導室の扉を叩いた。
*
夕暮れの住宅街。
ドアを開けると、家の中は静けさが先にいた。
「……ただいま」
返事はない。
テーブルにスーパーの総菜が置かれ、冷蔵庫のカレンダーには「残業」と殴り書き。
電子レンジに入れて温めようとしたが、やめた。
(どうせ、また冷める)
テレビをつけると、誰も笑っていないのに笑い声だけが流れる。
(帰っても、誰もいない。だったら……せめて爽くんだけは)
箸を置く音が、やけに大きく響いた。
*
夜。
机の上でビー玉を転がす。小さな球の中で灯りが揺れて砕ける。
(もう、ダメなのかな……)
幼い日の断片。夏の川べり。夕立の匂い。
「それ、あげるよ」と笑った誰か。確かに爽だったはずの輪郭が、最近は霧のように曖昧になる。
ビー玉を握る指先に、白い跡がついた。
(爽くん……。私、もう――)
リュックを床に下ろし、ポケットを一つずつ確かめる。財布、充電コード、タオル。
そしてビー玉を小さなポケットにしまった。
(爽くんの世界に、私はいない……。なら、私も……)
そう思った瞬間、身体は自然と玄関へ向かっていた。
*
夜更けの公園。
街灯に照らされたベンチに、美鈴はリュックを抱えて座り込んでいた。
冷えた空気に、指先がじんと痺れる。
胸に抱えたリュックは、軽いはずなのに鉛のように重い。
(このまま……どこへ行けばいいんだろう)
答えはどこにもない。ただ、帰りたくないという気持ちだけが残っている。
思わず、今日の夕暮れを思い返す。
昇降口で振り返った爽の横顔。
名前を呼んでくれた一瞬のときめきと、すぐに曇ったような笑み。
(爽くん……。どうして思い出してくれないの)
(私だけが、あの日の続きを持ち続けているのに……)
脳裏に、夏の日の断片がふっと浮かぶ。
夕立の匂いがまだ残る、駄菓子屋の軒先。
二人並んで飲んだラムネの瓶を、美鈴は名残惜しそうに眺めていた。
「ねぇ、この中のビー玉って、取れないのかな?」
幼い自分の何気ない疑問に、隣の爽は瓶を覗き込み、首をかしげた。
「んー、どうなんだろうね……? やってみよっか!」
小さな手で瓶を振ったり、棒で突っついたり、不器用に何度も挑戦する。
その真剣な顔に、美鈴はなぜか胸が高鳴った。
けれど、どれだけ頑張っても瓶の口からビー玉は出てこない。
「やっぱりダメかなぁ……」
爽が肩を落としかけた、その時。
「……あ、待って。これ、逆に回したら?」
瓶の口の金具をくるりと反対に回してみる。
――カラン。
乾いた小さな音とともに、ビー玉はあっけなく転がり落ちた。
「ほら! とれたよ!」
意外そうに、それでいて嬉しそうに笑う爽。
その掌に載せられたガラス玉を見て、美鈴の胸は熱くなった。
(あの時、私、すごく嬉しかったんだよ……)
ビー玉を握りしめた幼い日の感触が、今も手の中に残っている気がする。
けれどそのぬくもりは、今では冷えきったガラス玉のように重い。
視界に、公園の街灯が滲んで映る。
ベンチに座り込む自分の足元で、アスファルトに落ちる光が小さな丸を描いていた。
まるで、あの時瓶から転がり落ちたビー玉のように――冷たく、それでも確かに光っている。
その光にじっと見入っていた美鈴の耳に、不意に声が落ちた。
「……そこで何をしているんだい」
はっと顔を上げる。
街灯の光を背にして立っていたのは、校長・長瀬貞夫だった。
逆光に縁取られた姿は、どこかビー玉の奥で砕けた光のように柔らかくも眩しく見えた。
「こ、校長、先生……」
美鈴は慌ててリュックを背に隠す。
けれど、目の赤さまではどうしても隠せなかった。
貞夫はゆっくりと歩み寄り、ベンチの隣に腰を下ろす。
夜風が吹き抜け、木々の枝がざわめいた。
美鈴は怒られるかと思った。
『こんな時間に出歩くのは危険だ』と、ついでに明日の放課後呼び出しを覚悟する。
「夜風は思った以上に冷える。――今日はひとまず帰りなさい」
案の定、貞夫が口にしたのはそんな帰宅を促す一言だった。
でも美鈴だって、ここまで行動に移したのにも経緯がある。
「……でも」
唇を震わせる美鈴は、そう短く躊躇い交じりの否定を返した。
「いいから。”今この場に私も君は居なかったし、君はまだ家出をしていない” ひとまずそういうことにしておこうじゃないか」
貞夫の思わぬ提案に、美鈴は思わず「えっ?」と彼に視線を向ける。
一方の彼は、正面に流れる車の光をただ遠くに眺めながら、独り言を呟くように言った。
「君が今持っているその荷物一式は、明日、学校へ持ってきなさい。そして放課後になったら、とりあえず荷物は持たずに、私のところに来るといい。君にとっても都合がいい場所を、教えてあげよう」
その声音は聞き馴染みが無いはずなのに、確かな芯と暖かさがあった。
逃げ場を与えるのではなく、居場所へ導こうとする響き。
美鈴は唇を噛みしめ、やがて小さく頷いた。
結局、この家にいても答えが見つかるわけじゃない。
ならば――あの先生がくれる“ヒント”に、ひとまず従ってみよう。
結局美鈴は握りしめた手の奥で、爽に抱いていた燻る火種を消すことはできなかった。
それはまだ、彼女を動かし続ける小さな灯のままだった。




