焚火と権力には、抗えない
いまさらだが、宏太が教鞭をとる私立悠久高等学校は、新潟県長岡市の郊外―――悠久山公園のすぐそばにその校舎を構えている。
県内でも有数の進学校として知られ、一学年三百六十名、八クラスを擁する全校生徒およそ千人規模の大きな学校だ。
赤いブレザーの制服に身を包んだ生徒たちは、進学実績を誇る一方で、個性的な顔ぶれも少なくない。
そんな校舎のすぐ裏手には、森に囲まれた小さな山が広がっていた。
市街地に近い立地にもかかわらず、裏山の中腹まで足を運べば、木々に遮られ都会的な喧騒は途絶える。
生徒たちの多くにとっては「校舎裏にあるただの雑木林」に過ぎないが、時折教師が野外活動や体験学習に使うこともある。
――そして今日。
その裏山は、まるでキャンプ場のように焚火やテーブルが並べられ、特別な空間へと姿を変えていた。
「……なにこれ」
由奈が目を丸くする。
5分咲きの桜の下に張られたタープに、ユラユラと小さな灯と共に揺れるランタン。
少し煤汚れた焚火台の上には、時折パチパチと音を立てながら薪が燃えている。
しかもその周りには、簡易テーブルと四脚の折り畳みチェアが人数分揃えられていた。
それはまるで雑誌に出てくるキャンプの一幕のような光景。
その中心で悠然と腰を下ろしている人物がいた。
宏太たちの存在に気づくとその人は、
「やぁ、よく来たね」
融和で優し気な印象の笑顔を向けながら、校長―――長瀬貞夫が出迎える。
「……マジで何やってんだか。校長もヒマですね」
宏太は額に手を当て、深いため息をつく。
予想はしていたが、やっぱり面倒ごとに巻き込まれている。
「さぁ、座りたまえ。おいで、菅谷君も」
促された爽は、戸惑いながらも椅子に腰を下ろした。昨日の騒ぎのせいか、胸の奥にまだ重たい影を抱えているようにも見える。
仕方なく宏太たち3人も、用意されていた低めの椅子に腰を下ろした。
日が沈みかけている山の中―――。
四月中旬のこの時間帯は、陽の光が暖かくなってきたとはいえ、まだ空気は冷たい。
だが不思議とテーブルの周りは、焚火のおかげか宏太には暖かく感じられた。
一方、テーブルの上では、細長いガスボンベが接続されたコンロの上で、小さなケトルが湯気を上げ始める。
貞夫はすでに用意していたらしいコーヒーサーバーの上に置かれたドリッパーに、沸かしたお湯をゆっくりと注ぎ入れた。
ゆっくりとサーバー内に黒い液体が満たされていき、挽きたてのコーヒーの香りが辺りを満たしていく。
しばらくして、紙コップにサーバーからコーヒーを注ぎ始める。
貞夫が注いだカップを爽に差し出すと、爽は両手で抱え、逡巡しながら口元に近づけた。
だが、香ばしい香りに顔をしかめ、唇が硬く閉ざされたまま動かない。
「爽くん……もしかして、コーヒー飲めない?」
隣で見ていた由奈が、そっと声をかけた。
「……は、はい。ちょっと……」
観念したように打ち明けると、爽は気まずそうに視線を落とす。
すると貞夫はにやりと笑った。
「そうかと思ってね」
手元のバスケットを開けると、ティーバッグと砂糖、小瓶のミルクまで揃っている。
貞夫はもう一つ紙コップを用意してティーバックの封をあけると、お湯を注ぎ入れた。
「紅茶もある。ミルクと砂糖はお好みで」
「……ありがとうございます」
安堵したように、爽は差し出された紅茶を両手で抱え込んだ。
その手はほんのわずかに震えていた。
琥珀色の液面に、火の揺らぎが映り込む。
「温かい飲み物は、温かいうちに。さぁ、冷めないうちに飲みなさい」
宏太の分のコーヒーを注ぎ渡すと、貞夫は穏やかな口調で言いながら、火の揺らめきを見つめる。
宏太は焚火の炎を見つめながら、ぼそりと吐き出した。
「これじゃあ、校長のただの道楽じゃないですか……。まさか俺たちは、生徒と一緒に実験台かなにかか?」
皮肉を混ぜると、貞夫は愉快そうに「そんなことはないぞ?」と肩を揺らした。
由奈は苦笑いを浮かべ、二人のやり取りを止めるように爽へ視線を向ける。
「そういえば君、女の子とのことでちょっと苦労しているらしいね」
貞夫が何気ない調子で問いかけた。
爽はわずかに顔を歪めた。
観念したように、ぽつりと呟く。
「……実は、女子が苦手なんです」
由奈が小さく目を見開き、宏太は鼻を鳴らす。
「は? お前、あれだけモテてて苦手ってどういうことだよ」
爽はしばし口をつぐみ、そしてぽつりと続けた。
「……モテるとかじゃなくて。勝手に告白されて、ちゃんと断れなくて……。曖昧にしちゃって、結局、みんなを傷つけて……」
情けなさを滲ませた声は、焚火の音にかき消されそうに小さかった。
宏太は呆れたように鼻を鳴らし、探るように問いかける。
「……お前、何か過去にあったのか?」
その一言に、爽はびくりと肩を震わせた。
視線を落としたまま、唇を噛む。
(……あの日から、ずっと)
脳裏に蘇るのは、中学時代の先輩との一件だった。
意識もしていなかった先輩女子からのアプローチに、執拗な付きまとい―――そして、密室で襲われかけた恐怖の瞬間。
走馬灯のようにフラッシュバックしていく記憶の数々。
「……」
爽は喉が詰まり、言葉が出ない。
紅茶の温かさすら、そこに安らぎを与えてはくれなかった。
どうやら彼にとってその過去は、かなり大きな地雷だったのだろう。
宏太は何かを言おうとして言葉に詰まる。
未熟さゆえ、どう励ませばいいのか分からなかった。
代わりに、貞夫が静かに声を引き取る。
「……なるほどな」
彼は火ばさみを手に取り、焚火から小さな薪を摘み上げた。
「菅谷君、君の今の状況は、そこの焚火だって同じだよ。一度火をつけた薪は、燃えて灰になっていく一方だ」
隣に置かれていた火消壺に薪を移し入れる。
金属の蓋をそっと閉じると、音もなく炎は途絶えた。
蓋をした壺からは、煙の一つも漏れ出ていない。
「君に気持ちを打ち明けた女の子たちは、君という器の中で火をつけてしまったんだ。もし君がその子たちに気がないのであれば、その薪が消えてしまう前に器の外に出して、適切な方法で火を消してあげなければいけない。ほら、こうしてちゃんと火を消してやれば、後片付けは楽でしょ?」
爽は紅茶を抱えたまま、ただその光景を見つめていた。
炎を失った薪が壺の中で沈黙している。
(……僕は、火を消しきれなかった……?。だから全部……燃え広がってしまった)
彼の胸の奥に眠っていた痛みが、静かに姿を現しつつあった。
「まずは、その火の消し方を手探りでもいいから学べばいい。火傷しようが、他に燃え移ってしまおうが、今の君なら大丈夫だ。むしろそうやって、若いうちに失敗からいろいろ学びなさい。それが、高校という学び舎の生徒である君の特権だよ」
貞夫の言葉に、爽は何かに気づかされたような表情で目を見開く。
どうやら爽の中で、貞夫の言葉はとても響くところがあったのだろう。
確かにその言葉の一つ一つは、今の宏太には自然と口にすることができないことばかりだった。
それは教員として今の地位まで築いてきただけのキャリアと、経験があってこそだろうか。
どちらにせよ、さっきの彼の言葉は、彼だからこそ響く力があったのは事実だ。
(これが、教育か……)
宏太もまたしみじみと心の中で考えながら、焚火の炎をぼんやりと眺める。
自分の教育論というものはまだはっきりしていないものの、宏太の中で決定的に大切な何かが足りないことを突き付けられる。
(こりゃ、俺もまだまだ敵わねぇな……)
そんなことを思いながら、宏太は少しふてぶてしくその口角をあげた。
やがて薪が弾ける音が数度響いた。
しばらく間が開いて、4人がそれぞれ飲み物を啜る音が時々響く。
ちらっと、爽の方に宏太が視線を向けてみると、彼はどうやらすでに落ち着きを取り戻しているようだった。それどころか、焚火のおかげか少しリラックスし始めているようにも思える。
爽のそんな変化に気づくと、宏太もまた自身も少しだけ、自然とリラックス状態になっていることに気づいた。
だからだろうか。
「それにしても、たまにはこういうのもいいな」
宏太は自然と、そんな独り言をポツリと漏らす。
「確かに、外で飲む暖かい飲み物って、なんかいつもと違っていいね」
由奈が頷き、両手でカップを包み込む。
それに貞夫は、
「おっ! 二人とも分かってきたじゃないか」
とテンション高く、コップを掲げた。
そして、ふっと笑みを深める。
「……よし、これはいいきっかけになりそうだ。せっかくだから“居場所”にしてみようか」
宏太が怪訝そうに眉をひそめる。
「居場所、ですか」
「そう。菅谷君みたいに、ちょっとした悩みを抱えている子たちが集まれる場所だ。―――名付けて“アウトドア同好会”、なんてどうかな」
由奈が目を瞬き、宏太は大げさにため息をついた。
「また校長の思いつきですか……」
それでも、焚火の炎に照らされた貞夫の笑顔は揺るがない。
「いやいや、思いつきこそが人生を面白くするんだよ」
コーヒーをまた一口含んで、鼻からその芳醇な香りを吐き出す。
そして貞夫は、
「よし、決まりだ」
そう息巻くようにして言うと、
「二人とも顧問と副顧問、そして菅谷君、君が会員1号だ!」
宏太と由奈に視線を順に向け、コップを爽に突き出すようにして宣言した。
そのいきなりすぎる無茶苦茶な宣言に、
「はぁ!?」
三人の声が重なる。
「ちょ、ちょっと待ってお父さん!」
由奈が慌てて抗議するが、貞夫は聞く耳を持たない。
「君たち三人が最初のメンバーだ。今後は定期的に自然の中でコミュニケーション能力を養うことを目的に、活動していくこと。これは校長令だ」
強引に宣言すると、手元のカップを掲げる。
呆れ顔の宏太も、しぶしぶコーヒーを一口。
「……やっぱりこうなるのかよ。ったく……」
焚火がぱちりと弾ける。
こうして“アウトドア同好会”は、半ば強引になぁなぁのまま産声を上げた。
爽が大人たちに囲まれながら飲み物を啜っていた頃。
騒ぎの残り香が消えた校舎には、夕暮れの静けさが降りていた。
教室の窓から射す赤い光が、机の列を長く染め上げている。
その中でただひとり佇む女子生徒―――糸川美鈴は、爽の席をに腰を下ろす。
そして彼女は、昔からずっと大切に持っていたビー玉を、机の上で優しく転がしながら目を細めた。
「爽くん……。やっぱり、覚えてないんだね」
彼の曖昧な笑顔が、脳裏で繰り返される。
(でも……忘れてるだけ。きっと思い出してくれるはず)
必死にそう言い聞かせながら、転がしていたビー玉を胸に抱き寄せる。
けれど同時に、今日、女子に囲まれていた爽の姿が蘇ってしまう。
他の子に向けられた視線と、自分にだけ向いてこなかった笑顔。
「……そんなの、似合わないのに」
囁いた声はすぐに夕暮れの空気に溶けた。
校舎はもう、ほとんどの教室が消灯されている。
それでも彼女は、帰る気になれずにここに残っていた。
(帰っても、誰もいない……。だったら、せめて爽くんだけは……)
そう思った瞬間、美鈴は自分でも気づかないほど強く、そのビー玉を握りしめていた。
我慢ならず、頑張って執筆してみました。
ですがプロローグの予告通り、次話も8月24日の夜くらいに公開予定です。
どんどんと物語は盛り上がっていく予定ですので、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
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