こうして彼らは、外に出る
「おや、ずいぶん熱のこもった話をしていたようですね」
静かな声が校長室に差し込んだ。
振り向けば、校長・長瀬貞夫が立っていた。その隣には、トレーに湯呑を四つ載せた美鈴の担任が、ばつの悪そうな顔で佇んでいる。まるで「聞いちゃいましたよ」とでも言いたげだった。
「校長、いつから……」
父・直哉が眉をひそめる。声にはわずかな動揺が混じっていた。
貞夫は肩をすくめ、ひょうひょうとした口調で答えた。
「最初からですよ。すぐ後ろが給湯室でしてね。声は驚くほど通るんです」
言われて振り返ると、確かにそこには「給湯室」と書かれたプレート。扉は半端に開いており、校長の言葉を裏付けていた。
「じゃあ、今のやりとりも……」
宏太が恐る恐る口を開く。
「あぁ、全部聞こえていたよ」
校長は微笑を崩さない。むしろ愉快そうに、どこか嬉しげにすら見えた。
やがて彼は糸川親子に視線を移し、穏やかな声で言葉を継ぐ。
「お父さんは“伝えたつもり”。けれど娘さんは“伝わっていない”と感じている。――親子のすれ違いとは、大抵そんなものです」
その声音は柔らかく、焚火の炎のようにじんわりと広がっていく。
張り詰めていた空気が、ほんの少しずつほどけていった。
「うんうん、それでいいんですよ。……親子は、不器用なままで」
言い終えると、貞夫は立ち上がり、窓の外に目をやった。
曇りガラスの向こうに、春の光が白く揺れている。
「せっかくですし、場所を変えましょう。この部屋は、どうにも空気を無駄に硬くしてしまう」
美鈴も宏太も、父も担任も、すぐには動けなかった。ただ、校長の言葉に導かれるように、ゆっくりと腰を上げる。
――こうして、置き去りにされた湯呑から、まだ湯気だけが立ちのぼっていた。
*
――ほどなくして、6時間目の始業を告げるチャイムが鳴った。
校長・貞夫を先頭に、宏太、美鈴の担任、そして美鈴と父・直哉の五人が向かったのは、普段なら生徒立ち入り禁止の屋上だった。
重たい鉄の扉を開けた瞬間――
「「「あっ……」」」
そこには、すでに二人の先客がいた。
宏太も、美鈴の担任も、美鈴自身も、予想外の顔ぶれに一瞬声を失う。
そして先に口を開いたのは、宏太だった。
「ゆ……長瀬先生、菅谷……なんでここに……」
「それは、こっちのセリフだよ」
由奈が同じように戸惑いを隠せず、短く返す。
思わぬ再会に互いの視線が交錯する。その視線はやがて、自然と屋上中央の光景へと吸い寄せられていった。
そこには、ぐるりと囲むように並べられたローチェアとステンレスのテーブル。
中央には円盤状の焚火台が据えられ、まだ火は入っていないが薪が整然と組まれている。
テーブルにはアウトドア用のコンロ、コーヒーミル、煤けたポット。
無機質な校舎の屋上に、ぽっかりと「もう一つの居間」が浮かび上がったようだった。
「……なんすか、これ」
宏太が半ば呆れたように声をもらす。
「いいだろう。題して、“和みの卓”だ」
愉快そうに笑いながら、貞夫は豆を挽き始めた。
最初こそ誰もが立ち尽くしていたが、ゴリゴリと豆を砕く音と、そこから広がる香ばしい匂いが風に溶けていくにつれ、硬さが少しずつほぐれていく。
やがて誰からともなく椅子に腰を下ろし、場の緊張はゆるやかに沈んでいった。
「ボヤ騒ぎになると大変だから、焚火は無理だけど……これくらいなら、ね?」
そう言いながらコンロに火をつける校長の手際は、どこか板についていて妙に安心感を与えた。
湯気がふわりと立ちのぼり始めるころ、差し出されたカップを両手で包み、美鈴が小さく呟いた。
「……あったかい」
その一言を皮切りに、直哉も屋上の空を仰いだ。
「そうだな……眺めも、悪くない」
眼下には県内で二番目の規模を誇る街並みが広がり、遠くには冬場スキー場になる山々が連なっている。
一つの場所で二つの光景を目にできるその眺めは、住み慣れた街でありながら、どこか別世界のように新鮮だった。
上に届いた風には、校庭の桜の甘い匂いがほんのりと混じっていた。
春の匂いが胸に満ち、息をするだけで心がほどけていく。
「でしょう。さ、飲み物も暖かいうちに」
貞夫は目を細め、全員のカップに湯気を立てる飲み物を配っていく。
全員に飲み物がいきわたり、誰からともなく紙コップに皆口をつけた。
「はぁ……」
そんなホッとするような溜息が、みな口をついて出る。
その刹那、「そういえば、そのポット……懐かしい」由奈が笑みを浮かべながら一言漏らした。
「昔、お父さんとキャンプしたときに同じのを使ってた。夜中に寒くて眠れなくて……」
「……あぁ、あの時か」
貞夫は苦笑し、記憶を掘り起こすように頬をかいた。
「ちょうど初めて冬場にキャンプをした時だったな。雪はなかったけど、風が冷たくて……夜は本当に凍える思いをした」
由奈は頷きながら、くすっと笑った。
「うん。防寒対策が全然足りなくてさ、お母さんと三人でくっついて寝たんだよね。寝袋からはみ出た顔が冷たくて、でも身体はぬくぬくで……変におかしくて笑っちゃった」
「ははは、あれは参ったよ。まさか“人肌暖房”が最後の切り札になるとは思わなかった」
貞夫は肩をすくめ、カップを傾けながら目を細める。
「けれど……あの夜は、不思議と幸せだったな」
由奈も同じくカップを両手で包み、小さな声で応じた。
「うん。寒かったのに、あったかい夜だった」
記憶の断片を重ね合う二人の姿に、場の空気は自然と和らいでいった。
「えっ……」
突如、美鈴が思わず声を上げる。
「由奈先生と校長先生って……親子だったんですか!?」
その言葉に、宏太と担任も揃って目を丸くする。
「えっ、本当に……?」
由奈は困ったように笑いながら、そっと髪を耳にかけた。
「はい……そうなんです。あまり言う機会がなかったので」
「隠していたつもりはなかったんだけどね」
貞夫は楽しげに頬を緩める。
「わざわざ口にするようなことでもないと思ってね」
「……そういえば」
美鈴がぽつりと呟いた。
「確かに、校長先生と由奈先生……苗字、同じだ……」
傍らで話を聞いていた爽も、「あっ」と声を重ねる。
「なるほど」
直哉も深く頷き、どこか腑に落ちたように目を細めた。
「そういうことでしたか」
その短いやり取りを区切りに、場の会話がふと途切れた。
沈黙の中、直哉は手元のカップをじっと見つめる。
そして、ゆっくりと息を吐き出す。
「……美鈴。その……今まで、すまなかった」
「えっ……?」
不意に投げかけられた言葉に、美鈴は目を見開いた。
直哉は視線を落としたまま、慎重に言葉を選ぶように続ける。
「もっと時間を作るべきだった。けれど……どうすればよかったのか、正直、今も分からない」
その声は、張り詰めていた糸がぷつりと切れるように弱々しかった。
外科医として多くの命を預かる男が、いまはただ一人の娘の前で戸惑っている。
美鈴の瞳に、涙がにじんだ。
「……ちがうよ」
小さく首を振りながら、声を震わせる。
「私のほうこそ……お父さんの気持ちも知らないで、勝手に責めて……ごめんなさい」
涙は頬を伝い、両手で包んだカップの中へ、ぽつりと落ちる。
それは、初めて互いに差し出された素直な謝罪だった。
この光景を目の当たりにした爽は、ハッと何かに気づかされたような表情を浮かべる。
これに宏太は、”どうしたんだ?”と内心で思うが、すぐにその意味が分かった。
(なるほど、菅谷も呼んだのは、そういうことか……)
今までほぼ影の存在だった彼を、わざわざこの場に呼んだ意味。
それは、爽自身にも気づかせたかったのだ。
すれ違いばかりだったはずの親子だって、しっかりと言葉を交わすことで、互いに歩み寄れることを。
一方的なコミュニケーションだけでは、お互いに苦しみ続けるだけであることを。
(ほんと、気味が悪いジジイだ……)
あまりにも思惑が広く、深すぎる校長に対して、そんな悪態を宏太は心の中で吐いた。
それは恐らく、由奈もほぼ同時に気づいたのだろう。
彼女が父の貞夫に向ける視線は、驚きと畏怖が入り混じったようなものだった。
一方、当の貞夫はゆっくりと口を開く。
「……うん、それでいいんです」
彼は微笑み、手にしたカップを軽く掲げる。
「親子とは、互いに正解を持たないまま歩いていくものです。だからこそ、時々こうして立ち止まり、言葉を交わすことが大切なんですよ」
直哉と美鈴は、自然と視線を交わした。互いにうまく言葉にはできないが、その胸の奥に確かに“これから”への灯がともる。それは恐らく、爽にも向けられた言葉でもあるんだろう。
「大切なのは、対話をやめないことです」
貞夫は焚火台の中央に置かれた未点火の薪をちらりと見やる。
「火をつけなければ薪はただの木ですが、火を絶やさず手をかければ、温もりを分け合う焚火になる。……親子もそれと同じです」
その比喩は不思議と胸に響き、沈んでいた空気を少しずつ和らげていった。
直哉は一度目を閉じ、息を整えるように深く吐き出した。
そして視線を娘に向け、少しだけ照れを含んだ声で口を開く。
「……久しぶりに、二人で出かけようか」
「えっ……?」
美鈴は驚いて目を瞬かせる。
直哉は手元のカップを見つめながら、言葉を探すように続けた。
「患者さんに、良さそうなレストランを教えてもらったんだ。少し落ち着いた場所で、ゆっくり話せるところらしい」
その声音には、ぎこちなさと同時に確かな本気があった。
美鈴は一瞬迷ったものの、次第に顔をほころばせていく。
「……うん。行きたい」
たった一言だったが、それはこの親子にとって新しい一歩の合図だった。
6限目の授業が終わったらしく、いつものチャイムが校舎中に鳴り響く。
カップから立ちのぼる湯気が、風に揺れてはすぐに溶けていった。
宏太が肩をすくめ、からかうように言った。
「やっぱ親父ってのは、娘に弱ぇんだな」
「……でも、勝てなくていいのかも」
由奈が柔らかく微笑む。
直哉は一瞬黙し、それから小さく笑って肯定した。
「そうかも、しれないですね……」
その言葉に、美鈴は自然と笑みを浮かべる。
「ふふっ……」
同時に美鈴の内心は、両手のコップと同様に暖かいもので満たされていった。
(やっと、向き合えた……)
校庭を渡る春風のように、美鈴の心にもようやく光が吹き込んだ瞬間だった。
――こうして、美鈴の家出は静かに幕を閉じたのだった。




