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冷めたコーヒーは、美味しくない  作者: やわらぎメンマ
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こうして彼らは、外に出る

「おや、ずいぶん熱のこもった話をしていたようですね」

 静かな声が校長室に差し込んだ。


 振り向けば、校長・長瀬貞夫が立っていた。その隣には、トレーに湯呑を四つ載せた美鈴の担任が、ばつの悪そうな顔で佇んでいる。まるで「聞いちゃいましたよ」とでも言いたげだった。


 「校長、いつから……」

 父・直哉が眉をひそめる。声にはわずかな動揺が混じっていた。


 貞夫は肩をすくめ、ひょうひょうとした口調で答えた。

 「最初からですよ。すぐ後ろが給湯室でしてね。声は驚くほど通るんです」


 言われて振り返ると、確かにそこには「給湯室」と書かれたプレート。扉は半端に開いており、校長の言葉を裏付けていた。


 「じゃあ、今のやりとりも……」

 宏太が恐る恐る口を開く。


 「あぁ、全部聞こえていたよ」

 校長は微笑を崩さない。むしろ愉快そうに、どこか嬉しげにすら見えた。


 やがて彼は糸川親子に視線を移し、穏やかな声で言葉を継ぐ。

 「お父さんは“伝えたつもり”。けれど娘さんは“伝わっていない”と感じている。――親子のすれ違いとは、大抵そんなものです」


 その声音は柔らかく、焚火の炎のようにじんわりと広がっていく。

 張り詰めていた空気が、ほんの少しずつほどけていった。


 「うんうん、それでいいんですよ。……親子は、不器用なままで」


 言い終えると、貞夫は立ち上がり、窓の外に目をやった。

 曇りガラスの向こうに、春の光が白く揺れている。


 「せっかくですし、場所を変えましょう。この部屋は、どうにも空気を無駄に硬くしてしまう」


 美鈴も宏太も、父も担任も、すぐには動けなかった。ただ、校長の言葉に導かれるように、ゆっくりと腰を上げる。


 ――こうして、置き去りにされた湯呑から、まだ湯気だけが立ちのぼっていた。



 ――ほどなくして、6時間目の始業を告げるチャイムが鳴った。


 校長・貞夫を先頭に、宏太、美鈴の担任、そして美鈴と父・直哉の五人が向かったのは、普段なら生徒立ち入り禁止の屋上だった。


 重たい鉄の扉を開けた瞬間――


 「「「あっ……」」」


 そこには、すでに二人の先客がいた。

 宏太も、美鈴の担任も、美鈴自身も、予想外の顔ぶれに一瞬声を失う。

 そして先に口を開いたのは、宏太だった。


 「ゆ……長瀬先生、菅谷……なんでここに……」

 「それは、こっちのセリフだよ」

 由奈が同じように戸惑いを隠せず、短く返す。


 思わぬ再会に互いの視線が交錯する。その視線はやがて、自然と屋上中央の光景へと吸い寄せられていった。


 そこには、ぐるりと囲むように並べられたローチェアとステンレスのテーブル。

 中央には円盤状の焚火台が据えられ、まだ火は入っていないが薪が整然と組まれている。

 テーブルにはアウトドア用のコンロ、コーヒーミル、煤けたポット。


 無機質な校舎の屋上に、ぽっかりと「もう一つの居間」が浮かび上がったようだった。


 「……なんすか、これ」

 宏太が半ば呆れたように声をもらす。


 「いいだろう。題して、“和みの卓”だ」

 愉快そうに笑いながら、貞夫は豆を挽き始めた。


 最初こそ誰もが立ち尽くしていたが、ゴリゴリと豆を砕く音と、そこから広がる香ばしい匂いが風に溶けていくにつれ、硬さが少しずつほぐれていく。

 やがて誰からともなく椅子に腰を下ろし、場の緊張はゆるやかに沈んでいった。


 「ボヤ騒ぎになると大変だから、焚火は無理だけど……これくらいなら、ね?」

 そう言いながらコンロに火をつける校長の手際は、どこか板についていて妙に安心感を与えた。


 湯気がふわりと立ちのぼり始めるころ、差し出されたカップを両手で包み、美鈴が小さく呟いた。

 「……あったかい」


 その一言を皮切りに、直哉も屋上の空を仰いだ。

 「そうだな……眺めも、悪くない」


 眼下には県内で二番目の規模を誇る街並みが広がり、遠くには冬場スキー場になる山々が連なっている。

 一つの場所で二つの光景を目にできるその眺めは、住み慣れた街でありながら、どこか別世界のように新鮮だった。


 上に届いた風には、校庭の桜の甘い匂いがほんのりと混じっていた。

 春の匂いが胸に満ち、息をするだけで心がほどけていく。


 「でしょう。さ、飲み物も暖かいうちに」

 貞夫は目を細め、全員のカップに湯気を立てる飲み物を配っていく。

 全員に飲み物がいきわたり、誰からともなく紙コップに皆口をつけた。

 

 「はぁ……」

 そんなホッとするような溜息が、みな口をついて出る。


 その刹那、「そういえば、そのポット……懐かしい」由奈が笑みを浮かべながら一言漏らした。

 「昔、お父さんとキャンプしたときに同じのを使ってた。夜中に寒くて眠れなくて……」


 「……あぁ、あの時か」

 貞夫は苦笑し、記憶を掘り起こすように頬をかいた。

 「ちょうど初めて冬場にキャンプをした時だったな。雪はなかったけど、風が冷たくて……夜は本当に凍える思いをした」


 由奈は頷きながら、くすっと笑った。

 「うん。防寒対策が全然足りなくてさ、お母さんと三人でくっついて寝たんだよね。寝袋からはみ出た顔が冷たくて、でも身体はぬくぬくで……変におかしくて笑っちゃった」


 「ははは、あれは参ったよ。まさか“人肌暖房”が最後の切り札になるとは思わなかった」

 貞夫は肩をすくめ、カップを傾けながら目を細める。

 「けれど……あの夜は、不思議と幸せだったな」


 由奈も同じくカップを両手で包み、小さな声で応じた。

 「うん。寒かったのに、あったかい夜だった」


 記憶の断片を重ね合う二人の姿に、場の空気は自然と和らいでいった。

 

 「えっ……」

 突如、美鈴が思わず声を上げる。

 「由奈先生と校長先生って……親子だったんですか!?」


 その言葉に、宏太と担任も揃って目を丸くする。

 「えっ、本当に……?」


 由奈は困ったように笑いながら、そっと髪を耳にかけた。

 「はい……そうなんです。あまり言う機会がなかったので」


 「隠していたつもりはなかったんだけどね」

 貞夫は楽しげに頬を緩める。

 「わざわざ口にするようなことでもないと思ってね」


 「……そういえば」

 美鈴がぽつりと呟いた。

 「確かに、校長先生と由奈先生……苗字、同じだ……」


 傍らで話を聞いていた爽も、「あっ」と声を重ねる。

 「なるほど」

 直哉も深く頷き、どこか腑に落ちたように目を細めた。

 「そういうことでしたか」


 その短いやり取りを区切りに、場の会話がふと途切れた。

 沈黙の中、直哉は手元のカップをじっと見つめる。

 そして、ゆっくりと息を吐き出す。


 「……美鈴。その……今まで、すまなかった」

 

 

  「えっ……?」

 不意に投げかけられた言葉に、美鈴は目を見開いた。


 直哉は視線を落としたまま、慎重に言葉を選ぶように続ける。

 「もっと時間を作るべきだった。けれど……どうすればよかったのか、正直、今も分からない」


 その声は、張り詰めていた糸がぷつりと切れるように弱々しかった。

 外科医として多くの命を預かる男が、いまはただ一人の娘の前で戸惑っている。


 美鈴の瞳に、涙がにじんだ。

 「……ちがうよ」

 小さく首を振りながら、声を震わせる。

 「私のほうこそ……お父さんの気持ちも知らないで、勝手に責めて……ごめんなさい」


 涙は頬を伝い、両手で包んだカップの中へ、ぽつりと落ちる。

 それは、初めて互いに差し出された素直な謝罪だった。


 この光景を目の当たりにした爽は、ハッと何かに気づかされたような表情を浮かべる。

 これに宏太は、”どうしたんだ?”と内心で思うが、すぐにその意味が分かった。

 

 (なるほど、菅谷も呼んだのは、そういうことか……)

 今までほぼ影の存在だった彼を、わざわざこの場に呼んだ意味。

 それは、爽自身にも気づかせたかったのだ。

 

 すれ違いばかりだったはずの親子だって、しっかりと言葉を交わすことで、互いに歩み寄れることを。

 一方的なコミュニケーションだけでは、お互いに苦しみ続けるだけであることを。

 

 (ほんと、気味が悪いジジイだ……)

 あまりにも思惑が広く、深すぎる校長に対して、そんな悪態を宏太は心の中で吐いた。

 

 それは恐らく、由奈もほぼ同時に気づいたのだろう。

 彼女が父の貞夫に向ける視線は、驚きと畏怖が入り混じったようなものだった。

 

 一方、当の貞夫はゆっくりと口を開く。

 「……うん、それでいいんです」


 彼は微笑み、手にしたカップを軽く掲げる。

 「親子とは、互いに正解を持たないまま歩いていくものです。だからこそ、時々こうして立ち止まり、言葉を交わすことが大切なんですよ」


 直哉と美鈴は、自然と視線を交わした。互いにうまく言葉にはできないが、その胸の奥に確かに“これから”への灯がともる。それは恐らく、爽にも向けられた言葉でもあるんだろう。


 「大切なのは、対話をやめないことです」

 貞夫は焚火台の中央に置かれた未点火の薪をちらりと見やる。

 「火をつけなければ薪はただの木ですが、火を絶やさず手をかければ、温もりを分け合う焚火になる。……親子もそれと同じです」


 その比喩は不思議と胸に響き、沈んでいた空気を少しずつ和らげていった。

  直哉は一度目を閉じ、息を整えるように深く吐き出した。

 そして視線を娘に向け、少しだけ照れを含んだ声で口を開く。


 「……久しぶりに、二人で出かけようか」


 「えっ……?」

 美鈴は驚いて目を瞬かせる。


 直哉は手元のカップを見つめながら、言葉を探すように続けた。

 「患者さんに、良さそうなレストランを教えてもらったんだ。少し落ち着いた場所で、ゆっくり話せるところらしい」


 その声音には、ぎこちなさと同時に確かな本気があった。

 美鈴は一瞬迷ったものの、次第に顔をほころばせていく。

 「……うん。行きたい」


 たった一言だったが、それはこの親子にとって新しい一歩の合図だった。


 6限目の授業が終わったらしく、いつものチャイムが校舎中に鳴り響く。

 カップから立ちのぼる湯気が、風に揺れてはすぐに溶けていった。


 宏太が肩をすくめ、からかうように言った。

 「やっぱ親父ってのは、娘に弱ぇんだな」


 「……でも、勝てなくていいのかも」

 由奈が柔らかく微笑む。


 直哉は一瞬黙し、それから小さく笑って肯定した。

 「そうかも、しれないですね……」


 その言葉に、美鈴は自然と笑みを浮かべる。

 「ふふっ……」

 

 同時に美鈴の内心は、両手のコップと同様に暖かいもので満たされていった。

 (やっと、向き合えた……)

 校庭を渡る春風のように、美鈴の心にもようやく光が吹き込んだ瞬間だった。

 

 ――こうして、美鈴の家出は静かに幕を閉じたのだった。

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