プロローグ
「はぁ……」
教務室の一角に、深いため息が落ちた。
新田宏太は、自分の机に置かれたマグカップを見下ろす。
自前のクマさんカップのコーヒーは、すっかりぬるくなっていた。
数十分前まで湯気が立っていたはずの黒い液面に、自分の眠たげな目が映っている。
「……また冷めちまったか」
指先で触れると、頼りない温度だけが返ってきた。
椅子がギシリと音を立て、背丈のある体を預けながら肩を落とす。
二十四歳にしては疲れの色が濃すぎる、とよく言われる。
周囲を見渡せば、教務室は今日も雑然としていた。
進学校の教師たちとは思えないほど、誰もが気怠そうで、机の上は書類や資料で埋まっている。
(……ここも生徒と同じく曲者ばっかりだな)
心の中でぼやいたところで、耳に柔らかな声が届いた。
「……あ、帰ってきたんだ」
顔を上げると、そこには長瀬由奈が立っていた。
セミロングの髪をひとつにまとめ、白いブラウス姿の彼女は両手いっぱいにファイルを抱えている。
幼馴染であり、今は同じ学校で教師をしている、一つ年下の後輩教員。
今年から宏太のクラスの副担任を務めることになった彼女は、見た目の柔らかさそのままに生徒からの人気も高い。
「相変わらず皆から人気者だね、コウくん」
「ありがた迷惑だ。それに、ここで“コウくん”呼びはやめろ、長瀬先生」
「ふふ、ごめんごめん」
由奈は微笑みながら、今にも崩れ落ちそうなファイルをゆっくりと器用に机に置く。
そして、宏太の一つ隣の自席に腰を下ろした。
椅子に座る所作ひとつも、どこか気品を感じさせる。宏太には到底真似できない。
「で? さっき呼び出されてたみたいだけど……私たちのクラスの子でしょ?」
「……あぁ、笹川絢音だ」
宏太はカップを見下ろし、もう一度ため息を吐いた。
ーーー話は、少し前に遡る。
一日の授業とホームルームが終わり、宏太がコーヒーを飲みながら一息つこうとした時の事。
「新田せんせーっ! ちょっと聞いてくださいよぉ!」
廊下の向こうから、元気すぎる声が飛び込んできた。
次の瞬間、勢いそのままに教務室の扉が開き、女子生徒が駆け込んでくる。
赤いブレザーのリボンを少し曲げたまま、髪も整えずに駆け込んでくるのは笹川絢音。
明るい茶髪が跳ね、息を切らした彼女は新田の教え子の一人だ。
そんな彼女は、教務室入り口のすぐ正面にある宏太の席までずかずかと入ってくると、机に両手をバンっと付く。
「……笹川、ノックくらいしろ」
「だって!そんなの後回しにできないくらい大変なんですって!」
絢音は肩で息をしながら宏太の机に駆け寄り、両手をドンとつく。
「はぁ……何があった」
「す、すがやくんが……! 爽くんが、また女子に囲まれてて……! 今度こそ、本当に修羅場です!」
「……は?」
教務室の空気が一瞬止まった。周りの教師たちがひそひそと視線を交わす。
少しの間が空いて、
「女子に囲まれてるのは、いつものことだろ」
宏太は淡々と事実を口にするが、絢音は必死に首を振る。
「ちがうんです! 今度は“付き合ってる”とか言い出した子がいて! 他の子とバチバチで!」
「……はぁ」
それは宏太も初めて耳にする状況だった。
宏太は深くため息を吐き、立ち上がる。
状況が悪い方向で変わった以上、担任として関与しないわけにはいかないだろう。
せっかく淹れたばかりのコーヒーを横目に、
「……しゃーねぇな……」
ポツリと呟くと、絢音に引きずられるように担当クラスへ向かうのだった。
再び戻ってきた自教室の前方。
数人の女子生徒が、ひとりの男子を取り囲み声を荒げていた。
「爽くん、昨日“付き合ってる”って言ったじゃん!」
「ちょっと、それどういうこと!? 私には“まだ誰とも付き合ってない”って言ったくせに!」
見覚えのない女子生徒が2~3人。恐らく他クラスの生徒なのだろう。
矢継ぎ早に浴びせられる言葉に、菅谷爽は肩をすくめる。
整った顔立ちに黒髪が少し目にかかっているが、瞳はおどおどと揺れ、視線をさまよわせていた。
「え、あ、その……違うよ。別に、そういうつもりじゃなくて……」
弱々しい声。
おどおどと戸惑っているその様子は、何処かはっきりせずに曖昧に逃げようとしている。
「はぁ!? じゃあ嘘ついたってこと?」
「爽くん、どっちなの!? はっきりしてよ!」
「琴美ちゃん、瀬奈ちゃんも……、ちょっと落ち着こ……?」
女子たちの声はますますヒートアップし、追いつめられる一方で何処か涙目の爽。
3人しかいない教室内はまさに地獄と化していた。
絢音が「先生、早く!」と振り返り、宏太を呼んだ。
「おい、ここは教室だろ。芝居なら演劇部でやれ」
凍りつくような声に、女子たちの動きが止まる。
その隙に、宏太は爽の肩を軽く叩き、少し下がるように促した。
「……す、すみません」
爽は小さく頭を下げ、申し訳なさそうに半歩後ろに下がる。
誰の目もまともに見ようとせず、視線は下に落ちたままだった。
他方、爽を取り囲んでいた女子たちも、気まずそうに目を反らしている。
(顔面の良さと絶妙な優しさで、女を誑かしてやがるタイプか。……人を傷つけまいとして、結果一番厄介なことになってるってところか)
新田は心の中で吐き捨て、再び深いため息をつく。
「とりあえず、お前ら早く帰れ。ちょっとした騒ぎになってるぞ。多分もう少しで、お前らの担任も来るころだ」
宏太の言葉に、流石の女子たちもヤバいと感じたのか、
「……今日はここまでみたいね」
「そうだね……。爽くん、また明日ね?」
少し威圧的な口調で片方の女子が言うと、爽は肩をビクッと震わせる。
二人の女子生徒は足早にその場から離れていき、教室に残ったのは宏太と爽の2人だけになった。
するとそこに、
「お、終わった……?」
教室の扉から、恐る恐るといった様子で絢音がひょこっと顔を出す。
「なんで隠れてたんだよ」
宏太が問うと絢音は、
「だって、あの女子二人とも怖いんだもん!」
「お前にも怖いもの、あるんだな」
「それっ、どういう意味ですか!?」
侵害だ、と言わんばかりに、彼女は両腕を下にピンと張りながら抗議した。
そんな二人のやり取りを傍らで見ていた少年は、
「先生、その……、ありがとうございます」
とりあえずペコリと頭を下げながら、ようやく声を発する。
相変わらず芯を感じさせない彼の言葉に、宏太は一つ溜息を吐く。
「礼なら、アイツに言ってやれ。俺はただ呼ばれてきただけだ」
顎で絢音を指しながら宏太が言うと、
「あ、絢音ちゃん、ありがとう」
弱々しい声ながらも、素直に爽は彼女に礼を口にした。
「いいっていいって!」
肩まで伸びる明るいショートヘアを整えながら、絢音は元気よくはにかんだ。
これにて一件落着。
「とりあえず、俺は戻る。女遊びはいいが、これ以上女を泣かせるなよ。ったく、コーヒーが冷めちまうだろ……」
宏太は最後に悪態をつきながらも、片手を振りながら教務室の方へと戻っていく。
「せんせー!ありがとねー!」
絢音も片手を大きく振りながら言うと、
「それじゃあ、私も部活行くね! バイバイ、爽くん!」
屈託のない笑顔を向けながら教室を後にした。
爽は「うん、またね」と、弱々しい声で返事を返す。
そんな騒ぎが一段落した後。
教室の隅から、また別の女子生徒が爽に歩み寄ってきた。
「……爽くん、久しぶりだね」
明るい目元に、お転婆さを隠しきれない彼女は、恐る恐る一人教室に取り残された爽のもとに近づいてくる。
だが爽は、
「え? あぁ……うん。……ごめん、どこかで会ったっけ?」
曖昧に笑いながら、視線を逸らした。
その様子に、彼女の胸の奥はぎゅっと締めつけられる。
(……やっぱり、忘れてるんだ)
その女子生徒は目を見開き、明らかに落胆の色を見せる。
けれど少しの間を開けると、その女子生徒は小さく首を振った。
(ううん……覚えてないだけ。きっと思い出してくれるはず)
胸元にあてた右手の拳に力を込める。
再び、先ほどとは違う気まずさと沈黙に包まれる教室。
彼女ーーー糸川美鈴の特別な想いを知る者は、爽を含めてまだ誰もいなかった。
放課後。再び教務室。
「……ねぇ、新田先生。そろそろ、ちゃんと指導した方がいいんじゃない?」
由奈の声音には、迷いのない強さがあった。
宏太は椅子にふんぞり返り、冷めきったコーヒーを見やる。
「当事者同士で解決すりゃいい。教師が首突っ込むのは早い」
楽観的に言い放つと、宏太は自前のマグカップに口をつける。
案の定コーヒーは冷めていて、どこか締まりのないその味はただ苦いだけの液体だった。
そんな彼を前に、由奈は黙り込む。
彼女は何かを言いたげに唇を噛み、
「まぁ、担任がそれでいいなら、いいけど」
いいながらやがて、荷物をまとめて彼女は席を立った。
夜。長瀬家のリビング。
由奈が帰宅すると、父であり校長でもある長瀬貞夫が、グラスを片手に寛いでいた。
琥珀色のウィスキーが、照明を受けてきらめいている。
家の中に漂うのは、木の家具に染み込んだ古い酒の香りと、どこか落ち着いた静けさだった。
学校での喧騒とは対照的に、この空間だけは時間が緩やかに流れているように感じられる。
「ただいま」
「おう、おかえり」
由奈は鞄を置き、父の横にあるソファへ腰を下ろした。
柔らかいクッションに沈み込むと、自然と肩の力が抜けていく。
その様子を眺めながら、貞夫が口を開いた。
「なんだ由奈、今日は疲れることでもあったか?」
「ううん、別に疲れてはないよ」
返事は軽い調子だったが、視線はどこか泳いでいる。
父はその小さな変化を見逃さない。
「なんだ、じゃあ宏太君のことか?」
「な、なんで分かったの?」
「そりゃ、お前の父親だからな」
「理由になってないじゃない」
「立派な理由だろ?」
軽口を叩きながらも、どこか探るような声音。
由奈は観念したように小さく息を吐いた。
「それで、彼がどうかしたのか?」
「別に、大したことじゃないとは思うけど―――」
言葉を探すように間を置きながら、由奈は放課後の出来事をぽつぽつと語り出す。
「コウ君、放任すぎるんだよね……」
貞夫は「なるほどなぁ」と笑い、グラスをテーブルに置いた。
氷の音が小さく鳴り、部屋の静けさに溶けていく。
「彼にも彼なりの考えがあるんだろうけど、確かにそれは心配だな」
「やっぱりお父さんもそう思う?」
「当然さ。これでも一応、学園の責任者で、教育者をまとめる立場だからね」
言葉の端々に父としての温かさと、校長としての厳しさが混じる。
由奈は複雑な気持ちで父の横顔を見つめた。
貞夫は再び、ロックグラスに口をつける。
氷によってまろやかになった琥珀色の液体を喉に流し、わずかに香る穀物の甘い香りを鼻から吐き出す。
グラスの氷が再び音を立てた。
そしてしばしの間が空いたその時、
「いい事、思いついた」
不意に声の調子を変えると、貞夫はにやりと口元を緩めた。
その表情は、まるで悪戯を思いついた子供のようだ。
「由奈、そのモテモテな生徒君と宏太君と一緒に、明日の放課後、学校の裏山に来なさい」
「えっ?」
「なぁに、面倒なことはさせないさ。むしろ由奈たちも教員として、成長するための何かを掴むいいきっかけになるだろう」
「何企んでるの?」
「それはその時までのお楽しみだ。いわゆるサプライズってやつだよ」
「はぁ……。またお父さんの思いつきね」
呆れ顔でため息をつきながらも、由奈の口元にはほんのり笑みが浮かんでいた。
しかし、貞夫の表情は曇りがなく、純朴な少年のようだった。
その日の夜中。
ふと目を覚ました由奈は、庭先にぼんやりとした灯りを見つける。
そっと窓を開けると、父が裏庭の倉庫に忍び込んで何かを漁っていた。
片手に握られた銀色の道具が、月明かりを受けて一瞬きらりと光る。
「……一体、何を企んでるの」
父としては少し頼りないが、教師としては信頼できる。
けれど父としている今―――彼のその背中は、子供っぽくても安心できる。それは教師としての厳しさを知っているかもしれない。
貞夫のその見慣れたはずの背中を見つめながら、由奈は小さく笑った。
「お父さん……、ホント、子供っぽい」
寝間着姿で髪を下ろしたまま、まるで公園で遊ぶ子供を眺める親のような表情で、由奈はポツリと呟いた。
前にシリアスな作品を書いていたので、ほのぼのしたものが書きたくなりました。
この作品は、できれば定期的にゆるゆると書いていければいいなって思っています。
ぜひ感想等頂けたら嬉しいです。
頑張って更新していきますので、どうか楽しんでいただけたら嬉しいです。
次回更新は、8/24日の夕方ごろを予定しています!
それでは本作も、どうぞよろしくお願いします!