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ブラッディ・クライシス

作者: 針井 龍郎

 見事なまでに丸い満月が、そろそろ西方の山の端に入らんとする明け方の七ツ時。淡く空に浮かぶ月は澄み切った光を地上に投げかけ、地面に黒々とした影をかたどる。黒と白に支配された街は音も響かず、まるで冷たい風が時を凍りつかせたかのよう。

 しかし、そんな光景も所詮は仮初めにすぎない。もう一時もすれば東の空に朝日が昇り、眩しいばかりの陽光が、そんな錯覚をも溶かし尽してしまうだろう。世界は留まる事を知らず、ただ永遠に変化し続けるのみ。

 それこそが、世界のことわり。唯一例外を許された、不変の事実。


 時を同じくして。

 未だ目覚めぬ商店街の片隅で、一軒の居酒屋から煌々と灯りが漏れていた。表玄関には紺色の暖簾が掛けられ、白抜きで『みめや』と屋号が書かれている。気をつけていなければ、ついうっかり見落としてしまいそうな、そんな佇まいであった。

 その店の暖簾を押し上げて、黒マントを羽織った男が一人、木造の引き戸をがらがらと開けた。

「らっしゃい!」

 店の奥から、威勢のいい声が掛る。額に手拭を巻いた店の主人が、包丁を握った手元から顔を上げた。純和風な店の内装に相応しい、まさに絵に描いたかのような居酒屋の親父さんだった。

「おや、黒マントの旦那。今日はもう、あがりですかぃ?」

「うん、今日はもう終わりだ。早いとこ、マスターとこの酒が、飲みたくなったんでね」

 男は脱いだマントをくるくると丸めてカウンターの席に置き、自分はその隣に腰を掛けた。洒落たスーツに身を包み、縁無しの上品なメガネを掛けた彼は、どこか異国の貴族のような印象さえ抱かせる。

 カウンターには男以外に客はいないが、二階の座敷に通じる奥の階段からは、にぎやかな声が聞こえてくる。大方、団体客が宴会でもしているのだろう。

「毎度ながら、いい加減よしてくださいよ、旦那ぁ。マスターだなんて、こんなじじいが、おこがましいや」

 主人は照れ臭そうに笑いながら、カウンターの下からシェイカーを取り出した。店の雰囲気にまるで合わない異質なそれは、蛍光灯の光を反射して、きらきらと輝いている。

「旦那、いつものヤツでよろしいので?」

「ああ、頼むよ」

 いつも通りの主人の問いかけに、いつも通りに男はうなずいた。

 男は目の前に出されたタオルで手を拭い、慣れた手つきでシェイカーにビンを傾ける主人の様子を、何をするでもなくただぼんやりと眺めた。作業は流れるように進み、やがて軽快な音を立てて振られていたシェイカーは、透明に透き通ったグラスの中を、鮮血の様に紅い液体で満たした。

「はいよ、旦那。じじい特製、『ぶらんでーめりー』だ」

「『ブラッディマリー』だよ、マスター」

 主人が差し出すグラスを受け取って、男は困ったように苦笑を浮かべる。口の端から、八重歯がちらりと覗いた。

「おっと、いけねぇ。まったく、じじいにもなると、横文字ってヤツがどうも苦手になるんでぇ……」

 主人はひょっこりと肩をすくめ、その仕草の滑稽さに二人は同時に噴き出した。


「……そう言えば、旦那」

 ひとしきり笑った後で、主人がさりげなく話を切り出した。

「こんな事を聞いちまうのも失礼ですが、旦那のとこは、最近どうなんですかぃ? 他の客からも、あんまり景気のいい話は聞かねぇもんでして」

 男はちびりちびりやっていたグラスをカウンターの上に置き、そして小さく唸り声を上げた。

「んー、そうだね……。あんまり変わらないよ、ウチも」

 そう言って、男は白い筋の混じり始めた黒髪を、気だるげに掻き上げる。指の間からこぼれおちた前髪が、紅く潤んだ瞳に影を落とした。

「今日もあちこち飛び回ったんだけど、その内で上手くいったのは二、三回でね。そんなでも、今日はどちらかというと良かった方でさ。普段なんて、収穫ゼロみたいな日もあるくらいだからね。

 初めて日本に来た頃は、そりゃ景気も良かったもんだけど。いまじゃ、その名残の欠片もないさ」

 昔とは違い、相手の反応が冷たくなってしまった事。家のセキュリティーが高くなり、訪問すらできない事。あげく、痴漢撃退用のスプレーまでかけられてしまった事。

 一通り話し終わると、まいったもんだねと男は力なく笑みを浮かべ、再びグラスに手を伸ばした。『ブラッディマリー』を一口のどへ流し込み、今度は逆に主人へと問いかける。

「マスターの方こそ、大変なんじゃないの? やっぱり、この不況で店屋に来る客も減ってるの?」

「ウチですかぃ? まー、しんどいっちゃあ、しんどいですけどねぇ。半分、年寄りの道楽ちゅう感じで続けてる飲み屋ですから。旦那みたいな常連さんが来てくださるだけでも、ウチは十分やっていけるんでさ」

 主人はにやりと笑って、男に向かって片目をつむって見せた。男もつられて笑みを浮かべる。その笑いがどこか寂しそうに見えるのは、果たして気のせいだろうか。

 男は気だるそうに、カウンターに肘をつく。

「時代は変わる、俺たちみたいな古い時代の生き物は、消えていく運命なのかもしれないな」

 グラスの氷が、カランと音を立てた。


 ――その時、カウンターの向こう側からけたたましいベルの音が鳴り響いた。申し訳程度に置いてある、空っぽの水槽の隣。小さな目覚まし時計が、丁度五時を示していた。

「おっと旦那、そろそろ時間ですぜ。今朝の日の出の時間は六時十二分だそうだから、早いこと帰らないと。また奥さんに泣かれちまいますよ」

「ありがとう。マスター、何時も悪いね」

 男はグラスに残ったカクテルを一息に煽る。カウンターにお札を一枚置き、傍らのマントを小脇に抱えて立ち上がった。

 気がつけば、二階もすっかり静かになっていた。何時の間にやら、団体客も帰ってしまったのだろう。

 主人は額に巻いた手拭を取り、カウンターの向こうから回り込んで出て来た。男は抱えていたマントをしっかり体に巻きつける。

「じゃ、また来るよ」

 ガラガラと音を立て、男は引き戸を開けた。のれんの隙間から、うっすらと明らんできた空が覗く。夜明け前の静かな気配が、店の中にまで入り込んできた。

「へい、お待ちしておりますんで」

 男の背中を、軽く腰を折って送り出す主人。温かな三つの瞳に見送られ、男の姿は朝の靄の中に霞んでいった。

 御拝読いただきありがとうございました、針井龍郎です。

 この作品は、第四回五分企画参加作品です。このような場を設けていただいた、主催者様である弥生祐様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

 また、同企画には他にも多数の作者様が参加されています。是非ともそちらの方も、読んでいってください。

 では、稚拙な文章ですが、これにて失礼させていただきます。また機会がございましたら、針井龍郎をよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 針井さん、はじめまして。五分企画でご一緒しているあいぽです。 印象的だったのと良かった事は、とてもしっかりした文章を書かれる方なんだなぁって事。 文学的な作品を書いても、十分に重厚な作品…
[良い点] 初読で、『あ、そういうことか!』と良い意味でハメられた感がありました。最初、男の風体や話の内容から、正体は薄々読めていたんですが、じゃあなぜおやじさんは平然としてるんだろう? と読んでる間…
[一言] マスクをつけた女の人や強面のオニいさんとかが常連にいそうな居酒屋ですね。 ちょっと行ってみたいです。怖いもの見たさで。 ああでも、安易に踏み入ると痛い目見そう…… いや、もしかしたら帰れなく…
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