第1部-第4章:図書室事件~分類・差別・正義にかんする考察~
【警告】
この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。
【第1部:美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~】
第4章:図書室事件~分類・差別・正義にかんする考察~
1
夢をみていた。夢の内容は数分後にはわすれてしまった。それから数分後にはわすれたこともわすれてしまった。十分後には一階の図書室にきていた。交友会で発表するスピーチの用意をするためだった。『私と正義』というお題で五分から十分程度はなさなければならないのだった。普段の会話もままならない自分からすればその程度の演説でも十分困難にかんじられた。しかしぎりぎりのりこえられそうな困難にもおもえた。発作をおこさなければいい。聴衆は全員野菜かなにかだとおもって五分間無心になればいい。あらかじめ用意した文章を黙々と発表するだけでいい。演説の巧拙はどうでもいい。五分間のりこえられたらそれだけでも進歩といえるだろう。交友会は来週だし準備する時間も充分ある。世界には十六歳の誕生日に国連で演説する少女もいる。大学生も社会人もまいにちのように人前で自分の意見を披露している。私にもできるはずだ。
図書室の窓際の席に腰掛けた。窓からは森がみえる。窓に鳥の糞がついている。それもちょうど自分の目線の高さだ。鳥の糞越しに森をながめているとわすれていた記憶がよみがえってきた。屋上からとびおりたときの記憶だった。そのときもこの森の木の枝にひっかかった。最初はあばれて木の枝からのがれようとしたのだが、下を見下ろすと中途半端な高さでおそろしくなり、さかさまに吊るされたままうごけなくなった。発見されるまでの一時間くらいはそのまま宙吊りにされていた。情けないきもちになり涙がとまらなくなった。さかさまのままおろおろと泣いていた。ほんのすこしまえまでは死にたいとおもっていたのに、さかさまに吊るされているそのときは、恐怖でふるえていた。職員に発見されたあとも救出活動はもめにもめた。私は木の枝にしがみついて救出を拒絶した。職員はひたすら泣いている私を下から見上げるばかりだった。職員たちもおそろしかった。吊るされているのもこわいし、おりるのもこわいし、すべてがこわかった。本当は生きていたいのに恐怖のあまり死のうとしていたし、本当は救われたいに恐怖のあまり救われることをこばんでいた……恐怖というより、あれはなんだろう、とにかくなにかが、なにかはげしい神経のたかぶりが、頭をかきまわしてぐちゃぐちゃにしていた。体力がぎりぎりになってようやくおりようとした。ひとりでおりれなかった。最後は職員にたすけてもらった。そのあとも職員にお礼をいうどころかあばれて怪我をさせてしまった。
思いだすだけで恥ずかしい。これまで周囲に迷惑をたくさんかけてきたしお世話ばかりされてきた。助けられてばかりでだれのことも助けていない。それでいて被害者意識も強い。自分を『全人類からいじめられているかわいそうな生物』だとおもいこんでいる。社会の不条理を大袈裟になげいてみたりする。社会とくらべてもおとらぬほどに私自身も不条理をかかえているのに……自分の不条理は棚上げして社会の不条理ばかりを手厳しく非難する。ときに人生の悲劇性を強調して自分を純粋な被害者だとおもいこもうとする。自分を被害者だとおもいこんでいるときだけ自分の加害性から目を背けられる。悲劇のきもちよさはそういうところにある。自分の卑劣なところは舞台袖にかくして自分のかわいそうなところにだけスポットライトをあてる。自己憐憫の快楽におぼれる。自己憐憫の夢から目が覚めるとこんどは自己嫌悪におそわれて死にたくなる。生きているだけで周囲に迷惑をかけてしまい、お世話してもらわなければ生きていけない自分が、みじめでしかたなくなる。こんなふうに『生きていることの被害性と加害性』を交互に自覚して疲弊する。どちらか一方はありえない。どちらも完全に拒絶したくてぐるりぐるりとかんがえているうちに、ふたつにひとつのいきどまりにぶつかる。生まれてこなければよかった、さもなくば生きることをやめたい。
ふかいため息をはきだす。これもまたみじめなため息である。まるでかわいそうな自分に気付いてほしそうないやらしいため息である。まわりにはだれもいない。本棚がずらりとならんでいる。本棚のあいだをあるいているとだんだんと落ちついてくる。間違いなくここが自分の居場所だとおもえてくる。もぐらの棲家が地中にあるように私の棲家も書物の世界にある。もぐらが居心地のいい土地をえらぶように私も居心地のいい書物をえらぶ。私は書物のなかでもいわゆる文学とよばれる書物が大好きだ。
文学は世界のふかいところをながれているおおきな川だ。それは紀元前からながれている川でありこれまで途絶えたことはない。川のはじめのほうには詩歌や民話や説話や神話があるのだろう。先史時代についてはたしかめようもないが、あまねく文化の源流には、この古の川があるようにおもえてならない。たとえば歴史や宗教や学問が文学(詩歌や民話や説話や神話)よりもまえからあったとはかんがえにくい。神話よりもさきに体系化された宗教や学問があったとはおもえないし、叙事詩よりもさきに現代でいうところの歴史があったともおもえない。文学とは古からながれる文化の源流なのだ。私には人間の生死はもちろん国家の栄枯盛衰も、文学というおおきくながい川のながれとくらべると、ささやかな出来事におもえる。実際、国家が崩壊しようと、文明が後退しようと、文学は滅びないだろう。
文学の世界における大発明といえば書物である。口承の文学は廃れたらそれでおしまいだが書物の文学は数百年はのこる。文学者のこしらえる書物というボートは一隻一隻が孤立している。しかしそれらのボートもおおきな川のながれのうちにある。文学の世界でも対話はくりかえされている。書物をとおして作家と作家は、あるいは作家と読者は無言で対話している。それはゆるりゆるりとしたものだ。私の愛読書のおおくも百年以上前のものだし、なおかつそれを、十年以上かけてなんどもよみかえしている。
長くておおきな文学作品をよみはじめるときはボートにのりこむようなきもちでとりかかる。たとえばそれが旅だとしたらその旅はとてものんびりすすんでいくものだ。そうしたおそさをたのしむのが文学の醍醐味であり、それは、目的地に最短距離でむかう新幹線ではない。とにかくなんでもゆったりすすんでいくのだが、そうした速度が、自分には居心地いい。日常をとびかう言葉はあまりにはやすぎる。私はひとよりおそいひとなので日常会話の速度についていけない。
最も重要なのは文学の世界は真暗ということだ。文学とは言葉の世界でありそれは暗闇の世界である。人間は目にみえるものにひきずられがちだが世界を支配しているのは目にみえないものにほかならない。文学はそういう目にみえないものたちの世界をかたりあかす。神々の世界、死後の世界、精神の世界……偉大なる詩人ホメロスが盲目であったとささやかれるように、文学は古代から目にはみえない世界をかたってきた。仮にその言葉が太陽を想起させたとしても、やはりそれさえも、非網膜的な世界にきらめく星なのだ。文学は地中奥深くを脈々とながれているながくてくらい大河だ。
私がもとめていたのは真暗な世界のいちばん奥深くまでつれていってくれるボートだった。そういうボートはどことなく棺桶とにていた。棺桶のなかによこたわり、川をながれていきながら、死んだ夢をみていた。私は生まれてこないために、あるいは生きることをやめるために、文学にのめりこんでいた。生まれてこないこともできなかったし、生きることもやめられなかったから、かわりに棺桶のなかで夢をみていた。図書室をぐるりとひとまわりすると来週の交友会をおもいだした。
2
病院の図書室は田舎町の図書館くらいには充実している。読書会をおこなうためのちいさな会議室もあるし十人以上であつまるときはとなりの礼拝室を借りることもできる。来週の交友会も礼拝室でおこなわれる。いまここにはいないが『思想・哲学・文学・芸術の会』というあやしげな読書倶楽部もある。最初にみかけたときはカルト集団かなにかとおもい身構えたが、これまで観察しているかぎりでは、平和な同好会にみえる。
ひとつの分厚い書物を本棚からぬきとる──ああ、おっきい!
分厚い書物、特に大長編小説には魔力がある。豊穣なる物語・思想・世界を封じこめた鈍器がごとく大長編小説を読破したときにしかえられない強烈な快楽があり、それをいちどでも体験してしまうと、並大抵の長編小説や短編小説では満足できないようになる。長大で難解な言葉の迷宮をちびりちびりと読みすすめていき、最後まで読みおえたときのあの感覚、あのひらけた視界、あのなんともいえない、あのなんともいえないあれはなんだろう……よくいうところの共感や感動とはことなる重たいものがずんっとのこる。こういう小説の読書体験は、頭脳的というよりきわめて肉体的なものであり、頭で理解するそれをはるかにこえて、心体に訴えかける。
読書熱がむくむくとわきあがってくる。読書には自分なりのこだわりがある。本棚のあいだをねりあるきながら心中で独演会をはじめる。
第一に! 第一に大長編小説は《読みすてる書物》ではなくて《読みこめる書物》でなければならない。どうせ時間をかけるなら再読にたえうるような重厚な書物がいい。一回読破したらそれでおしまいという書物より、読みかえすたびに発見のある書物のほうがお得ともいえよう。第二に簡単すぎてもよくないし難解すぎてもよくない。背伸びをやめてしまうことは老化のはじまりだが、とはいえ、背伸びしすぎると読破できずにあえなく撃沈する。だからといって簡単すぎても物足りない。頭に歯があるとすれば、読んでいてきちんと歯応えをかんじるものがいい。第三に退屈すぎてもよくないし刺激ばかりでもよくない。刺激のある箇所は再読にたえないことがおおい。退屈な箇所のほうがなんどよみかえしてもあきなかったりする。家具なんかもそうだが退屈なものは退屈だからこそあきにくいというよさがある。第四に物語ありきでもよくないし物語がまるきりないのもよくない。物語の展開だけでよませる書物は展開をいちどおぼえてしまうとおどろきが半減して再読にたえない。物語とは直接関係しない細部にまで魅力が詰まっている書物がこのましい。そういう書物は適当にひらいて部分的に読みかえしてもおもしろい。文学者の才能は細部、正確にいえば物語から逸脱した無駄な部分にあらわれる。第五に前衛文学ないし実験文学のような書物はよくない。これはどこまでも自分の趣味でしかないが、私は前衛のための前衛だとか、実験のための実験だとか、文学のための文学にしかみえない書物は苦手なのだ。そういう書物が一種高踏であることはみとめるが、自分には、それをたのしむ感受性があまりないのである。ある程度の長さまでなら実験的で前衛的で意味がわからなくともたのしめるが、大長編ともなると、くるしいものがある。
言葉にたいする感受性、これを与えてくれたことにかんしては、神様に感謝してもしきれない。それは読書体験をとおして培われるものでもあるがはんぶんは天賦のものにおもえてならない。それははじめからあるのだ。はじめからあるそれこそがそのひとの種なのだ。そのひとにもともとある種が読書をとおして開花するのであって、読書により、そのひとにない種が開花したりはしない。たんぽぽの種から薔薇ははえてこないし薔薇の種から百合ははえてこない。読書に苦手意識があるひとでも、相性のいい一冊の書物と出会うことで、突然開花することもある。種にも種類がありすぐに開花するものもあれば時間をかけて開花するものもある。長年読書をしているうちにいろいろな種が開花して、頭のなかに、そのひとなりの花畑ができあがる。
創造者には言葉にたいする感受性が人並外れているひとたちもおおい。優れた画家、彫刻家、音楽家、起業家、神秘家、宗教家、革命家、政治家……彼等彼女等がかならずしも大量の書物をよんでいるとはかぎらない。けれどもそういうひとたちは極めて鋭敏に──私のような読書家よりもなんばいも鋭敏に──言葉に反応して行動をおこす。何千冊の書物をよんでもなにもかわらずむしろ臆病な堅物になる読書家がいる一方で、ある種のひとたちは、一冊の書物でおおきく変化する。ときには一編の詩で激変する。そういうひとたちは言葉にたいする感受性がつよすぎるがために、失敗もすくなくないが、だからこそ、成功するのもそういうひとたちなのだ。成功のおおきさと失敗の量は比例する。
書物から《良いもの》を発見する能力、発掘の能力というべきものもあり、こうした能力にも個人差がある。極端にいうといかなる書物からも《悪いもの》しか発見できないひとたちもいて、そういうひとたちは聖書をよんだとしても《悪いもの》しか発見しない。どうしたわけか《良いもの》をかきわけかきのけ《悪いもの》ばかりを執念深く見付けようとする。時間をかけてよんでみても、結局は《悪いもの》だけを熱心に発掘するし、それをならべたりしては妙な悦にひたる。『ほらみたことか、こんなに欠点がある、こんなもんはたいしたことないんだ!』といわんばかりにふんぞりかえる。彼等彼女等は『こんなもんはたいしたことないんだ!』といいたいがために、そのための証拠として、《悪いもの》を収集しているにすぎない。意地悪な見方にはなるけども、そうした仕草にこそ、そのひとの劣等感が露呈する。さらにそこから劣等感が肥大化して病状が悪化すると、もはや、書物をよむことが目的ではなくなる。欠点を指摘することが目的になるので、畢竟、『書物をまともによまずに書物の悪口をいうひと』という奇怪な人物が誕生する。実はこういう人物もめずらしくない。ある書物の悪口を声高らかにさけんでいるひとたちのおおくは、その書物を、まともによんでいない。それを理解しなければ、それのよしあしの判断などできないはずなのに、それを理解するどころか、それをまともによんでもいないひとたちほど、自信満々に審判をくだすのである。怪奇現象ともいうべきこうした現象は、読書界で古来からくりかえされている普遍的現象でもある。
読書家玄人には、それとは別様に、あえて《悪いもの》をもとめる傾向もある。これは純粋な知的好奇心ないし文化的倦怠からもたらされる病気である。いわゆる《良いもの》にはあきているがゆえにかえって《悪いもの》にひかれるのである。美食家が珍味をもとめるように読書家もまた珍書をもとめてしまうし、ときに珍書どころか禁書・悪書・奇書ともいうべき書物まで、どこからともなくせっせと発掘してきて、何頁かよむためだけにわざわざとりよせる。そして、本棚に陳列して腕組みしながらながめては、ひとりでにたにたご満悦、とこうくるのである。読書家以外からすると多少滑稽にはみえるものの、これこそまさに、文化的贅沢である。頭がよすぎるひとたちにはこうした珍妙な習性がおおかれすくなかれあるものなのだ。
図書室を散策しているとなんだかわくわくしてくる。書物に囲まれているとそれだけでご機嫌になってくる。禁書室という興味深い部屋もある。禁書室には未成年にはふさわしくないとみなされている書物があつめられている。具体的には、過激な性表現がふくまれる性愛文学など性にまつわるものがおおい。魔女が研究資料として収集している書物もおおいためその蔵書の充実には目を見張るものがある。扉にさげられた看板には『禁書室』とかいてあり、そのしたには、ハインリヒ・ハイネの警句が引用されている──本を焼く者はやがて人間も焼くようになる。
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今日必要な資料は禁書室にない。禁書室の入口をとおりすぎるとある一角でたちどまる。古めかしい木製の本棚の側面には板が貼られておりそこには『思想哲学』とかいてある。達筆である。交友会の用意をしなければならない。スピーチのお題は『私と正義』なのだが、なにを探しにきたんだっけ、あ、そうそう、メモをとりだして書名を確認しながら、参考になりそうな書物をさがす。ハンス・ケルゼンの『純粋法学』、ジョン・ロールズの『正義論』、シモーヌ・ヴェイユの関連図書……御目当てのものを何冊か本棚からぬきとると自分の席にもどる。すべてまえにいちどよんだものだが部分的に確認したいところがある。
正義感が異様に強い。私のような弱者が正義感などもったところでなんにもできないことは理解している。頭では理解していてもどうにも正義の味方にあこがれがある。国家のために命懸けでたたかい前線で活躍する自分をこれまでなんど妄想しただろうか。妄想するときは海軍でも空軍でもなく陸軍にこだわっていた。命懸けでたたかうことに意義をかんじていたため過酷な戦場を妄想しがちだった。戦死にひときわあこがれた。土埃のなかで、泥まみれになりながら、最後は祖国のために死んでしまう。そういう妄想をしているとみたされた。
負傷している兵士を衛生兵としてたすける妄想もよくしていたし平和活動家として独裁者と交渉する妄想もよくしていた。我ながらなんて突飛な妄想だろう。ありえないはなしである。私のような人間が戦場にいたとしても周囲に迷惑しかかけないだろうし邪魔にしかならない。ハムスターがワールドカップの試合に乱入するようなものである。自分のためにもたたかえていないのに、どうして祖国のためにたたかえるというのだろう。私が命懸けでたたかうべき戦場は日常だろう。
右翼思想にも左翼思想にもかぶれた。はじめそれらの思想的対立は重要ではなかった。なんでもいいからとにかく正しさをもとめていた。正しさをあたえてくれるものなら右翼だろうと左翼だろうとどちらでもよかった。自分にたりていないのは正しさでありそれがあれば生きていけると信じていた。私は《正しい人間》でありたいとかんがえていたし《正しい人間》をもとめていた。右翼思想や左翼思想を勉強すればするほど現実の右翼や左翼に幻滅した。右翼思想や左翼思想は正しくとも彼等彼女等は正しくない。右翼や左翼を小馬鹿にしているひとたちも正しくはない。私も正しくない。いくらもとめたところで《正しい人間》などいない。自分が《正しい人間》でもなんでもないのに他人に《正しい人間》をもとめていた私のほうこそわがままだった。右翼思想や左翼思想に勝手な幻想を抱いた結果、勝手に幻滅したにすぎない。最初から最後まで自分勝手な幻想と幻滅である。
私にも戦争を支持していたころがあった。当時は九割の国民が戦争を支持していた。結果をみればあきらかだがあの戦争は完全に間違っていた。一時でも間違った戦争を支持した責任は自分にもあるだろう。そのことについていまさら正当化するつもりはない。あの戦争により政治音痴をいたいほど自覚したし政治分野において正義漢気取りだけは絶対にしないときめた。
テロリストのようなわかりやすい悪者を批判しているひとたちは最初《正しい人間》にみえた。悪者を批判しないひとたちは悪者の仲間にみえた。たとえば『「テロリストを批判するひとたち」を批判するひとたち』はテロリストを擁護しているようにみえた。テロリスト擁護派とまではいわずとも斜にかまえためんどくさい中立派くらいにはみえた。私以外の国民もおおむねそういう意見ばかりだった。けれどもそうした見方が物事をくもらせていた。結果論ではあるが中立派にみえていたそのひとたちの意見が正しかった。悪者を批判しているひとたちのなかにも悪者がまぎれこんでいた。テロリストが悪者なのはそのとおりなのだが、テロリストを批判していたひとたちにもまた、悪者がまぎれこんでいた。納得がいかなかった。騙されたようなきもちになった。あの大統領は大嘘吐きだった。
テロリストの背景には宗教があった。彼等はカルト集団だった。異端で過激派で反社会的だった。すくなくともその部分にかんしては自分のかんがえかたをかえるつもりはない。しかし蓋をあけてみればどうだろう、異端であり過激派であり反社会的でありテロリズムすら肯定していたカルト集団以上に、我々のほうがよほど大量の人間を殺したのではなかろうか。客観的にみればカルト集団以上に我々のほうが危険な集団だったのではなかろうか。我々が虐殺したのがテロリストだけならまだしも実際には民間人もまきこんで虐殺したのではなかろうか。我々は子供や女性の人権を侵害している彼等を批判していたが、皮肉にも、我々のほうこそ彼女達を大量に虐殺したのではなかったか。
『悪者を批判していたひとたちが本当は悪者でした』というのは『悪魔を退治していたひとたちが本当は悪魔でした』というはなしとおなじようなとんでもないドンデンガエシにおもえてならない。物語の世界ならば悪魔を退治するのは聖人である。現実の世界では悪魔を退治しようとするものもまた悪魔なのだ。魔女狩りや異端審問の時代からこういうところはなんにもかわっていない。私はこれを《悪魔を退治する悪魔の法則》とよんでいる。
《悪魔を退治する悪魔の法則》とはなにか。悪魔を退治しようとするひとたちは悪魔であるという法則である。歴史上の差別や迫害や弾圧や虐殺や侵略や戦争にはこうした法則で説明できるところがかなりある。もしかするとたいはんは説明できるかもしれない。この法則のおそろしいところは錯覚が関係しているところである。悪魔退治を扇動する悪魔は聖者にみえる。それは錯覚にすぎないのだが私含めておおくのひとたちはなかなか気付けない。彼等彼女等を聖者と勘違いして悪魔退治に加勢していると気付いたときには自分も悪魔の仲間入りをしている。
人類はこれまで《悪魔を退治する悪魔の法則》にしたがい惨劇をさんざんくりかえしてきた。《悪魔を退治する悪魔の法則》を否定しようとするものもたいがい悪魔側におもえてならない。自分が悪魔であるとばらされたらこまるから法則を否定したいだけで、実際、悪魔退治の扇動者ほどこの法則を否定したがる。極一部の扇動者が悪魔退治の火をはなち、その火が、民衆の飢えかわいた胸に燃えひろがる。
悪魔退治の対象となる悪魔を決めるのは国家や教会や大学の学者などそのときどきの権力者である。彼等彼女等が聖者に変装して大衆を扇動する。エシカル思想(倫理的思想)はもともと階級意識と結びつきやすく上位の階級にあるものが下位の階級にふりおろすかたちになりがちである。故にそこにある特権階級の抑圧・管理・支配の欲望には常々警戒しなければならない。エシカル思想と抑圧・管理・支配は蜜月の関係にあり、そうした思想は制度化することで強固な権力構造をうみだす。
悪の定義もいささかいい加減になる傾向がある。反証しようもない場合もある。たとえば近世の魔女狩りに多大なる影響をもたらしたとされる『魔女にあたえる鉄槌』という書物がある。著者はハイリンヒ・クラーマーという異端審問官である。その書物において魔女は『悪魔と契約をむすび有害な魔術により他者に害をあたえるもの』と定義されている。これを反証する方法はない。詰まり『私は魔女ではない』と証明する方法がない。魔女と認定されたらおしまいなのだ。こうした反証可能性のない悪魔認定により悪魔退治は歯止めなく暴走する。
不当な悪魔退治の特徴は簡単に要約できる。不当な悪魔退治は近代国家のような司法的手続きもふまないし公平でもない。悪魔の定義も漠然としており、曖昧であるがために、だれでも気分次第で悪魔認定して退治できてしまう。個人経営の喫茶店や倶楽部や同好会が迷惑者を摘みだすくらいならばさしたる問題もないだろう。けれども社会全体がそういうことをやりはじめたら、すなわち悪魔退治をはじめたらどうなるだろう。それは大問題である。
正当な悪魔退治もある。犯罪者を逮捕する警察を悪魔とはいえないし罪を裁く司法を不当とはいえないだろう。近代国家の司法的手続きには《悪魔を退治する悪魔の法則》に陥らないための工夫がくみこまれている。あるいはそのような工夫こそ、《悪魔を退治する悪魔にかける手枷》こそが本物の正義なのだ。
偽物の正義:勧善懲悪型正義が蔓延ることもある。偽物の正義に汚染された場合、国家はカルト集団よりも危険な存在になる。ときにカルト集団も多数の犠牲者をうみだすような、凄惨な事件をひきおこすが、国家の場合はその比にならない。国家が偽物の正義に汚染されると数十万人の死者が発生する。
しかしともすれば……本物の正義と偽物の正義があるとすれば、それらを峻別する上位の審判が必要となる。正義よりさらに上位の概念がなければ、正義を本物と偽物に分類することも、包摂することもできない。ここまでの考察でわかるのは正義は絶対的基準にはなりえないということだ。正義のそのまたさらにうえに、あるいはそのまたさらにそとに、なにがありうるのだろうか。
ノートに図を描きながらかんがえてはみたもののすぐにはなにもおもいつかなかった。なんにせよ正義は危険である。それでいて弱者は正義の保護を必要としている。私のような弱者は正義にたいして矛盾したふたつの感情をかかえている。正義をおそれながらも正義をもとめている。私のもとめている理想的な正義とは剣ではなく盾である。盾としてまもるだけでだれも攻撃しないでほしい。しかしおおくのひとたちは勧善懲悪型正義が大好きである。悪魔に鉄槌をふりおろしたくてしかたない。悪魔退治に熱中するあまりその過程で弱者を犠牲にする。詰まるところ勧善懲悪型正義の本当の目的は復讐であり弱者をたすけることではない。
正義をさけんでいるひとたちは群れている。彼等彼女等が弱者あるいは少数派を自称していたとしても孤立者からすると脅威である。そういうひとたちからすると孤立した弱者は獲物なのだ。最初は味方のふりをしていてもちょっとかんがえかたに相違があると袋叩きにする。やはりそうかんがえると尻尾をまるめて正義と距離をとりつづけるほうが無難である。自分が不当にあつかわれたらその都度反撃すればいい。悪魔を退治する悪魔になりさがるくらいなら悪魔として退治されたほうがましだ。
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けっ、正義なんて嘘っぱちだ!
正義に騙されたものは正義を憎悪するようになる。とはいえそこでおしまいにしていいともおもえない。正義に唾を吐きかけて『正義などありはしない、故にすべてはゆるされる』とふんぞりかえるわけにもいかない。それは結論ではない。たとえそれが結論だとしてもそこからさきが重要だろう。おしまいからはじめなければならない。偉大な宗教家も思想家も哲学者も文学者もみんなおしまいからさきにすすんでいる。ドストエフスキーにしても『神がいないならすべては許される』というはなしを登場人物にさせているがそれでおしまいにしているわけではない。
私は鼻息荒くしてノートをとりはじめた。最初は熱にうかされたように正義についてかんがえていた。けれどもたちまち熱はさめてしまい根暗で陰気な被害者意識が膨張してきた。『自分は差別されているにちがいない』という被害者意識が膨らんでとまらなくなった。それはとげとげのはえた風船だった。風船の中身は空気ではなく悲しみと憎しみと怒りである。
私は被差別意識もとびきりつよい。常にひとから差別されているようなきがしてならない。精神科医や精神医療にたいする不信感のおおくもそういうところからもたらされる。精神科医は差別問題にかんして人並以上に敏感ではある。あのひとたちは自分の差別意識を他人から指摘されないよう普段からびくびくしている。それでいながら差別意識をもっている。私達を見下している。だからこそあえて反差別的言説をくりかえす。しかしそれも自分の差別意識をさとられないための隠蔽工作におもえる。魔女はもはや差別意識を隠そうともしていないので論外だがほかの精神科医もおなじようなものだ。
反差別をさけんでいるひとたちにも《悪魔を退治する悪魔の法則》はあてはまる。彼等彼女等は善良であると信じたいがそれでも信じきれないきもちはのこる。特に言葉を言葉のとおりに信じてしまいがちな自分のような人間は正義に警戒しなければならない。弱者の味方を標榜しているひとたちは結構危険なもので、現に、これまであやしい団体から勧誘をうけたこともある。弱者に近付くひとたちが善良とはかぎらないし、弱者を利用したり搾取したり扇動したりしようとするひとたちもすくなくない。
反差別をさけんでいるひとたちが差別主義者ではないともかぎらない。法則にしたがえば悪魔を退治するものは悪魔のはずなのだから、反差別をさけんでいるひとたちもまた差別主義者であると予測できる。仮にそうだとしたら反差別を訴えるひとたちに加勢していたつもりが、気付けば『自分が差別主義者の仲間入り』という事態にもなりかねない。ミイラとりがミイラになるのではない。最初からミイラがミイラとりをしているだけだ。
世界には差別問題がたくさんある。すべての差別に反対することはできない。世界には差別以外にもとりくまなければならない問題がある。それらの網羅的な勉強もできない。そういうすべての問題にたいする配慮もできない。それどころかおおくのひとたちは戦争・貧困・環境のような巨大な問題にも興味がない。適切な配慮には適切な勉強が必要だが興味ももてないのだから勉強するはずもない。勉強するにしても個人があらゆる問題に配慮しようとしたらそのひとは問題の勉強だけで生涯をおえてしまう。国家はどうあれ個人はあらゆる問題に配慮したりはできないのだ。故に、国家はできるだけあらゆる問題に配慮するべきだが、個人にあらゆる問題にたいする配慮をもとめることはできない。世界中にやまほどある問題のうち、どの問題に配慮するか、あるいはどの問題に配慮しないかという選択は、個人の裁量にまかせるしかない。
環境問題に配慮しているひとが貧困問題に配慮できていないとしてもしかたないし、貧困問題に配慮しているひとが差別問題に配慮できていないとしてもしかたない、世界のあまねく問題に配慮したりはできない。どうにもこうにも私達の配慮はかけているはずなのだから、他人の配慮がかけていたとしても、一方的にそうした配慮の欠如を糾弾したりもできない。差別に問題をしぼりこんでみたとしても、差別の種類があまりにおおすぎて網羅しようもないし、いうまでもなくすべての階級・属性ないし職業・身分・宗教・思想・病気・障害・人種・性別などに配慮することはできない。
差別問題に興味がないひとたちはいわずもがな、反差別を主張しているひとたちでも、自分が被害をこうむるような差別問題にしか興味がない、あるいは最近注目をあびている差別問題にしか興味がない。だからだれしもおおかれすくなかれ『俺を差別しないでくれ』と訴えながらもだれかを差別しているし『私の足をふまないでくれ』と訴えながらもだれかの足をふんでいる。『配慮してくれ』と訴えながらもだれかにたいして配慮がかけている。A差別に反対しているひとがそのほかBやCを差別していたり、B差別に反対しているひとがAやCを差別していたりする。他人の差別意識を批判しているひとたちは自分の差別意識を棚上げしている。自分の差別意識を棚上げしながら他人の差別意識だけ批判している。他人の差別意識には敏感なくせに自分の差別意識には鈍感だったりする。みんなしてだれかを差別しながらだれかの差別を批判しているのである。差別問題の根本はここにある。
私自身、反差別主義者を自称するひとたちになんども差別されている。反差別主義者を自称しているひとたちにまで差別されるのだから自分でもわらえてくる。私には差別される要素がおおすぎる。能力や性別や障害や人種や思想など……さまざまな被差別的要素をかかえている。これらのすべてに配慮できるものはいない。さらにいえば私のなかにもたぶんに差別意識はある。
差別問題はよくよくみていくと馬鹿馬鹿しいところもある。全人類差別主義者なのに、差別主義者同士で差別を批判しているのだから、高度な不条理劇にもみえてくる。たとえば御姫様が奴隷達をこきつかいながら『女性差別はやめなさい』とさけんでいたらどうだろう。それはやはり不条理としかいいようがない。奴隷こそ被差別的身分であり被害者なのだが、御姫様はお城からみおろして奴隷をはたらかせながらも、身分差別の存在には気付いていない。加害者の自覚がないどころか自分を全面的な被害者だとおもっている。奴隷達はもちろんひくい身分なので御姫様にいいかえすこともできない。たとえいいかえせたとしても対等な論争にはならない。奴隷達は御姫様のようにいい学校でお勉強してきたわけでもなければ対等な階級にもない。だから奴隷達は『身分差別はありなの?』と素朴な疑問に頭をかかえながらも御姫様にしぶしぶしたがうしかない。現実の社会にもこうした倒錯は存在する。
差別にかぎらず倫理・道徳・正義のまわりにはなにかと倒錯がつきまとう。正義ほど劇的に反転をくりかえしてきたものもないし、ときには、国家がまるごとさかだちする。善悪は倒錯と反転と矛盾からのがれることはできず、それどころか、善悪にこそ倒錯と反転と矛盾の起源が見出せる。動物でありながらも、動物を否定しようとすることが、善悪のおこりであるとするならば、そこから、まさにその時点から、人間社会の倒錯と反転と矛盾あふるる不条理劇が幕をあけたのである。あるいは人間とは動物を否定する動物であり、こうした自己矛盾の産物として善悪があるともいえる。どれほど善悪が雄弁にさけばれていたとしても、もしくは雄弁にさけばれているときほど、その足元には倒錯と反転と矛盾を隠蔽した不安定な演説台がある。ぐらぐらゆれる演説台のうえで、正義の代弁者達が盛大にひっくりかえるところを、我々はなんども目撃したしこれからも目撃するだろう。
目を凝らしてみるといたるところに倒錯と反転と矛盾がみつけられる。差別問題も例外ではないし私も例外ではない。私も差別されたくないとおもいながらも差別している。身分差別はいけないことだとおもいながらも、王子様や御姫様や貴族文化にはあこがれがある。アンモラルとしりながらも少年愛や少女愛の耽美な世界にも魅了される。どうにもこうにもそういう文学作品は大好きだし、たとえそれがアンモラルだとしても、いや、アンモラルであることくらいは重々承知なのだが、そうしたアンモラルを文学からとりのぞけといわれたら、断固反対せざるをえない。私のような屈折した人間はアンモラルにこそ救い・許し・広さをみるのである。なぜならモラルは人間の良いところしかうけとめないが、アンモラルは人間の悪いところもふくめてうけとめてくれるからだ。モラルは人間を全面的に肯定できないがアンモラルは人間を全面的に肯定しうる。だからこそ私のような駄目人間は、アンモラルなものにときおり、居場所をもとめずにはいられない。反対にいえば、大衆向けのきらきらした書物には、自分のようなどろどろした人間の居場所はあまりない。アンモラルならなんでもいいなんてことはもちろんなく、アンモラルなものにこそ社会通念と対峙できるだけの強力な文学性をもとめるわけだが、それはつまり、あるいはまあ、とりあえずいまはおいておこう。
五階の住民として生活していると複雑な気分になる。純粋な差別者になりきることもできない。声高らかに反差別をさけぶこともできない。これはきっと医療従事者もおなじだろう。このきもちを色でたとえるなら灰色だろうか。相性のわるい絵具をごたごたにまぜあわせたようなにごりきった感情で胸がむかむかする。差別している自分、差別されている自分、差別をもとめている自分、差別にうんざりしている自分、差別がなんだかもはやわからない自分……差別者/被差別者という単純明快な二項対立は虚構でしかない。自分を被差別者側において差別者を糾弾するような勧善懲悪型物語はあまりにできすぎている。社会運動として差別是正に邁進するときはそうしたわかりやすい物語的言説が有効だろう。運動家がそうした物語を利用するぶんには応援する。ただし私自身は世界をそうした単純な物語に還元してながめたりはしない。現実は物語ではないし私達は虚構の住民ではない。
娯楽のための物語にしても障害者を『純粋無垢な被害者あるいは善良な被差別者』として表現するような物語は苦手である。それを文学とはよびたくない。障害者は虐められているだけの弱者でもないし聖人でもない。
五階の住人にしてもそうだ。たしかに被害者あるいは被差別者寄りのひとたちがおおい。だからといい一方的な被害者や被差別者ともいいきれない。詳細に観察していくと、ひとりひとりのなかに、簡単にはとらえがたい人間性が垣間みえてくる。差別しているし差別されている。被害者でもあるし加害者でもある。こうした両義性を抱えている。人間なんだからあたりまえである。私自身がそうなのだ。
私が自分を主人公にした文学作品を執筆するとしたら、私は私を『純粋無垢な被害者あるいは善良な被差別者』として表現しないだろう。そういうふうに表現すれば物語はわかりやすくなるし同情もあつめられるだろう。しかしそれはみえすいた自己美化にしかならない。そういう物語は世界ないし人間の見方をわるいほうに単純化しているようにおもえてならない。私は純粋でもないし無垢でもないし善良でもない。奇怪に屈折しており悪辣なところもすくなくない。
どうせ自分が主人公になるんなら聖人よりも悪人になりたい。純粋無垢な被害者的弱者にはなりたくない。なんなら大悪党になりたい。悪びれることなく人類全員を敵にまわして最後は豪快に大笑いしながら処刑台にあがりたいくらいである。私の奥で燃えているのはそういう黒い炎にほかならない。私は事実、弱いかもしれないが、弱いからこそグロテスクなヴィランにあこがれる。社会にささえられて助けをこうばかりが、あるいは徒党をくんでたたかうばかりが弱者ではない。そうした役回りをするほかない立場だからこそ、一個の人間として社会と敵対する大悪党にあこがれるのだ。
弱者という役割をはんぶんおりよう。すべておりるわけではなくはんぶんくらいでいい。弱者としての自分を完全に否定してもどうにもならない。これまで自分を弱者とおもいこむあまり、なおさら、自分を弱者におとしめていたようなことろもある。弱者/強者、異常/正常、障害者/健常者、被害者/加害者、差別者/被差別者、少数派/多数派……こうした斜線をこえたところに自分の存在はある。片側に自分を分類してみずから自分のありかたをせまくしてはならない。
5
分類されるのが苦手だ。障害者という分類にしても本当に必要なときにしか自分にあてはめたくない。たとえば社会運動に参加するようなときは精神障害者という分類にしたがい仲間と協力して活動するかもしれない。現時点でそういう機会はないけれどこれからそういうことがないともかぎらない。とはいえ普段から精神障害者という分類にとらわれて生きていたいわけではないし、そういう分類により人格を評価されたくはない。分類は便宜上必要不可欠ではあるもののたいはんはなんらかの問題を孕んでいる。
完全な分類も完全な無分類もありえない。分類したいなら勝手にすればいい。ただし分類されているほうの人間が分類をかわすこともこれまた勝手なのだ。人間は分類するだけの動物でもなければ、分類されるだけの動物でもなく、分類されたとおりにみずからふるまうこともあれば、ひるがえって、分類を内側から乱したり崩したり壊したりもする動物である。
分類は規範をうみだす。たとえば男性と女性という分類は男性と女性の規範をうみだすし、大人と子供という分類も大人と子供の規範をうみだす。大人とはこういうもので、子供とはこういうもので……大人はこうでなければならなくて、子供はこうでなければならなくて……大人らしさとはこういうもので、子供らしさとはこういうもので……このように分類は日常化していくなかで規範となる。
分類がなければ個別の規範などうまれようもない。そしてどうしたわけか人間は分類に基づいた規範に自分を近付けていこうとする。これは本当に本当なのだ。常に障害者としてあつかわれていると自分でも気付かないうちに障害者らしくふるまうようになっている。看守としてあつかわれると看守のようにふるまうようになるし、囚人としてあつかわれると囚人のようにふるまうようになる。不細工としてあつかわれたら不細工のように、美形としてあつかわれたら美形のようにふるまうようになる。もともとは他人が勝手にさだめた分類にすぎないのに、いつしかそうした分類をそのまま自分だとおもいこむ。加害者/被害者や差別者/被差別者というような分類にも同様の効果がある。分類そして規範は自身の内面にはいりこみ血肉となる。人間は他者からあたえられた分類とそれにともなう規範を無自覚に演じてしまう性質があり、なおかつ最後にはその役割と同化してしまう。規範や役割がもたらす抑圧は、それらに先行する分類の時点ではじまっている。
美術家・彫刻家・音楽家・文学者……などの芸術家は文化的規範の生産者側にあたる。なのでこうした現象には当然自覚的である。規範をまもるひとたちもいるが、規範にとらわれたくないひとたちもたくさんいる。あるいは芸術家とはこの『文化的規範からはみだしたなにか』をもてあましたひとたちともいえる。彼等彼女等は規範を攻撃する。いちばんわかりやすいのは規範の拒絶である。これは芸術家でなくともやる。芸術家のやりかたはさらに巧妙である。規範を過剰に誇張したり、複数の矛盾する規範をかさねあわせたり、規範の意味を反転させたり、微妙にずらしたりする。規範を拒絶するのではなく規範を逸脱するのである。美術家のクレメント・グリーンバーグ風にいえば、社会規範を外側から攻撃するのが啓蒙主義的手法であり、社会規範を内側から崩壊させるのがモダニズム的手法なのだ。規範を頑固に拒絶するのではなくそうした規範をもてあそぶようなかたちで逸脱する。規範をのみこみながらも規範にとらわれない。拒絶だけでなく誇張・増幅・反転・混成・逸脱などさまざまなやりかたで旧来の規範を超える。ファッションの分野にもこういうやりかたはよくみられる。オシャレなひとたちはありふれたコードを意固地に拒絶するだけでなく、コードをたくみにとりいれて、自分のスタイルにしてしまう。不良にしても制服を着ないのではなく、制服を着たうえで、自分なりに着崩す。オシャレの達人は生活の芸術家なのだ。
分類は虚構にすぎない。私は書物を筆頭になんでもかんでも物事を分類するところがある。だからこそあらゆる分類が偽物におもえてならないのだ。精神医療における分類だけではない。自然科学における分類、たとえば生物学的分類にしても客観的事実として世界にそうした分類が存在するわけではない。人間が勝手に線引きして名付けて分類しているだけである。生物学における動植物の分類にしてもそれがいかに客観的記述にみえたとしてもやはり人間の恣意に基づいた分類である。だからといってそうした科学的分類が無用であるともおもわない。ただ、どこまで詳細に分類をすすめても、それはやはり現実に存在する区分ではない。自然科学が提示する物事の分類はひとつの世界の見方でしかない。漫画家が現実には存在しない輪郭線を描くのとおなじように、物事と物事がきれいにわかれてみえるとわかりやすいから、便宜的に私達は物事を分類するのである。分類とはそういうものだ。
科学者ならそれくらいのことは熟知しているもので、中途半端に科学的なひとたちのほうが、分類を過信する傾向がある。そういうひとたちは物事を明確に定義して詳細に分類するような記述(そのなかでもとりわけ論述)を『正確な記述』だとしんじこんでいる。さまざまな物事がごたごたにまざったような記述は『正確ではない記述』だとかんがえる。けれどもそれは学術的記述における一般論でしかない。勘違いされがちだが学術的記述は『現実の正確な記述』ではない。学術的記述の特色とは単純化・図式化・論理化である。それはあくまで『現実の事象をわかりやすく整理しなおした記述』である。学術的記述によりみえてくる世界はたとえるなら図案画のようなものだ。それはデフォルメされた世界にほかならない。現実を正確に記述したいのなら文芸的記述、特に写実的記述のほうがいくらかましといえる。それは『さまざまな物事がごたごたにまざったような記述』になる。なぜなら現実の物事・事象・現象はそういうふうにまざりあうものだからだ。輪郭線がひかれるまえの、体系化されるまえの、生々しい世界を正確に記述しようとするとごちゃごちゃになる。
学術書と文学作品にもとめるものはちがう。学者にたいしてもとめているのは理路整然とした学術的記述である。学者の記述は地味であればあるほどいいし学者の美点とはそうした地味さにある。ただし突出した学者はよくもわるくも学術的記述をふみこえる。どちらかといえば文芸的記述に接近する。
矛盾するようだが文学と学問の分類も虚構でしかないのである。理系/文系という分類がいささかいい加減であるように美術・美学・法学・神学・哲学・文学・宗教・思想・歴史・経済・政治などの分類も実際には無理がある。専門分野という概念がどのあたりから自明視されるようになったのかはわからないが元来各分野は有機的に繋がりあうもので明確に区別したりできない。それらは田畑のように平面的に区画整理されているものではなく多層的にかさなりあっている。文学や宗教や思想や哲学はおおくの分野の根底にひろがるふかいレイヤーにあたる。なかでも文学は自然科学でいうところの数学とおなじようなもので全分野の根底にある基礎といっても過言ではない。優れた学者はレイヤーをおりていく、あるいはふかいレイヤーから学問をたちあげていくところがある。ふかいレイヤーとは文学の層である。文学の層は思想や哲学の層よりもふかいところにあるもので、論理的でもなければ体系的でもない、混沌とした言語の世界である。
6
文学者とはなんだろう。文学者とは文法をふくめた言語の骨組から創造しなおそうとするひとたちであり、単なる言語の使用者ではない。文学者がうみだす文法とはいわゆる正しい文法でもない。正しい文法なんてものはそもそもありはしない。正しい建築様式や正しい美術様式がないのとおなじように正しい言語様式もない。表現分野において《正しい表現形式》は存在しない。芸術の歴史を調べているとこういうことはいくらかわかるようになる。「《正しい表現形式》はある」といいはるひとたちがいるだけだ。
美術の教育にしても建築の教育にしても時代毎に規範とするべき表現様式をひとまずたたきこまれる。しかしそういうふうに学校でおしえる表現形式(様式:Style)とは、あくまで《制度化した表現形式》にすぎず、厳密には《正しい表現形式》ではない。芸術家とは《制度化した表現形式》を刷新もしくはそれにたいして悪戯を仕掛けるひとたちなのである。ここでいう芸術家にはもちろん文学者もふくまれる。
私はこのような意味で、制度化した、たとえばいわゆる文壇よりもその外側にこそ、文学的才能の萌芽を見出すことがふえてきた。文学とは無縁とみられているような研究熱心な学者、心象風景をかたろうとする画家、言葉あそびたくみな芸人……はたまた、低俗とみなされている分野の小説家、文芸誌から遠くはなれたところにいる素人作家など。現代社会には多種多様な言葉があふれている。しかしまだ、そうしたゆたかさが万分の一も文学の世界に還元されていない。
現代の文学は制度的でこじんまりしたものにみえなくもないが、文学の魅力とはもともと、なかでも小説の魅力とはもともと、入口のひろさと奥行きのふかさにある。そこでは散文も韻文も、学術的記述も文芸的記述も、ありとあらゆる言語表現がゆるされており、各分野の知・各属性の感覚・各階級の言葉が、制度的な体系や階層や序列から解放されてでたらめにまざりあうのである。それはなんでもありの言語的荒野であり、制度の外側にある無法地帯だからこそ、真に挑発的な創造の場たりえたのである。
文学とは言葉の放課後なのだ。放課後の子供達が学校からとびだしてころころころげまわるように、言葉が制度から解放されてひらひらあそびまわるそのときこそが、文学のうまれたふるさとなのである。文学者とは制度に従属するものではなく、それどころかおおかれすくなかれ、制度から逸脱しているか制度に異議があるか、もしくは制度に退屈しているひとたちである。