第1部-第3章:黒猫と魔女 ~魔女にまつわるうだうだした徘徊的思考~
【警告】
この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。
【第1部:美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~】
第3章:黒猫と魔女 ~魔女にまつわるうだうだした徘徊的思考~
1
病室の小窓から夕日がさしこんでいる。事務机に地図をひろげる。病院の外側の地図、自分で情報を収集してかきあげた。当時は脱走するためにかきはじめたはずなのだが、いまのところ、使用する予定はない。毎日のようにながめては病院の外側の世界を想像するだけだ。珈琲の染みがあり薄汚い。かきなおしたい、そうおもいながらも一年ほどそのままにしてある。破けている箇所をセロテープで修繕する。四辺全てをセロテープでぐるりと補強する。病院から街まではそんなにとおくない。
脱走の妄想なんてしていてもまえにはすすまない。近道しようとおもわないほうがいい。試行錯誤するしかない。魔女のいうことにも一理ある。私も変わりたいし変わらなければならないとおもっている。退院して人並の生活をおくれるようになりたい。自分の部屋に本棚をおいてそこにすきな書物をありったけならべたい。どうしてみんなにとってあたりまえの生活を自分はおくれないのか。保護されているといえばきこえはいいが、実質、監禁されているようなものだ。
なぜだろう。涙がとまらない。泣いているとなさけないきぶんになる。美しい涙と醜い涙があるとするならば、私の涙は醜い。なぜならそれは自己憐憫の涙にすぎないからだ。自分のために泣いているだけで、誰かのために泣いているわけじゃない、誰か、誰か、私にはその《誰か》がいない。私はひとりでさめざめと泣いて、そういう孤独な自分を俯瞰してますますみじめなきぶんになり、涙はなおさらとまらなくなる。魔女のいうとおり本当の私は強いのだろうか。強くなれるなら強くなりたい。強くなれないからみずから弱さにひたっているのだ。
2
眠れない。起きあがると事務机のうえにかさねてあるノートをならべなおす。机の角とノートの角をあわせる。ひきだしをあけて交友会のプリントをながめる。洗面所で自分の顔とにらみあう。目や鼻や口の位置がうごいている。まとまりのないばらばらなものがふらふらとゆれている。
便座に腰掛ける。自分の股間をまさぐる。魔女の巨大な肉体ととびまわる妖精達をおもいうかべる。ちいさな妖精にはその体と同程度まで膨張した男性器がはえており、彼等は自分のおおきすぎる男性器を、ひきずるようにぶらさげながら不恰好に飛行している。妖精達は魔女に吸着すると舌をべろんとだした間抜けな、それでいて妙に真面目な表情で自分の男性器をこすりつける。一匹が射精したかとおもうと次々に射精して、遂には数万の妖精達が一斉にとめどない射精をはじめる。魔女はそのうちの一匹をつまみあげると男性器をかみちぎる。真赤な鮮血がふきあがる。暗闇で、おびただしい量の、真白な精液と真赤な血液がとびちりはじけてまざりあう。
寝具のはしに腰掛けると、観念でぱんぱんになりいまにも爆発しそうな頭を両手でかかえる。爆弾のようにうずうずしている。内側にはうごきまわろうとする粒子があり、それが、まとまることなくあばれている。粒子は収束しようとするのではなく拡散しようとするものであり、静まるのではなく動こうとするものであり、たえまないゆれ・ぶれ・ずれをうみだそうとする。それはおさえこまれるほどに自滅的なはげしさをともないあばれる。
3
消灯時間以降の病室はしずかだ。夜の森のしずまるころに、穴蔵からはいだしてくるゴブリンの群れのように、肉体から言葉があふれだしてくる。ゴブリンたちは足を踏みならし踊りだし、とりとめもないかんがえごとは、森にはなたれた炎のようにひろがっていく。寝返りをうつたびにかんがえていることもかわる。交友会についてかんがえていたかとおもえば、魔女についてかんがえており、魔女についてかんがえていたかとおもえば、自殺についてかんがえており、次には死についてかんがえていた。
かんがえごとがとまらない、こういうときはねてしまうのがいちばんなのだが、こういうときほどねむれない。目的地もないまま思考は蝿のようにとびまわる。目的地、目的地がないのだ。冒険物語の主人公には目的地があるから険しい道程ものりこえられるのだろう。目的地がはるかかなたにあろうと、ないよりはましで、それもないのなら永遠に迷子である。正確には迷子ともいえない。目的地がないなら迷子もなにもない。迷子は自分の目的地を把握しており、ただそこにどうやっていけばいいのかわからないだけだ。自分の目指している目的地があるのなら、ひとに道をたずねることも、ひとに助けをもとめることもできる。けれども私はいまだ、目的地がいまいちわかっていないふしがある。だからかんがえるにしたって、その思考の軌跡は、蠅の飛行のように無軌道なものになる。
……しかしどうだろう。私だけがそうともいえない、たいていのひとはにたようなものじゃなかろうか。自分の目指すべき目的地なんてないまま、右に左にふらふらして、ねむれない夜はこたえのなさそうなことをうだうだとかんがえる。そしてそういうかんがえごとも翌日にはわすれている。そんなことのくりかえしではなかろうか。堂々巡りのかんがえごとのなかにこそ人間の人間らしさがあるのではなかろうか。私はすくなくとも、こうした不毛な思考をぬきにして私をかんがえられない。
壁に顔をむけるように寝相をかえると、壁紙の染みが背中をまげた看護師のおばあさんにみえてきて、そのあと彼女にかかされた自己紹介カードをおもいだした。交友会で使用するものらしい。参加をきめたわけではない。おばあさんの言葉を借りれば「これだけまずは」かかされたのだ。これもまたおさえきれないそわそわの原因のひとつにちがいない。問題は座右の銘の箇所だ。座右の銘として「身の程を知る」とかいた。自分なりにかんがえて「身の程を知る」とかいたのだが、そもそも、座右の銘なんてこれまでかんがえたこともなかったし、おもいかえしてみると「身の程を知る」を座右の銘にしている人物などきいたこともない。無難な言葉を選ぼうとして、むしろ、ずれてしまったきがしてならない。私はひとにあわせようとしてかえってずれてしまう傾向がある。だからといいこういうずれをどうすればいいのかもわからない。いっそ、ずれきったほうがわかりやすくていいかもしれない。
恥ずかしいきもちになり起きあがる。部屋をあるきまわる。布団にもぐりこむ。病院にいると科学の力とおなじくらい科学の無力をかんじる。科学はあるところまではどうにかしてくれる。しかしあるところからさきはどうにもならない。科学でどうにかできる範囲をこえたそのさき……そのさきまでながれていったひとたちはどうなるのだろう。自分はどちらにいるのだろう。おそらくもうできるだけのことはつくしたのだろう。薬をふやせばいいというものでもないだろうし。万能薬ができるまでまっているわけにもいかない。
世界には科学ではどうにもならないことがおおすぎる。日常生活におけるささやかな問題ほど科学で解決できない。だれもとけないような問題をときあかす偉大な科学者でも結婚生活は破綻していたりする。世界の複雑さどころか社会の複雑さにも対応できない。人間関係上の瑣末な問題も解決できない。なによりもお金だ。お金の問題も解決できない。世間は競争社会であり科学技術も例外ではない。すべての科学技術がお金をあつめられるわけじゃない。結局はお金があつまる科学技術とそうではない科学技術に差がうまれる。このまえよんだ本には資金繰りに失敗した科学者のはなしが載せられていた。科学者もまた科学ではどうにもならないものと格闘している。科学者のような頭のいいひとたちでもそうなのだ。彼等彼女等も社会の不条理にもみくちゃにされながらさきゆきのわからない道を突きすすんでいる。それなのに私のような人間が、たいして頭もよくない人間が、頭だけでうまくやれるはずもない。
科学至上主義ではないがときどき『もう全部科学で解決してくれ!』とさけびたくなる。友達をもとめているが、そんなことまで科学がどうにかしてくれるはずがないし、もちろん病院がどうにかしてくれるはずもない。科学は道具をあたえてくれるがそれをつかうのは自分の手だし、病院もあるところまではささえてくれるけれど、そこからさきにあるいていくのは自分の足だ。社会についていくら考察しても、人間の分析をしてみても、それだけじゃそのさきにはすすめない。そんなことはあたりまえだ、それくらいわかっている、説教はこりごりだ! たいていそんなふうにぷんぷんしながら自己論駁する。まさにいまそうしたように。そんなことはあたりまえだ、それくらいわかっている……と自分で自分に反論するのだ。しかしこういう反論も逃避にすぎない。自己正当化でしかない。本当はそんなあたりまえのこともわかっていない。あるいは「わかったわかった……」といいながら目を逸らしている。都合のわるいことからにげだしたくて「わかったわかった……」といいながらなにもしないのだ。
私は死んでしまう……これもあたりまえのことだ、けれどもいまいちわかっていない。死がなんなのかわからない。死とは理解しようのない神秘だろうか。あるころまでは本気でそうかんがえていた。人知をこえているという意味では神秘といえるかもしれない。死は経験できないためその全貌は未知である。死が蛇だとしたらそれは頭しかみえない蛇だ。頭だけみえているがそのさきはみえない。のみこまれたらどうなるかわからない。たぶんなんにもないんだろう。なんにもないってことがよくわからない。もしくは自殺したあのときに蛇にのみこまれたのだ。いまだに生きているほうが不自然で、あるいはすでに死んでいたとしてもおかしくない。ここを死後の世界といわれたら納得できる。実際、目覚めるたびに奇妙な感覚、精神と肉体がうまくかさならないような感覚、夢のなかにいるような感覚におそわれる。
自殺未遂をくりかえして何度も死にかけているが、だからこそ釈然としない。死にかけると、死がわからないというよりも生がわからなくなる。生きていることそのものが不思議におもえてくる。死にかけたことのない人間にこの感覚を伝えるのはむずかしい。たとえば『死後の世界はあるのかどうか』という議論がよくあるが、私からいわせればこれは反対で、『死前の世界があるのかどうか』のほうが深刻な問題なのだ。詰まるところこの世界が死後の世界ではないと証明する方法もないし、自分が死んでいないともかぎらない。本当にここは死後の世界ではないのだろうか。どのように死前の世界の存在を証明するのだろう。この世界が、死後の世界なのか死前の世界なのか、区別する方法がない。
もしかするとそれらふたつの世界には明確な区別などありはしないのかもしれない。ふたつの世界は曖昧にかさなりあったり、まざりあったりしている。もしくは、それらは双子の世界であり見分けがつかないほどにているのかもしれない。
看護師のおばあさんもおなじようなことをいっていた。彼女がいうには、死んだあとひとは、洞窟にのみこまれるという。洞窟は赤いひかりにみたされており、迷宮のようにいりくんでいるが、その洞窟を通りぬけることができれば、もうひとつの世界──要するにあちらの世界にいけるのだという。あちらの世界はこちらの世界と鏡のような関係で、細かいところをのぞけばちがいはない。あちらの世界をさまよう死者たちのおおくは、自分が死んでいることにも気付いていない。彼女のそうしたはなしは荒唐無稽ではあるが多少説得力もあった。自分も死にかけたことがあるので感覚的に共鳴するところがあった。
死についてかんがえているとおそろしくなった。布団の奥深くにもぐりこんで胎児の姿勢になる。股のあいだに手をはさむ。目をとじる。こうすると安心できた。たしかに私は水槽にとじこめられた鼠だ。けれども魔女は蓋をあけてくれている。でられるはずなのだ。よくなっている。すこしまえまでは自分から他人にはなしかけようとするなんてかんがえられなかった。
最近は興味の幅もひろがりはじめている。以前は特定の興味の範囲の情報だけを熱心にあつめてそのほかの情報は完全に遮断していた。あるときはバロック・ゴシック・ロマン主義にかんする情報を中心に収集していた。私の《世界の認識》とそれらにみられる《表現の技法》が奇妙にかさなっていた。
芸術における表現とは単なる演出ではなく『どのように世界をとらえるのか』という認識の問題と直結している。新しい表現の模索とは新しい認識の模索なのである。科学者があれこれならべている数式が単なる表現ではなく、世界をとらようとする軌跡、あるいは世界をとらえた結果であるように、芸術家の筆跡も単なる表現ではない。たとえば文学における文体の問題も単なる表現の問題ではない。それはたぶんに認識の問題なのだ。
認識が一般のそれからずれていれば、文体も一般のそれからずれたものになる。現に私の当時の文章は一般のそれからかなりずれていた。世界の見えかたがみんなとちがうんだから、そういう世界を伝えるための文章もみんなとちがうものになるのは当然だったし、そのためになら新しい言葉もかぞえきれないほどうみだした。それもまた病気の証拠にされた。ちなみにそのときの担当医は私の文章を「自閉的」と称した。こちらからいわせればさかさまである。私は自分の見えている世界を他人にも解放しようとしてそういう文章をかいていた。しかもそのころの私の感覚は世界にひらかれていたという意味で「自開的」ともいえた。
バロック・ゴシック・ロマン主義だけでなくダダ・シュルレアリスム・パンクカルチャー、さらにはサディズム・マゾヒズム・フェティシズムなどの変態性愛にいたるまで、それらに一貫したものを見出していた。社会がおさえこもうとする人間のもうひとつの側面の爆発である。人間は社会的動物でありながら、社会的動物であるからこそ、社会の枠組みにおさまりきらないものをもてあます、それが社会を内側から破壊して変革する爆薬になる。型枠からこぼれおちるもの、規範からはみだすもの、理性がとりおさえようとしてそれでもとりおさえきれないもの。
4
魔女のはなしはおもいだすだけで不愉快だ。不愉快だけれど魅惑的にもきこえる。彼女の言葉は意味がよくわからない。ひどいときにはほとんどわからない。それなのに説得的でもある。自分でも気付かないうちにはんぶんくらい納得していたりする。《意味はわかるのに納得できない言葉》はある。論理的でわかりやすいのにどうにも納得いかない言葉もよくある。けれども《意味がわからないのに納得できる言葉》はあまりない。彼女はときに、《意味もわからないし納得したくもない内容なのにすこしだけ納得してしまう言葉》をつかう。これはとんでもないことである。全く不快で納得したくない内容なのに、気付けば頭の片隅のほうで、もうひとりの自分が納得させられている。彼女はそういう言葉を巧妙につかいこなす。
魔女に理詰めで反論しようとしたことがある。私は彼女が担当医になるまではたびたび精神科医に反論していた。精神科医ないし精神医療全般にたいして不信があった。彼等彼女等に抵抗するときばかりは勇気をふりしぼった。そのせいで私の担当医はこれまでなんどもいれかわった。しかし魔女に反論は通用しなかった。彼女の言葉に納得させられたのだ。完全に納得したのではない。最初はいつも一割くらいしか納得しない。それなのにしばらくするとはんぶんくらい納得しており、気付いたときにはまるきり納得していた。あるいは彼女の言葉に抵抗しようとすればするほど、いつのまにやら、彼女の言葉にからみとられていた。それはよくできた書物、特に宗教書や思想書とにていた。そういった類の書物は批判したり反論したり攻撃したりするほど内部にとりこまれてしまう。最初からそういう仕掛けが設計されているのである。
魔女にたいする最初の不快感はすさまじいものがあった。彼女が担当医になった最初の数ヶ月はその不快感に思考を支配されていた。彼女のいうことなすこといやだった。彼女の処方する薬も拒絶した。脱走をくりかえしこころみた。しかしいまではどうだろう、抵抗しようというきもちもわいてこない。飲まされた薬がきいたことも心変わりの理由ではある。ただそれだけが理由ではない。それどころかいまだって彼女を医者として信用していない。患者と医者のあいだにあるべき信用の関係があるともいいがたい。
私と魔女には共通点がある。私達はたがいにみとめあうほどの読書家なのだ。それこそが負の感情の原因になった。魔女に嫉妬した。彼女にたいしてかんじていた不快感の主成分は嫉妬心だった。彼女は私のもとめるすべてをもっていた。彼女にまさるところなど私には一点もなかった。私の取柄は読書である。読書を取柄というのもおかしなはなしだが、私のような取柄のない人間からすれば、人並以上にできることがひとつでもあればそれが取柄になる。特に文学の知識だけはそれなりに自信があった。文学のなかでも得意分野はかぎられるが、それをふまえても、文学の知識だけは人並以上といえる。そのほか自信になるようなものはなにもなかった。それなのに文学の知識だけでくらべても彼女のほうが何倍も上手だった。比較できるような次元にもなかった。彼女が文学の専門家ならともかく、そういうわけでもはない。彼女にとって文学の知識は専門分野でもなんでもなくやまほどある知識のひとつにすぎなかった。
魔女にすすめられた文学作品は悔しきかなすべておもしろかった。それもここでいうおもしろいとはただのおもしろいではない。ほかの書物では体験できないような、未知の体験をもたらしてくれる奇妙な書物を彼女は紹介してくれた。極一部のマニアしかしらないコアな作品にも彼女は精通していた。特に最近すすめられた『嘲笑う密林』という書物は、書店にはおよそならびそうにない地下出版物で、初版は30部しか印刷されていないらしい。彼女はどこからともなくそんなものまで発掘してくるのである。
魔女は本物の目利きなのだ。権威づけられた古典ばかり評価するのではなく、流行りにふりまわされるのでもない。彼女は偽物の目利きではない。追従者の目ではない。彼女の目は、権威のあとも、流行のあともおいかけず、かえってそれらに先立ち、地球のはしからはしまでながめて、埋もれている作品を発掘してきては独自に価値付ける。それは先行者の目である。その目は精緻に書物をよみとこうとする研究者の目ではないが、野人の目のようにひろく、とおく、ふかい。
魔女は学術的記述も文芸的記述もなんなくよみとけた。論文のような論理的で明晰な文章はもちろんよめたし、文学作品のような正規の文法から自由に逸脱する難解な文章もよみこなせた。学問知として《体系化された知識群》だけでなく《体系化以前の知識群》も《脱体系化された知識群》も有していた。たとえば彼女は宗教学(学術的に体系化されてまとめられた宗教の知識群)だけでなく宗教自体に直接触れていた。「宗教についてまとめた学術書」だけよんで宗教を理解したつもりになるような読書家とはちがった。彼女は教典もよみこんでいたし神秘家の詩歌にも精通していた。神智学や神秘学も理解していた。当然、医学的知識も豊富で実務能力もあった。特に薬学にかんする知識には目を見張るものがあった。彼女の知識は高度に総合的なものだった。それはさまざまな意味でカクテル的だった。豊かな経験と知識にくわえそこにはアルコールがふくまれていた。私のような陰気な読書家のそれとは異質なものだった。
魔女が思想や哲学や文学や芸術についてかたるたびにいらいらした。知にたいする誠実さも慎重さも厳密さもかいていた。その手付きは学者のそれではなかった。彼女の知にたいする手付きは工作をしたり粘土をこねたり泥あそびをしている子供のそれ、もしくは政治家や起業家や建築家や芸術家や宗教家のそれだった。彼女は分野をまたいで知識や技術や経験、またそれらを有する人間を節操なく組合わせて新しいなにか──それは最初『なにか』としかいいようのないものを創造してしまうのである。彼女は知識に従事しない。それどころか彼女は、自分の欲望のために知識を書きかえることも、知識の体系を壊すことも許されているとかんがえているふしがある。彼女は知的紊乱者であって学者のような知的献身者ではない。だからいらいらしたのだ。
魔女は研究者であり創造者でもあった。人文学においてこの両輪をかねそなえている人物はあまりいない。アリストテレスが詩を分析しておきながら詩人にはなりえなかったように、人文学の学者とはもともとそういうものである。このような意味で人文学の学者は《文化研究者》なのだ。自分で文化を創造するというよりも他人の創造した文化を研究するのが人文学の学者であり、それにたいして政治家や起業家や建築家や芸術家や宗教家は《文化創造者》である。《文化創造者》が文化をでたらめにうみおとし、うみおとされたそれらを、学者が分解・分析・分類して体系化する。それをまた《文化創造者》がぐちゃぐちゃにかきまぜる。《文化創造者》よりも《文化研究者》のほうがたいてい知的である。創造者は多少馬鹿なほうがむいている。文学にしても創造者より研究者のほうが頭はいい。作家より読者のほうが頭がいいとさえいえる。非常に頭のいい読者は、作家以上に書物を理解するし、作家も想定していない方向から書物を理解する。また、そのなかに未知の意義や価値を発見する。文学はことさらそういう読者にささえられている。
人文学の学者がみずから文化を創造しようとするとうまくいかない。プラトンにしても政治を論じることはできても政治の実務からははなれているし、詩人の道もあきらめている。文化の研究者と創造者ではもとめられる性分がことなる。研究者の性分は分類だが創造者の気質は混淆なのだ。前者が「けしからん」と怒るほうの気質だとすれば、後者は「けしからん」と怒られるほうの気質ともいえる。ただし創造者的気質を有した研究者もいるし、そういう才気溢れる研究者は、周囲に怒られながらもおもしろい研究をなしとげる。魔女は研究者と創造者の気質を高度な次元で融合させている。
私はもともと自然科学に精通している人間に憧憬がある。数学者や化学者や生物学者や物理学者や天文学者、コンピューターを自在につかいこなせるオタクなど、微分積分すらあやしい自分にはそういうひとたちが魔法使いにみえる。特に文理の垣根をこえる知性、たとえば詩に造詣がふかい数学者、神話に見識のある天文学者、聖書を精読している物理学者……自分が絶対になれないからこそそういう人物に憧れる。魔女にはそれがあった。彼女の知性は文理をまたいでいた。彼女は垣根をこえる女性(HEXE)そのものだった。詰まるところ私の理想を魔女は体現していた。
魔女は自分と同類だった。私達は別世界の生物同士なのにそれでいながら同類の生物におもえてならなかった。だから嫉妬した。生物は自分と同類にしか嫉妬しない。対象を自分と同類とかんじていなければ嫉妬できない。猫が海に本気で嫉妬したり犬が太陽に本気で嫉妬することはないだろう。熊に本気で嫉妬する格闘家もなかなかいないだろう。それとおなじように私も人間に嫉妬しない。自分が人間にまぎれこんだ異星人かなにかにおもえてならないのだ。異星人は孤立者といいかえてもいい。彼女にもそういうところがある。私と魔女はどちらも異星人であり孤立者なのだ。それでいて私と魔女のあいだにはどうしようもない格差がある。私達は《人類にいじめられた異星人》と《人類を征服した異星人》くらいちがう。
魔女は患者のあいだでも医者のあいだでも問題のある人物として認知されている。五階の住人達なんかよりもよほど社会からずれた存在におもえる。仮に一般・平均・普通であることを健常の基準にするならば彼女は健常から顕著に逸脱している。けれども魔女は病人とみなされない。それどころか彼女はこの病院でいちばんおおきな自分の書斎をあたえられているし、図書室には個人的な研究のための資料室までこしらえている。一方で私は窓もあかない病室にとじこめられている。私は患者で魔女は医者である。私達はどちらも異星人なのにこれだけの格差があるのだ。
私達のこうした格差の原因を能力差にもとめることもできる。私の能力は下方に突出しているが彼女の能力は上方に突出している。戦略のちがいもある。私はこれまで異星人の自覚はありながらも人類の文化に敬意をはらいとけこもうとしてきた。魔女は異星人の立場から人類の文化を馬鹿にしている。普段は人類に同化しているがそれはみせかけの迎合にすぎない。実際には人間のふりをした侵略者なのだ。彼女は人類の築きあげてきたあらゆる規範や慣例や常識を空想の産物として嘲笑している。故に彼女はそれらを利用するだけ利用するくせにそれらに従属しようとはしない。病院のひとたちも彼女の正体には勘付いている。彼女が医療倫理を無視した言動をくりかえしている事実を知らないひとはほとんどいない。それでいてだれも彼女とたたかおうとしない。
魔女には人並みはずれた能力があった。彼女はほかの精神科医が匙をなげた患者を回復させてきた。私も回復している。数年前までは前向きなことなどなんにもかんがえられなかった。「死にたい」とかんがえながらも同時に「生きたい」とかんがえていた。当時の私は深刻な矛盾をかかえていたし、そうした矛盾にひきさかれんばかりだった。常に葛藤しており分裂的だった。自殺未遂などの問題行動をくりかえしたし、そのせいでいまだに記憶障害などのさまざまな問題がのこっている。私には病気の症状とはいいきれない問題もある。とりわけあのころは自殺を肯定する強力な思想にむしばまれていた。自殺の衝動は現在もあるがそれは瞬間的に燃えあがるだけで辛抱すれば数分で鎮火してしまう。当時と比較するとかなりましといえる。そのころの希死念慮は思想化していたがために持続的でどうしようもないものだった。病気は治療できても思想は治療できない。だからほかの精神科医は匙をなげたのだ。
精神疾患の原因のいくらかは脳の機能障害にもとめられる。特に『精神病』と伝統的によばれてきたような精神疾患は脳機能の障害とかんがえられている。そのため現代の精神医療において薬物を中心とした投薬治療は一般的である。投薬治療には多少の効果がみられるし作用原理もある程度までは解明されている。とはいえあらゆる問題の原因を脳の機能障害にもとめられるかといえばそうともいえない。仮に特定の人物が社会的に異常とみなされるような言動をくりかえしていたとしても、実際、そうした言動の原因を突きとめるのは容易ではない。どこまでが脳の機能障害によるものなのかはわからない。自殺願望つまりは希死念慮にしても原因を脳の機能障害にもとめられることもあればそうでないこともある。表面的には問題がおなじにみえても原因までおなじともかぎらない。たとえば『勉強に集中できない』という問題があるとしても、それが脳の機能障害によるものなのかどうかは、すぐにはわからない。
人間精神は《脳》というハードウェアと《思想》というソフトウェアで構成されている(ここでいう思想という言葉は人格といいかえてもいい)。パソコンの動作不良の原因がハードにあるとはかぎらないように精神疾患の原因も脳にあるとはかぎらない。パソコンのような電子機器における動作不良の原因でも物理障害と論理障害に大別できるのだ。人間精神のような複雑な代物にかんする問題の原因を総じて脳にもとめられるはずもない。また精神疾患の原因はハードとソフトの両領域にまたがる場合もめずらしくない。故に、薬物療法、心理療法、リハビリテーションなど複合的な治療のアプローチをとることが理想である。ただしひとりの患者にたいしてそこまでするメリットはない。そこまでできる精神科医もおおくない。けれども魔女はそれができる。
魔女は単純に他人の考えかたをかえるのがうまい。それは医者の能力というよりも教祖の能力にちかい。たとえばアルコール依存症は薬物療法だけでどうにかなるものではなく、本人の考えかたや習慣や対人関係もふくめてかえていかなければ改善しない。それゆえに治療が困難なのだ。しかしこれまで彼女は例外なくアルコール依存症の治療に成功している。それどころか特別治療をうけていないひとたちまで彼女に考えかたをかえられている。彼女がそばにいるだけで彼女の思想が自分の内側に侵入する。
魔女はおおくのひとたちから憎悪の対象にされている。それとおなじくらいに、もしくはそれ以上に彼女に魅了されているひとたちはおおい。五階の住人だけではない。患者だけではない。医師もふくめておおくのひとたちが彼女に魅了されている。彼女が自分の内側に侵入してくるとき、それは最初、憎悪の対象として認識される……しかしそれは憎悪するほど自分の内側のふかいところに侵入してしまう。憎悪していたはずなのに気付けば彼女に心酔している。私がそうなのだ。私は彼女に嫉妬していたし彼女を憎悪していた。けれどもいつしか嫉妬は羨望にかわった。憎悪と同時に熱愛していた。恋愛感情とは別種のものではあるが、熱のある感情が、自分の内側で芽生えているのはたしかだった。
魔女はこの病院の癌だ。だれしもそのことに気付いている。それでいながら無視できないほどの魅力にあふれている。彼女は快楽をもたらす病気であり、甘くてやわらかい毒物であり、魅惑的な害虫なのである。ひとはみな両義的な感情を胸にかかえながらも彼女にひきよせられている。彼女は重層的な人間であり、遠くからながめると美しく、近付いてみると恐ろしく、覗きこむと怪物がみえてくる。
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魔女を女性とはみなせない。彼女の本性は怪物であり男性/女性というような属性はそうした本性を隠蔽する仮装にすぎない。彼女は性規範を、自分をおさえこむ鎧としてではなく、自分をかざりたてる仮装として完璧に着こなしていた。それでいて仮装に縛られているわけでもなかった。彼女はそれを自分の様式にあわせて作りなおしていたし気分にあわせて着崩していた。窮屈になれば脱ぎすてることもはばからなかった。作家が仮面をかぶることにより言葉の自由を獲得するように、彼女もまた仮装をみにまとうことによりさらなる自由を獲得した。さらにおそろしいことに……彼女を女性とみなしたとしても、とても魅力的な女性といえた。性別問わずおおくのひとたちが彼女に性的な魅力をかんじていることはうたがいようもない事実だった。彼女が魅力的な女性を完璧に演じれば演じるほどその怪物性は隠蔽されてしまった。もしくはその怪物性も魅力としてなかば肯定されてしまうのだった。
魔女はいわゆる『単純でわかりやすくて不快ではない少女』を演じるような女性ではない。女性にかぎらず『単純でわかりやすくて不快ではない』という性質は他人から好まれやすい。私はこのような性質をPOP(大衆受けする性質)とよんでいる。POPは現代的な表現様式である。大衆からの共感や理解をもとめようとするとおおかれすくなかれPOPにならざるをえない。
昨今では美術作品や文学作品ですらPOPを演じようとしているし、もっといえば、芸術作品のみならず人間までPOPになろうとしている。みんなしてみずから《消費されやすい大衆的商品》になりさがろうとしている。自分をひとことで説明できるような明快なキャッチコピーを欲しているし、自分を分類するわかりやすいタグやラベルやジャンルをもとめている。自分を美しくてシンプルなパッケージに包んで世間に売りこもうとしている。自分を売物にしようとしている。人類総商品化である。
『個性をのばそう』という言葉がある。この言葉を素直にうけとれば、もとよりふぞろいである人間ひとりひとりをありのまま愛そうとする人間賛美にきこえなくもない。しかしそうではない。根底にあるかんがえかたはどうあれ、そうした言葉は市場の原理が支配する社会において、別様のひびきをもってしまう。あらゆる言葉は市場に都合がいいようにゆがめられてしまう。支配者¥€$は言葉をかきかえることなくその解釈をかえる。
現代人が社会からもとめられている個性とは、個性というよりもセールスポイントといいかえたほうが実情に即している。ひとことでいうと『セールスポイントをのばしなさい』と要求されているだけなのである。市場では人間も商品として競争させられており、このような状況下において、商品としての人間は他商品と差別化できるセールスポイントをたえまなくもとめられる。このような意味で、社会がもとめる個性とは市場に適合できるものだけである。そうでないものは欠陥として修理の対象とされる。
極論、ある特徴が個性なのか障害なのかは、それが金になるかどうかできまる。それが障害かどうかは、社会に適合できるかどうかであり、社会に適合できるかどうかは、労働できるかどうかであり、労働できるかどうかは、金をうみだせるかどうかなのである。金をうみだせるか/ 金をうみだせないか、この両者のあいだにある斜線が、真/偽や善/悪の斜線もこえて、あらゆる人間と、またそうした人間の営為をさばきつづける。人間だろうと思想だろうと技術だろうとなんだろうと、それが金をうみだせるかどうかで、いきのこれるかどうかがきまる。金をうみだせないものは淘汰される。
社会とはおおきなマーケットなのだ。社会に適合できないとはこのマーケットの商品になれないということである。金をうみだすことが目的化しており、金がなければいきていけない社会では、金をうみだせないことこそが致命的な障害になる。それゆえに商品としての私達は、血のにじむような努力をかさねて、POPでそれでいて個性的な商品にみずからなろうとする。そのためになら私達は、ありもしない個性をあるようにみせかけたり、本来の個性を殺したりする。
生まれつきPOPな人間がそうした自分の個性を洗練させてよりPOPに磨きをかける、それはもちろんわるいことではないだろう。しかしもともとPOPな人間なんてそうそういるものでもない。人間はPOPではない。人間は複雑でわかりにくい。そしてたぶんに不快である。仮に『単純でわかりやすくて不快ではない少女』のような女性がいたとしたら、その女性は、ひとしれず努力しているにちがいない。単純でわかりやすくみえる人間だろうと、その実、他人には理解できない複雑な領域をかくしている。おおくは『周囲に自分の複雑な内面をさらけだしたところで煩わしいだけだろう』と遠慮して表にださないだけだ。本当はPOPなのではなくPOPを無理して演じているだけで、単純性とは自己演出あるいは自己検閲の結果であり、それは現代社会という舞台が要求する窮屈な仮装なのだ。私達は複雑性を抑圧しているのである。
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魔女はPOPとは反対の女性だった。彼女はPOPではないどころかGOTHIC的人間といえた。GOTHICとはもともとキリスト教的精神が異教として抑圧していたもうひとつの人間精神、要は異教徒的精神(多神教的世界観、女神信仰・自然信仰・民間信仰)、またそれらを包摂した表現様式である。キリスト教文化は自分達が抑圧していたもうひとつの精神を巧妙に自身の文化にとりこんで折衷的に復活させた、あるいは非キリスト教的精神をキリスト教的文脈にくみこむことに成功した。たとえば大聖堂建築は都市に再現された森林であり、聖母信仰は地母神崇拝の再演であり、グロテスクな地獄の世界観は多神教的世界観のパロディである。キリスト教文化圏における悪魔の引用元が異教の神々であることはひろくしられている。
キリスト教文化圏においては、カタリ派やアリウス派やグノーシス主義などが異教的思想として異端とみなされていたが、特定の文化圏に限定しなくとも、正統があるかぎり異教ないし異端として排斥される人間や思想や文化は存在する。このような意味においてGOTHIC的なものはどこにでもみいだしうるのである。異なるもの、奇なるもの、またそういうひとたちは排斥はできても抹消はできない。
宗教の世界だけでなく、学問にも芸術にも、異端とみなされるものはある。書物にもそういう異端的な書物はあり、そういう書物は図書館や書店から追放されたり燃やされる。そこまでされなくとも無視されたり軽蔑されたり嘲笑される。追放は最後の手段でしかない。追いだされるものはどこにでもある。そういう書物が本当に有害ならまだしも、実際的には有害なのかわからないものでも、追いだされるときは追いだされる。書物にかぎらず追いだされるものには共通点がある。宗教でも学問でも芸術でも、異端視されるものはたいてい、奇怪で、胡乱で、醜悪で、複雑で、不気味で、さまざまなものがごたごたとまざりあい、性や死の要素をなんらかのかたちでふくみ、残虐ないし卑猥な部分を有する。すべてではないにせよこれらの特徴をいくらかもちあわせている。そういうものが中心から弾かれて周縁におかれる。ひとことでいうと「なんだかよくわからないぐちゃぐちゃっした怪物」が追放される。こういうことは人間社会共通の掟なのである。しかしこれらの特徴をみずから包摂して一種の様式にまで昇華してしまうのが、GOTHICなのだ。GOTHICは正統が異端の要素を包摂して様式化したものともいえるし、正統から排斥された異端が様式にまでたかめた独自の美学ともいえる。
私はここで「うう……」とうなりながら体勢をかえる。頭を左右にゆすりよからぬものをふりはらおうとする。足をもぞもぞさせる。私はおそらく「なんだかよくわからないぐちゃぐちゃした怪物」が大好きなのだろう。おそろしいがひかれてしまう。たとえそれが有害で有毒、ときに危険で、罪悪だとしても、そういう怪物にひきよせられる。パンツに手をいれる。臆病者なのに、もしくは臆病者だからこそ、おぞましい怪物が、きらいで、それでいてすきなのだ。文学にしてもなんにしてもそうだ。文学はすきだが、すきだからこそ、お行儀のいい作品にはあきあきしている。私は私をうちのめしてくれるような暴力を、出口のない日常をひきさいてくれる恐怖を、ここからつれだしてくれる裂目をもとめている。不気味でわけのわからない怪しき物、怪物、そうした存在に性的興奮をおぼえる。
恐怖による緊張、心臓の高鳴り、死の予感、これらが性と結びつくことは病的な倒錯なのだろうか。エロス・タナトス・グロテスクという言葉で形容されるような表現にたいして『社会の良識に反発しているだけの露悪趣味にすぎない』と批判する人間がいるが、これは的外れにおもえてならない。社会の良識こそそれらエロス・タナトス・グロテスクにたいする反発にすぎない。はじめにエロス・タナトス・グロテスクがあり、社会の良識はそれらにふたをするために、あとからこしらえられた人工物でしかない。社会の良識がいささか本来的欲求にたいする不自然な反発・抑圧・禁欲であることにくらべると、エロス・タナトス・グロテスクは自然由来の本来的欲求におもえる。
GOTHICをこのように定義しよう──私達がおさえこんでいるもうひとつの私達のありかた、と。
私達人間は、もしくはその人間がうみだす文化は分裂している。ジキルとハイドのように。ジキルは、表向きは紳士として生活しながらもそのうしろにハイドという悪人の人格をかくしている。ジキルは列記とした病人だがこうした面はおおかれすくなかれだれにでもある。私達のなかには、私達におさえこまれているもうひとつの私達のありかたがある。怪物としての私達である。これは文化にもいえる、主流文化がとりこぼした、またはそれからはみだした、もうひとつの文化、傍流・周縁・地下にこそGOTHICという異形の植物は繁茂する。
魔女はきわめてGOTHICでありながらも、おさえこまれることなく、地上の大輪として君臨している。彼女は複雑でわかりにくく、そうした複雑性のすくなくともはんぶんは演じられたものではない。彼女は虚飾そのものでありながらも剥きだしで、そこで剥きだしにされているのは人間の本来有する複雑性なのだ。彼女は屈折している、あるいは矛盾しており、安易な理解と共感のつけいるすきをあたえない。虚飾と神秘に包まれ、それでいて剥きだしで、成熟しているようにも未熟なようにもみえる、もしくはそのふたつを同時にかねそなえている。彼女はこうしたPOPではない性質をたぶんにもちながらも同時におおくのひとたちをひきつけてやまない。
矛盾とは毒である。一般に人間は巨大な矛盾をかかえると壊れてしまう。精神的にも肉体的にもおかしくなる。故に人間は矛盾をかんじさせない単純でわかりやすいものをこのむ。けれども魔女はかずかずの矛盾をのみこんで力にかえてしまう。毒に耐性のある大蛇がごとく強靭な胃袋をもち、彼女の精神や肉体は矛盾を包摂しながらもほろびない。黒死病と共存する不死の人間のように、死にいたる病に犯されつつも、死にいたることなく病を手懐けている。彼女は思考の混乱をもたらす。それは彼女が無数の矛盾した性質を同時に有した存在だからである。96万の性質をひとつの精神と肉体に内包してもなお、彼女は崩壊しない。魔女のそうした特質が他者に混乱した印象をもたらす。
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思考はとりとめなくふくらんでいき、遂にはむくり、おきあがる。事務机にすわるとあかりをつけてメモをとりはじめる。かきとめずにはいられない。気分は異様に高揚している。魔女は想像力をかきたててやまない。彼女に言及するひとたちはたくさんいる。彼女をみたものはみな「魔女はこういう人間だ」と人物評をくだそうとする。ひとびとは自分の理解できないものをみたとき、どうにかそれを、説明付けて納得しようとする。理解できないものはこわいから、説明付けて理解したことにして、自分を安心させようとする。魔女にたいしてくだされる人物評は、どれもこれも、辻褄のあわないものばかりだった。
魔女にかんする説明は、常に、魔女をとらえそこねていた。ひとびとが魔女を説明しようとするほど、説明の言葉がふえていくほど、それらの説明は矛盾・対立・齟齬をうみだして、ずれ・ぶれ・ゆれにより輪郭はぼやけてしまい、彼女はなおさら理解しがたい怪物になった。彼女を理解したつもりになっている人間もいるが、そういう人間は、自分の理解できそうな部分に都合良く焦点をしぼりこんで、理解しているつもりになっていただけだった。
重要なのは全体なのだ。魔女の途方もないおおきさが全体の理解を困難にしていた。なおかつ巨大というだけではなく、細部にいたり複雑にできているがために、全体としていえば人間の処理できる情報量をはるかにこえていた。右足の小指の爪だけみればひよこにみえるが、左目の睫毛だけみればみみずにもみえるし、ふとももだけでみるとくじらにもみえる……あくまでたとえにすぎないが、魔女はこのような珍妙な巨人である。どの部分をどのようにみるかにより、それは別物にみえるうえに、全体を見渡せないため、結局、それがなんなのかわからない。さらにややこしいことに魔女のまわりには常日頃から真偽不明な噂話がばたばたとやかましく羽音をたてながらとびまわっている。魔女は虚実曖昧で奇奇怪怪な魑魅魍魎に取巻かれた巨人であり、そうした状況の最中にあって、彼女の全体像などつかめるはずもない。
病室をあるきまわる。妙に感情が昂っている。とてもではないが眠れそうにない。病室をとびだすと薄暗い廊下をすすんでいく。消防設備の赤色の照明と『非常口』とかかれた緑色の誘導灯が廊下に反射してまじりあう。非常口は施錠されている。眠れないときはどうしたらいいのだろう。眠れないからといいなにかをはじめるともっと眠れなくなるし、じっとしていても、そわそわしてしまう。
人影はみあたらないが、ひとの気配はあり、私はふりかえる。ふりかえってもひとはいない。休憩室の自動販売機の真白なあかりがまぶしい。びいびいびいというかすかな電気音が休憩室にひびいている。どこからともなく老人のうなりごえがきこえる。それもすぐに病棟の静寂にすいこまれてきえる。普段はひとびとの生活音でかきけされていた音が、静けさのなかで、はっきりときこえてくる。自分の足音が他人の足音にきこえる。
深夜の病棟は死後の世界のように現実味がない。幽霊のひとりやふたりあらわれそうな雰囲気はあるが、もちろん、幽霊なんてみえるはずもない。廊下をいくあてもなくあるいているとコの字型の病棟のいちばんはじがみえてくる。病室に引きかえそうか。あれはなんだろう。廊下にちらばるなにかにひきつけられる。私をひきつけるものははじめになにかとしてあらわれる、なにかわからないのに、なにかわからないからこそひきつけられるのだ。
真黒な紙袋がたおれている。開口部から真赤な兎のぬいぐるみがにこにこ顔をだしている。耳にはピンクのリボンがついており、首にはハートの首飾りがさげられている。紙袋から真黒な包装でくるまれた飴玉が、蜘蛛の子のようにわらわらとこぼれだしている。それらは異様にきわだってみえる。近付いていくと音が──口にねばねばしたものをたっぷりふくんだまま開けたり閉じたりするような、粘液が糸をひいているのが脳裏にうかびあがるような、ぬちゃぬちゃぬちゃという不愉快な音がきこえてくる。後退りして廊下の天井をみあげる。空調機から水滴がこぼれている。廊下に水溜まりができており、表面には、赤いひかりがぬらりとかがやいている。耳元で食物を咀嚼されるような不快な音はたえまなくきこえてくる。
通路がある。ふたりならんであるくにはせまいくらいの通路のさきに、赤いあかりがもれている。壁に手をそえながら、通路の奥にあゆみをすすめていくと、たしかにその音は赤いあかりのほうからきこえてくる。通路のおわりまでくるとたちどまる。音ははっきりとそこからきこえてくる。骨をしゃぶるような、腐肉と腐肉をぶつけあうような、濡れた音、そしてにおい。汗だろうか尿だろうか、動物じみたにおいがぷんとただよってくる。唾をのみこんで、通路のはじから首をのばして、奥のようすをうかがう。
巨大な尻がみえる。部屋には赤いひかりと肉体の臭気が充満している。寝具はきしみながらふたつのまじりあう肉体をささえている。仰向けによこたわる男とそれにまたがる女。顔はみえない。私からみえるのは男の足のうらと睾丸、女の尻と肛門と背中。汗で光沢を帯びた尻は上下運動をくりかえす。挿入部には泡状の真白な粘液がからみついている。ふたりの性器は、糸をひきながら、上下で咬合する。上下運動のたびに粘液が音をたてる。視線がおもわずそこにひきよせられていることに気付いて恥ずかしくなる。けれども目を離せない。それどころか虫眼鏡で観察するように、そこを、詰まりは女性器に出入りする男性器を見詰める。女性器からあふれだすふたりの体液が、男の睾丸を伝いしたたりおちて、体液の泥沼をうみだす。泥沼は寝具のはじから床までぼとりぼとりとこぼれおちる。女のふうふうというあらい息と、男のおうおうといううなり声が耳にまとわりつく。男は身体をのけぞらせて爪先を伸ばしたかとおもうと、野太いうなり声をあげながら、両足の筋肉を十秒間ほど痙攣させる。射精したのだろう。男は体をおこそうとする。女はそれをおしかえす。女の尻は機械的な前後運動を再開する。乱れる巻髪、尻の両側にはりだした蜘蛛のような、けれども雄牛のようなたくましい脚、それは人間同士の性交というよりも動物が動物を捕食するようすとにていた。
「愛しています」男はいった。
「あらそうですか」女はいった。
「貴方は愛してくれますか?」男はあまえるような声でたずねた。
「いいえ」女はこたえた「一方的に貴方は私を愛さなければなりません」
「ぼくはこんなに貴方を愛しているのにこれでもまだ愛したりないのですか」
「貴方はおもしろいかたですね」女は鼻でわらうと男をおさえて尻を上下にふりながらこのように続ける「セックスしているときはセックスに集中しなければなりません。性器に意識を集中させて性器のほかはなにもかんがえずひたむきに性器になるのです。貴方は性器です。貴方のすべてが性器なのです。貴方は汚くておぞましい性器でしかないのです。私は貴方を使用したいときに使用するだけで、貴方の愛などはじめからもとめておりません。私は貴方の愛などもとめておりませんが、それでいながら貴方は、無際限に私を愛さなければなりません。妻といるときも、子といるときも、ひとりでいるときも、常に貴方は私を愛するのです。そしてその愛は、一方的で迷惑なおくりものでしかなく、貴方の勝手あるいは当然の義務であり、それにたいして、私が貴方におかえしすることはなにひとつないのです。強いていうならば、貴方にいただいた迷惑な愛に唾をはきかけ、小便をかけたあとに、足で踏んでさしあげることもあるかもしれません。そのときは、貴方はそうした仕打ちさえも愛さなければなりません。貴方は、私に唾をはきかけられても、小便をかけられても、足蹴にされても、平手打ちされても、侮辱されても、無視されても、そうした仕打ちさえ、徹底的に愛さなければならないのです。右の頬を殴られたあとは、左の頬をさしだしなさい」女は平手打ちすると男は「ありがとうございます」とこたえる。女は男の顔に唾をはきかける。そしてこのように続ける「私に殴られたら殴られた七倍感謝しなさい。鞭でうたれるたびに貴方は七回感謝の言葉をさけびなさい。私の暴力を貴方は愛さなければならないのです。私があたえる一切の暴力を、苦痛を、汚辱を、貴方は愛さなければならないのです。苦しみをもとめなさい、痛みにあえぎなさい、私があたえるすべての汚濁をのみこみなさい。精神的な愛だけではなりません、肉体的に愛するのです。精神的な愛、観念的な愛、形而上学的な愛、それらすべてが偽の愛です、たとえそれらを愛と名付けたとしても、それらはあまりに人間的な虚飾にまみれた、汚らわしい愛です。精神的な愛とは下品な虚妄であり不純な虚栄にすぎません。それは見栄、見栄です、見栄の愛です。動物が有するような純粋な愛ではないのです。肉体的な愛だけが純粋であり高貴であり尊敬にあたいするのです。精神とは肉体の湯気、肉体の分泌物、肉の汗でありその反対ではありえません。汗は肉のためにあり汗のために肉があるのではありません。愛とは元来肉なのです。それは吸うことであり、舐めることであり、飲むことであり、食べることであり、嗅ぐことであり、触れることであり、撫でることであり、抱きしめることであり、繋がることなのです、私の肉体をすみからすみまで愛さなければなりません。目、耳、鼻、唇、歯、舌、乳房、乳首、首筋、背中、腋、臍、足の甲、足の裏、足の爪先、肛門、子宮、膣……私の肉体だけではなく、私の肉体からあふれるもの、にじみでるもの、したたるものすべて、汗、唾、愛液、吐息、爪の垢から陰毛一本までのこさず愛するのです。もちろん汚物も……いいえ、人間的な愛ではたりません。崇拝しなさい。私の汚物にひざまずいて百万回接吻しなさい。私の汚物を御守りとしてもちあるき、私の汚物に朝昼晩と御祈りをささげて、私の汚物を崇拝するのです。私の汚物は貴方のなによりも、貴方の家族・仕事・生命よりも崇高であり、私の汚物ほどの値打ちも貴方にはないからです。貴方には私のほかなにもいりません、貴方の部屋の壁を、私の写真で埋めなさい、貴方の手帳を、私にたいする愛の告白で埋めなさい、貴方の体内を私の汚物で埋めなさい、常に私の臭いをかぎ、常に私の味をあじわい、常に私を愛しなさい、私だけをみていれば、私だけをきいていれば、私だけをおもっていればそれだけでいいのです。私は貴方の全体であり貴方は部分なのです。貴方には私以外になにもいりません。私以外の不要な荷物が貴方を不幸にしているのです。貴方にはもはや貴方すら必要ありません、貴方は私のために、精神も肉体も生命も捧げてしまえばいいのです。貴方が私のためにすべてを捧げるかぎり、貴方は不幸にはなりません、いいえ、私のために不幸になるならば貴方は幸福なのです。私があたえる不幸にたいし、貴方はひざまずいて感謝するのです、そして貴方はあたえられた不幸をみずから頬張り味わうべきなのです。私がもたらす恐怖、不快、苦痛、葛藤、矛盾……すべてをよろこんでのみこみなさい。貴方の精神も肉体も生命も私のものです、貴方は貴方から解放されているのです、貴方はみかえりをもとめず無際限に私を愛するだけでいいのです。貴方の人生はまさにいまこのうえなく単純明朗なものになったのです、愛だけがあるのです、死んでしまうまで、あるいは死んだあともなお、永遠に私を愛するだけでいいのです。貴方はそのほかすべての仕事から、思考から、選択から解放されたのです。選択肢はもうないのです。単に愛するだけでいいのです。貴方がそこまでしたとしたら、詰まりは貴方が私のためにすべてをうちすてたとしたら、私だって、貴方の小汚い愛をすこしばかりはうけとるかもしれません。しかしそうしてうけとった愛すらも、私は貴方のまえで踏み潰すのです。貴方は踏み潰してもらえることをよろこばなければなりません。なぜならその瞬間、貴方の愛は、私の足の裏にふれることができたのですから。ねえそうおもいませんか、私の鼠ちゃん」
女はそういうと体を蛇のようにぐにゃりとのけぞらせた。さかさまの顔と私は目をあわせた。魔女だった。