表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/14

第1部-第2章:黒猫と魔女 ~私も鼠のようにもがけばでられるのだろうか~

【警告】

この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。

【第1部:美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~】


 第2章:黒猫と魔女 ~私も鼠のようにもがけばでられるのだろうか~



 1

 夢をみていたのだろうか。全身に違和感がある。汗をかいているし筋肉がこわばりぎこちない。上半身をおこして肩をまわしてみる。手を開いたり閉じたりしてみる。立ちあがるとなんどか跳ねてみる。世界が上下にはげしくゆれている。洗面所で顔をあらいながす。自分の顔を確認する。やはりいつもとかわらない。自分の顔はあるのだが顔らしくみえない。鏡に目を近付けてのぞきこむ。仕掛けがありはしないかたしかめる。これもいつもとかわらない。このときにはすでに夢の内容などおぼえていない。たとえ百年分の夢をみていたとしてもわすれてしまえばなかったことになる。あるいはいまこうしてみている世界も夢かもしれない。もういちど顔をあらう。タオルでごしごしとふいてから濡れた犬のように頭をふる。頬をたたく。静かな病室にかわいた音がひびく。いつもとおなじように笑顔の練習からはじめる。現実の感覚を徐々にとりもどす。

「今日からかわろう」

「今日からかわろう」

 鏡にうつる自分を見詰めながらかたりかける。これまでずっとそうしてきたように。今日の会話は普段より緊張する。睫毛は痙攣しているし口元もゆがんでいる。どうせお別れはおとずれる。いつまでもうだうだしているだけではすすまない。決心は実行に移さなければならない。乾燥した唇をなめる。唾をのみこむ。私達はこういう「今日で貴方とはさようなら」たしかめるようにくりかえす。

「今日で貴方とはさようなら」

「これまでお世話になりました」

「こちらこそお世話になりました」

 訣別の儀式だった。ひとりあそびをいつまでもくりかえしているわけにはいかなかった。貴方はかけがえのない友達だがそれは空想の友達にすぎなかった。どんなにさみしかろうと私達は私達をやめなければならない。私は私でしかない。私はひとりなのだ。ひとりであることをみとめなければ、私達は、あるいは私はかわれない。念をおすようにもういちどくりかえす「今日で貴方とはさようなら」



 2

 寒い。廊下にふみだすと身震いする。病室からでるのはいつぶりだろうか。猫の遺体を目撃してからしばらく体調を崩していた。遺体の状態からして他殺だが犯人は発見されていない。第一発見者の自分が最も疑われているのはまちがいない。ただでさえ五階の住人は偏見にさらされるきらいがある。五階は精神疾患のある患者が入院している階層で自分の病室も五階にある。

「元気になったかい」

 振りかえると看護師のおばあさんがいた。枯葉がこすれあうようなしゃがれた声。鏡のまえでひとりごとをはなしていたようすをみられたかもしれない。簡単な挨拶だけすましておばあさんのたっているほうとは反対側にあるいていく。特に向かうところはない。ひとびとがいきかう廊下を足早にすすんでいく。普段なら絶対にはいらない休憩室にはいってみる。ほかの患者たちがこちらをみている。やはり疑われているのだろうか。仮に疑われていたとしてもしかたない。唐突に「私は猫を殺していません」とさけんだところでいよいよ犯人らしくなるだけだ。

 窓際の席に腰掛ける。

 窓の外をながめる。挙動不審にならないようにしよう。私のことなんてだれも興味ないはずだ。見渡してみるとだれもこちらをみていない。ポケットからメモ帳をとりだす。A4用紙の裏紙を8等分してクリップでとめただけのものだ。私はなんでも書きとめる習慣がある。こういう習慣がいつごろからはじめられたものなのかはわからないが、すくなくとも、これまでかきとめたオリジナルジョークは1337個もある。日付や番号がふられておりいちばんふるいもので三年前のものがある。披露する機会はない。ひとりで病室にいるときよりも、こういうところにいるときのほうが、孤独をかんじる。メモに「孤独」とかきとめる。

 五階の住人達はなかよさそうに会話をたのしんでいる。お茶をすすりながらお菓子をつまみながら。たまたまだろうか。ひとりで腰掛けているのは私以外にいない。みんなそれぞれ会話の相手がいる。特別異常な会話がかわされているわけでもない。五階にはテトマト兄弟のように奇妙な会話を年がら年中つづけている患者もいる。彼等のはなしにまきこまれるとたいへんめんどくさい。あと「ひげじい」とよばれるおじいさん。あのひともめんどくさい。床をひきずるほど髭をのばしており、その髭をまちがえてふむとこっぴどく怒られる。ひとにふまれたくないのなら、髭を束ねるなりなんなりすればいいのに、彼はかたくなにそうしない。まあ、あんなひとたちのことはどうでもいい。彼等のような患者は例外中の例外である。

 五階の住人達は精神疾患をかかえている。詰まるところなんらかの異常があるとみなされているひとたちである。しかしなんのことはない。世間でかんがえられているほど彼等彼女等は異常ではない。それどころか正常にしかみえない。私は自分の病気をかたくなに否認するつもりはない。以前は否認していたがいまではある程度までみとめるようにしている。それでもやはり理解できないところはある。正常と異常の線引きに納得がいかない。

 人間の精神を正常と異常で区別して、ときには後者を制度的に隔離するなんて差別におもえてならない。ある精神科医は「障害といういいかたはしますが異常といういいかたはしません」と主張していたが、すくなくともここで自分が問題視しているのは、いいかたではなくやりかたである。「異常」から「障害」にいいかたをかえたところで差別が差別でなくなるわけではない。もちろんだからといい精神医療を全否定するつもりはないし、医療従事者には感謝もしている。ただその一方でそれらにたいする不満もあるのだ。自分でも矛盾しているのは承知のうえである。だからといいこうした感情は殺しきれない。

 胸中、不満の獣物ばかり飼育している自分はなんて醜悪なんだろう。この獣物達は感謝するべき対象にもおそいかかろうとする。けれどもどうにも納得できないことがおおすぎるのだ。不満だけならいくらでもならべたてられる。

 たとえば精神障害者を危険視する意見にもいらいらする。殺人鬼のほとんどは精神障害者ではない。ほかの犯罪者にしてもほとんどは精神障害者ではない。たしかにそういう犯罪者もいないことはない。とはいえそんなにおおくない。統計的にみても精神障害者は健常者とくらべて犯罪率が低いらしい。歴史的にみても戦争や虐殺や迫害をくりかえしてきた人達のおおくは精神障害者ではない。健常者とみなされているような一般人のほうがよほどそういう残虐な行為をくりかえしている。精神障害者は社会から隔離されておりそれどころではなかった。精神障害者は被害者側である場合がおおいのだ。それなのに精神障害者は危険視されるきらいがある。史実と事例と数字に基づいて判断するかぎり健常者のほうが危険といえるのに。こちらからいわせれば「みんなのほうがこわいよ」とさけびたいくらいである。精神医療が発達した現代でも治療をうけるのはこわい。人権を無視したような治療の事例は数えきれないほどある。

 健常者を自称するひとたちは精神障害者のおこした事件を得意気にならべたてる。ほらみたことか、精神障害者は危険だぞ、といわんばかりである。仮にそういうやりかたが許されるのなら、こちらだって、社会が精神障害者にたいしてくりかえしてきた残虐行為をならべかえすことができる。時に健常者のひとたちは精神障害者を見せものにしたし、閉じこめたし、殺しさえした。治療と称してとんでもない量の薬を飲ませたり、拷問器具のような椅子にしばりつけたり、頭蓋骨に穴をあけて脳をくりぬいたりした。そちらのしていることこそ異常だし危険ではなかろうか。みなさんのいう理性、要するに医学が、それらの定義する狂気よりも異常あるいは危険でないと、どうしていえるのだろうか。

 人間の危険性なんてなんとでもいえる。なんとでもいえるからこそ、いっそ、なんともいえないともいえる。すべての人間は危険ともいえるし危険ではないともいえる、そんなものは、比較してみないことにはなんともいえないのである──自称健常者のみなさん、どうぞ健常者と精神障害者の危険性を比較してごらんなさい!──歴史をふりかえり、健常者と精神障害者の加害行為を比較すればあきらかだが、健常者が精神障害者にたいしてくりかえしてきた加害行為のほうがよほど残虐といえるのである。

 第一、一般人・健常者・多数派のひとたちは自分達の危険性を過小評価して少数派の危険性を過大評価する傾向がある。ほんとうにそのとおりだ。多数派の危険性を過小評価して少数派の危険性を過大評価するのだ。多数派のひとたちは少数派を逸脱者ないし異端者とみなして危険性を強調する。自分達多数派がやらかしてきたことはしらんぷりする。危険だなんだといいながら少数派を攻撃する。

 これはピラニアの大群が一匹のカエルを危険生物扱いしておそうようなものである。ピラニアはこれまでたくさんのカエルを殺してきたし、カエルからするとピラニアの大群こそ危険生物におもえてならない。それなのにピラニアの大群は脳みそがあまりにちいさいため、自分達がカエルを殺してきた歴史なんてすっかりわすれている。もしくはおぼえているけれどおぼえていないふりをする。カエルを駆除したいからだ。目障りだからだ。だからピラニアの大群はカエルの危険性を強調して駆除する理由を捏造する。ピラニアの大群は「こわいよこわいよ……」とおびえながらカエルに噛みつきはじめる。カエルは骨にされてしまう。骨になったカエルはきえかける意識のなかでこういうふうになげく「みんなのほうがこわいよ」

 多数派の危険性とくらべて少数派の危険性はことさら誇張される傾向がある。私はこういう傾向を《少数派危険視バイアス》とよんでいる。

《少数派危険視バイアス》は精神疾患関連の議論にだけみられる傾向ではない。性的少数派関連の議論にかんしてもおなじようにいえる。ほかにも宗教がわかりやすい。正統を自称する宗教は異端の宗教の危険性を強調して吹聴する。実際に異端の宗教が危険な儀式をおこなっている場合もある。たしかに危険な異端も存在するし存在した。けれども歴史を参照するかぎり正統とみなされている宗教のほうがよっぽどとんでもない惨劇をくりかえしている。魔女狩りも異端審問も宗教戦争も……そのほかさまざまな迫害も拷問も虐殺も……正統とみなされていた宗教がひきおこしてきた。悪魔崇拝者や魔女とみなされた異教ないし異端のおおくは加害者というより被害者である。ちょっとかんがえればわかるが、少数派よりも多数派のほうが数の力があるぶん、暴走の危険性もおおきい。

 正統/異端、正常/異常、正気/狂気、健全/病的、安全/危険……こうした線引きのおおくは多数派が恣意的にひいたものにすぎない。それはたいてい多数派の都合でひかれたものでしかない。しかしそもそも多数派/少数派の線引きがむずかしい。常に属性できまるものでもない。キリスト教徒が多数派の文化圏もあるし少数派の文化圏もある。同一の文化圏でも状況によりけりで多数派と少数派はいくらでもいれかわる。さらにいうと少数派の足元には孤立者が存在する。多数派や少数派を自認するようなひとたちはおおかれすくなかれ群れを形成している。そうした群れからもこぼれおちる、あるいは最初からいかなる群れにも所属していない存在がいる。それが孤立者である。

 どちらかといえば多数派よりも少数派のほうが孤立者にやさしそうではある。やさしそうではあるが、残念ながら、そうともいいきれない。少数派のひとたちは多数派のひとたちよりも強固な連帯の意識を有している。だからこそ連帯の輪にもはいろうとしない孤立者を徹底的に攻撃することがある。実際、五階の住人同士のいじめはなかなかおそろしいものがある。なおかつここでも自称健常者寄りのひとたちのほうが加害者になりがちなのだ。私なんていつ標的にされてもおかしくない。

 メモ帳をよみかえす。カエルとピラニアの寓話を赤鉛筆でぐりぐりと強調する。そのとなりにおもいついたばかりのカエルとピラニアのオリジナルジョークをかきとめる。よみかえしてみるといまいちで恥ずかしくなる。後頭部に視線をかんじて周囲を見渡す。だれもこちらをみていない。このままひとりでぼんやりしていると怪しまれるかもしれない。周囲のひとたちは会話をそれぞれたのしんでいる。自分の膝をみおろしてから顔をあげる。窓の外をながめると青空に真白な雲がながれている。一本の塔がゆれている。ゆれているのは自分の頭だった。

 私が異常とみなされるのはやっぱりしかたないのかもしれない。なんせだれともまともに会話ができないし、五階の住人のなかでも自分は、完全に孤立者の立場だ。周囲からは得体のしれない不気味な生物にしかみえないだろう。小粋なジョークでもとばせたらいいのだがそんなことできるはずもない。1337個あるオリジナルジョークも口にしなければ伝わらない。今日からかわるときめたもののどうしたらいいのかわからない。とりあえず会話くらいはできるようになりたい。



 3

 椅子からたちあがり休憩室をあるきまわる。片隅においてある水槽をながめる。木屑を頭にのせた鼠がこちらをみている。水槽の壁を登ろうとしているのだろうか。私にむかい前足を高速でうごかしている。つるつるの硝子を登れるはずもない。私が硝子を指でなぞると鼠はそれをせわしなくおいかける。頭にのっていた木屑がおちる……こんなかわいい生物がこんなところにいたなんて。

 動物にはそれぞれ適した飼育環境がある。飼育環境に問題があると体調不良をおこす。鼠のような小動物も例外ではない。ストレスが原因で病気になることもめずらしくない。人間のように苦悩したりはしないかもしれない。しかしちいさな脳味噌でストレスをかんじている。飼育されている動物に生じた問題は環境に原因があるとかんがえたほうが妥当だろう。その問題は飼育環境側の問題とみなすべきものだ。すくなくとも動物側に原因があるとみなすのは筋違いである。

 人間にたいしてもおなじようにいえる。環境に疾患の原因がある。すべてがそうとはいいきれないかもしれない。しかしはじめに疑うべきは環境だろう。それなのに人間社会では反対向きにかんがえられるきらいがある。特に精神疾患は本人に問題や原因があるとおもわれがちである。どうにも精神疾患は人間社会が生みだしているようにおもえてならない。

 人間社会はさまざまな意味で異常である。たとえば計算ができないというだけで障害になるような社会は人間社会しかない。よみかきができないだけで障害になるような社会も人間社会しかない。動物社会においては計算ができなくともよみかきができなくともなんら障害はない。計算ができなくて生きづらさをかかえている犬はいないし、よみかきができなくて生きづらさをかかえている猫もいない。人間社会はちょっとしたことで障害になる。

 特に現代社会は異常である。よみかきできないだけで障害になるような時代などこれまでなかった。庶民があたりまえのようによみかきできるようになったのはここ百年ないし数百年の出来事である。それまではよみかきなどできなくても庶民は生活に不自由しなかった。障害扱いもされなかった。普通の基準をあげていった結果、これまでなんの不自由なく生活できていたひとたちまで不自由するようになり、挙句には些細な理由で障害者とみなされるような社会になったのだ。

 こういう現象自体は現代特有のものとはいえない。人間社会は規範や正常や普通の基準をあげすぎてしまうことがある。きちんとしようとするあまり、きちんとしていない人間を排除して、きちんとの基準がだんだんとあげられて、遂にはたいはんの人間が守れないような滑稽な基準が設定されてしまうのである。たとえばキリスト教文化圏では、性規範をきびしくしているうちに、自慰にふけるだけで逸脱者・異常者・障害者とみなされて、治療のために貞操帯をはかされる時代もあれば、死刑にされるような時代もあった。キリスト教文化圏だけでなくこうした《キチント化現象》はさまざまなところでみられる。軍国主義の時代にも共産主義の時代にもいきすぎた《キチント化現象》はみられる。

 住みづらい住宅があればそれは欠陥住宅であろう。改善するべき欠陥は住宅にある。住みづらさをかかえている住人を欠陥住人とみなすひとはいない。それとおなじように、生きづらい社会があればそれは欠陥社会にちがいない。改善するべき欠陥は社会にある。それなのに……人間社会ではしばしば反対向きにとらえられる。生きづらさをかかえている人間を欠陥品のようにみなすひとたちがいる。かなりのひとたちがそんなふうなまなざしをさしむけてくる。普段からそういうまなざしにさらされていたらどうなるだろう。自分で自分を欠陥品だとおもうようになる。現に私は自分を欠陥人間だとおもいこんでいる。またそういう自己像を脱却することは困難だ。

 私がこんなふうに主張したらどうなるだろう──私に適応能力がないのではなくて社会に適応能力がないのです、私が異常なのではなくて社会が異常なのです、私が病気なのではなくて社会が病気なのです、私に障害があるのではなくて社会に障害があるのです、社会に薬をあたえてください、社会を治療してください、社会を改善してください、社会を修理してください、私は欠陥品ではありません、社会のほうこそ欠陥品なんです!

 鼠は唖然とした表情でこちらをながめている。仮に私が欠陥人間であることはみとめるにしてもやはり納得がいかない。たとえば注意力や集中力が散漫というだけで障害とみなされるような社会、感覚がずれているというだけで障害とみなされるような社会、そのくらいのことで生きづらくなるような社会はどうかんがえてもおかしいだろう。そういう生きづらさは個人の障害というよりも社会の障害とみなすべきだ。本来は欠陥住宅を修理するように欠陥社会を修理するべきだし……個人の障害としての側面よりも社会の障害としての側面を強調するべきだ。

 困っているひとたちを可視化できるという意味で障害者という概念はある程度有効ではある。困り感を可視化するところまではいい。しかしこの障害者という概念は(その言葉にこめられた本来の意図はどうあれ)困り感の原因を個人の問題に集約させてしまうところがある。実際には社会のほうに欠陥があり、詰まりは社会のほうに困り感の原因があるのに、まるである特定のひとたちに原因・問題・欠陥があるかのように錯覚させる。特に脳・精神・人格の特性にかんしては、なにが正常ともいいきれないし、異常とみなされたほうは日頃の言動までうたがわれてしまう。故に多数派を基準に少数派の特性を障害と安直に処理してしまうことには危険がともなうのである。それに困り感を可視化するうえで障害者という概念は必須ともいえない。たとえば同性愛者はかつて、一方的に障害者とみなされていた時期もあったが、現在は障害者を自称することなく社会の欠陥に改善をもとめている。

 鼠は両手で頭をこする。私は拳骨で目元をこする。とにかく声を大にしていいたいのは、そうやすやすと正常と異常の線引きはできないはずだろうということだ。私はなにも、障害者を差別するなとさけびたいのではなくて、障害者とはそもそもなんぞやと、そこから問いたいのである。そこからさらに数歩すすめていえば、懸命な多数派諸君には、実は自分達のほうがおかしいのではないかと、あるいは社会のほうがおかしいのではないかと、ときおりかんがえていただきたいのである。どうだい鼠君、君ならわかってくれるだろう?

 私は自嘲する。水槽の鼠にむかい、心のなかでひとりやかましく演説をくりひろげる自分が非常に愚かにおもえたのだ。不満を雄弁にならべたてることはできるがそのための解決を用意できるわけでもない。社会に存在するさまざまな欠陥を指差して怒鳴りちらしているだけである。欠陥を自分で修理しようとはしない。そんなことできやしない。私は傲慢な人間だがそうした傲慢ですら中途半端で、傲慢に演説をくりひろげる自分を、もうひとりのこれまた傲慢な自分がせせらわらうのだ。鼻息をあらくして点検棒をふりまわし、社会に存在する欠陥を指摘しているそのあいだは、自分を正しさのほうにおくことができる。そこですませればいいもののそれではすまない。次の瞬間には欠陥を指摘している自分の欠陥がみえてきてしまう。振りまわしていた点検棒をみずから点検しはじめる。天にかざしてよくよくみれば点検棒は歪んでいる。それとも歪んでいるのは私の目だろうか。鼠君はどうおもう?

 鼠がこたえてくれるはずもない。小刻みにふるえるだけだ。それこそこうした思考は水槽に閉じこめられた鼠である。ほかのひとたちは会話をたのしんでいるのに自分はひとりでかんがえこんでいるだけだ。この水槽をのりこえないといけないのはわかっている。しかしどうにもこうにもここからでられない。うだうだかんがえてばかりではどうにもならない、なんでもいいから行動をおこさなければ、状況はかえられない。私はかわりたいとおもっている。でもどういうふうに?

 会話……とりあえず会話ができるようになりたい。

 日常会話くらいできないとはなしにならないだろう。

 メモ帳をとりだして数日前にこしらえたオリジナルジョークをよみかえす。休憩室のようすをうかがう。話掛けてみようか。それにしてもだれに話掛ければいいのだろう。別にだれでもいいのだが、いや、話掛ける相手はとても重要である。頭のなかならいくらでも雄弁になれるのに実際には挨拶もまともにできない。話掛けられたら多少は対応できるのに自分から話掛けたりはできない。挨拶くらいならできるかもしれない。できるはずだろう。できるようになりたい。頭をかいたり腕組みしたり足踏みしたり、しばらくかんがえたのち、覚悟をきめる。

 私はあるひとりの男性にむかいすすんでいった。分厚い丸眼鏡をかけた彼は窓際の席に腰掛けていた。どうして彼を選んだのかはわからない。なんの準備もなく、なんの計画もなく、気付けば彼の方向に足をふみだしていた。あと数歩というところまでくるとたちどまった。彼は飲もうとしてもちあげていた紅茶の手をとめてこちらをみている。私達は時間がとまったように数秒ほど見詰めあっていた。なにかいわなければならない。なにもおもいつかない。口角をもちあげてほほえんでみた。これまでなんども練習した笑顔である。しかし、彼はもちあげていた紅茶を机におくとたちあがった。最後にこちらをおびえた表情でじろりとみて、眼鏡を指先でもちあげ、逃げるように休憩室からでていった。私はなにごともなかったかのように鼠の水槽のまえにもどる。全身の筋肉がかたくなっている。口元が痙攣している。背中に視線をかんじる。

 私は異常なんだ。なんのいいわけもできない。どうかんがえてもいまの行動はおかしかった。恐怖でゆがんだ男性の表情が頭からはなれなかった。怪物をみるようなまなざしだった。私は怪物なのだ……人間と会話しようとするのがまちがいなのだ……自分が恥をかいただけならまだしも、相手を不快なきもちにさせてしまった。謝罪しようにもしようがない。謝罪なんてしようものならなおさら不快なきもちにさせるだけだろう。鼠は水槽からでるべきではないのだ。私は病室からでるべきではなかった。

 鼠も心無しかおびえているようにみえる。それは木屑をかきわけながらくるくるとまわりはじめる。たしかに私は弱者かもしれない。弱者のなかでも愛される弱者と憎まれる弱者がいる。かわいければ愛されるしきもちわるければ憎まれる。弱者は弱者でもこのふたつは別世界の生物なのだ。かわいい弱者ときもちわるい弱者、前者と後者ではおなじ言動でも他者にあたえる影響がことなる。

 たとえばハムスターはそこにいるだけでまわりのひとたちをいやしてくれる。ところがゲジゲジはそこにいるだけでまわりのひとたちを不快なきもちにさせてしまう。ハムスターに毒をふきかけて殺すことは虐待行為におもえる。けれどもゲジゲジに毒をふきかけて殺すことは虐待行為におもえない。ハムスターはかわいいがゲジゲジはきもちわるいからだ。ゲジゲジは人間にたいして害はないどころか益のある生物である。しかしきもちわるい。存在自体に加害性がある、あるいはそれが事実かどうかにかかわらず加害性があるようにかんじられてしまう。

 ゲジゲジを駆除しても罪悪感なんてもたない。それどころか被害者意識がわきあがる。自分を不快にさせたゲジゲジは加害者であり不快にさせられた自分は被害者である、だからゲジゲジの駆除は正当な権利である、そんなふうにかんじてしまう、それが本当でないにせよ。私は私をゲジゲジにかんじてならない。存在自体に加害性がある不快な生物のようにかんじる。こうした『かんじ』は事実よりも覆すのがむずかしい。

 大袈裟にかんがえすぎかもしれない。緊張してうまくはなしかけられなかった。それだけのことである。とはいえこの出来事は休憩室のひとたちにそれなりの、あまりよくない印象をのこしてしまった。うしろから看護師のおばあさんの声がきこえた。



 4

「ほらこれ」看護師のおばあさんにピンクの手提げを押し付けられる。

「今日は図書室いかないのかい、もうあいているとおもうからいっといでよ」

 おばあさんは水槽に手を突っこむと鼠のちいさなおでこを指先でなでまわした。「かわいいね」といいながら首根っこを掴んでつまみあげると手にのせた。彼女の手は彼女の顔とおなじようにしわしわだったが、それでいてふかふかしていた。鼠は警戒するように左右をちらちらと見回したあとおとなしくなった。おばあさんはほほえんだ。「なでてごらん」と彼女はいった。分厚い手のうえでうずくまる鼠をのぞきこんだ。指で背中をなでようとしたそのとき鼠はたちあがった。私はおどろいて指をひっこめた。鼠はこちらをみあげる。後足がない。木屑でかくれており気付かなかったが鼠には右後足がなかった。

「かわいそうに」おばあさんは私と鼠を交互にみながらこういう「兎にちぎられちゃったんだ」

 兎……? 水槽に閉じこめられているのにどうしてそんなことになるのだろう。私が不思議そうにしているとおばあさんははなしはじめた。それは鼠にかたりかけるような、もしくはひとりごとでもいうような調子だった。私は他人と視線をあわせるのが苦手だった。だからだろうか、彼女は私の顔をみようとしなかった。

「家出したんだよ」おばあさんは私をさっとみてから鼠に視線をおとしてつづけた「家出してたんだ。猫が死んでいたあの朝にきえて昨日の夜に発見されたんだよ、中庭で。どこからぬけだしたんだろうね。脱走できそうにはみえないけど、まあおおかた、水槽の蓋が開いていたんだろう。まわし車の外側からよじのぼってそこからはねたんかね。おかしなはなしだよ。あんたはどうおもう?」

 どうおもうといわれても、そんなはなしはいまはじめてきいたし、ここでこんなかわいい鼠を飼育していたことも、さきほどしったばかりだ。私は言葉に詰まった。首を傾げながらおばあさんの表情をちらりとうかがう。彼女もこちらをちらりとみると、鼠の背骨を丁寧になぞりながら、自分の乾燥した唇をぺろりとなめた。そしてふたたび鼠にむかいかたりかけた。

「どういうふうに一階までおりたんだろうね。水槽からぬけだすところまではわかるにしても、五階から一階までおりるのはむずかしいだろう。あちらの階段からおりるためには受付をとおらないといけないし。ほかの利用者さんに着いていったか……それにしても一階までは結構距離があるからね。何段の階段をころげおちたことだろう……こんなちいさな体で。あんたもそうおもわないかい?」私はうなずいたが彼女は顔をあげずにそのままかたりつづける「それに……それに……鼠が脱走したのは猫が殺された日だからね。妙に気掛かりなんだよ。あたしはこうみえて勘はいいほうだからさ。もしかすると鼠を逃した犯人と猫を殺した犯人はおなじかもしれない。別にそうだとしてもなにも不自然ではないからね。いいや、そのほうがよほど自然だよ」

「私ではありません」といった。自分でもおどろくほどききとりやすい明瞭な声だった。自分の声ではない他人の声にきこえた。意識するよりもまえに口からとびだした声だった。私達のやりとりに休憩室のひとたちが耳をかたむけていた。見回さなくてもわかった。おばあさんは目をまんまるにしてこちらをみていた。すると「ははは」とすこしぎこちなくわらいこういう「もちろん……もちろんあんたが犯人なんてだれもおもっちゃいないだろうよ。もしもあんたをうたがうような下衆野郎がいたらあたしがお灸をすえてやりたいくらいだ。あたしはあんたをよくみているからねえ。どうにもあんたをうたがうなんてできないよ。ほんとだよ。ほんと。まあなんだ、勘違いさせるようないいかたしてごめんよ」

「鼠を見付けたのはだれですか」私はたずねた。そのあと、とりつくろうようにつけくわえた「いえ、あの……あの、あのひろい中庭で一匹の鼠を見付けるのはむずかしいだろうとおもったんです……だからその」

 私はうろたえていた。それはひどく不自然にきこえたしそもそもそんな質問には意味がないようにもおもわれた。しかしおばあさんはなだめるようにこうこたえてくれた。

「愛ちゃん。愛ちゃんだよ。兎にいじめられているところを愛ちゃんがたすけてくれたんだ」

「愛ちゃん?」

「うん」おばあさんはつづける「愛ちゃんもしらないのかい。全くあんたは他人に興味がないひとだね。ここにいちばんながいこといる女の子だよ。病院についてはあたしよりくわしいんだから。なんにせよ最近物騒だからあんたもきをつけるんだよ。猫が死んだあのときからなんだかおかしいんだ。鼠も兎もどんどんふえてる。連中がふえるとこんどは蛇がふえる。このまえも季節はずれの青大将が藪からとびだして大騒ぎだったんだ。ほらあのおどろだよ、蔓だか蔦だか茨だかなんだかわからないけどさ、庭にはえてるあのおどろもやたらとふえてしかたないんだ。ほんとになんだかきみわるいよ。なにがあるかわからないんだから。それにしてもかわいそうだろ……この鼠。どうだいみてごらんよ」

 おばあさんは鼠をみせつけるように手をさしだす。

 まるくなりふるえていた鼠が顔をあげる。

「足がありませんね」と私はこたえる。

「足だけじゃない。まえみたいに元気がないんだ。たぶんたくさんこわいおもいしたんだよ。鼠もそんなにはおぼえてはいないだろうけどさ。やっぱり、こわいおもいはわすれないよ。そうでしょうよ。動物だろうとなんだろうと。まえならね、あたしの手から肩までいきおいよく登ったもんなんだ。いまではどうだい。このとおり。あたしの手から逃げだそうともしないよ。かわいそうな鼠だねえ。しかしあれだ。足がないのはみえるからいいけどさ、みえないものがないひともいるだろ。そういうひとは、自分でなにがないのかわからなくて、たいへんなおもいをするんだよ。自分にはなにかない、なにかなくて生きづらい、けれどもなにがないのかわからない。たしかに不自由なかんじはあるんだ。なにかがたりなくて、なにかがなくて……だけれどそれがなんなのかわからないんだ。なにがないかわからないから、なにをさがしているのかもわからずに、ずっとうろうろしているんだ」

 おばあさんのぎょろっとしたひとみに睨まれる。彼女はくしゃりとほほえむ。不安になる。

 私はたちさろうとする。たちさるよりもさきに彼女は言葉をつけくわえる。

「図書室にいっといでよ。どれくらいおぼえているかしらないけど。あんたはもともと図書室に毎日通ってたんだよ。図書室があれならお散歩でもするといいよ。体をうごかすことはいいことだし、部屋にひきこもってるとろくなことないから。それにあんた……話掛けようとしとったろう。男のひとに。あたしはあれもいいことだとおもうね」

 私はぎょっとしてふりかえる。

「あんたはかならずよくなるよ」

 おばあさんはそういうと鼠を水槽にかえした。

 


 5

 鼠が逃げだして猫が殺された。

 中庭をあるきながら混乱した情報を整理する。看護師のおばあさんにまでうたがわれているのだろうか。図書室をすすめたのはなぜだろう。罠でもしかけてあるのかもしれない。そんなはずはない。ありえない。かんがえすぎなのはわかっている。しかしどうにも不安になる。彼女のはなしかたはさぐりをいれるような調子にもきこえた。私が男性に話掛けようとした場面を彼女はみていた。ということは……彼女はだいぶまえからこちらをみていたことになる。だからってなんだというんだろう。なにもおかしくはない。彼女は看護師として自分の担当する患者を観察していたにすぎない。仕事をまじめにこなしていただけだ。見守ってくれていたのだ。そうかんがえるほうが自然だろう。うたがわれたくない、そうおもうあまり、私のほうこそうたぐりぶかくなっている。そうだ、そうだそうだ、これもまた病気の症状といえるかもしれない。

 今の自分は陰謀論にのめりこむ人間と大差ない。猜疑心をふくらませるあまり妄想の枝葉をあちこちにひろげている。周囲の人間に疑念をさしむけながらも、自分の妄想はうたがわず、それどころかみずからこしらえた妄想にとりつかれ、遂には妄想を確信する。これはまさに病人にありがちな症状ではなかろうか。あるいは……疑念に支配されるばかりで、霊感をもたない三流哲学者のような症状ともいえる、霊感をうたがい、直感をうたがい、経験をうたがい、信仰をうたがい、人間をうたがい、社会をうたがい、世界をうたがい、神をうたがい、なんでもかんでもうたがい、点検棒で粉々になるまでたたいてこわしながらも、最後まで自分の理性はうたがわず、そのうえ人間の理性を神棚に祀りあげる……私がまずもってうたがわなければならないのは、おばあさんの親切心ではなく、自分自身のなかに芽生えている猜疑心にちがいない。わかっている。わかってはいるがそれでも気掛かりでしかたないのだ。彼女、彼女達は私以上に私にくわしい。

 私には過去の記憶がぼんやりとしかないが、おそらく、魔女と看護師のおばあさんはかなりのところまで把握しているにちがいない。私の過去を彼女達は握っているのだ。いや、私も本気でおもいだそうとおもえばおもいだせるはずだ、が、特におもいだしたいともおもえない。そんなことはかんがえてみるだけでもおそろしい。脳裏に記憶の火影がよぎることはあるが、それはおおむね奇妙なものばかりで、どうにもしんじがたい。本当の記憶と偽物の記憶の区別がつかない。頭はちらかった部屋のようで本物と偽物の記憶が整理されないままにまざりあっている。だからすべて地下室に閉じこめたのだ。意識の地下室に記憶を閉じこめてそのままにしている、もしくは中庭に埋葬してそのうえに土をかけている、いまさらそれを掘りかえしたいともおもえない。

 魔女に自分の思考を吐露してみようか。病人は、あるいはすくなくとも私は、医者がかんがえているよりも客観的に自分の思考を分析している。どうせ理解してもらえないから説明したくないだけだ。会話の途中で混乱したりすると、その混乱した部分ばかりがとりあげられて、病気の症状とみなされる。こちらとしては混乱していない部分こそ理解してほしいのだがそうはならない。彼等彼女等は症状にしか興味がないのだ。自分の症状を隠すのはいいことではない。しかしこちらからいわせればなにが症状でなにがそうでないのかわからない。頭中で渦巻いている思考をすべて吐露したりもできない。隠すつもりがなくても隠したようなかたちになってしまう。

『精神疾患があるものには病識がない』という意見もよくきくがこれもどうかとおもう。それは『きちがいは自分をきちがいとみとめない』というありがちな意見となんらかわらない。きちがい扱いされたことがないひとたちには、こうした意見がどれだけ不条理なのか、おそらくわかりにくいだろう。まずもって、きちがいかどうかにかかわらず自分をきちがいとみとめている人間なんてそうそういない。故にきちがいをみとめるかどうかはきちがい判定の基準にはなりえない。そのうえどうせ、きちがいの烙印をいちどおされたら、どちらに転んでもきちがいとみなされる。みずからきちがいをみとめても、きちがいをみとめなくても、きちがいとみなされてしまうのだ。事実、私は以前、担当医にいわれるがままに自分の病気をみとめたが、それでもやはりきちがいとみなされた。

『きちがい』という言葉を『精神障害者』というそれらしい言葉にいいかえることで、もともとそこにある差別性が隠蔽されてしまう。精神医療とは今昔、他人をきちがい扱いしていることにはかわりなく、かねてからそこに付随していた差別性は、現代にもたぶんに引継がれている。いうまでもなく「きちがい」という言葉をほかの言葉にいいかえても差別が差別でなくなるわけではない。角のたちにくいやわらかな表現にごまかされてはならない。私がこうした過程で無性に腹立たしいのは、差別もしくは隠蔽そのものというよりも、それらにたいする自覚のなさだ。

 人間の精神をこちらとあちらで制度的に線引きすることには差別性があるのに、もっといえば罪があるのに、その罪に無自覚にみえるのが、詰まりは罪そのものというよりも罪の自覚の欠如にこそ、腹立たしさをおぼえてならないのだ。腹立たしさというよりも、これは、こうした胸のふるえはおそらく『怯え』と名付けるべきものだ。私にはいっそ、罪の自覚なき善人のほうが、罪の自覚ある悪人よりもおそろしくてたまらない。

 表現をどんなにかえたところで『精神障害者』の診断を他人にくだすことは、社会が逸脱者にたいして『きちがい』の烙印をおしてきた歴史とそのまま地続きである。頼まれてもいないのに他人を勝手に診断して平気で精神障害者扱いするような人間もいるし、それどころか、精神科医にもそういう人間はいる。彼等彼女等は自分達が他人にたいしてきちがいの烙印をおしている自覚がない。自覚がないから精神障害の種類をあれこれふやして、その定義を拡張したり、他人にそうした烙印をやすやすとおせるのである。

 私は、人間社会ないし精神医療の差別性を糾弾したいときは忌憚なく『きちがい』という言葉を使用する。

 なんにせよ『きちがいは自分をきちがいとみとめない』という意見はずるい。きちがいをみとめてもきちがいになるし、きちがいをみとめなくてもきちがいになるんだから、逃れようがない。言いかえしようもない。反論の余地もないという意味でここに真理を見出してもいいかもしれない。ただしこの言葉を真理として、私がそうされたようにどちらに転んでもきちがいとみなすなら、すべての人間はきちがいとみなせる。全人類病識のない病人といえる。病識があればそれは病気を素直にみとめている病人といえるし、病識がなければそれもまた病人の証拠といえる。全く魔女裁判と大差ない。

 中庭をぐるぐるあるきまわる。ああでもないこうでもないとかんがえる。どうにも結論をくだせない。あるいは結論をくだしたとしても、次の瞬間にはその結論にみずから反論している。絶間ない脳内裁判、自己弁護と自己論駁の連鎖はおさまらず、それはたちまち論理的思考からは逸脱してしまい、気付けば爆発寸前まで感情は昂っている。さらにいえばこうした感情の昂りすらも、正常なのか異常なのか、自分では判断をくだせない。木槌をうちならす裁判官はいない。あろうことか私さえいない。法廷があり、そのなかを無数の言葉が無節操にとびかうばかりで、そのうちのどこに自分を見出せばいいのかわからなくなる。

 兎小屋のまえでたちどまる。拳を握りしめて両手を頭のうえまでもちあげる。さけびたくなる衝動をおさえこみ、深呼吸しながら、両手をおろしていく。精神医療についてかんがえはじめると苛々してどうしようもない。なるほどたしかにまともな精神状態にはない。なにかやらかすまえに相談したほうがいいかもしれない。病院と敵対したところでなにもいいことはない。自分は被害者意識がつよすぎる。魔女はこれまでの医者と比較するといくらかましなほうである。私の内面にたいしておどろくほど理解がある……とはいえやっぱり相談したいとはおもえない。

 兎小屋をのぞきこみながら息を整える。魔女は最低な人間だ。差別的どころか虐待的ともいえる。私も彼女が《危険人物》であることくらいは気付いているし私以外のひとたちも気付いている。彼女にかんする噂のほとんどは荒唐無稽な作話にすぎないかもしれない。それでもそのうちの数点は事実で間違いない。患者も病院もそのことに気付いているはずなのに現状見逃されているのだ。それというのも彼女に抜群の能力があるからだろう。

 新聞をよんでいると『どうしてこんな《危険人物》がこれまで見逃されていたんだ!』とさけびたくなるような事件の記事をときどきみかける。《危険人物》は結構身近にいるし案外逮捕されない。周囲のひとたちも問題に気付いていたのに、十年以上経ってからようやく事件化して、問題人物が逮捕される事例もめずらしくない。魔女に出会うまえはそういう事件の記事をみかけるたびに『どうして周囲のひとたちは問題視しなかったんだろう?』と疑問にかんじていた。しかしいざ、自分の目のまえに《危険人物》があらわれるとよくわかる。ある種の《危険人物》には魔力がある。

 魔女には能力だけではなく……なんというべきか、詰まりは強烈な魅力があるのだ。問題があるとしりながらも憎しみきれないところがある。直接実害がなければ大騒ぎしようともおもえない。私は自分の問題で精一杯だしほかのひとたちもにたようなものだろう。もっといえば彼女にあらがうのはおそろしい。自分のような弱者が彼女に抵抗したところでひねり潰されるだけだ。

 兎小屋のとなり、納屋のとなり、猫を発見した場所にひきよせられていく。あのときからおおきく様変わりしたようすはない。ダンボール箱はもうそこにはない。かわりにちいさな土の山がこしらえてあり花束がそなえられてある。あのときの凄惨な光景をおもいだす。きぶんがわるくなる。確実に他殺である。犯人は病院のどこかにいる。それはまちがいない。けれどもあの五階の鼠まで関係しているだろうか。鼠は勝手に脱走しただけだろう。だが、おばあさんのいうとおり五階からここまでおりてくるのには距離がある。

 犯人はどこにいるのだろう。やはり五階の住人だろうか。五階の住人が動物を虐待したなんて噂はいちどもきいたことがない。それに五階の住人のほとんどは行動を制限されている。深夜に中庭をであるける患者はかぞえるほどしかいない。ほんとうに私が殺したのだろうか。そんなはずはない。ありえない。猫の遺体を発見したときの光景は脳裏に焼きついてはなれない。自分で虐殺した猫の遺体を自分で発見して失神する犯人などいるはずもない。どうかんがえてもありえない。もしそうだとしたら私は多重人格かなにかだろう。たとえ多重人格だとしても道理にかなわない。多重人格なら担当医が気付かないはずがないではないか。担当医は魔女である。多重人格のような特殊な症状を彼女が見逃すはずもない。

 そういえば……どうしてあのとき非常階段の扉はあいていたのだろう。



 6

「あら、こんなところにいたんですね」

 真黒で光沢のあるヒール。香水のかおり。魔女だ。背後をとられていた。彼女は音もなくそこにいた。ヒールで床を突くようなあの音はときおりきこえなくなる。彼女の足音は無音になるのだ。足音をけして大蛇のようにするすると近付いてきて、ぬるり、とその巨躯をあらわす。背丈がおおきいだけでなくふくよかで、角張ったところがない。どこもかしこもやわらかそうで、それでいて顔はほどよいおおきさで全体の均整はとれている。私の目のたかさあたりに彼女の乳房があり、乳房のふくらみのうえには、巻髪がかかっている。

「履きやすいんですよこれ」魔女は右足をさしだした。全体のおおきさにたいして足はちいさくみえた。両手を腰にあてながら片足をだしてみせるそのすがたは「どうぞお舐め」といわんばかりだった。高慢で、それでいて気品にあふれていた。見上げた。微笑んだ彼女の顔がみえた。私を見下していた。視線を逸らした。胸のあたりをみて、それから足元に視線をおろした。どこに視線をおちつかせればいいのかわからなかった。私が奴隷で彼女が主人だった。私達の力関係はうたがいようもなかった。動物じみた直感で瞬時に理解した。それは肉体的反応だった。完全に萎縮していた。

 緊張した。猫のお墓のまえにしゃがみこんだ。いつもこういうところがあった。話掛けられてもうまくこたえられなかった。だからといい逃げもせず、黙りこんだまま、なんとなしにそこにいるのだった。会話するのはこわい、逃げるのもこわい……もしくはこわいけどそれでも相手のはなしをきいてみたい。こうした内的葛藤により決断をくだせなくなり結果的にはそれが受動的態度にあらわれた。

 魔女がはなしはじめるのをまった。彼女はなかなかはなしはじめなかった。これ、これだ、こうした沈黙、独自の間合い、あるいは挙動の遅さこそ特徴だった。彼女のまわりには常に、ほかの人間とはことなる悠長な時間がながれていた。沈黙のながさにだんだんとあせりをかんじた。時計の針の音におわれているような、じりじりとおしつぶされていくような、そうした感覚がたしかにあった。もしかすると彼女も、私をうたがっているのだろうか。

 魔女は私のとなりに身をよせるようにしゃがみこんだ。近すぎる。こうしたありえない近さ、異様な距離も彼女の特徴だった。それは鼻にしのびこんできた。彼女からはなたれる数百万の香粉が鼻という感覚器に侵入した。彼女のにおいはいちど嗅いだらわすれられないものだった。すぐそばにある兎小屋のにおいもわすれさせるくらいに強烈だが、それでいて、相当に近付かなければわからないものだった。かすかなにおいなのに、近付いていちどそれに気付いてしまうと、顔をしかめそうになるほどのショッキングな印象をのこす、そういうにおいなのだ。それは絵画に描きこまれたちいさな性器のようだ。たとえば『モナリザ』の瞳にちいさな性器が映りこんでいたとしたら、自分が絵画をみているときにたまたまその性器を発見したとしたら……きっと、性器の印象が脳裏にこびりついてはなれないだろう。かんがえてもみるとどことなく性器のにおいとにている。自分の足元を睨みつける。運動靴の先端に泥がついている。立ちあがりたいが立ちあがれない。沈黙がながすぎる。肩がふれあうような距離にいながら、なぜ、なにもいわないのだろう。なにかいうべきだろうか。私は彼女の顔をうかがおうとした。一瞥しようとした、ただそのつもりが釘付けになった。目と鼻と口がそこにあった。彼女の顔面は舌をだせばとどきそうなほど間近にあった。私は見詰められていた。うろたえて尻餅をついた。

「大丈夫ですか」魔女はたちあがるとこちらを見下ろす。

 私は魔女にさしだされた手をにぎりたちあがる。

 彼女の手にひきよせられてそのまま抱きしめられる。

 蛇に飲みこまれた鼠のようにみうごきがとれなくなる。

「よしよし……かわいそうに……」魔女は私の頭をなでる。

 彼女の胸が顔にあたり緊張で全身が硬直する。

「貴方も猫ちゃんがわすれられないようですね」

 魔女はそういうと私を手放した。

「はい」と私はこたえた。

「図書室をさがしてもいなかったので心配したんですよ」

 私は自分のにぎりしめているピンクの手提袋を見下ろした。

 それは今朝看護師のおばあさんから手渡されたものだった。

「鼠が逃げたらしいです」私は言葉を継いだ「鼠が……五階の水槽にとじこめられていたあの……」

「鼠? ああそのはなしですか、それならもう見付かりましたから御心配にはおよびませんよ」

「猫を見付けたあの朝は非常階段の扉があいていたんです、そこからここまでおりてきました」

「そうですか……それがどうかしましたか?」

「別に」自分でもどうしてこんなはなしをしているのかよくわからなかった。会話がちぐはぐでかみあわない。私があとずさりすると彼女はじりじりと距離を詰めてきた。私達の距離は数十センチほどしかなく、目のまえにそびえる彼女の胸は、せまりくるようにみえた。

「探偵さん」魔女はたっぷりと間をあけてからつづけた「探偵さんはこのことについて、あの猫の件について、あんまり詮索しないほうがよろしいかとおもいます。貴方のお仕事は心と体をやすめることですし余計なかんがえごとはストレスのもとですから。それにここ最近、みなさんもだいぶ神経質になっているようで、やたらときりきりしているんです。だからこんなふうに推理しないでいただきたいのです。非常階段の扉があいていた、もしかすると犯人は五階にいるのかもしれない……って」

「すみません」

「いいえ、おきになさらずに」

 魔女は私の手をひいて納屋のまえにある椅子に腰掛けさせた。

「鼠と猫は関係しているとおもいますか?」私は質問したあとつけくわえた「鼠が逃げだして猫が殺されたんです」

「鼠と猫は関係しているかもしれませんし、していないかもしれません……どちらにせよ貴方には関係ありません。不安になるのはわかりますが心配ございません。犯人は五階におりません。わたくしとしてはみなさんの精神状態が、事件にずるずるひきずられてしまうほうが、心配なのです。もしもみなさんが素人探偵よろしく犯人探しをはじめたらどうなるでしょう。うたぐりぶかく犯人探ししているうちに、たちまち、院内は不信にあふれかえることでしょう。不信の充満は些細な疑念からぞわぞわとひろがるのです。一点の疑念が蛆のようにふえていきたちまち全身を腐敗させてしまうのです。蝿になってはなりません。犯人探しは警察におまかせして私達は捜査の結果を気長にまちましょう」



 7

「そういえばこれ」魔女は四つおりにされたプリントをひろげると私の膝においた「交友会に参加していただきたいのです。図書室のとなりに礼拝室があるのはご存知でしょう。きもちのいいところですよ。なにもなくて、なにもありませんが、なにもないのがとてもきもちいいのです。からっぽなところにおりますと、心もからっぽになり、風通りがよくなります。今回はあの部屋で交友会をひらこうとかんがえているんです。

 実はあの部屋、ほんのすこしまえまで、倉庫として使用されておりました。ところが、備品を移動している最中に、意外と素敵な場所であることがわかりまして、礼拝室としてのちほど用途を変更したのです。いざ、備品を移動して中身をからっぽにしてみると、そこにはなんと、十字架のかかげた痕跡まで見付かりました。それもそのはず、調べたところによりますと、あそこはもともと、教会だったらしいのです。詰まりこの病院は、古くからある教会におおいかぶさるように建設されたものなのです。だからあの部屋だけが石造りなのです。

 交友会の詳細につきましてはそちらのプリントにかいてあります。簡単にいいますと交友を目的とした略式のスピーチ大会です。自己紹介もかねましてひとり5~10分程度のスピーチを披露するのです。お題もあらかじめきめてありますし、いまからでも、原稿を用意する時間は十分にあるはずです。スピーチとはいいましても特に気張らなくてかまいません。メインはそのあとの交友ですし、気のあうかたがいれば、友達もできるかしれません」

「友達ですか……?」私はおどろいてたずねかえした。

「ええ」魔女はたちあがる「貴方もそろそろステップアップしていい時期だとおもいますよ。自分ではお気付きにならないかもしれませんが貴方は回復しているのです。すくなくとも貴方の心身はよくなろうとしています。もしかすると今年中に退院できるかもしれません。無理はもちろんしなくてもいいのです。しかし雪はとけはじめているのです。いつまでも冬眠しているわけにはいきません。それに貴方もご自分でお気付きでは?」

「なんのことですか?」

「自分に足りていないものです」

「自分に足りていないもの……わかりません」

「ほんとうに?」

「ほんとうです」私はそうこたえたあとうつむいた。そのあと私はごまかすようにこうつけくわえた「なにもかも足りていないので、なにが足りていないのか、もうわからないんです。なので、なにを目的にしたらいいのかもわからないんです。目的がないんです。目的が」

 魔女は沈黙した。私はたちあがろうとした。自分でも自分がなにをごまかそうとしているのかわからなかった。彼女のいうとおり交友会は友達をつくるいい機会におもえた。目のまえにさしだされたその機会に怖気付いていた。それをもとめていたのに、それをさしだされると、にげだしてしまう。ありがちな悪癖だった。

「あらいけません」魔女はたちあがろうとする私の肩をおさえた「落ちついていただかないと。おはなしはまだ途中ですよ。お行儀良く最後まできかなければなりません。なぜっておはなしはお薬以上に人間をかえるものなのですから。真剣に耳をかたむければ、ひとつのおはなしは、人間のそれからを、あるいはそれまですらも、かえてしまうことができるものなのです。かわれないひとはお薬をのんだところで根の部分がかわりません。お釈迦様のおはなしをきいてもかわりませんし、孔子のおはなしをきいてもかわりません。自分のはなしにとらわれて、そこから、はなれられないのです。ひとのはなしに耳をかたむけることは、自縄自縛からのがれるうえで、要するに自分がかわるうえで、かかせないことなのです。おはなしは人間を束縛するものでもあれば解放するものでもあります。わたしくしが貴方におはなしさせていただくことは、貴方を縛りつけているものを、いくらか解きほぐすものです。ですから、ほんのすこしのあいだ、耳をおおきくしてきいてもらいたいのです。

 どうして鼠はにげられたのでしょう。鼠のちいぽけな頭では水槽の外側の世界を想像できるはずもないだろうし、もしかすると、自分が水槽に閉じこめられている状況も理解していなかったかもしれません。彼あるいは彼女の頭脳では水槽から脱出する方法もわからないし、ましてや、脱出してからさきの計画などなかったはずです。けれども鼠ちゃんはここまでおりてきました。0.4グラムの脳味噌でどうしてそんなことができたのでしょう。

 鼠ちゃんが鼠界の天才でもないかぎり頭脳だけで解決の方法を発見するなど不可能です。おそらくすべてはたまたまなのです。窮屈からのがれようともがいているうちに、たまたま、水槽からでることに成功して、直感のおもむくまますすんでいるうちに、たまたま、脱出の筋道を発見したにすぎません。鼠ちゃんの目がぼんやりみていたのはせいぜい、人間の歩幅一歩分、そこからさきは、なにもわからないまますすんでいたわけです。鼠ちゃんが水槽のなかでかんがえこんでばかりいたら、脱出の道筋は永遠に見付けられなかったでしょう。

 思考は行動にまさりません。熟慮は浅慮にまさりません。知者は愚者にまさりません。

 2匹の鼠ちゃんでかんがえてみましょう。1匹の鼠ちゃんは座禅をくみながら脱出方法をかんがえています。もう1匹はうごきまわりながら試行錯誤をくりかしています。さて、どちらがさきに水槽ないし病院から脱出できるでしょう。いうまでもなく後者です。人間の立場からみればあきらかですが、そもそも、鼠の0.4グラムの脳味噌でいくらかんがえこんでみても、かんがえこむだけでは、病院はおろか水槽からの脱出方法なんてわかろうはずもないのです。一方で、馬鹿みたいにうごきまわる鼠のほうは、あれこれもがいているうちに出口に近付いていくんです。

 人間もおなじなんです。かんがえこんでばかりいても問題は解決できないのです。どんなにかんがえこんでも未来は予想できませんし、未来どころか10秒先もわかりません、頭であれこれかんがえてもさきゆきなどみえないのです。さきゆきがみえないという意味では人間も鼠とおんなじで、対処している問題の複雑さがことなるだけです。人間はそのぶん複雑な問題に対処しているので、結局、鼠とおなじようにさきゆきのみえない問題とたちむかいながらあがくほかないのです。

 賢い鼠は賢いからこそうまくいかず、愚かな鼠は愚かだからこそうまくいく……蔦や蔓のようにからみつくある種の過剰な知性が、自分をがんじがらめにする枷となり、問題解決を遠ざけてしまう。こうしたことは決してめずらしくありません。実は人間が失墜する原因のいちばんは自滅です。もういちどくりかえします。自滅です。みなさんみずからほろびるのです。現代社会において天敵に殺されることはありません。罠にはめられることもありません。失墜する人間のたいはんは、自分で自分をおいこんでいるのです。自分で構築した思考や習慣や人間関係に、みずからからみとられて、気付いたときにはそこからぬけだせなくなっているのです。自縄自縛なのです。

 ……ですから鼠ちゃん、貴方も貴方を束縛しているものから自分を解放して、愚かな鼠のようにもがいてみてもよろしいかとおもうのです。わたくしのみたところによりますと貴方の体調はそれができる段階にありますし、貴方の目にはそれをやりとげる力がみえます。水槽の蓋はあいているのです。諦めずにとびはねているうちに、貴方のみじかい前足だって、なにかにとどくはずなのです」

「鼠は足をうしないました」私は魔女を見上げた。

「足をうしなうのがこわいんですか?」魔女はニタとわらうとこういう。

「まあそんなものですよ、蛇にのみこまれなかっただけましなくらいです」

 蛇にのみこまれる自分を想像してみた。自分が水槽にとじこめられた鼠であることはなんとなくわかっている。もちろんそこから脱出したいきもちもある。現状を打破したい。しかし不安でしかたない。成功体験がないから自信がない。自信がないから挑戦もできない。挑戦もできないから成功体験もえられない。もしくは自信がないから挑戦しても恐怖にとらわれてしまう。恐怖にとらわれるから冷静な判断ができない。冷静な判断ができないから失敗する。失敗するほど自信をうしなう。恐怖症は重症化していく。ますます挑戦できなくなる。こうした負の連鎖からぬけだせない。今日だって休憩室でやらかした。これからもそういう失敗をくりかすようなきがしてならない。人生は山あり谷ありなんてうそっぱちだ。谷にいちどころがりはじめたらとめられない。そこからはひたすら谷底をめざしてころがりおちていく……現に私がそうだ。

「かわいそうな鼠ちゃん」見上げると魔女は目をほそめてほほえんでいた、いや、それはほほえみというよりもうすこし歪んだなにかだった。あまくてにがい矛盾した飴玉のような感情を彼女は口のなかでころがしてたのしんでいるようだった。彼女は私をたちあがらせるとふたたび抱きしめた。頭をなでながら耳元でささやいた「貴方は失敗するのがこわいのかしら。傷付きたくない、恥をかきたくない、失いたくない……かわいそうな鼠ちゃん、こわくてこんなにふるえてる。

 大丈夫ですよ。駄目になるときは駄目になりますし、助からないときは助かりません。死ぬときはどうせ死んでしまうし、悩もうが苦しもうがどうにもなりません。どうせ私達は死んでしまうんです。貴方もここ、病院にいたのですからそれくらいおわかりでしょう。私達人間なんてそんなものなのです。鼠となんらかわりませんよ。鼠の分際で世界の攻略法なんてみつけようとしてもうまくいかないのです。貴方のちいぽけな脳味噌でぐるぐるかんがえたところで、それはまわし車とおんなじ、どこにもたどりつきはしないのです。

 いいですか、蓋はもうあいているのです、私が蓋をあけたんですよ鼠ちゃん。貴方にはもとより選択肢などないんです。私にいわれたとおり貴方は水槽のそとにでなければなりません。こわいかもしれません、さみしいかもしれません、だけどそんなことしったこっちゃありません。いくらでもくるしんでもらいたいのです。くるしみこそが生であり、そうしたくるしみから逃れようとするかぎり、貴方は死んだように生きるほかないのです。燃えあがるように生きたいのならば、灼熱のくるしみを、のみほさなければなりません。

 はっきりいわせていただきますが、私は貴方が死のうと生きようとどちらでもかまわないんです。自殺する患者なんてこれまでくさるほどみてきたし、貴方が自殺してもそのうちのひとりになるだけです。そんなことをいちいちきにしていたらこんな仕事はしていられないのです。貴方はなにかをうしなうことをびくびくおそれています、しかし貴方がいまさらうしなうものなどなにもありません。なあんにも、なあんにも、ないんです。

 臆病な鼠ちゃんは、自分の水槽のなかですら、堂々とまんなかにいられません。片隅に木屑を寄集めたかとおもえば、恥入るようにそこに頭を突っこんで、お尻を木屑からだしたまま、ぷるぷるふるえてすごすのです。頭をかかえてうんうんうなり、怒ったり、悔やんだり、泣いたりして、仕舞いには四六時中『自分の命は無価値で無目的で無意味でどうしようもない』となげきます。ときにだれにもみられていないと気付くと、ここぞとばかりに水槽のまんなかにひょっこりとびだしてきて、悲劇の主人公よろしく天を仰ぎながらこんなふうにさけぶのです──ああ、私の命はなんて無価値で無目的で無意味なんだろう!

 ええ、ほんとそのとおりだとおもいます。貴方の命にはなんの価値も目的も意味もありません。けれどもかわいい鼠ちゃん、自分の命を無価値・無目的・無意味であるとさんざんなげいておきながら、貴方は自分の命を、世界の秘宝がごとく用心深くまもろうとするのです。水槽のそのまた木箱のなかにとじこもり、顔をたまにだしたかとおもえばそろりそろり……まあなんてあわれで、おかしくて、かわいらしい生物なんでしょう。

 偽善的な守銭奴が『お金なんてたいしたものではない』とのたまいながらも、うしろではうじうじお金をまもろうとするように、貴方のような鼠ちゃんも『自分の命なんてたいしたものではない』となげきながらも、自分の命を傷一点もつかないようにまもろうとするのです。ちょっとでも傷がつこうものなら、何時間でもその傷をながめてめそめそするのです。貴方は自分の命を、あるいはそれにまつわるものを、百億の壺でもまもるようにだきかかえて、道化の演じる誇張された臆病者のように神経質になっています。四方八方に警戒してだれかにおそわれないかびくびくしているわけです。

 要するに貴方は『自分の命は無価値で無目的で無意味である』となげきながらも、片方では、自分の命をあまりにも過大にあるいは深刻に取扱っているのです。むしろだからこそ、貴方は貴方の大切にしすぎているそれにしばられて不自由になり、大統領の護衛のように日々神経を消耗して、心身共に疲弊しているのです。そしてあるとき、そうした過度の緊張のあまり、反動的にすべてをなげだしたくなってしまうんです。

 断言しましょう。貴方の命にさしたる価値などありません。貴方の命が泥だらけになろうが傷だらけになろうが潰れてしまおうがだれもきにとめたりしません。それどころか総理大臣が死んだって数ヶ月後にはたいはんのひとたちがわすれているものです。大統領が殺されても日常生活におおきな支障はありません。いうにおよばず貴方の命などとるにたりません。そんなものなのです。

 世界とはいささか無情なものですがひるがえっていえば気楽なものなんです。貴方がかんがえているほど物事は深刻ではないんです。力を抜いていいのです。気を抜いてもいいのです。ここはそういうところなんです。現時点で貴方には制限が十分にかけられています。制限が必要なときはその都度制限します。貴方が抵抗しようが病室にとじこめます。ですから、貴方は自分で自分に過剰な制限をかける必要はないんです。

 貴方は過保護なママやパパのようです。貴方は貴方が傷付くのをおそれるあまり自分で自分を檻にとじこめているのです。あるときは過保護に、あるときは理屈で、あるときは恐怖で、貴方は貴方を虐待しています。貴方は貴方に手枷足枷をつけて、理詰めでうまくいかない理由をならべたて、夜も眠れなくなるほど説教していいきかせ、最後は脅します。故に貴方は壊れそうになるのです。貴方は貴方を虐待するのをやめなければなりません。貴方は貴方の虐待者をおいださなければならないのです。虐待者は自分の内側にいるのです。

 本当の貴方は強いんです。貴方は貴方がかんがえているよりも強いんです。貴方の自殺未遂は一度や二度ではありません。貴方の心身は傷だらけかもしません。けれどもその傷は不名誉の傷ではありません。名誉の傷なのです。修羅を何度も潜り抜けてきているのです。恩寵によりまもられてきたのです。貴方は貴方を恥らう必要はありません。人間の高さとは《どこにいるのか》だけではきまりません。それにくわえ《どこからきたのか》そして《どこにいくのか》できまるのです。最も低いところから最も高いところまで這いあがれる人間こそが真に高き人間なのです。貴方は泥にまみれながらもここまで這いあがってきたのです、そしてこれからも這いあがるのです。貴方は貴方の傷を、泥を、これまでのあらゆる屈辱さえも誇るべきなのです。

 貴方はまだ自分の大きさと高さに気付いていないだけなのです、貴方は貴方がかんがえているよりも大きくなれるし高いところにいけます、そのための力があるのです。力は危険なものなので社会におさえこまれるさだめにあります。社会からすれば貴方は危険な爆弾なのですから、これはいたしかたのないことです。動物園が獅子を檻にとじこめておくように、現代社会の機構もまた、力あるものをおさえこむようにできているのです。ですから、強大な力をもともともっているものほど、社会にその力をおさえこまれて病んでしまうのです。獅子は牙をぬかれて爪をおられて手枷や足枷をはめられます。力あるものはその力を爆発させることができず、内にためこみ、抑鬱状態になるのです。夜、もしも貴方がうずうずしていたとしたら、それは貴方が爆発力をもてあましている証拠です。貴方がこれまでおさえこまれきたのだとしたら、それは貴方が危険な爆弾である証拠です。

 詰まり──本当の貴方は無力でもなければ臆病でもないのです、それどころか貴方には、人並以上の力と勇気があります、しかしそれをむけるさきをしらないがゆえに、それらが内側で破裂するのです。命だってなげだせる貴方がいまさらなにをおそれるというのでしょう。それに……」鼻と鼻がぶつかりそうになるほど顔を近付けて魔女はいう「命は腐りやすいごちそうです、大切にすればいいというものでもありません、腐らないうちに食べなければなりません」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ