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第0部-第3章:神の死と作者の死と鼠の穴

【警告】

この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。

【第0部:読めばよむほどわけがわからなくなる冗長な序文もしくは解説】


 第3章:神の死と作者の死と鼠の穴



 1

「作者の死」というロラン・バルトの有名な言葉がある。ここでいう作者とは筆者である。彼は、筆者を神格化してその意図を書物からよみとるような往来の読解を拒絶した。私は彼の立場に賛同する。書物にこめられた筆者の意図を熱心に詮索することだけが読者の仕事ではない。筆者が意図したこと以上の意味を書物は有しているし筆者は自分のこしらえた書物の意味を十分にしらない。それどころか筆者は自分の書物の価値も満足に理解していない。筆者のする作品の解説ほどあてにならないものもない。それは自伝と同様に捏造された物語にしかならない。人間が世界の意味も価値もしらないままに生きているのとおなじように、筆者もなにがなんだかわからないままにその書物のなかを生きている、もしくは生きていた。そこにきざみこまれている文字は著者の必死に生きようとした軌跡であり痕跡であり傷跡である。



 2

 書物の本当の意味や価値は読者が発見してうみだすものである。そしてここでいう読者とは貴方である。またそのためになら筆者は死んでしまわなければならない。筆者は自殺するか殺害される。書物は完全に読者のものになる……はずである。しかしそうならない。筆者の死により事態は収束するどころか拡散する。筆者と読者と書物の関係はこじれてややこしくなる。《筆者と読者と書物の関係》を《神と人間と世界の関係》といいかえてもいい。



 3

 ニーチェが「神の死」を宣言したあとも神は生きていたように、バルトが「作者の死」を宣言したあとも作者は生きていた。それはかつてのように絶対的存在として君臨しているのではなく、生きたまま死んでいる、あるいは死んだように生きているのである。それは腐敗しながらも絶命することなくたちあがる怪物である。それは滅ぼされてもなお増殖をくりかえす巨人の残骸である。二十世紀は創造者を最後まで抹殺できなかった。創造者は蘇る。私達が蘇らせるのである。



 4

 筆者とは何者なのか。これは一般的にかんがえられているほど自明ではない。読者は筆者を想定しながら書物にふれる。けれども読者の想定している筆者が存在するかどうかはわからない。筆者がひとりなのかふたりなのか、複数人なのかさえもわからない。生きているのか死んでいるのかさえもわからない。どちらにせよそこで生きているとされている筆者が、もしくは死んでいるとされている筆者がそもそもなんなのかわからないのである。筆者を自称するものが筆者とはかぎらないし、筆者と見做されているものが筆者ともかぎらない。



 5

 本物の筆者と偽物の筆者。出版業界では本物の筆者ではなく偽物の筆者を書物のまえにたてることがまれにある。本物の筆者になんらかの問題があり公的な活動にむかない場合、本物の筆者をうしろにかくすために偽物の筆者をまえにたてる。偽物の筆者は書物の営業をおこなうだけで執筆はしない。複数人で執筆している場合もひとりの偽物の筆者をまえにたてることがある。出版も商売なのだからこのような多少の詐術も営業の努力としてみとめるほかないだろう。



 6

「常に私は嘘吐きである」の一文からはじまる書物がある。ひきこもりが主人公の自伝的小説である。私はその書物の筆者をさがしていた。作品の内容に興味をひかれたのはもちろんだが理由はそれだけではない。鼠をさがしていたのである。正確には鼠の共同体をさがしていた。ここでいう鼠とは小動物のそれではない。存在しないことにされている人間を鼠とよんでいる。現代社会において市民はひとりひとりが制度に管理されている。人間のうみだす制度は完璧ではない。制度の間隙からこぼれおちる人間がいる。名前も住所もない人間がいる。一般的にしられているものでいうと無戸籍者がそうである。



 7

 無戸籍者のほとんどは不運の犠牲者であるが鼠はちがう。鼠は意図的に存在しないことにされている人間である。意図的どころか組織的に鼠はうみだされている。戸籍がないだけでなく子供のころから徹底して社会ときりはなされて育てられていることもある。彼等彼女等のような存在はその性質上認知されていないが、現代に特有のものではなくとてもながい歴史を有する。鼠は特定の文化にだけ存在するのではなく世界のいたるところに存在する。いかなる社会にもおおかれすくなかれ必要な存在である。鼠には需要があるのだ。



 8

 鼠は壁や天井や床下など普段はないものとして見逃されている構造体の隙間を住空間あるいは通路としている。鼠は内側にいるものでもなければ外側にいるものでもないし特定の部屋にいるものでもない。鼠はそれらの狭間──空間と空間の狭間を自分の領域としている。彼等彼女等は設計者の意図しない隙間にひそんでいる。社会も人間の設計した建造物であるからしてここにもまた設計者の意図しない隙間がある。こうした隙間を活動の領域にしているひとたちが鼠なのだ。



 9

 鼠は制度の保護をうけられない。鼠は相互自助の共同体に属している。そしておおくの共同体には名義を共有する文化がある。彼等彼女等は名前をもたないために必要なときにおなじ名義を利用する。しかしどうして鼠は組織的にうみだされているのだろうか。理由は簡単である。鼠にしかできない仕事があるからだ。具体的にその仕事の内容をあかしたりはできない。けれどもとにかく《存在していないことにされている存在》がある種の仕事には都合良いのである。



 10

 貴方は名前や住所そして戸籍もないという状態を想像できないかもしれない。貴方は鼠の存在をみとめないかもしれない。ありえないとおもうかもしれない。しかしありえるのである。社会は貴方がかんがえているよりもふかい。貴方がみているのは社会の地表にすぎない。鼠の共同体は地下にある。なにも壮大な陰謀論をかたろうとしているのではない。私がここまでしたはなしはささやかな自己紹介にすぎない。私も鼠のひとりなのである。



 11

 本編と関係ないがこれだけはかきのこしておきたい。それは『鼠は激怒している』ということである。いつまでも鼠を利用できるとおもわないでほしい。薄汚い仕事を鼠におしつけて自分たちだけが都合良く綺麗なままでいられるとかんがえているのだとすればそれは大間違いである。私一匹の鼠を殺したとしても口封じにはならない。私たちは対策を講じている。またここに明記しておくが私すなわち編纂者は自殺しない。仮に私が死んだとしたらそれは他殺である。



 12

 私のしたここまでのはなしは信じようが信じまいが自由である。本編の内容も純粋に虚構としてたのしんでいただけたらそれでいい。ただおもいだしてみてほしい。キリスト教の欺瞞をきわめてはやい時期に告発して徹底的に攻撃した無神論者は、ニュートンのような科学者でもなければ、ニーチェのような哲学者でもない。精神病院におくられた文学者のサドである。時に文学こそが社会の虚構をあばくのである。地下にとじこめられた真実は虚構の口をかりてさけばれるのだ。

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