第0部-第2章:偉大なる書物にとりかかるまえの準備運動
【警告】
この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。
【第0部:読めばよむほどわけがわからなくなる冗長な序文もしくは解説】
第2章:偉大なる書物にとりかかるまえの準備運動
1
危険こそ冒険の醍醐味とはいえ、未知の洞窟になんの準備もなくもぐりこむことは自殺行為にひとしい。本編にはいるまえに準備運動からはじめよう。頭をやわらかくするための運動である。何事も使用していないと駄目になるように頭も使用していないうちにどんどんかたくなりおとろえてしまう。普段使用していない思考の回路が衰退してしまう。通勤の経路が半年も経たないうちに簡略化されるのとおなじく思考の経路も簡略化される。私たちがまいにちおなじ道をあるいてそのほかの道をしらないまますごすように、私たちはまいにちおなじ思考をくりかえしてそのほかの思考をしらないまますごす。私たちの街あるいは脳はまいにち使用しているそれの何万倍もひろい。貴方の脳は貴方がかんがえているほどせまくない。貴方の日常で使用している思考の経路が制限されているだけなのだ。制限された思考の経路からとびださない範囲で思考するのはたやすい。あるきなれた道をあるきなおすだけなら無難で簡単で安全である。そういう読書もわるくはない。ただそれだけではおもしろくない。読書のおもしろさとは日常的な思考の制限・限度・節度をふみこえたところにある。立入禁止の札をけりとばしてそこからさきに思考をすすめる。普段は使用していない思考の経路に突きすすんであたらしい領域を開拓する。もちろんそれはあるきなれた道をあるくことにくらべたらむずかしい。困難と不安と危険がともなう。だからこそおもしろい。
2
最初に読書論を紹介する。それから本書と筆者について手短にはなそう。なぜ読書論からはじめるのか。なぜなら読書論とは世界論にちがいないからである。書物とは世界であり、書物のよみときかたは世界のよみときかたとそのままつながる。貴方はこれからも本書以外の書物をよむことがいくらでもあるだろうし、それをふまえるとここいらでいちど、読書の仕方からかんがえなおしてみるのもわるくないはずだ。読書とは食事とおなじで量をこなせばいいというものでもない。安くすませばいいものでもないし早くすませればいいものでもない。食事が肉体をつくるものだとしたら読書は精神をつくるもの。方法の吟味はかかせない。何事も方法をまちがえたままでは成果もあがらない。読書の仕方は自由。これから開陳する読書論は個人的な持論にすぎない。それでも今後の読書の参考くらいにはなるだろう。また、ここからする読書論は本書の内容にも関係する。本編の紹介としても解説としてもよみとける。けれども序文や解説のたいはんは飛ばしてもかまわない余計なものであるし、内容をなにもしらない状態で書物の世界に没入したい読者もいるだろう。準備運動なんていらないという猛者もいるだろう。そういうこわいものしらずの冒険者はこの文章を飛ばして本編からよんでいただいてかまわない。すきなところからすきなようによんでもいい。適当にぱらぱらめくり興味のそそる頁をよむだけでもいい。本書はそういうふうによんでもたのしめるようにできている。
3
さて、それでは私なりの書物のよみときかた、世界のよみときかたにかんするかんがえかたをかたろう。
第一に私たちはばらばらな世界をいきている。私と貴方のいきている世界も別物である。私がいきているのは2024年の世界である。一方で貴方がいきている世界は2030年かもしれないし2300年かもしれない。時代の差異に限定したはなしではない。私と貴方ではみているものもきいているものもかんじているものもことなる。人間だろうと動物だろうとそうである。猫と鼠と魚と虫と鳥がみている世界もおそらくことなるだろう。私たちがそれぞれ認識している世界は別物なのだ。私たちは自分のみている世界の外側に《ひとつの世界》があるとかんがえるきらいがある。ただしそうした《ひとつの世界》をたしかめるすべもない。確実に存在していると断言できるのは自分のいきている世界──すなわち《自分の世界》だけだ。ひとりひとりが《自分の世界》にいきている。私たちの世界はそれぞればらばらなまま奇妙に関係しあっている。
私たちの頭のかずだけ世界があるとしたら、私の頭に世界があるように、貴方の頭にも世界があるのだろう。私たちひとりひとりがみずからの世界にとじこめられている囚人だとしたら、いかようにしてこのとじこめられた世界から脱出できるだろうか。その方法を紹介しよう。それは自分とはことなる他者の世界にとびこむことである。心からとびこもうとしてようやく、自分をとじこめていた自分の世界からすこしだけはなれられる。そしてすこしはなれたところから、それまで自分をとじこめていたせまい世界をながめられるようになる。私たちは読書をとおして自分の世界から他者の世界にとびこめる。他者の視点を獲得できる。読者の資質のあるものはよんだ書物のかずだけ視点を獲得する。
しかしなかなかうまくいかない。だれにでもこういう資質があるともかぎらない。実のところこういう資質は頭のよしあしとそこまで関係がない。それどころか頭のいいひとほど、あるいは自分は頭がいいとおもいこんでいるひとほど、自分の視点にとらわれてそこからはなれられない。貴方の周囲にこういうひとはいないだろうか。頭はよさそうなのにどうにも会話が成立しないひと。彼等彼女等は馬鹿だから会話が成立しないのではない。自分の視点からはなれられず他者の視点をもてないから会話が成立しないのである。私自身にこの傾向があるからこそわかるのだが自分の視点からはなれるのはかなりむずかしい。読書しているときも自分の視点にとじこもりそこからでられなかったりする。反対に、頭がわるいとされているひと、あるいは自分は頭がわるいとおもいこんでいるひとが、自分の視点から自由にはなれる能力を有していることもある。そういう人間には理解能力ではなく変身能力がある。理解能力と変身能力はことなる。変身能力のある人間はそれを《わかる》のではなくてそれに《なる》のだ。他者の視点を獲得するために必要になるのは理解能力というより変身能力である。変身能力は読書するために必要な能力でもあるし読書により鍛練できる能力でもある。
自分の世界からとびだしてあらたな視点を獲得する。読書のよろこびがそういうところにあるのだとしたら、自分の視点とはことなる視点を有した書物をあえてえらんだほうがいいだろう。貴方が猫なら鼠の書物を、貴方が鼠なら魚の書物を、貴方が魚なら虫の書物を、貴方が虫なら鳥の書物をよんでみてもいいかもしれない。そうすれば貴方は読書するたびにあたらしい視点を獲得する。読書をとおして貴方は他者に変身する。これだけでも十分に意義深い読書といえる。ただしここからさきがある。私のかんがえるこのうえない読書とは自分の世界の破滅なのだ。
人間には変身願望があるように破滅願望がある。変身願望と破滅願望はふかいところで接続している。自分の世界を守りたいとのぞみながらも壊されたいとのぞんでいる。肯定をもとめながらも否定をもとめている。否定のそのさきの肯定をもとめている。自分の世界の破滅のそのさきに完全なる変身がある。究極の読書とは自分の世界の破滅と再生──世界の脱皮を体験することである。
4
現代人はある面でみれば数百年前の貴族以上にゆたかな生活をしている。けれども精神は貴族ではない。贅沢ができない。おもうぞんぶん手間暇、金をかけて、破裂してしまいそうになるくらいそれを味わう、ということができない。贅沢は人生の華である、生活の薔薇である。もてあました人間の義務である。金をもてあましたものは金を、技術をもてあましたものは技術を、知識をもてあましたものは知識を、自分の外側にほうりだしてしまう。私達の命はさほどながくないのだからひとりでためこんだところでむなしいだけである。
生きているうちに自分のなかにためこんでいるものを燃やしきる。金でも暇でもなんでもいい。ゆきさきをもたないまま閉じこめられてとぐろを巻いている知性や感性でもいい。全力で燃焼させる。文化の半面は贅沢により花開いてきたものである。たとえ贅沢が病的で過剰なものにみえたとしても、そうした過剰性を発散することで、結果的には健全な精神が維持される。病的な過剰性にかぎらない。なにごとも自分だけのものとして独占していると次第に抑鬱状態になる。
現代人は余裕がないというけれど本当にそうだろうか。私はかならずしもそうおもわない。見方をかえてみると現代人は余裕がありすぎるのである。力をもてあましながらもそれを爆発させるあてがないから抑鬱的になるのだ。そしてときに他人にたいして攻撃性を爆発させてしまう。私にいわせれば現代人にたりないものは余裕ではない。爆発である。自分が空っぽになるくらいすべてを燃焼させるような爆発的な贅沢がかけているのだ。
倹約が美徳であり贅沢が悪徳であるとするならば、最高の読書とは最高の悪徳である。なぜなら最高の読書とは最高の贅沢だからである。現代人はめぐまれている、というひとがある。たしかにいろいろなものにあふれている。めぐまれているとはいえる。それでも贅沢ができない。社会は¥€$に支配されておりすべてが¥€$を中心にまわる。余暇も労働を効率化するための──詰まりは¥€$のための手段になりさがる。労働者はよりよく労働するために休憩する。働くために休んでいる。現代人はこういう状況におかれているので贅沢をしりようもないのだ。労働でもとめられるのは時間がかからないこと、要は効率である。訓練された労働者は、日頃の訓練が脳のすみずみまですりこまれているため、余暇でも効率を追求してしまう。娯楽にも時間がかからないことをもとめてしまう。これでは贅沢なんてしようもない。なぜなら贅沢の本質とは時間をおもうぞんぶんかけることだからだ。そして私が追求しているのは贅沢な読書にほかならない。
セックスですら時間をできるだけかけないですまそうとするひとがいる。セックスがきらいならそれでいいだろう。けれどもそうすることで効率的に快楽をえているつもりだとしたらどうだろう。それはみずから快楽の質をさげているだけである。私のしるかぎり性愛の世界においても快楽を追求しているひとたちほど時間をかけている。たとえばあるひとたちは一回のセックスのために四日間の準備期間を用意する。具体的な準備の内容にかんしては割愛する。五日目に目覚めると電化製品の電源をおとしてしまう。ふたりの行為を電化製品に邪魔されないよう環境を整える。そこまでしてようやくふたりはセックスをはじめる。このとき最低でも数時間はかける。時にはなんと丸一日かけるひとたちもいる。それだけの時間をかけてこそ普段の何倍も快楽をえられるのである。性愛の世界における快楽の追求者たちのたいはんはなんらかの哲学をもっている。きもちよければなんでもいい……ではない。仮にそうだとしてもきもちよさを追求するために人並以上の哲学が必要になる。なおかつこういうひとたちは受動的ではなく能動的である。
読書にかんしてもおなじようにいえる。きもちよさ・おもしろさ・たのしさを最大限追求したいのなら時間をたんまりかけて能動的にとりくんだほうがいい。一読では理解できないような複雑で難解で分厚い書物をこのんでよんでいる読書家もいる。読書習慣のないひとたちからすればいささか奇妙な存在だろう。ここにも理由がある。そういう書物でしかえられないふかい快楽がある。重厚な書物は一読で理解しきれないからこそよみかえすたびに発見がある。時間をたくさんかけるという意味でこれほど贅沢な書物もない。
私は読書期間を毎年用意する。読書期間中はひとりで書物をよむことに集中する。書物をよんでぼんやりかんがえごとをする。だれとも連絡はとらない。このときばかりはわずらわしい人間関係から解放される。書物のえらびかたにも最低限の基準がある。珈琲数杯分以上のお金をはらえるもの。珈琲数杯分のお金もはらえないようなものならはじめからよまない。贅沢するときめている期間なのだから無理に節約するところでもない。節約するべきところはほかにいくらでもある。酒や煙草や不要な人間関係。読書期間中には運命の書物ともいえるひとつに遭遇する。それは短期的な感動をあたえてくれるとはかぎらない。自分のなかになんともいえない違和感をのこしたり、はじめよんだときにはわからなくとも忘れたころにふとおもいだしたりするもの。忘れたころによみかえしてみるとそこから自分が多大な影響をうけていたことに気付かされる。意外とこういう書物は無名だったりする。ひとがかならずしも有名人に恋するわけではないように、ひとはかならずしも有名な書物に恋するわけでもない。運命の恋人とであうための魔法がないように、運命の書物とであうための魔法もない。ただしコツはある。それは自分の直感にすなおになること。他人になんていわれようと評判がなんだろうとすきなものはすきなのだ。直感的に自分をひきつけるものにはそれなりの理由がある。自分の直感にすなおにしたがい、私は私をひきつけるものをえらぶ。そしてあんまり期待せずに読書にとりかかり、できるだけのんびりすごす。私はこんなふうに贅沢な読書期間を毎年満喫する。
普段の読書にも時間をかける。三時間かけてよみおえた書物は、よみおえたあとに三時間くらいかんがえる時間を用意する。三日間かけてよみおえた書物は、よみおえたあとに三日間くらいかんがえる時間を用意する。矢継ぎばやにあれこれよむのではなくて、ひとつの書物あるいはひとりの作家と時間をかけてむきあう。よんだあとじっくりかんがえながらそれを言葉にしてまとめる。単なるよしあしの評価に終始してしまわないようそこからほりさげていく。理解するまえに評価をくだそうとしない。よみながらおもいついたもやもやを言葉にしてみる。言葉にしてまとめるとあらたな発見がある。自分なりに言語化したそれはだれかと共有する。たとえば親しい友人とその書物についてはなしたり、どこかに感想を投稿したり。するとそこに反応が発生する。自分とはことなる見方をほかのひとたちからもらったりする。そうすることでひとつの書物から多種多様な知見をえられる。
読書で重要なのは冊数ではない。読破した書物の冊数でいばりちらすようなひとたちはつきあった女性の人数でいばりちらすようなひとたちとにている。たしかに数から得られるものもある。しかしあるところからは自分のむきあいかたのほうをかえないとたいしたものは得られなくなる。たとえば書物よりも書物の評判をよんでいるひとたちがいる。それをしりたいのならそれの評判ではなくなによりもさきにそれにふれるべきだろう。人間とむきあうときもそうである。その人物の評判ではなくその人物本人とむきあうほうがいい。
どうして時間をかけることの重要性をこんなにくどくどかたるのか。減速・遅速・遅延、詰まりは遅さに革命を見出しているのである。私はそういう言葉をよみかえたい。すでにあるそういう言葉の評価を反対向きにかんがえなおしたい。時間をかけないこと、速いこと、早いこと、いいとみなされているそういうもの、そしてそういうものをいいとみなす社会の価値規範……こういう価値規範自体をゆさぶりたいのである。書物とは社会の価値規範に隷従するものではない。社会の価値規範をためすものなのだ。
私たちは社会化された動物にほかならない。社会化とは社会から要求される規範の内面化である。貴方は動物としてうまれたが社会に躾けられて人間にされた。貴方を縛りつけている透明な鉄鎖が、貴方をとじこめている透明な檻が、規範なのである。自由になるためには、鉄鎖を食いちぎり檻を食いやぶらなければならない、私たちを食いものにしようとする家畜小屋に火をはなて……とまではいわない。社会の規範にも功罪はある。全否定すればいいというものでもない。けれども社会に隷従する必要はない。そんなことはできない。我々のなかには家畜化されていない動物たちがかくれている。動物たちは自由をもとめてさけんでいる。
労働者たちは競走馬である。常に競わされてせかされている。速ければ速いほどいいとおもいこんでいる。現代人は単なる社会の歯車ではない。無限の加速を要求されている歯車なのだ。歯車たちは休んでいるときでさえそわそわしている……急がなければ……速くしなければ……遅れてはならない……まるで遅延恐怖症である。遅延恐怖症は個人の病気ではなくもはや社会の病気なのだ。急がなければならない・速くなければならない・遅れてはならない、こうした¥€$の教義は現代社会において非常に強力であり、私たちの心身を根本から蝕んでいる。だからこそ戦略的な減速・遅速・遅延が革命になるのである。
第一に速さはそんなにいいものだろうか。世間には頭の回転が速いことを知性のあかしとみなすような傾向がある。しかしそれはどこまで事実といえるだろう。周囲から頭の回転が速くみえたとしても本当に頭の回転が速いともかぎらない。単に反応が速いだけかもしれない。言動が忙しないだけかもしれない。そういうひとたちのほうがおおい。急げば急ぐだけ質はおちるもので、それは思考にかんしてもおなじである。量は質につながるといわれるが、それは質をもとめて量をこなしているときだけだろう。質をもとめようとせずに量だけこなしても質はなかなかたかまらない。質をもとめつつ量をこなしたいのなら膨大な時間をかけるしかない。
第二に頭の回転が遅いひとたちは劣等といえるだろうか。ひとよりなにかと遅く、遅れをとりがちなひとたちは、学校でも会社でもおちこぼれとみなされる。試験でも制限された時間のなかで即座に解答する能力がためされる。ここでも頭の回転が遅いひとたちは不利である。遅いものはどうしても馬鹿にされがちなのだ。しかしともすると、実はそういうひとたちこそ、おおくのひとたちが見落としているものをたくさんみているかもしれない。ひとが五分ですませてしまうかんがえごとを何十年もかけてかんがえているようなひと、そういうひとこそがなにかをやりとげる。遅いひとは吹けばとぶようなちいさな山ではなくおおきな山をこしらえる。ちいさな山をたくさんつくっていたかとおもえばそれがあるときおおきな山となる。
遅さとは速さにたいする抵抗である。世界が忙しなくうごいているなかで遅さはそれにあらがう。群れのゆきさきをきめるのは先頭にたつものだけではない。たちどまるものがその群れのゆきさきをかえる。群れが右に急速にながれていくときも遅いものはその速さについていかない。群れが左に急速にながれていくときも遅いものはその速さについていかない。群れが右と左に急速に分裂しようとするときも遅いものはそれについていかない。遅いものはなんどもなんどもたちどまりかんがえる。ひとりふたりならそれはおちこぼれにすぎない。ただその遅いものがふえていくとそれはひとつの群れとなる。この遅い群れがおおきな群れのゆきさきそのものをかえる。遅いものとは、単に遅れてついていくものではない。遅延者は先導者ではないがただの追従者でもない。それは魚の尾である。そして書物はたちどまらせるものであり、読書とはたちどまることである。読書とは速さにたいする穏健な抵抗であり、書物に時間をかけるという贅沢な行為は孤独な革命なのである。
5
現代の読者は急いでいる。読者はみずから急いでいるのではなく急がされている。読者は社会から急がされており書物は読者から急がされている。現代の書物は急いでいる読者にあわせて薄さ・軽さ・速さにかたむく。今日において薄さ・軽さ・速さはさまざまな分野にみられる特色であり現代を象徴する様式のひとつといえる。本書はそうした現代的潮流とは反対の特徴を有している。本書の特徴は厚さ・重さ・遅さなのだ。舞台は瓦礫から巨大な建造物がくみあげられていくように時間をかけてゆっくりとたちあがる。なおかつそれは私達が見慣れた端正なたたずまいの建築からは程遠い。
本書は緻密に計画された巨大な複合建築でありながら、計画は途中でなんども破綻しており、結果としては筆者でさえ理解不可能な観念的迷宮と化している。古典的な建築の特徴が秩序と均整と調和にあるとすれば本書の特徴はそれらの破綻にある。本書は計画の破綻・亀裂・事故により増改築をくりかえされた複雑怪奇な巨大建造物である。それはひとつの巨大な建造物というよりも無数の建造物の集合体ととらえたほうがいくらか実際的といえる。
本書には逸話・説話・談話・寓話・神話などかぞえきれないほどの物語が詰めこまれている。物語だけでなく読書論・文明論・文学論・芸術論・学問論・認識論・正義論……批評・随筆・解説までふくまれておりこれら多種多様な言葉の数々が一塊の巨大な書物のなかで混淆しているのである。ここであつかわれている問題の総量は一般的な書物が内包できる許容量をいちじるしくこえている。本書は世界をのみこもうとした蛇の胃袋のように破裂寸前まで膨張している。
本書の全体は錯綜と過密の論理で構築されているだけでなくその背後には性的欲動が──エロスとタナトスがおりなすグロテスクな欲動がうごめいている。性的描写はもちろん暴力や差別や虐待や自殺や拷問や殺人そしてスカトロジーやカニバリズムまで、吐気をもよおすような内容がたぶんにふくまれている。また一般的には反社会的とみなされるような思想が声高らかにさけばれている。このような意味において本書はとてもではないが万人におすすめできるものではないし、まずもって、万人が最後までよみとおせるような代物でもない。
この書物は万人向けにかかれたものではない。いわゆるまともな人間のためにかかれたものでもない。まともな人間なんてものが本当に存在しているのかどうかもわからないし、「まともな人間とはなんぞや」という問いが本書を貫いているのだが、なんにせよこれは人間になりきれない人間のための書物なのである。人間社会からはみだした、あるいは人間社会のしきたりに違和感をおぼえずにはいられないひとたちの書物である。詰まり怪物の書物なのだ。
怪物は人間の社会にまぎれこみながらも息苦しさをかんじている。人間社会であたりまえとみなされているしきたりをあたりまえとおもえず、人知れず、苦しみ悩んでかんがえこんでいる。人間に擬態するための努力で心身は傷だらけになっている。そうした傷もかくしている。ひとから『そんなことはかんがえるだけ無駄だよ』と苦笑いされるようなかんがえごとをいつまでもくりかえしてしまう。怪物からすれば人間のあたりまえはあたりまえではない。人間が感覚的になんとなくこなしている生活も怪物にはこなせない。人間と怪物では感覚にずれがある。故に怪物はかんがえこまずにはいられないのである。本書は決してよみやすいものではなく、混濁した言葉の坩堝といわざるをえないが、それでも怪物たちにはかならず霊感をあたえる。そしてそれは単なる理解や共感をこえたものなのだ。人間はおおかれすくなかれ怪物性を秘めており本書はそうした人間の秘めた怪物性にこそ訴えかけている。
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本書の筆者は私ではない。私は編纂者でしかなく筆者ではない。私は筆者が書きのこした断片的記述をまとめたにすぎない。強いていうなら私は筆者の友人とはいえるかもしれないがその友人は自殺している。約まるところ本書の筆者は自殺している。賢明な読者ならお気付きかもしれないがこの序文の時点で貴方はすでに不可解な迷宮に足をふみいれているのである。