第0部-第1章:本書は『カラマーゾフの兄弟』をこえる広大無辺の総合小説である
【警告】
この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。
【第0部:読めばよむほどわけがわからなくなる冗長な序文もしくは解説】
第1章:本書は『カラマーゾフの兄弟』をこえる広大無辺の総合小説である
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おめでとう。本書に出会えたことを光栄におもうがいい。貴方がこれからよもうとしているこれはただの書物ではない。犬をくわえる骨である、猫をおいかける鼠である、羽のはえた蛇である、決して地をはいまわる鳥ではない。文学の歴史にふかくきざみこまれる、あるいは人類の歴史に深刻な傷跡をのこすであろう言葉の爆弾である。貴方は爆破される。貴方は木端微塵にされる。そのあとよみがえる。貴方は死んで、そして生まれる。貴方は生まれかわるためにいちど死ななければならない。貴方を殺す。貴方は殺される。殺されたいものだけがこのさきよんだらよろしい。
生きるためによんではならない。死ぬためによまなければならない。仮に貴方が現状に満足しておらず、かわりたいとかんがえているのだとしたら、貴方はおおかれすくなかれ死ななければならない。変身・変革・変化をさまたげているものは、常に古いものであり、貴方がかわるのをさまたげているものもまた、古い貴方である。子供はめまぐるしくかわり数年で別人になる。それと比較して大人はどうだ。何年経とうとたいしてかわらずおおきくもならない。脱皮をやめた蟹のように古い自分をすてられずそのなかにとじこもる。古い自分が自分の成長を邪魔していると気付きながらもこれをすてられない。古い自分は必死に抵抗する。理論武装して自己正当化する。泣いたりわめいたりする。貴方が新しくなりたいのなら、貴方は古い貴方を殺さなければならない。もし貴方がいまよりさらにおおきくなりたいのだとしたら、貴方は、貴方を殺すべきだ。
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本書はおそかれはやかれ21世紀を代表する現代文学の金字塔とみなされるだろう。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をこえる巨大で深淵な総合小説である。トルストイの『戦争と平和』もこえる。村上春樹……もうしわけないがはなしにならない。彼も偉大な作家だが今回ばかりは相手がわるい。彼が洗練されたボクサーだとしたらこちらは獅子である。技巧の差ではない。筆者は無名だがその名もそうとおくないうちに世界中にとどろくことになるだろう。貴方は無名の天才を発見したのである。
自惚れ? 自惚れのなにがわるい。人間はもとより自惚れた動物である。自惚れた動物が、できそうにもないことをできるとおもいこみ、勢いそのままほんとにやってのける──読者諸君、自惚れよ。自惚れはひとからわらわれる。しかしそれでも自惚れよ。わらいものにされよ、わらうものよりわらいものにされるものにこそ、女神は手をさしのべる。自惚れからはじまるのである。まわりから茶々をいれられようと「自分にはできる」とおもいこみふみだす、謙遜をおぼえるのはそのあとでかまわない。準備してから挑戦しようとするな。挑戦してからたりないところをおぎなえばいい。貴方が文学の「ぶ」の字もしらない初心者だとしてもなんら問題はない。文学を勉強してからそれにふれるよりよほどいい。文学の醍醐味は未知にふれるところにある。それは観光旅行ではない。名所巡りしている場合ではない。ガイドブックを片手に冒険してなにがたのしいというのだろう。どうせなら地図にものらない前人未到の洞窟を探検しようではないか。しかも貴方は今、まよいこむべき洞窟の入口にいる、貴方がのぞきこんでいるこの洞窟は、人類がこれまでほりすすめた穴のうちでもいちばんふかい──私のこうした主張がただの自惚れにすぎないとどうしていいきれる?
(私はここでいちど、読者を威嚇するように黄色い前歯をむきだしにしてまわりをみわたす。もちろん読者はいない。私は牢獄のようなちいさな地下室でひとりこれをかいている。けれどもだからこそ、私の耳には、私の自惚れをあざわらうひとびとのあわぶくがきこえてきてくる)
も……もういちどいうが、私はほんとのほんとに本書が、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をこえる世界文学だとおもっている。それがきちがいじみた自惚れでしかないかどうかは読破してから判断していただきたい。断じてはったりなんかではない。しかしなによりも問題なのは、本書を最後までよみきれる読者がひとりもいないかもしれない、ということである。1万人にひとりもいないかもしれない。それほどまでにこの作品は長大でこのうえなく難解である。いかなる大傑作だろうとだれにもよんでもらえないのならばどうしようもない。そこで貴方にたのみがある。よんでくれ。よんでくれ。たのむからよんでくれ。頭から尻尾までよんで本書が「現代文学の金字塔」であることを世にしらしめてくれ。
失敬、本音がもれてしまった。なにも私は友人がいないから自分で解説して自分で賞賛しているのではない。自画自賛は下品と非難されるが私はそうおもわない。どちらかといえば友人に自作を褒めさせるほうが下品だろう。出版業界の連中をみよ、なかでも文壇の連中をみよ、仲間内で誉めあいもちあげあいそれを帯にして自分の本にまいている。賞賛の数はその作品の質と比例するものではなく友人の数と比例している。友人のおおい作家の作品が友人からたくさん誉められているにすぎない。友人のおおい人間ほど腹立たしいものもない。そういう人間は文学などやらずにヨットレースにもでればいい。本に帯なんていらないのだ。人間でかんがえたらこういうやりかたがどれだけ下品なのかわかるだろう。想像してみてほしい、友人に自分を誉めさせそうした賞賛の言葉をみずから帯としてまいている人物を。そんなやりかたをするくらいならいっそ自分で自分を声高らかに褒めたほうがすがすがしいではないか。
わたしはすごい、わたしはえらい、わたしはすてき、そういうふうに心のそこからさけべたら、まわりからの賞賛など必要ない。満足に自賛できぬものが他人の賞賛を卑しくももとめつづけるのだ。人間は奇妙な動物である。言葉を巧みにあやつれるくせに、あやつれるからこそ、本心をまっすぐさけべない。芯なくまがりくねる言葉にからみとられ、自分の本心がどこにあるのかもわからなくなる。寂しいなら寂しいと、苦しいなら苦しいと、愛しているなら愛していると、さけんだらいいのに、それだけなのに、どうしてもそれができない。それではすまない、だからややこしくなる。こうしたややこしさにこそ文学の根がある。「愛している」の五文字ですむのなら恋文もいらないだろう。「愛している」の五文字ではすまないひとたちが、詩や歌を、文学を、うみだしたのだ。五文字からこぼれおちるものをとらえようとして、とらえそこね、それがかたりえないものだとしりながらも、それでもかたろうとして、それでもかたりきれず、それでもかたりをつけくわえ、なんどもなんどもかたりなおし、たとえばあるひとがAといい、それですむならそれでいいが、それではすまないひとたちがBといい、それでもすまないひとたちがCといい、このようにして私達の言葉は際限なくややこしくなる、ああ、ややこしい、ややこしい、ほんとはややこしいことなどなんにもないはずなのに、どうせ食べて寝てそれだけだろう、あとは交尾したり、動物の一生なんてそんなものだ、そのほかたいがい余計なものだ、それなのにどうして人間は余計なものをこんなにふやしたのだろう、だからこんなにもややこしいのである。生まれて死んでいく、ただそれだけのはずなのに、ひとはそのふたつのあいだで寄道をする。はて、しかしどうだろう、この余計でややこしい寄道が、文学であり文化であり人生ではなかったか?
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詩と小説。詩は寡黙で洗練されており小説は饒舌で粗野である。詩は無駄をそぎおとし宝石のようにみがきこまれた言葉である。小説は詩ならそぎおとされる贅肉のような言葉のかたまりである。詩も小説も多様なのでいちがいにはいいきれないがそれぞれの形式には傾向がある。小説の起源からして、それは詩になりそこねた、もしくは演劇ふくむ既存の形式におさまらなかったはみだしものである。
小説はもともとなにものでもなかった、文学の伝統からはみだした異端だった、しかしそれゆえに小説はなんにでもなれた。元来小説はなんでもありの野生児であり、型破りどころか型などはなからもちあわせていなかった。それはあらゆる分野の言葉を節操なくのみこみながら無際限に肥大化していく言葉だった。そうした貪欲な性質だからこそ、文学のなかでもひときわ総合的な芸術になりえた。
小説の本来の特徴がこうした非洗練・非形式・非専門性、あるいは冗長性・雑食性・総合性にあるのだとしたら、それらの特徴をもれなく踏襲しているのがこの書物である。本書の言葉は土石流である。その言葉は荒削りであり、陳腐ですらあるのだが、そうした粗雑な言葉が土石流のようにおしよせて読者をまるごとのみこんでしまう。ひとつひとつは石ころか、もしくは塵芥にすぎない、そうしたとるにたらない言葉の濁流のうちから巨大な怪物がむくりとたちあがってくる。