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第1部-第9章:魔女の交友会 ~軍人の主張あるいは物語~

【警告】

この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。

【第1部:美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~】


 第9章:魔女の交友会 ~軍人の主張あるいは物語~



 1

 真理さんのセックスの相手はこうして無事にきめられた。それからのやりとりをみるかぎり、相手のひとりは元軍人で、もうひとりは元学者らしかった。元軍人の男性は手元の紙袋から軍服をとりだした。迷彩柄だった。彼は慣れたようすでそれをきると、鷲のように首をながくして、周囲をみわたした。祭壇の手前まですすむとたちどまった。祭壇の右端におかれている頭蓋骨をみおろした。座席側にむきなおると背筋をのばして軍隊式の敬礼を披露した。私は軍人を尊敬するほうなのではじめてみた軍隊式の敬礼に感動した。

「はじめまして」軍人は恥ずかしそうにかたった「さきほどの女性、真理さんのおはなしがあまりに印象的で、なにをはなそうとしていたのか忘れてしまいました。正直に申しあげましてこうみえて小心者なんです。自分のような男に彼女のお相手が務まるのかいまから不安でしかたありません。最大限努力しますがいかんせん不器用なもので……まあ、私で満足いかなくとも、もうひとりの偉大なる騎士がかならずや、姫を満足させてくれることでしょう。私は前菜かなにかだとおもっていただけたらさいわいです」

 図体にふさわしくない元軍人の弱腰な調子に座席からわらいがもれた。

「なんにせよ重要な任務を仰せつかり身にあまる光栄です。ありがとうございます」

 元軍人は真理さんにむかいそういうと直立して敬礼した。彼女も立ちあがりあわてたようすで敬礼すると恥ずかしそうにあたりをみまわした。ちらっとみえた彼女の表情は嬉しそうにみえた。ふたりのぎこちないやりとりに拍手がおきた。



 2

 元軍人は脱力したようすで祭壇の中央に腰をおろした。

「真理さんのおはなしは非常に感慨深いものがありました。彼女のおはなしには『正義』という言葉が登場しませんでした。なによりもそのことに、要するに、正義の霧散に共感したのです。生死と対峙せざるをえないような極限状態において正義なんてものはどこかに消えうせてしまうのかもしれません。最前線で戦っていたときの自分がそうでした。戦闘のどまんなかにいるときは、任務を完璧に遂行すること、そして生きのこることしか頭にありませんでした。それでいて小心者の自分は、戦闘からはなれているあいだ、どうしても正義をもとめずにはいられませんでした。私の元来の性格からして、正義なき死はありえても、正義なき殺人はありえなかったのです。

 今回《私と正義》という題材をきいて絶対参加しようときめました。私はもともと正義感の強い人間です。軍人とはみんなそういうものです。同胞の名誉のためにいいますが、人殺しがしたくて軍人になるような人間は、仲間にひとりもおりませんでした。だれしも正義のためにたちあがるのです。嘘偽りなく自分もまさしくそういう人間でした。

 私は若いころから、良いものは良い、悪いものは悪い、と白黒付けずにはいられない堅物でした。幼いころからおもちゃの拳銃で遊んでいました。立派な軍人に憧れていました。正義のために戦うことは夢でした。夢は叶いました。軍人に憧れていた自分は、寄道一本することなくまっすぐ軍人になりました。

 直線的な青年でした。実戦のともなわない議論は空論とかんがえておりましたし、曲がりくねった文学なんぞ有害とみなしておりました。文学を解せない私の頭にも刻みこまれていた言葉がありました。あの有名な『In God We Trust』という言葉です。青臭くからっぽな頭のなかでそれはいかなる偉大な詩よりも強く鳴りひびいておりました。言葉の意味をふかく理解していたわけではありません。ただそれが頭にあったのです。私はその言葉をくりかえしながら、『私達はあるひとつのものを信じることで私達になれる』と夢想していました。それこそが国家や軍隊の起源にちがいないとかんがえていました。

 入隊直後でした。愛する祖国が攻撃されました。犯人はムスリムのテロリストでした。テロリストは旅客機を奪取してそのままビルに突撃しました。死者は2900人以上、負傷者は25000人以上でした。連中をたおさなければならない、そうおもいました。テレビで映像がながれるたびに怒り、悲しみ、奮いたちました。大統領は独裁政権とテロリストのつながりを強調しました。相手国は大量破壊兵器を保有していると宣伝しました。平和と自由と民主主義のために戦わなければならないと、テロリストを根絶しなければならないと、それこそが正義であると確信しました。

 現代の戦争の根っこにあるのはロマンでも野心でもなければ夢でもありません。それらの否定です。英雄的ロマンチズムがわれわれを戦争に駆立てたのではありませんでした。『自分達の日常を守らなければならない』という、極めて保守的で凡庸な、日常至上主義が戦争をもたらしたのでした。私達が暴力的になるのは自分達の愛する平凡な日常をおびやかされたときです。日常をおびやかすようにみえる存在があらわれたとき、善良なひとびとほどそうした異物を徹底して排除しようとします。平和で凡庸な日常を愛するあまり、それらからの逸脱が許せなくなるのです。集団による暴力とは《逸脱の肯定》ではなく《逸脱の否定》の結果なのです。

 いや、ちがうんです……あのときの私達は本当に信じていたのです。正義と平和と自由のための戦争だと。これは偽の大義名分ではなく本心でした。私だけではありません。世論も報道も政府の声もそういう論調でした。国民の九割は戦争を支持していました。テロリストに抵抗するための戦いとみなしていました。そうした戦いを疑うような意見や拒むような意見は当時からありました。しかしそれは少数派でした。テロリストを擁護するような意見あるいは擁護しているようにみえる意見は非難されました。戦争の意義を問うものたちにたいして、私達はこうさけんでいました──自由のためだ、それだけだ。

 私達は戦場におもむきました。『正義のために戦う』という夢は実現したのです。同僚には家族をテロリズムで失ったものもおりました。テロリストたちは罪のない市民からかけがえのない日常を奪ったのです。我々は熱狂をもとめて戦ったわけではありませんでした。平凡な日常をまもるために戦っていました。愛する祖国、友人、家族、平和、自由、人権、民主主義をまもるために、詰まりは正義のために戦っていました。口先だけで反戦をさけんでいる平和活動家をどこかで見下しておりました。なぜなら我々は文字通り命懸けで戦っていたからです。

 美しい妻がいました。妻と愛しあっていました。私達はキリスト教徒でした。暇さえあれば電話をかけて安否を確認しあいました。ふたりでよく聖書についてかたりあいました。明日には死んでいるのかもしれないのです。いつ死んでもおかしくないような前線で戦闘に参加していました。死はかならずしもおそろしいものではありませんでした。正しさを確信していたからです。信仰があったからです。仲間もたくさんいました。日常生活では決してえられない結束力が我々にはありました。しかしだんだんと着実に変化はおとずれました。最初はちいさかった疑問が次第に無視できないほどおおきくふくれあがりました。戦争の大義に疑問をもちはじめたのです。

 統計によりますが、最低でも無辜の民間人が数万人虐殺されました。ほかでもないわれわれが殺したのです。戦闘員までふくめると死者数は数十万人にものぼります。自分達のしていることは正義を口実にした虐殺なのではないかと疑うようになりました。自分達のしている軍事行動も組織的なテロリズムにすぎないのでは……という疑念が頭によぎりました。定義的にはテロリズムとは『政治的な目的を達成するために暴力をもちいること』です。その定義に従うなら私達の暴力もテロリズムといえました。私達のしていることは侵略行為ともいえました。定義的には侵略と侵攻は区別されるものです、しかし、そうした区別もご都合主義におもえてなりませんでした。

 私はかつてムスリムのテロリスト達は洗脳されているとかんがえていました。しかしあるころから自分も洗脳されているのではないかとかんがえるようになりました。実際、政府の発表には辻褄のあわないところもたくさんありました。テロリストと独裁政権の関係は不透明でした。大量破壊兵器は発見されませんでした。騙されていたんです。だからといいすぐさま仕事を投げだすわけにもいきませんでした。私は自分で自分を騙すようになりました。

 配属がなんどかかわり無人機をあやつるようになりました。ラジコンのように無人機を操縦するのです。それまでは土埃がまいあがる前線で戦闘していました。あたらしい職場は別世界でした。そこはすずしくて物静かな部屋でした。週6日毎日14時間ひたすらモニターとにらみあう生活がはじまりました。モニターにうつしだされるのは赤外線カメラがとらえた灰色の映像でした。灰色の映像のなかを真白な人型がうごきまわります。狙いをさだめてボタンをおします。真白な人型は液体のようにとびちります。手や足や頭がばらばらになります。この人型が人間です。まるでゲームのように人を殺していくのです。毎日。

 体調がおかしくなりました。寝付けなくなりたびたび睡眠の途中で目覚めてしまうようになりました。それでも仕事はやめませんでした。私には家族がいました。普通の仕事がそうであるように命令を粛々とこなせばいい、そういうふうにかんがえるようにしました。帰国するたびに愕然としました。自分の国家が戦争していることなど誰も覚えていないようでした。平和な日常は絶望的な無関心と無責任に支配されていました。正義なんてどこにもありませんでした。

 テロリストが乗車しているといわれている車列を爆撃しました。11台で構成される車列のうち4台を爆撃しました。2台は完全に破壊されました。テロリスト撲滅作戦の一環でした。けれどもテロリストは乗っていませんでした。私が爆撃したのは結婚式にむかう市民の乗車した車列でした。14人死亡、22人負傷……そのうちひとりもテロリストはいませんでした。いいわけがましくきこえるかもしれませんが、私ふくめてそのときの操縦士は命令に従っただけでした。上からくだされた命令が間違っていたんです。

 ミサイルのボタンをおせなくなりました。指がふるえてどうしようもありませんでした。脳裏からはなれませんでした。夜もねむれませんでした。瞼のうらにもあの映像が──あの無機質で灰色で冷たい画面で、真白な人型が潰れる葡萄のようにとびちる映像が──くりかえしうかびあがりました。色もなければ音もありませんでした。命令だけがありました。仕事はやめました。

 近所のスーパーではたらきはじめました。妻とかんがえかたがあわなくなりました。彼女は正義感の強いひとでした。キリスト教系大学出身で信仰心の篤いひとでした。週末にはかならず教会にかよっておりました。常に私を応援してくれていましたし、軍人という仕事を尊敬してくれました。しかしそれはもはや昔のはなしでした。彼女はかわりました。戦争のはなしもきくだけでうんざりというようすでした。教会にもあまり顔をださなくなりました。

 私がたまたま通信履歴を確認していたときの出来事です。彼女の不倫が発覚しました。不倫関係は何年もまえから継続しているようでした。彼女はいいわけしました。自分の罪を必死に隠蔽しようとしました。最初は彼女を信じようとしました。けれどもあるものを見付けて我慢できなくなりました。寝室で使用済みコンドームを見付けたのです。使用済みコンドームです。使用済みです。私は使用していません。忘れられません。捨てられもせず、捨てることさえ忘れられた、よれよれでみじめなコンドーム。埃にまみれてかさかさのコンドームでした。激怒しました。

 彼女の出張中に書斎の隅々までほりおこして調べました。愛する妻の不倫を暴いているそのときの私の心境といえばひきさかれんばかりでした。信じたいんです。誰よりも信じたいひとが、信じられない、信じるための証拠を見付けたいのに、それとは反対の証拠ばかりが発見されるのです。このとき発見されたものが恐竜の化石だったらどれだけ愉快だったでしょう。発見されたのは変態グッズのかずかずです。バイブ、ディルド、アナルビーズ、バラ鞭、手枷、足枷、首輪、猿轡、浣腸器……それだけではありません。不倫相手と撮影したセックスビデオまでありました。

 妻と最初にしたデートをおもいだしました。教会であげた結婚式をおもいだしました。ふたりでしているセックスをおもいだしました。不倫相手と撮影したらしきセックスビデオに録画された彼女は別人でした。卑猥な言葉をさけんであえぎちらしていました。首を絞められながら犯されても、顔に平手打ちされながら犯されても、満面の笑顔でへらへらしながら喜んでいました。笑いがとまらないというような愉悦の表情をうかべたまま犯されているのです。こんなに楽しそうにしている妻の姿はみたことがありませんでした。

 私が命懸けで戦闘している最中に彼女はほかの男性と馬鹿げた変態行為に夢中でした。正義感の強かった彼女はもうどこにもいませんでした。それどころか道徳も倫理ものこされていませんでした。それらにたいし背くことにこそ快楽を覚えているようでした。すべては腐敗していました。美しくみえていたすべてがその偽りをあばかれ、醜さをあらわにしました。みせかけの美しさ、みせかけの正しさ、みせかけの強さ……あらゆるみせかけのものが剥がれおちていきました。『In God We Trust』という言葉はきこえてきませんでした。そのときの私にきこえてきたのは、間男に犯されながら妻がさけんでいた『おまんこきもちい』という下品な言葉だけでした。彼女はひたすら『おまんこきもちい』とさけんでいました。それしか言葉をしらない動物のように。頭にはこれまでくりかえしみたあの灰色の映像がながれていました。真白な人型が精液のようにとびちり手も足も頭もばらばらに吹きとびました。なにも信じられませんでした。離婚しました。棄教しました。

 実家の子供部屋はそのままでした。クローゼットには玩具の戦闘機や軍艦や戦車や拳銃が、勉強机にはボーイスカウト時代の写真がたてかけられたままでした。子供のころ信じていたものはもうなにも信じられなくなっていました。仕事をみつけるために都市部のぼろぼろなアパートにひっこしました。街は華やかでしたが、私の部屋は臭くてみすぼらしいところでした。清掃員の仕事をぼちぼちはじめました。

 もうなにもありませんでした。なにも。なにもありませんでした。なにもない自分に耐えられず、延々、酒で満たされようとしました。浴びるように酒を飲むようになりました。酒はもちろんなにも満たしてくれません。私を満たしていたのはとめどなくあふれてくる罪悪感でした。被害者感情と加害者感情が矛盾したまま同時に精神を支配していました。自分のみじめさを笑いながら、泣いていました。泣きながら、怒っていました。痙攣しながら、硬直していました。それらすべてを、すなわち罪悪を忘却するために、酒を飲みました。慢性的な吐気と頭痛に悩まされていました。

 愚かでした。若いころの私は、自分が愚かであることがわからないほどに愚かであり、それゆえに自分は賢いとかんちがいしていました。なにもかもうしなうことではじめて自分が愚かであることに気付きました。底までおちてみて、自分にたりないものがなんなのかようやくわかりました。それは知でした。

 私はとりつかれたように戦争の勉強をするようになりました。

 ウマルさんというムスリムとはなす機会がありました。自分のしるかぎりほとんどのムスリムはテロリズムを否定しています。ムスリムのなかでもテロリズムを肯定しているのは極少数の人間だけです。ウマルさんもテロリズムを批判しておりました。とはいえ……我々の戦争を肯定していたわけでもありませんでした。ウマルさんはムスリムのテロリズムには『抑圧・迫害・差別にたいする抵抗』の側面があると申しておりました。要するにアンチイスラム教(Anti-Islamism)やイスラム教嫌悪(Islamo Phobia)にたいする抵抗であると。それはある種の反差別運動であると。

 ふりかえってみるとイスラム世界にたいする抑圧・迫害・差別の歴史はながいものがあります。これはみとめざるをえません。テロリストのおおくには自分達の国家・故郷・聖地が他者により侵略・占領・支配されている、あるいはされてきたという意識があります。テロリズムの動機には『抑圧・迫害・差別にたいする抵抗』があるのは事実でしょう。これは昨今の一匹狼型テロの犯行動機を説明付けるものでもあります。彼等には被差別意識があります。社会背景として差別問題もたしかにあります。しかしすくなくとも我々の価値観からすればイスラム教にもまた異教徒や女性や子供にたいする差別的なところがあるといわざるをえません。

 私はかねてからかんがえていたイスラム世界に内在する問題を指摘しました。ウマルさんは指摘をすんなりみとめました。すべての文化は完全ではなくそれぞれ問題をかかえておりイスラム文化も例外ではない、あらゆるよしあしは相対的にしかかたれない、と彼はいいました。私はまず、ムスリムの男性にも、こうした文化相対主義的な視点があることにおどろきました。自分にはやはり、ムスリムのひとたちにたいする偏見に満ちた、差別的なまなざしがありました。そしていまも自分で気付いていないだけでそうしたまなざしはあるのでしょう。なんにせよ、ウマルさんのようなムスリム男性ひとりみてもわかるように、ムスリムとひとくくりにいってもそのなかには多様な知見があるわけです。

 次には私達の文化の問題を指摘されました。ウマルさんはムスリムよりもムスリムではないひとたちのほうがおおくの問題をかかえているというのです。さらには非イスラム世界のほうがイスラム世界よりもよほど危険であるといいます。現にここ100~200年の世界史をふりかえってみるとムスリムよりも非ムスリムがおこしてきた問題が目立ちます。非ムスリムのほうが大規模な戦争や虐殺や侵略や迫害や差別をくりかえしております。また我々の戦争にしてもそうです。我々は女性や子供の人権を守るといいながらも女性や子供を巻きぞえに市民を殺しました。こういうことをふまえると我々は一方的に問題を指摘できる立場にもありません。

 我々は彼等彼女等にたいして加害者でもあり被害者でもありました。彼等彼女等もまた加害者でもあり被害者でもありました。大元の原因はイスラム世界を迫害してきた我々にあるのでしょうか。それともイスラム世界にあるのでしょうか。あるいは大統領にあるのでしょうか。それとも大統領をえらんだ国民にあるのでしょうか。私はウマルさんとはなしてからより熱心に勉強するようになりました。

 都会には住みなれませんでした。そこは異世界のようでした。あるヴィーガンは動物の権利を主張していました。豚肉や牛肉を食べてはならないとさけんでいました。あるフェミニストは女性の権利を主張していました。レースクイーンを廃止しなければならないとさけんでいました。それぞれの正義のために戦っているようでした。そうした声も遠くにきこえてなりませんでした。彼等彼女等に尋ねてまわりました──今、我々が戦争していることをしっていますか?

 彼等彼女等は『自分達の国家が他国の市民を虐殺している事実』に、興味も関心もなさそうでしたし、責任もかんじていないようでした。それどころか戦争の失敗はみとめながらも『自分に責任はない』と明言するひとたちもすくなくありませんでした。理解できませんでした。このような状況下で、詰まりは他国の市民を虐殺しているような状況下で、どうしてそうした自分の責任から目を背けて、いかなる口で正義をさけべるのか、百年前の戦争ならまだしも、現在進行形でつづいているにもかかわらず……彼等彼女等のような正義に敏感なひとたちでもそうなのです。ほかの連中はいわずもがなです。

 私はなんのために戦っていたのでしょう。軍人は国民が選択した大統領の命令にしたがい命をかけて戦うものです。愛国心を嘲笑するものもおりますが、自分を立派に育ててくれた故郷、祖国、共同体にたいする愛は、絶対に馬鹿にできるようなものではありません。我々は愛国心を胸に、国民のために、命懸けで戦ったんです。それだけはたしかです。けれども国民は責任の意識はおろか興味も関心もなく、戦争の失敗を忘れようとしています。

 世界大戦の敗戦国は、百年前の戦争をいまでもくりかえし反省します。しかしそうではないほかの国々の現代の戦争は、十分に反省されずにくりかえされています。独裁国家の独裁者も無責任ですが民主国家の国民もあまりに無責任です。国民のひとりひとりに戦争の責任があるはずではありませんか。どうして軍人だけが、前線にいるものばかりが、無責任な戦争の犠牲にならなければならないのでしょうか。

 現代の戦争とは虐殺の委託なんです。戦争を選択した国民は自分で虐殺しないかわりに軍人に虐殺を委託しているんです。直接関与していないから実感がないのかもしれませんが軍人に虐殺を委託したのは国民のひとりひとりなのです。軍人が殺人鬼なのではありません、全国民に殺人の罪があるんです。殺人ボタンをおしたのは国民だからです。

 私だけが戦争の犠牲者なのではありません。以前の仲間のうち13人が自殺しております。現役・退役軍人の自殺者数は戦死者の数倍ともいわれています。軍人達は祖国のために戦ったんです。それなのにそうした軍人達こそが、祖国の政府や大統領に騙されて、世論や報道に踊らされて、いいように利用されて人生を破壊されたのです。私も戦争が原因でアルコール依存症や心的外傷ストレス後障害を発症しました。

 対話で解決なんて綺麗事にすぎない、暴力が必要だ……と主張するものもすくなくありません。本人は現実主義者気取りです。私もそういうふうにかんがえていた時期がありました。けれどもそういう主張ほど現実がみえていないものもありません。現実は反対なんです。暴力では解決しません。現に暴力では解決しませんでした。正義の味方が暴力で悪党をこらしめて一件落着なんて展開は映画や漫画や小説の世界にしかないお伽噺にすぎません。綺麗事でもなんでもなく現実の問題は暴力で解決できないのです。世界一の圧倒的な軍事力をもってしても問題は解決しませんでした。

 テロリズムを武力で滅ぼすことはできませんでした。テロリズムは世界中に拡散しました。終戦後のほうがそれは減少傾向にあります。戦争は失敗どころか逆効果でした。正義にもとるというだけでなく国益にもなりませんでした。経済的合理性があるというものもいましたがそんなことはありません。戦争により儲かるところもあるにはあります。ただしそれは一部の軍需産業だけであり国家単位でみれば損出のほうがはるかにおおきいのです。また我々の戦争は国際的不信感をもたらしました。我々の国家、軍隊、文化に不信感をいだいているものはもはや特定のムスリムだけではありません。こうした戦争は、第二の戦争、第三の戦争をもたらすでしょう。我々の戦争を、詰まりは不当な侵攻あるいは侵略を中露が真似したとしてもおかしくはありません。我々は戦争の失敗をみとめるべきなのです。いうまでもなくこれはあるひとつの国家の問題でもありません。追従したほかの国々もふくめて我々の戦争なんです。我々の戦争なんです。我々の。

 正義はどこにいきましたか。戦争をはじめるときはあんなに威勢よくさけばれていたのに。開戦時には正義をかかげておいて終戦後に罪を問われると『戦争に正義もなにもない』とはぐらかす、そういう人間を嫌気がさすほどみてきました。他人を断罪するときは正義をふりかざしておいて、まさか、自分の罪からは逃れようというのですか。それがひとりの罪ならまだしも戦争とは国家の大罪なんです。反省しなくていい道理はありません。

 本来ならば正義とはみずからの罪にむきあうときにこそ必要なものではありませんか。正義をさけぶものを信用してはなりません。笛吹は犬を踊らせるだけ踊らせて責任をとりません。それは犬を騙すための法螺話です。正義とは麻薬です。悪魔はこの麻薬をふりまき大衆もこの麻薬をもとめます。人類のあやまちのおおくは、要するに差別や迫害や侵略や虐殺や戦争のおおくはこうした麻薬によりもたらされます。

 私の主張はこれまでくりかえし非難されてきました。私の戦争反対運動も批判にしばしばさらされます。現役軍人や退役軍人からも攻撃されることがすくなくありません。説教臭いとうるさがられます。しかしそれでもやめません。私の本当の戦いははじまったばかりなのです。長いはなしにおつきあいいただき、ありがとうございました」

 男性はたちあがった。彼はふたたび軍隊式の敬礼を披露した。退役軍人が軍服をきたまま戦争反対を訴えたその姿は印象的だった。



 3

 ひとりの男性が手をあげた。

 真理さんのセックスの相手はふたりいた。元軍人はそのうちのひとりだった。

 手をあげているのはもうひとりの男性のほうだった。こちらは元学者だった。

「大変勉強になるおはなしありがとうございました、しかしすこし反論させていただきたい」

 元学者の男性から唐突に飛びだしたこの申出に元軍人はうろたえるそぶりもみせずに快諾した。

「僕は大学で物理学の研究をしていました。貴方のような過酷な状況を生きぬいてこられたかたとはみてきたものが違うとおもいます。本来は重なりあわないはずの僕達の人生はたまたまこうして交差しています。おたがい真理さんのセックスのお相手をさせていただく立場ですし」礼拝室にちいさな笑いがおきた。元軍人は照れくさそうに頭をかいた。大学で研究をしていたという男性はこのようにかたった「僕と貴方はおそらく年齢もあまりかわらないとおもいます。だからいまおはなしいただいたことは自分にも共感できるところがたくさんありました。実は僕も少年時代は軍人に憧れておりました。玩具の戦闘機も戦車も拳銃ももっていました。いまもたぶん実家にあるとおもいます。例の戦争にかんしても僕は貴方とおなじような見方をしています。間違いなくあの戦争は失敗でした。

 ただ、ただですね……ただそこから正義を否定してしまうのはどうかとおもうのです。たしかに正義はこれまでなんどもあやまちを犯してきましたが、だからといい、正義を否定して相対主義に陥るのもそれはそれで危険ではありませんか。いいえ、それどころか『世界に正義などない、善悪なんていくらでも反転する』というような相対主義ほどおそろしいものもありませんよ。相対主義は独裁者を否定することもできませんし、むしろ、独裁者をうみだしかねないものといえるでしょう。相対主義では残虐行為も否定できません。なのですべての正義を否定して相対主義に陥ることはいささか危ないとおもうわけです。

 僕は安全な正義と危険な正義を区別するべきだとおもいます。危険な正義とは具体的にいえば独裁政治です。独裁政治が人類にもたらしてきた悲劇がどのようなものか貴方もご存知ないとはいわないでしょう。独裁政治はみとめてはならない絶対悪でありこればかりは相対化してはならないのです。ほかにも国粋主義や権威主義も危険な正義といわざるをえないでしょう。すくなくともこうした危険な正義を批判することは正しいといえるはずです。貴方のいうとおり危険な正義は麻薬であり、これは徹底的に批判しなければなりません。ただし正義自体を否定するとそうした批判もできなくなるのです。

 独裁者は、権威主義ないし国粋主義をふりかざし批判を殺そうとするものです。独裁者は声をあげるものを黙らせるのです。だからこそ声をあげなければならないのです。相対主義的態度は──『ドッチツカズナ態度』は批判の声を殺してしまう効果もあります。無論、善悪二元論は複雑な世界を単純な物語におとしこんでしまいます。けれども善悪二元論を否定したら悪を糾弾することもできなくなります。相対主義は悪を矮小化するためのごまかしになるきらいがあるのです。いいかたをかえてくりかえします。相対主義は『ドッチツカズナ態度』をとりながらも、そのことにより、結果的には悪党を擁護して独裁政治をもたらす危険があるんです。

 たとえば貴方のまわりにこういうひとはいませんか。どんなときでも『ドッチモドッチ』で片付けるひと。イジメ問題では『いじめられているほうにも原因がある』と主張して、不倫問題では『不倫されているほうにも原因がある』と主張して……要するになにごとも白黒付けずに『ドッチモドッチ』ですませるひとです。身近な問題でかんがえていただけたらわかりやすいように、相対主義者のこうした態度は結局、悪党の擁護にしかなっていないのです。ですから相対主義をみとめるわけにはいかないのです。

 ジョン・ロールズという哲学者がおります。彼の『正義論』を読んでいただけたらわかるとおもいます。本物の正義がいかなるものか。貴方が否定しているのは偽物の正義であり本物の正義ではありません。偽物の正義に問題があるからといい本物の正義まで否定する必要はありません。偽物は偽物で批判すればいいだけです。

 詰まりは、なんといいますか、どうにも強引といいますか、極論ないし暴論にきこえるところがあるのです。『正義の暴走』という言葉もありますけれどそれにしても反動的なところがいくらかあります。極例をあげれば列車も脱線することはありますし航空機が墜落することもあります。とはいえあらゆる交通機関を否定する必要はありません。それとおなじように正義という列車が、あるいは正義という航空機がいちど暴走したからといい、正義を全否定するのは極端といわざるをえません。それはある種の恐怖症ですよ。宗教問題や差別問題にも言及しておりましたがそれにしても一緒くたにしてかたれるものではありません。そういうはなしは使用する言葉を厳密に定義して、問題を丁寧に腑分けして、慎重に議論していかなければなりません。

 失礼ですが貴方は、正義に内在する危険性を強調するあまり、悪の危険性を忘れているようにみえます。たとえるならそれは薬の副作用を強調するあまり病気のおそろしさを忘れているようなものです。無責任に白黒付けようとすることも問題ではありますが、白黒付けようとしない相対主義的態度も無責任ではありませんか。薬には副作用があります。それでもやはり薬を拒絶するのは危険です。副作用を理解したうえで薬を飲むべきなのです。正義もそれとおなじではありませんか。正義に副作用があるのは事実です。しかしだからといい正義を否定して悪を野放しにするのは本末転倒におもえてなりません。相対主義とはこのような意味で、正義の副作用に過敏になるひとたちに感染した、思想的病気だとおもうのです。僕はそのようにかんがえているのですが……貴方は相対主義の危険性にかんしてどのようにおかんがえですか?」

「相対主義が独裁者をうみだす……」軍人はこのように質問しかえした「貴方はいま、相対主義が独裁者をうみだすといいました。具体的には相対主義がうみだした独裁者とは誰ですか?」

「それは……」学者は答えに窮した。

「私からみると」軍人は続けた「貴方のほうこそ薬の副作用に過敏にみえてなりません。相対主義を辛辣に批判するひとたちはたくさんおります。これまでたくさんみてきました。ほんとにたくさん。しかしどうにも相対主義がそこまで危険とはおもえません。相対主義によりもたらされた戦争をしりませんし、相対主義によりもたらされた悲劇にもくわしくありません。相対主義の危険性を強調することは、それこそ、副作用に過敏な病人のそれにおもえてならないのです。

 相対主義の危険性を強調するひとたちは、相対主義により社会が崩壊するとでもかんがえておられるようです。ときにそういうひとたちは、相対主義により善悪の区別がなくなり、なんでもありになり、独裁者が誕生して悪党がのさばるかのようないいかたをなさります。そういう可能性もゼロではないでしょう。しかしこれまでにそういう歴史的事例はどれくらいあるのでしょう。

 たとえば相対主義により独裁者が誕生したり、相対主義により戦争や虐殺や殺人や拷問や搾取や差別や侵略がもたらされた事例はあるのですか。私のしるかぎりおそろしい独裁者はことごとく相対化を否定しております。相対主義とは反対の態度です。『正義の肯定』により戦争や虐殺や侵略がもたらされた事例は数多くありますが、『正義の否定』によりそれらがもたらされた事例はおおくないでしょう。そもそもそういう事例はあるのですか。仮にそういう事例があるにしても比較にならないような規模におもえてなりません。なおかつ戦争がおきるときはいつも相対化が否定されています。そうした歴史をふまえると、『正義の否定』より『正義の肯定』のほうが、『相対主義の肯定』より『相対主義の否定』のほうがよほど危険といえるではありませんか。

 貴方は『相対主義は戦争さえ否定できない』といいました。これもよくわかりません。相対主義だろうと戦争は否定できます。虐殺も迫害も否定できます。相対主義は『物事の絶対性を否定する』という立場にすぎません。それはあらゆる物事を肯定するという立場ではないのです。さらにいえば価値判断の放棄でもありません。

 貴方は相対主義という言葉を誤解しているようにみえます。議論されている主題が正義であることをふまえると、ここでいう相対主義は、価値相対主義を意味しているはずです。すくなくとも価値相対主義は『善悪の区別を否定してなんでもありを主張する』という立場ではありません。たとえば価値相対主義の代表に法学者のハンス・ケルゼンがおります。彼にしても絶対的価値を否定していただけで『なんでもあり』を主張していたわけではありません。それどころか価値相対主義は民主主義の根幹にあたる思想にほかなりません。いうまでもなく私も『なんでもあり』を肯定しているわけではありません。現に私は戦争に反対しております。

 相対主義の批判者は『相対主義』という言葉の定義を無闇に拡張するきらいがあります。それでいながら論敵に『相対主義者』という烙印をおすわけですが、そこで想定されている相対主義者は、そのたいはんが仮想敵でしかありません。仮に『善悪の区別を否定してなんでもありを主張する』という立場の人間を相対主義者というんだとしたら、本当の相対主義者なんて一万人にひとりもいませんよ。どちらかといえばそれは、相対主義者というよりも虚無主義者や無政府主義者にちかいとおもいます。

 相対主義の批判者は、ありもしない相対主義者を捏造したうえで、その捏造された仮想敵を論破しているにすぎないのです。

 また貴方は『独裁者は権威主義をふりかざして批判を殺そうとする……権威主義を徹底して批判しなければならない……』といいました。これは一理あるかもしれません。けれども危険な独裁者のおおくは反権威主義者として登場するものです。批判の声を殺すどころか批判の声をさけばせるのです。沈黙ではなく絶叫を煽りたて、理性ではなく感情に訴えかけ、とにかくおなじことをみんなにさけばせるのです。『怒れ、立ちあがれ、声をあげろ、拳をふりあげろ、悪しき権力に抵抗せよ!』と国民を煽りたてるものこそが独裁者になるのです。権威主義と同様、あるいはそれ以上に、反権威主義と独裁者は相性がいいのです。おそろしい独裁者は強者から誕生するのではなく弱者から誕生します。どんなに理論武装していてもその原動力は嫉妬心や劣等感などのルサンチマン的情動です。右翼だろうと左翼だろうとこれはかわりません。独裁者とはたぶんに反権威主義的なのです。

 危険な集団の特徴とはなんだとおもいますか。それは批判なき集団ではありません。批判なき集団も危険な集団になる可能性はあります。しかし現実に存在する危険な集団のほとんどはその反対なんです。危険な集団はむしろ批判ばかりしているんです。カルト教団もテロリスト集団も陰謀論者達もそうです、危険な極右団体も極左団体もそうです、彼等彼女等は敵を設定してただただ批判ばかりしているのです。敵を批判するばかりで自分達の正義は疑わず、自己批判・自己検討・自己修正しない、これこそ危険な集団の特徴です。いうなれば危険な集団とは《自己批判なき批判集団》なのです。

 次に貴方はこういいました。貴方は間違いなくこういいましたよ。『使用する言葉を厳密に定義して、問題を丁寧に腑分けして、慎重に議論していかなければなりません』と。実に学者らしい意見です。全く学者らしい意見です。良い意味でも悪い意味でも学者らしい意見です。本当は戦争をはじめるまえにそうした慎重な議論をするべきだったのです。戦争推進者は自分達は慎重に議論しようとしないくせに、戦争抵抗者にたいしてだけ慎重に議論させようとします。戦争にかぎらずそうなのです。正義をさけぶものはたいてい慎重な議論をしようとしません、そのくせ、正義に抵抗しようとするものにたいしては慎重な議論を要求するのです。本来ならば戦争をはじめるまえに『テロリスト』を厳密に定義するべきでしたし、問題を丁寧に腑分けするべきだったのです。

 ある男性大学教授がおりました。最初はそのかたの批判も正しくきこえました。しかしよくよくきいているとおかしなことに気付くのです。彼は女性論者にばかり厳密さ・丁寧さ・慎重さをもとめていたのです。男性論者が同様の主張をしてもそこまで厳密さ・丁寧さ・慎重さをもとめていませんでした。ことごとく《不公平な批判》なのです。こうした不公平な批判はいたるところにみられるものです。完全な意見はどこにもないのだから批判とはいかなる意見にたいしても可能です、ゆえに『なにを批判してなにを批判しないか』にこそ、そのひとの差別性・党派性・偏向性があらわれるのです。特に『厳密に、丁寧に、慎重に』なんていう批判は無際限にできてしまうものなので、適宜、うちきらなければなりません。必要以上に厳密さ・丁寧さ・慎重さをもとめてはならないのです。それはたとえるなら細かすぎる地図です。

 議論するうえで大切なのは自分が細かすぎる地図をひろげていないかということです。原則的に議論とは、相手のひろげている地図の細やかさにあわせてやるもので、世界地図をひろげている相手にたいして1/300の地図をひろげて『厳密ではない』と批判してもあまり意味がありません。1/300の地図にかきこむ詳細な情報を世界地図にかきこむ意味もありません。どちらのほうが正しい地図なのかというはなしでもありません。さまざまなスケールやアングルから世界はかたられるべきなんです。学術的な厳密さ・丁寧さ・慎重さがもとめられる議論は日常にそんなありません。学者だけが風変わりな地図で世界をかたろうとしているんです。

 学者の展開する風変わりな地図にも社会的意義はもちろんあります。ただし、それだけが正しい地図でありそのほかは間違った地図であるとはいえません。たとえば迷子に道案内するときの地図なんてはしりがきのメモでいいんです。実社会における議論とはそれくらいの粗さですすめていくもんなんです。でたらめの地図は批判されてしかるべきですが粗いからといい一概に批判できるようなものでもありません。それどころか、必要最低限の情報で迷子を目的地までみちびくような粗雑な地図ないし議論こそ、理想の地図といえます。

 議論には不適切な緻密さと適切な粗雑さがあるんです。緻密が粗雑にまさるとするような緻密至上主義は、学者にありがちな、一種強迫観念にすぎません。実用性のかいた緻密は有害とすらいえます。緻密至上主義のもとめる緻密は現実と乖離した自己満足である場合もめずらしくありません。問題解決のための議論で重要なのはむしろ必要以上に緻密にならないことです。たいていの場合、粗雑な議論は緻密な議論に先行します。人文学者が大学でやるような緻密な議論よりも、市井の粗雑な議論からうみだされるもののほうが、社会にはよほどおおいです。

 原則として粗ければ粗いほどいいんです。必要ではない厳密さ・丁寧さ・慎重さはできるだけ排するべきです。

 現実の問題は錯綜しているものです。学問の世界では問題を腑分けして個別に議論するのかもしれませんし、それはそれで、大変意義深いものだとおもいます。しかしそれはあくまで学問の世界のはなしです。議論を円滑にすすめるために問題を細かくきりわけることはできますが、はっきりいわせていただくと、そのようにしてみえてくるものは調理された世界でしかありません。生きていないんです。現実社会をみわたしてみると各種問題が錯綜しています。そうした問題を分解することでみえてくるものもあります、しかし、分解されたそれはもともとのそれとは別物です。牛と牛肉くらい別物です。あるいは魚と刺身くらい別物なのです。

 牛肉だけみていても牛を理解できないように、刺身だけみていても魚は理解できないように、丁寧に腑分けしてから議論すればいいというものではありません。腑分けされるまえのそれとむきあわなければはなしにならないのです。たしかに学問的な手捌きでみえてくるものもあります。ただし学問的な手捌きにはかなり癖があります。学問は専門分野ごとにわかれていたり、なにかと問題を分解していきますが、世界はそういうふうにできておりません。

 戦場にでればわかりますよ。そこにはさまざまな問題が絡みあうように蠢いております。軍人にかぎらずたいていの業種がそういうものです。学者以外の人間は分解されるまえの牛、分解されるまえの魚、詰まりはきれいに腑分けされるまえのごたごたした問題と戦っているんです。しかもその問題はうごいています。問題の腑分けはあくまでそうした錯綜した全体を把握したあとでなされるものです。

 たとえば戦争問題と宗教問題と差別問題にしても複雑にからみあうものです。それらはそもそも独立した問題ではありません。はじめからこれらをきりわけて議論しようとするのは、倒壊寸前の建築物の問題を、柱と床と壁にきりわけてから議論するくらいおかしなはなしです。あちらの柱を抜けばこちらの柱に荷重が集中して床が右にかたむくし、こちらの柱を抜いたらそちらの壁に荷重が集中して床が左にかたむく。現実の問題は建築物の構造的問題のように各種相互に関連しているんです。だからまずは全体の把握が必要なんです。全体を把握して状況を判断したうえで個別の問題にとりくむのが理想的な問題解決のありかたです。

 また、いうまでもなく、現実は専門分野毎にわかれておりません。なのでその都度各分野の知見を適当に交換しながら問題を解決していくしかありません。学問の世界ではそういうやりかたを横断的だとか学際的と大袈裟に表現しますが、一般社会人からすれば、専門家が分野をまたいで議論するのはあたりまえです。それができなければ永遠に末端の平社員です。指令をあたえる立場にあるものはその都度総合的に状況把握しなければなりません。

 問題解決するうえで総合的な知性が重要なのはいまはなしたとおりです。しかしこれはなにも問題解決に限定したはなしではありません。創造的な仕事においても分野を越境するような総合的な知性が重要になります。たとえばスティーブ・ジョブズにしても特定の分野の専門家とはいえませんが、各分野の技術をくみあわせながら、世界をかえるようなプロダクトをうみだしてきました。一般的な商品開発にしてもさまざまな分野の専門家があつまり意見をなげあいながらそれを洗練させていきます。詰まり、微視的に世界をかたることとおなじくらいに巨視的に世界をかたることは重要であり、専門知の混成こそが創造をもたらすんです。なんでもかんでも問題を綺麗に腑分けして、専門分野毎にふりわけたり、細分化させればいいというものではありません。

 すみません……脱線しました。

 正義です、正義のはなしをしなければなりません。

 私のかんがえる安全な正義とは公正であり危険な正義とは勧善懲悪です。おっしゃるとおり正義にも本物の正義と偽物の正義があるといえるでしょう。偽物の正義が危険なだけで本物の正義は安全であるという主張もわからなくはありません。しかしですよ、しかしです、だれが安全/危険の線引きをするんですか。だれが本物/偽物の線引きをするんですか。それは、食べられるきのこと食べられないきのこを区別するくらいむずかしいとおもいますよ。だれでもそういう線引きができるとおもいますか。できませんよ。

 そこらへんの市井のひとたちが線引きするんですよ。そうした市井のひとたちの判断が選挙に反映されて、ときには戦争のような、虐殺までひきおこすんです。学者が厳密に本物の正義と偽物の正義を定義したとしても、大仰な理論を書物にまとめたとしても、そうした定義や理論や書物を大衆が理解するとはかぎりません。いいえほとんどの大衆は理解しません。理解できないとしてもしかたありません。みんなそれぞれの生活に忙しいんです。

 私も本物の正義と偽物の正義を厳密に区別できているかといえば怪しいものです。どうせほとんど区別できないんです。だから『正義を信じてはならない』でいいんです。それでも正義を信じたいひとたちだけが専門的な勉強をすればいいんです。素人が正義をふりまわして他人を糾弾したりする必要はどこにもありません。

 きのこの専門家が素人にたいして『山野に生えているきのこは食べないでください』と注意喚起するのとおんなじです。普通は『食べられるきのこもあるのでみなさんきちんと見分けてから食べてください』とはいいません。もしくは『麻薬は危険である』と注意喚起するのとおんなじです。安全な麻薬の説明なんて専門家以外にはしなくていいんです。正義は麻薬とおなじようなもので原則的には危険性だけ強調しておけばいいんです。正義にしても麻薬にしても素人にあつかえるものではないんです。

 麻薬にも『安全な麻薬の使用』と『危険な麻薬の使用』があります。本物の麻薬と偽物の麻薬があります。麻薬も適切な用法と用量をまもり使用すれば効能を期待できます。実際の医療でも麻薬は使用されています。ですが、だからといい市井のひとたちにたいして『麻薬はいいものである』とはいえませんよね。端的に『麻薬はいけないもの』と注意喚起すればいいんです。正義も麻薬と同様に『正義はいけないもの』という注意喚起でことたります。安全な正義を説明したいんなら公正:Fairという言葉でも代用できます。ですから正義:Justiceという言葉を無理して肯定する必要もありません。

 人間は安全な正義よりも危険な正義を好みます。本物の正義よりも偽物の正義を好みます。娯楽の王道は大昔から勧善懲悪物語です。大衆の正義とは最高のうさばらしであり娯楽にすぎません。人間は悪者退治するときこそ一致団結してもりあがるんです。怪物にむかいみんなで石をなげているときがいちばんきもちいいんです。たいはんは『なにが正義なのかなんてよくわからないがとにかく腹立たしい人間を懲らしてめてやりたい』という負の感情から暴れているだけです。これはどうしようもありません。なのでいっそ正義すなわち罪悪と断言してもかまわないくらいです。

 みんなが正義をさけびはじめたらそれはほぼ確実に勧善懲悪型正義です。危険な正義もしくは偽物の正義です。表面的には公正をさけんでいたとしても実際には悪者退治をもとめています。故に正義がさけばれはじめたら冷水をかけておけばいいのです。もちろん熱狂しているひとびとに冷水をかければ嫌われます。けれども自分が嫌われてでもそれをしなければならないのです。熱狂する大衆にたいして冷水をかけてやるのが知識人の役割です。大衆に迎合あるいはそれと同化して、彼等彼女等を心地よくさせる言葉ばかりさけび、正義をあおりたてる知識人はろくでなしです。特に若者を正義の言葉であおりたてるものは最低です。

 私は百万人の若者から『ノリのよくない説教おじさん』といわれてもいいんです。正義を勇ましくさけぶひとたちから唾を吐きかけられてもいいんです。右翼から攻撃されても左翼から攻撃されてもいいんです。人気者になるためにこういう活動をしているのではありません。正しい活動をするためには人気者になりたいというきもちは捨てなければなりません。人気者になるつもりも偉人や英雄になるつもりもありません。そういう名誉心は退役するときにすてました。社会が熱くなればなるほど私は冷たくなります。私はだれよりも内に熱を秘めた冷水でありたいのです。


 では最後に要約します。

 第一に『相対主義の肯定』よりも『相対主義の否定』のほうが危険です。

 第二に『正義の否定』よりも『正義の肯定』のほうがよっぽど危険です。

 第三に原則的には『正義は危険』という注意喚起だけで問題ありません」



 4

 元軍人の意見は自分の意見とかさなるところがだいぶあった。私からみるとそれは正論にきこえた。しかしまだまだ自分の見方は甘かったようだ。軍人の主張にたいして学者は猛反論した。そしてこれがなかなか的確で明晰だった。最初は軍人も学者も淡々と議論していたがみるみる議論は加熱していった。内容は高度に専門化していった。

 真理さんも意見をはさみはじめた。彼女も非常に学識ある知的なひとだった。故にはなしはなおさら小難しいほうに展開した。私はたちまち議論の内容についていけなくなった。彼等彼女等のやりとりが書物にまとめられたものならばどれだけよかっただろう。書物ならば時間をかけて理解することもできた。目のまえでおきている議論は私達の理解をまってくれない。まさしくこうした置いてけぼりな感覚は当時の戦争を彷彿とさせるものだった。あの戦争も途中から理解できなくなった。理解するよりもまえにそれはすすんでいった。

 理解するなんて無理があるのだ。ひとりの人間を理解するのさえほとんどできっこないはなしなのに、世界を巻きこむような戦争を理解するなんて到底無理だ。屋上から飛びおりたときのことが頭によぎった。夢中で苦しみから逃れようとしていた。なにがなんだかわからなかった。なにがなんだかわからなくて、気付いたらとびおりていて、目をひらいたときには木々の枝にからみとられていた。周囲は真暗で自分の肉体にからみついているものがなんなのかわからなかった。

 戦争にかぎらず世界は物語に還元できないところがある。世界は『Aが起きたからBが起きた』という単純な因果関係に集約できるものではない。苦悩と自殺の関係もそうだ。私が他人に自分の自殺についてはなすとしたらたぶん『苦しみから逃れたくて自殺しようとした』と簡潔に説明する。そういうふうに説明すればおおくのひとたちが納得してくれるだろう。しかしそれは嘘だ。そんなに単純なはなしではない。

 苦悩と自殺のあいだには距離がある。AとBのあいだにはかなり距離があるのだ。距離があるだけでなくそのあいだの道筋は直線ではない。渦巻きのような混乱がある。苦悩が自殺の原因というよりもむしろ、苦悩と自殺のあいだにあるそうした渦巻きのような混乱が、自殺の直接的原因ともいえる。AとBのあいだにCという渦巻きがあり、その渦巻きはいうなればそうだ……気分や思考や観念や感情や衝動の坩堝のようなものであり、またはさまざまな因果関係のもつれであり、あまりに錯綜しており解きあかせるものではない。こうした混沌の渦巻きから、Bという事態が発生する。問題はCなのだ、C、Cが戦争の原因なのだ。

 礼拝室には渦巻きが発生していた。最初は軍人と学者の議論だったのに、そこに真理さんが参加してから、もはやなにがなんだかわからなくなった。突拍子もない出来事が勃発しそうにみえた。魔女は興味なさそうに右端で椅子に腰掛けて爪をみがいていたし、看護師のおばあさんはなにやらにたにたしながら議論を見物していた。

 軍人のある議論から学者のある議論に発展して、その議論もまた真理さんにより複数の方向に枝葉をのばして、学者はそうした議論の交通を整理しようとして、軍人はそうした個別の議論に対応しようとして、結果的に議論は矢鱈と細分化されていき、集約されるどころか拡散して、だれにも全体像は把握できなくなり、最初にはなしていたことがなんなのかもわからなくなった。

 こうした状況で大切なのは自分の目的をおもいだすことだ。私は友人をつくりたいだけなのだ。あわよくばスピーチもうまくこなしたい。原稿を手提袋からとりだすと、なんども読みかえしたそれを、もういちど読みかえした。みんなの意見に比較して稚拙な内容にみえる。しかし以前の自分とくらべるとこういう会に参加できただけでも十分に進歩したといえる。五分間だけ、発作をおさえこんで、無心に原稿を読めばいい。

 不安だ。頓服薬は飲んでしまったしできることは深呼吸くらいしかない。礼拝室の空気が心無しかよどんでいる。黄色い照明の一個がきえかけて点滅している。祭壇の右端の頭蓋骨は最初の位置からずれている。正義君は落ちつかないようすで魔女のほうをちらちらみては首を横にふる。

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