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第1部-第8章:魔女の交友会 ~真理の主張あるいは物語~

【警告】

この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。

【第1部:美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~】


 第8章:魔女の交友会 ~真理の主張あるいは物語~



 1

 交友会当日。参加者は十人程度しかいなかった。暖炉に火はつけられていなかった。石油ストーブから灯油のにおいがただよってきた。私はいちばんうしろの座席に腰掛けた。魔女の姿はどこにもみあたらない。気掛かりなのは正義君が最前列に腰掛けていることだった。彼は礼拝室にはいりすぐに私を見付けたようだったが、特に挨拶もなく真白なハンカチをひろげると、最前列の真中の席にハンカチをひらりとしいてから腰をおろした。彼のそうしたふるまいも、私にわざわざみせつけているようにおもえてならなかった。

 正義君はひとりだけ子供であるのにもかかわらず、ほかの参加者にたいして物怖じすることなく、挨拶していた。ほかの参加者達も彼にたいして不信感を抱いているようすはなかった。彼はこの場に自然と馴染んでおりどちらかといえば浮いているのはこちらのほうだった。けれども私は、彼のもうひとつのおそろしい顔、禁書室で包丁をむけてきたときの顔をしっているし、怯えながら失禁している私にたいして、彼が嘲笑するそぶりさえみせたことを忘れてはいなかった。

 現時点で診断がおりていないのなら、社会的には正義君は正常で、私が異常ということになるのだろう。しかしこちらからいわせれば彼のほうこそ異常におもえてならなかった。なおかつそうした異常性を少年は巧妙に隠蔽しているようにもみえた。仮面をかぶっているのだ。もしそうだとしたらどうして私のまえで本性をあらわしたのだろうか。

 そんなことはどうでもいい。私はピンク色の手提袋から用意した原稿をとりだした。今日はとりあえず五分間のスピーチをすませればそれだけで十分成長したといえる。友達も無理してつくろうとする必要はない。交友会が終わるまでのあいだ、私は自分のやるべきことだけに集中して、ほかのことはできるだけなにもかんがえないようにしよう。今日のお題目は《私と正義》だがそれにしてもそんなにきにする必要はないだろう。

 正義君がひとりの女性をひきとめた。彼女は困惑したようすで謝罪してから座席に腰掛けた。どうやら内陣にあがろうとしてしまったらしい。たしかに礼拝室の祭壇が設置されている場所は一段高くつくられていたし、一般的な教会でかんがえてみるとそこは、聖職者だけがはいれる神聖な場所、内陣とみなせた。だから内陣にはいりこもうとした女性を彼はひきとめたのだろう。とはいえここは正式な教会でもなんでもない。十字架も剥奪されている。彼がそこまできにする必要があるのか疑問だった。

 私がひとりでここにきたときにかんじた神聖な雰囲気はなかった。おそらくここにいる参加者のたいはんもこの場所に宗教性なんてみいだしていなかっただろうし、かんがえてもみれば、あるころまでは倉庫として使用されていた場所なのだ。ここがどのように普段使用されているのかはしらないが、少年の行動はやはり、多少神経質なふるまいにみえた。間違いなくそれは神経質だった。

 一般的な教会の禁止は廃墟化した教会にも適用されるのだろうか。あるいはそうではなく禁止が教会をうみだすのだろうか。きっとそうなのだろう。立入禁止の場所があることにより聖域がうまれるのだ。禁止された領域こそ聖域の、さらには教会の原点にちがいない。聖域は神経質な人間が線をひくことで発生する。

 事実、正義君の神経質なふるまいは礼拝室に変化をあたえた。彼が内陣の立入を禁止することで聖域がうまれた。廃墟化した空洞な教会に聖俗の区別が生じた。そうした区別が空間に緊張をもたらした。ひとりが沈黙すると、ふたりが沈黙して、ふたりが沈黙すると、さんにんが沈黙して……気付けば談笑していた参加者達もしずかになり、顔をあげて祭壇のむこうの壁面の、十字架の痕跡をながめていた。

 かつて十字架がその壁面に存在していたことはだれからみても明白だった。石造りの壁面には十字架をうちつけたとおもわれる釘跡があったし、礼拝室の壁面は全体的に薄汚れていたが、そこだけ十字架のかたちに美しい岩肌がのこっていた。それは浮かびあがってみえた。汚れている場所と汚れていない場所があることで、平面にすぎないはずの壁面に、視覚的な奥行きがうまれていた。

 参加者達が一斉にふりかえり私の顔をみた。いいやそうではなかった、彼等彼女等の視線はさらにうしろにむけられていた。足音。ヒールの足音。床に釘をうちつけるような足音と共に、巻髪と乳房をゆらしながら魔女はあらわれた。胸元のあいた真黒なロングワンピースのうえから白衣を羽織っていた。彼女の衣服はふんわりとのんびりはためいた。周囲には優雅で遅々とした時間がながれていた。おおきい。おおきすぎる。なんどみても唖然とするおおきさだった。彼女は普段よりもおおきくみえた。あるいは肉肉しくみえた。それはまるでキリスト教的空間にギリシア神話の女神があらわれたようだった。ある種の信仰が彼女のような存在を迫害せずにはいられなかった理由が直感的に理解できた。彼女の肉体からはなたれる強さ、逞しさ、豊かさはそれそのものが文化破壊的だった。彼女の肉体そのものに、弱さや、貧しさや、優しさを徳とするような価値観をうちこわすほどの暴力的魅力があった。イエス・キリストがここにおられたとしても、彼女のまえでは、枯枝のように貧相な男性にしかみえなかったかもしれない。全くそれは骨にたいする肉だった。その美しさは清らかな貧ではなく豊かなる贅だった。彼女がまとう美は善ではなく悪であった、すくなくともそれは倫理的でもなければ道徳的でもなく背徳的であり、それどころか醜さといえた。彼女が隣をとおりすぎたとき肉の腐ったような不愉快なにおいにおそわれた。それは兎小屋のまわりにたちこめる動物のにおい、糞尿のにおいを彷彿とさせた。もしくは汗のにおいだろうか。鼻の粘膜を刺々しく刺激する臭気のあと、薔薇の花がごとく甘いにおいがただよった。彼女の肉体からはなたれるこうしたとらえどころのないにおいがひとびとを困惑させるのだった。男性も女性も兎のように鼻をひくひくさせて彼女のにおいを理解しようとしていた。あるいは、彼女のそうした蠱惑的ともいえる複雑な印象は、肉体に由来したものではなかったのかもしれない。内面、詰まりは精神の奥底にある蠢きが、表層に反映されているのかもしれない。私はいちど視線を自分の膝におろしてからふたたび顔をあげた。彼女のうしろを看護師のおばあさんが台車をおしながらついていった。台車のうえにはランプと木箱がのっていた。魔女は見上げるほどおおきいし、おばあさんは見下ろすほどちいさいし、ふたりは遠目からみると巨人と小人にみえた。

 魔女は内陣にあがりこんだ。少年が立入を禁止したその領域、本来は聖職者だけがはいることを許可される聖域に、躊躇することなく侵入した。彼女は寛いだようすで祭壇に腰をおろした。おばあさんからランプをうけとりそばにおくと、彼女の顔は下から照らされてかがやいた。彼女は「失礼」とひとこというと、右足のヒールを脱いでさかむきにふった。するとそこから小さな石がころがりおちた。笑った。魔女とひとびとからよばれるひとりの女性が、形骸化した教会の中央に、空洞化した信仰の中心に、それも祭壇に堂々と自分の尻をおろして笑っていた。最前列に腰掛けていた少年の背中は怒りでふるえていた。本当にふるえていたわけではない、ただ、私からはそうみえた。

 看護師のおばあさんは木箱からさびた天秤をとりだした。魔女はそれをうけとると祭壇の左端においた。次におばあさんは彫刻らしきかたまりをとりだした。かたまりはこぶりの西瓜くらいのおおきさだった。魔女はそれを両手でうけとると自分の両膝にちょこんとのせた。彫刻ではなかった。頭蓋骨だった。彼女のおおきさに比較して頭蓋骨は子供のそれのようにちいさくみえた。彼女はたちあがると私達のほうにしばらくお尻をむけて頭蓋骨を祭壇の右端においた。そしてこちらをふりかえるとこういった「くれぐれも落とさないようにおねがいします、本物の頭蓋骨ですから」

 看護師のおばあさんは参加者のひとりひとりに透明なグラスを配った。グラスには少量の水がそそがれた。黄色い照明のあかりがグラスの内側で粉々に分裂して反射していた。魔女はいささか事務的ともいえるような落ちついたくちぶりで挨拶をすませると、交友会のながれを簡単に説明した。私は彼女のこうした社会的なふるまい、要するに一般的な社会人としてのふるまいに、しばしばおそろしさをかんじずにはいられなかった。私か、あるいは私以上に逸脱した部分があるのにもかかわらず、彼女はそうした過剰物を完全に隠蔽する技術をもちあわせていた。それどころか隠蔽するまでもなかった。完璧に洗練された社交術をもちあわせているがゆえに、時に逸脱が露見しても、逸脱が逸脱にかんじられず、妙な説得力をもちさえするのだった。それは完成された呪術的文体が、支離滅裂で非論理的な文章にすら、強烈な説得力をあたえるのとおなじだった。たとえば彼女は祭壇に堂々と腰掛けていたが、それにしたって常識的なふるまいとはいえないし、私以外の参加者に違和感をあたえたにちがいなかった。しかしそうした侵犯的行為にも否定しがたい説得力があった。

 魔女の美しさや豊かさや巧みさ、または強さや逞しさや大きさは、それそのものがいかなる弁論術よりも説得力を有していた。正確にいえば説得力ともことなるかもしれない。ひとびとに違和感をあたえながらもその違和感を捩伏せるような強烈な魅力があるのだった。

 魔女は少女のように稚拙で未成熟にもみえたし、同時に貴婦人がごとく老巧で成熟しているようにもみえたが、そのどちらも私には演じられたものにおもえた。またそうした矛盾した特性を状況にあわせて都合良くつかいわけているようにもみえた。患者の立場から彼女の多面的な性格にふれていた私からすると、彼女のそうしたおどろくべき器用さが不気味でならなかった。全く彼女はキマイラ的人格の持主だった。なんにせよこのように、表面的にはおだやかに、交友会の幕はあけられたのだった。けれどもこの時点で事件の予感はあった。破綻のきざしはこのときすでにあったのだ。



 2

 誰も《私と正義》なんて題材で真面目にスピーチなんてしないだろうとおもっていた。ひとりあたり五分程度の自己紹介をすませてから、みんなでちょっとした雑談でもして適当に解散するものとおもっていた。けれどもひとりめから想像以上に型破りなスピーチをきかされることになった。それはここからみて一番左端に腰掛けた女性だった。手足がおれてしまいそうなほど痩せていた。頭にはどんぐりのヘタのような医療用帽子をかぶっていた。目はおちくぼみお世辞にも健康そうにはみえなかった。

 女性は当然のように内陣にあがると疲れたようすで祭壇に腰掛けた。魔女のせいで聖俗の区別はうしなわれてしまった。私達病人からすれば祭壇は休憩するための椅子になりさがった。祭壇の左端には天秤、祭壇の右端には頭蓋骨、中央には彼女が腰掛けていた。彼女は天秤にふれたあと反対側の頭蓋骨を見下ろした。彼女はそれをしばらくながめていた。彼女はいまにも骨になりそうな顔をしていたので、頭蓋骨を見下ろすその横顔は非常に印象的だった。かとおもうとすっと顔をあげた。

「私は真理です」と女性はいった。原稿は用意していないようだった。落窪んだおおきな瞳をきらきらさせながら、思いついたことを思いついたままにかたりはじめた「私は死にます。もうじき死んでしまいます。そこでみなさんにお願いがあります。誰か私とセックスしてください。死んでしまうまえにいちどでいいからセックスしてみたいんです。みなさんは馬鹿にするかもしれませんが、これはほんとうに、ほんとうに、真剣なお願いなんです。抱きしめてほしいんです。抱かれてみたいんです。死んでしまうまえに抱かれたいとおもうことはおかしいでしょうか。セックスにいまさら幻想なんて抱いていません。セックスしたあとにこんなものかと幻滅してもいいんです。むしろそういう幻滅をもとめているんです。処女のままでは幻滅もできません。とにかくセックスしないまま死にたくないんです。いまからするはなしをきいて、私とセックスしてもいいという男性がおりましたら、挙手してください。ただしクンニできる男性にかぎります」

 礼拝室に異様な空気がたちこめた。のっけから正義とは関係のないはなしだった。だからといい誰も真理さんをとめようとはしなかった。彼女がいまからするはなしが真剣であることは最初の数秒で伝わってきた。しかしだからこそどんな顔でこのはなしをきいていいのかわからなかった。人間の本当に切実な告白は、意外と真面目な顔ではきいていられないような、恥ずかしいはなしだったりするものだ。なぜって、人間が隠蔽したがるのは自身の恥部であり、切実な告白とは恥部の暴露にちがいないからだ。いまから彼女のするはなしはまさしくそういう類のものだった。彼女は自分の恥部をさらそうとしていた。

「私は病気なのです」と真理さんはいいそれから澱みなくかたりはじめた「余命はあと半年もないそうです。いま36歳です。37歳にはなれません。これまで仕事一筋でいきてきました。学校では優等生でしたし、家庭でも両親から将来を期待されていました。私は期待通りにいい大学にはいりました。いい会社に就職しました。そしていい同僚にめぐまれました。周囲からは順風満帆な人生にみえていたとおもいます。しかしキャリアを順調に積重ねながらもその一方でたくさんのやりたいことも我慢してきました。子供のころは小説家を夢見ていましたが両親に反対されて諦めました。恋人はいちどもできたことがありません。

 男性に抱かれたことがないんです。愛するひとから全身を丁寧に愛撫されたり、舐められたり、吸われたりしたことがないんです。恋愛を先延ばしにしすぎたことを死ぬほど後悔しています。あと半年もしたら死んでしまうんです。本当に大馬鹿者でした。馬鹿になりたくありませんでした。だから恋愛という馬鹿騒ぎから距離をおいていました。おもいかえしてみると存分に馬鹿になればよかったです。私は馬鹿になれない馬鹿でした。

 学生時代から恋愛中毒の同級生を馬鹿にしていました。たとえば私の友人でいちばんませていたリナは、学生のころから年上の恋人がいました。リナは初恋の相手を愛しているようでした。けれども相手はそんなことありませんでした。彼女はもてあそばれて傷付けられました。体目的の最低な男性だなとおもいました。彼女は年上の恋人にふられたあとも凝りもせずさまざまな男性と恋愛をしました。常に誰か相手がいました。そのたびに傷付けられて泣いていたのです。私もはじめは同情していました。けれどもあるときに気付いたのです。リナが人並みはずれた男好きだってことに。

 クラスメイトにひとりくらいはいますよね。異常なほど男好きな女子。リナはそれでした。リナは私といるときと男子といるときでは別人なんです。相手が男子となると性格もかわるし声色もかわるしなにもかもかわるんです。狼男ならぬ兎女です。彼女は雌兎になるんです。好きな男子にたいして媚びるならわかりますがそうではありません。彼女は男子が100人いたらそのうちの88人に媚びるような女です。それでいながら女子同士ではなしているときは男子ってやだよね〜とこうくるわけです。

 リナは容姿にも恵まれていたので男子もころっと騙されてしまいました。彼女はあきらかに恋愛中毒者でした。見境なく男子からのハートをあつめることに夢中で、それでいながら、常々被害者ぶっていました。彼女は巧妙なストーリーテラーで自分を被害者に仕立てあげるような物語をこしらえるのがうまいんです。特定の恋人がいるときもいないときも、浮気しているときも、いかなるときも、自分を悲劇の主人公にするんです。浮気したり不倫しているときでも自分をかわいそうとおもえるんだからある種の天才です。しかもそういうはなしに馬鹿な男子も騙されるんです。最初は私も騙されていました。しかしだんだんと彼女の正体に気付きました。遂にははなしをきいているだけでうんざりするようになりました。くりかえされるその物語には特徴があるんです。自分が相手からされたことだけをはなして、自分が相手にしたことはふせるんです。彼女は傷付けられたことだけを覚えており、傷付けたことは忘れてしまうような、ご都合主義的な脳味噌をしているらしいんです。だから彼女はいつでも《アンフェアなストーリーテラー》なんです。

 リナはたぶん男好きというだけではなく性欲も強いんです。絶対にそうなんです。女子同士ではじめてマスターべーションのはなしをしたときのことです。そのときの出来事はいまだに忘れられません。最初に彼女は毎日しているといいました。私は、彼女が毎日していると答えたのをはっきりとこの耳でききました。いうまでもなく女子で毎日しているのはだいぶおおいほうです。もちろんそんなのは彼女の勝手なのでふかく追及はしませんでした。しかしそのあと、みんなが週1~2回と答えたあと、彼女はあわてて自分の発言を修正しました。

 性欲が強いのはいいんです。リナは自分の性欲を素直にみとめないし美化しようとするんです。本当はそんなつもりなかった、ことわれなかった、さみしかった……それらすべてが嘘だとはおもいませんが、彼女の場合はそういうはなしがおおすぎるんです。常々受身なんです。受身の立場としてふるまうことで責任を回避しようとしているんです。普段の雌兎っぷりをみていれば自分からしかけているのはあきらかですし、そもそも、性欲が強くなければあんなに男をとっかえひっかえするわけがありません。

 どうでもいい報告もおおすぎるんです。たとえば『昨日は恋人から朝から晩までセックスをもとめられて大変だった』みたいなはなしをしてくるんです。こちとら処女なので共感しようもありませんでした。彼女は男遊びに夢中になるあまり志望校に合格できませんでした。ざまあみろとおもいました。

 リナの男遊びはセックスありきでした。彼女は完全に子宮を中心にいきていました。恋愛中毒者ともいえるし男根中毒者ともいえます。酒を飲めるようになるとさらに彼女は大胆になりました。酒をいいわけに男性に甘えたり触れたり抱きついたりするんです。狙いをさだめた男性となにがなんでも接触しようとします。それでいて女子同士ではなしているときは男子嫌いとして口裏をあわせるんです。男好きな女子って二重人格なんです。

 なんにしてもそうですがプライドをすてられる馬鹿は最強なんです。失敗してもそんなことたちまち忘れてしまいますし欲望のおもむくまますすんでいきますから。子供の成長が早いことにしたってそれが理由だとおもいます。大人は自分のプライドをまもりながらびくびく行動するので成長が遅いんです。初動も遅くなりますし失敗してからの回復も遅くなります。

 小賢しくてプライドばかり高いひとたちはほんとに弱いんです。そういうひとたちって、頭は悪くないんで最初はみんなよりも大人びてみえるんです。けれどもプライドが高いあまり失敗をおそれてなかなか挑戦できません。挑戦してもいちど失敗するとたちなおれません。なので正解のない問題、失敗をくりかえさなければ突破できない問題が非常に苦手で、そういう分野ではおいていかれるんです。特に恋愛がそうです。

 恋愛って馬鹿にならないとできないものだとおもいます。肉体的にも精神的にも大損する覚悟がなければできません。リナは典型的な馬鹿女なので恋愛にはむいていたんです。彼女は人工中絶した数週間後にはほかの男性とセックスするような女性でした。彼女は知恵よりも実践を先行させており、失敗をくりかえしてようやく少々知恵を獲得する女性なんです。一方で自分は彼女と反対でした。

 ええ、すでにみなさんお察しのとおり、私はリナが大嫌いなんです。ひとは嫌いな人間についてはいくらでもはなしていられるもので、私も彼女の悪口をはなしはじめたらそれだけで一冊の本が書けるほどなんです。彼女は私のことなんてなんともおもっていません。彼女の中心にあるのはいつも男で、女友達は男にまつわる不満をはきだすためのゲロ袋なんです。私は彼女から何百時間も愚痴をきかされましたが、結局、彼女はどうのこうのいいながらも男好きなんです。女友達なんてどうでもいいとおもっているからこそ女友達をゲロ袋にするんです。ひとは、本当に大切なひとにたいして、自分の不満や愚痴や悪口を延々ときかせたりはしません。みなさんどうかゲロ袋にされないようにご注意ください。ああ、ほんと、おもいかえすだけでもいらいらします。リナは世界でいちばん嫌いな女です。



 3

 嫌いなひとのはなしなんてしてもしかたありません。ここからは好きなひとのはなしをしましょう。私も恋愛には興味がありましたし機会がなかったわけでもありません。ただそれよりも勉強や仕事など『将来のためにしなければならないこと』に集中していたんです。『将来のためにしなければならないこと』を一通りやりおえたころには三十路でした。盤石なキャリアをきずきあげて、これからいよいよ恋愛、そして結婚……とかんがえていたその矢先です。好きなひとができました。ダニエルという同僚の男性でした。部下でした。

 ダニエルはスーツの似合う素敵な男性で、仕事ができてとても頼りになり、人格的にも優れたひとでした。彼はハンバーガーが好きなくせにピクルスが苦手で、ピクルスだけいつもとりのぞいて、同僚の男性に食べてもらっていました。どことなく犬のような顔付きをしており、真面目だけどときどき子供っぽくてかわいいんです。自分の嫌いなピクルスを同僚に食べてもらっているところもふくめてすごくかわいいんです。なぜってきかれてもわかりません。そのピクルスのやりとりすらいやらしいものにみえました。このときにはもうダニエルに惚れていました。アプローチのかけかたはわかりませんでした。ひとしれずダニエルを観察していただけでした。

 私はもともと好きな男子を観察する趣味がありました。好きな男子を観察して勝手に妄想をふくらませるんです。いわゆる男好きではありませんでした。それどころか男なんてたいがいおそろしい獣かなにかだとかんがえていました。男性側からすれば差別的にきこえるかもしれません。私からするとやはり男性は生理的にうけつけないところもある獣なんです。それでいながらこの獣が非常に興味深いんです。故に男子観察にのめりこむわけですが……実はこの男子観察が底無しの泥沼なんです。コツを掴むまでは時間がかかります、ただ、コツをいちど掴んでしまうともうおしまい、そこからずるずるはまりこんでぬけだせなくなります。私くらいになると1の情報から100万の妄想を展開できるようになります。ただしこれは本当に危険な遊びなんです。

 男子観察をくりかえしていると現実と妄想の区別がつかなくなります。現実男子君を観察しているはずが、妄想をふくらませているうちに、妄想男子君になっているんです。自分で都合良くうみだした妄想男子君が現実男子君をのみこんでしまうんです。こうなるともはや現実男子君が好きなのか妄想男子君が好きなのかわからなくなりますし、そのふたつを、きりはなせなくなるんです。ときには恋愛妄想のしすぎで、恋人同士のようなきぶんになり、そのひとに彼女ができようものなら、被害者意識まで芽生えてきます。実際には恋人でもなんでもないのに浮気されたようなきもちになるんです。そしてひとりで号泣するんです。

 15歳のときなんて、観察対象にしていた男子にたいして、匿名でわけのわからないポエムラブレターを送りつけたこともあります。それもそのポエムラブレターの内容は大人顔負けの性的なものでした。いいえそれだけではありません、このさいだからすべて白状します、当時の自分はなにを血迷ったか、履いていた下着まで相手の男子に送りつけたんです。15歳の少女にしては大胆な変態でした。男子なら女子のパンツは好きなはずだし、性的な内容のほうが彼もよろこぶだろうとおもったんです。そのひとが私のパンツをくんくんしながら発情しているところを妄想するとこのうえなく興奮したんです。妄想のうえではそういう筋書きができていたんです。妄想男子君ならそうするはずだったんです。なぜだかわかりませんが『気持悪がられる』とはおもえなかったんです。結果はもちろん、盛大に気持悪がられました。翌日学校で大問題となり全校生徒が荷物検査をさせられました。犯人は見付かりませんでした。まあかくいう私こそ犯人なのですが。

 とにもかくにも男子観察は想像以上に危険な遊びなんです。特に10代で男子観察にはまるとやばいことになります。相手が有名人ならまだいいかもしれません。けれども有名人の男性は最初からつくりこまれているからだめなんです。仮に有名人だとしてもきらきらしたアイドルよりはバンドマンのほうがいいんです。バンドマンでも売れすぎているのはよくありません。やっぱりいちばんは素人男子なんです。身近にいてぎりぎり手が届きそうなくらいの絶妙な距離感がいいんです。観察対象にした男子の情報はなんでも集めたくなります。そのひとのすべてをしりたくなるんです。さらにいえば『自分しかしらないそのひとの秘密』があるとそれだけでうっとりするんです。なかでも情けないところ・惨めなところ・弱いところ・醜いところ・見苦しいところ、要するに、男子が男子たるがゆえに隠したがる格好悪いところにぞくぞくするんです。99%の女子がキモッておもうような男子の醜態に、私はひとしれず、ときめいたりするんです。理由はわかりません。ダニエルにはそれがありました。

 ダニエルの情報をそれとなく集めているうちに3点の秘密を発見しました。ひとつはダニエルが童貞であること。もうひとつは私に興味があるらしいこと。そしてもうひとつとんでもない秘密を発見したのです。目玉がとびでるようなやばいものです。それは彼のデスクに隠されていました。

 私は、職場に誰もいないときにときどき、彼のデスクのひきだしの中身を覗いていました。もちろんそれはあんまりいいことではありませんが、デスクは社員の共有物ですし、同僚同士が無断で中身を覗いて、ペンを借りたりすることもある職場環境だったんです。個人の貴重品はみんな、鍵付きのひきだしにしまっていました。しかしその日、ダニエルの鍵付きのひきだしはあいていました。私はそのひきだしから、吐気をもよおすようなおぞましい秘密を、発見してしまったのです。

 ダニエルの鍵付きのひきだしには私の写真が5枚ありました。社員旅行の写真で、生真面目に、私の部分だけがきりぬかれて拡大されていました。それだけではありません。なんとその写真にはなにかがかけられていたのです。写真の表面で糊のような液体が乾燥してかたまっていたんです。私の顔を拡大して印刷したらしきそのうちの1枚の写真なんて、顔がみえなくなるほど、液体をなんどもかけた痕跡がありました。そうです。それはどうかんがえても精液なんです。ダニエルは私の写真に精液をかけていたのです。ひきだしの奥まで調べているとさらに18枚の写真が発見されました。それもまた私の写真でした。そしてその18枚にもご丁寧に精液をぶちまけていたのです。計23枚の写真のすべてにそれは付着しており、裏には、射精回数をカウントしたとおもわれる記号まで記してありました。数えてみると89回も射精していました。これはもはや異常な執着としかいいようがありません。

 世界には好きな女性の写真に精液をかけて興奮する男性が存在します。極一部の男性にそうした奇妙奇天烈な性的習性があることはいちおう小耳にはさんでおりました。とはいえ自分が対象にされるとなるとやはりびっくりしました。さすがの私も吐気がしました。男性にはわからないかもしれませんが、職場の同僚から性的なまなざしをむけられることは、なんともいえず気色悪いことなんです。たとえそれが観察対象であるダニエルだとしてもです。

 私はひきだしをしめて発見したものを忘れようとしました。体はふるえていました。怒りにふるえているのか、恐ろしさにふるえているのか、どうしてふるえているのか、自分でもわかりませんでした。警察に通報したいくらいのきぶんでした。それがダニエルではなく、興味も関心もないどこかのおじさんだったら、なにかしらの方法で復讐していたかもしれません。それほどまでに不快だったのです。百年の恋もさめるような気味のわるさです。しかしうちにかえり布団にもぐりこむと、今度は、全身が沸騰してきました。

 ダニエルが職場のトイレでマスターベーションしているところをなんども想像しました。夢にまでみました。彼がどれだけ仕事をてきぱきこなしていたとしてもそれはかりそめの姿にみえました。真面目な表情も滑稽にみえました。私の脳内では、彼がマスターベーションしている性的な光景がちらついてはなれませんでした。観察していると彼がことあるごとに私をちらちらみていることにも気付きました。意地らしくこっそりこちらをみているんです。そのくせふたりで業務上のやりとりをしているときは目をあわせようとしません。下心なんてない紳士のふりをしているわけです。私が距離をつめると顔を真赤にします。あのひとはほんとにわかりやすいんです。

 実験をおもいつきました。ダニエルをじっと見詰めてみようとかんがえたのです。

 ふたりきりで打合わせをする機会をもうけました。彼の隣に腰掛けると資料を確認しながら距離をつめていきました。しばらくするとおたがいの太腿がふれあうほどの距離まで接近していました。最初は前髪にゴミがついているといいわけして顔を近付けました。私が見詰めると怯えるように目を逸らしました。さらに目を見詰めてみると見詰めかえしてきました。十秒ほどふたりで見詰めあい、彼がなにやらうごきだそうとした瞬間、私はさっとはなれました。

 ダニエルは私を夕食に誘いました。夕食を軽くすませたあと、高層ビルの最上階にある、夜景のみえるバーにいきました。男性にエスコートされるのは慣れていなかったので、私はみずから彼をその場所に招待したのです。彼は最初緊張したようすでしたが、カクテルを何杯か飲みほすと、私の顔をうっとりと見詰めるようになりました。口数はだんだんとへり、瞳はみるみるとろけていきました。彼はそのごつごつした指先で、私の髪を愛おしそうになでました。彼は私をおそるおそる抱きしめると、いつになく甘えた声で「キスしていいですか?」と尋ねました。あの瞳ほど、あの声ほど、私を欲情させるものはありませんでした。私は彼の体をおしかえしました。実は……セックスはおろかキスさえしたことがなかったのです。それだけではありません。ここまでくれば彼を落としたも同然と確信していたのです。

 男性をもてあそぶのがこんなに楽しいなんてこのときはじめてしりました。リナを筆頭に世界中の女性達が男遊びにのめりこむきもちもなんとなくわかりました。そこにはリスクを犯すにあたいする愉悦がありました。私にいわせると恋愛は危険な冒険でした。男性自体が危険な生物でした。しかしダニエルはもはや完全攻略済みでした。ここからはボーナスタイムでしかありませんでした。付きあってからが本番とはいえ、すくなくともこの時点では確実に、付きあえるはずでした。

 それからダニエルは私をくりかえし夕食に誘うようになりました。彼からのそうしたお誘いも『あえて』何回かことわりました。お誘いを『あえて』ことわるたびに、彼が寂しそうな、泣きそうな、物欲しそうな表情をするのがたまりませんでした。主人と遊びたがる子犬でした。かわいくてしかたないのです。それに彼が私をもとめてひどく欲情しているのはあきらかでした。何回か焦らしてからお誘いをうけいれました。

 二回目はダニエルのおうちでした。彼のおうちにはおおきなホームシアターがありピザとワインも用意してありました。私的な理由で男性のおうちにおよばれしたのははじめてでした。部屋にはいると男性的ななんともいえないにおいがしました。良いにおいともいえませんが、悪いにおいともいえない、どことなく懐かしいにおいでした。

 ソファに腰掛けたそのときにはもう、彼は服のうえからでもわかるくらいに勃起していました。私は、彼のそうした部分に気付かぬふりをしていましたが、正直、きもちわるいやら、おもしろいやら、かわいいやら……単純には言葉にしがたいきもちがふくらむばかりで、映画を楽しむどころではありませんでした。彼がたちあがるたびに股間がきになりました。おどろくことに最初から最後までずっと勃起していました。滑稽で興味深いのは、彼は勃起しながらも料理の用意からなにまで細部に気遣いをみせて、律儀に紳士的なふるまいをつづけていたところです。映画の合間を見付けては私のいたるところを褒めてくれました。男性が女性にたいしてする口説きかたにもさまざまありますが、彼のやりかたは愚直そのもの、私をひたすら褒めるだけでした。たぶんそういうやりかたしかしらないんです。それで十分なんです。ネイルはいうまでもなく、自分でも気付いていないようなこまかな仕草まで褒めてくれました。そこまで気遣いができるのに自分が勃起していることには気付いていないのです。最初は緊張したようすでしたが、ワインを何杯かのみほすとまた、それはおとずれました。

 私が彼を見詰めていると、彼も私を見詰めかえすようになり、私達の会話はとんとんとへり、ふたりのあいだになんともいえないあの、あのぎこちない空気がながれはじめました。彼は私の手をにぎりしめました。そしてついに愛の告白をはじめました。告白の返事もまてないというようすで、いまにもキスしそうな距離まで顔を近付けて、愛おしそうに私の目を見詰めました。苦悶の表情を浮かべながら彼はキスのおねだりをはじめました。私は手を握りかえしながらも顔を背けました。もちろん『あえて』です。本当は私もキスがしてみたくてたまりませんでした。けれどもキスをする寸前のこうした空気がきもちよくてしかたなかったのです。それはまるでひきよせあう凸凹の磁石が、ぎりぎりの距離でかろうじて合体していないような、極限の緊張状態でした。彼は自分の愛が拒まれたのか受けいれられたのかわからず、宙吊りのままあわれにも、目に涙をうかべていました。キスのおねだりはおさまりませんでした。顔を背けられたくらいではひっこみがつかないほど彼は欲情していたのです。それどころか彼はいよいよ狂おしいほど私の唇をもとめました。泣きそうになりながらもこのうえなく勃起していました。心も体も私がほしくてほしくてたまらないようすでした。私も私で口では拒みながらも体では突きはなしませんでした。むしろ、彼の目を挑発的に見詰めました。彼の瞳から涙がほろりほろりとこぼれ落ちました。仕事をてきぱきこなしている普段の彼とは別人でした。丁寧にアイロンをかけられた白いシャツは乱れ、品のいい灰色のズボンの股間は爆発寸前でした。見詰めあいの時間が終わり、彼から熱烈に抱きしめられているあいだ、私は彼の甘いささやきなどきこえていませんでした。股間に釘付けになっていたのです。彼の性器はズボンのうえからでもわかるほど勃起していただけでなく、脈打っていました。心臓が鼓動するようにそれはびくりびくりとはしたなく脈打ち、意識的か無意識的かわかりませんが、彼はみずから腰を浮かせて小刻みに股間を突きあげていました。全く発情した犬でした。愛の告白はとどまることをしりませんでした。彼は好きです好きですとくりかえしました。私は曖昧に答えてはぐらかしました。それでいながら彼を抱きしめて目を見詰めました。宙吊りにしたまま観察したのです。彼はやがて言葉でキスをねだることも諦めて、単に私にすがりつき、目で訴えたり体をよじらせたりするばかりになりました。時に彼は私から離れようとしましたが私は彼を抱きしめて逃がしませんでした。それどころか耳を舐めてあげたりシャツのうえから乳首を撫でまわしてあげたりしました。そのたびに彼の体はびくびくっと反応するのです。ええ、私は『おあずけタイム』に夢中だったのです。これがほんとに楽しくてよだれが垂れてきそうなほどでした。彼をこうして一時間ほど焦らしているとズボンの股間部分に染みがひろがりはじめました。透明な液体が絹の繊維越しに溢れだしてきたのです。私は彼の股間を握りしめました。おどろいて彼は声をあげました。彼は私にされるがままでした。ベルトを外してなかを覗いてみると、お漏らしでもしたようにパンツの内側はべちょべちょで、それの先端はかわいそうになるほどぱんぱんに充血していました。そのちいさな穴からは透明な液体があふれだしていました。はじめてみた本物のそれはまるでピンクのエイリアンでした。彼のそれは、物欲しそうによだれを垂らしながら、私をもとめていました。彼は吐息を漏らして私を抱きしめました。肉のそれは私の手に包まれながら大喜びで脈打ち、彼は腰を浮かせて股間を突きあげました。ほんの数分でした。数分ほどそれを触ってあげると簡単に絶頂してしまったのです。彼は私の首筋に鼻を擦りつけながら息を荒げて達しました。真白な精液が目線の高さあたりまで吹きあがり、腰はがくがくとふるえて、しばらくのあいだ脈打つそれはおさまりませんでした。精液の量も尋常ではありませんでした。私は自分の手にこびりついた彼の汚らしい白濁液を見詰めました。男性を射精させたのはもちろん、実際に射精するところをみたこともありませんでした。それは興味深く、刺激的で、下品で、眩暈がするほど愉快な体験でした。手についたそれに鼻を近付けてみると、あの、不快で生臭いにおいにおそわれました。

 そのときです、私は真後ろにたおれて鼻血をだしていたのです。

 私もダニエルも混乱していました。なぜか彼は慌てたようすで謝罪をくりかえしていました。相当動転していたらしく自分の精液をふいたちりがみを私の鼻に詰めました。鼻血なんて小学生以来でした。雰囲気は台無しになりました。すぐにおさまるとおもい笑ってごまかしていましたが、鼻血は結局三時間もとまりませんでした。翌日の職場でも鼻血がでました。それからというものたびたび鼻血がでるようになりました。体のあちこちに見覚えのない痣ができるようになりました。病院で検査したときにはかなり病状が進行していました。白血病でした。



 4

 私は入院してからもしばらく病気にかんする具体的な情報はかくしていました。現代医療において白血病は不治の病ではありません。意地でも退院するつもりでいたのです。退院したあかつきにはダニエルと付きあいたいとかんがえていましたし、彼もおそらくおなじようにかんがえていてくれたはずです。入院して抗がん剤治療を開始したので数ヶ月後には彼と会えなくなりました。私が面会を拒絶したのです。髪がのこされていなかったからです。ありとあらゆる方法で自分の病気にかんする情報を集めました。治療のためにならいかなる努力も惜しみませんでした。それでも病気の進行はとめられませんでした。

 病気を隠しきることもできませんでした。入院を半年も続けていれば病状の悪化も疑われますし、すべてをひとりで抱えこめるほど強くもありませんでした。友達に病気の相談をせずにはいられなくなりました。同僚ふくめて友達はたくさんいました。私の病状が深刻であることをしると、友達はみんなして慰めようとしてくれましたし、手紙だけでなくビデオレターまで送ってきてくれました。

 常に病室はプレゼントにあふれていました。ビデオレターの彼等彼女等はいつもきらきらと輝いてみえました。仕事の報告、結婚の報告、出産の報告、笑える失敗談、下らない冗談、馬鹿げた猥談……みんなさまざまな方法で私を楽しませてくれようとしていました。しかしそうした映像を眺めながらも、脱毛や吐気に苦しんでいました。どんなに激励されようと、応援されようと、私がひとりだけみんなからとりのこされていた事実は無視できませんでした。だからやはり病気をうちあけたあとも面会しようとはおもえませんでした。一時退院を許されたときも実家で両親とすごしました。

 私にはもともと複数の交友関係がありました。学生時代の友人達、前職の同僚達、現職の同僚達、趣味仲間などなど。私が病気を患うまでそれらの交友関係はばらばらに独立していました。それはいうなれば鳥の群れと、魚の群れと、羊の群れのように、交わらないものでした。けれども私の病気が悪化するにつれて交友関係は変化しました。これまで繋がりのなかった複数の友達グループが、私の病気を共通の話題として繋がりあい、仲良くなり、そのなかで新たな友情が育まれているようでした。友情だけではありません、愛情も……詰まりは恋愛関係まで芽生えるようになりました。

 闘病生活四年目でした。

 とんでもない事件がおきました。

 リナ、私の世界でいちばん嫌いな女です。

 学生時代の友人、恋愛中毒者のリナからビデオレターが送られてきました。

 リナはこれまでもほかの友人達と混じりときどき映像に映りこんでいましたが、こんなふうに彼女名義で映像がとどいたのははじめてでした。

 リナから送られてきたビデオレターを再生して、数秒間は、なにがおきたのか理解できませんでした。心臓がとまるかとおもいました。最初はあまりのことになにもかんがえられなくなりました。しかしそのあと爆風のような感情があふれてきました。驚きと怒りと悲しみでめちゃくちゃになりました。そこにはリナとダニエルが肩をよせあい映っていました。彼女のお腹はおおきくふくらんでいました。結婚報告でした。心底不快でした。不快で不快で彼等彼女等の笑顔に吐気がしました。多少は覚悟していました。

 ダニエルと自分は恋人同士でもなんでもありません。ふたりですごしたあの日の出来事も、私の写真をみながら89回射精したことも、彼はとうに忘れていたとおもいます。しかしそれでも、むしろそれこそが、不快でした。私だけがひとりでいつまでも彼をおもっていました。彼が恋人をつくろうが結婚しようが想定の範囲です。とはいえ相手が彼女だとはかんがえてもみませんでした。世界でいちばん好きな男を世界でいちばん嫌いな女にうばわれたのです。

 リナとダニエルのセックスをなんども想像しました。数十人の男性とかぞえきれないほどのセックスをくりかえしてきた百戦錬磨のリナが、童貞のダニエルを肉体的に支配することなんていともたやすいでしょう。彼女は本当に狡猾な雌兎でした。これまでさんざん自分は男遊びしてきたくせに最後は真面目な童貞男と結婚したのです。彼が彼女を抱きしめてよだれでもたらしながら腰をふっている場面を想像すると頭が爆発しそうでした。

 友人達のよこすプレゼントが、あるいは彼等彼女等がさしむける善意のほとんどが、だいぶまえからことごとく不愉快でした。リナにしても高校を卒業したあとはたいして仲良くもありませんでした。そういうたいして仲良くもない友人達までわらわら参加して……私の病気を都合のいい神輿に利用しているようにしかおもえませんでした。全くそれは健康なひとたちが『かわいそうな病人』を高所から見下ろして、みんなできもちよくなる善意オナニーにちがいありませんでした。これまでやまほど送られてきたビデオレターには、たしかに、私のために泣いてくれている友人もいました。しかしそれもいまとなっては、善意オナニーにしかみえません。詰まるところあのひとたちは、自分よりも不幸な人間を見下ろして、同情しながらも優越にひたり、自分の恵まれた環境を噛みしめながら、『かわいそう』とこれみよがしに憐れんでみせて、善良な自分をまわりにひけらかし、涙という体液を垂流してきもちよくなっているだけです。他人の不幸をオカズにして目から射精しているだけなんです。これだったらダニエルのオカズにされて89回も精液をかけられていたあのころのほうがましです。それどころかあのころこそが人生のハイライトだったかもしれません。

 私は性格が悪いんでしょうか。捻くれているんでしょうか。たしかにそれもそうでしょう。おおくのひとたちからみれば、私は間違っていて、彼等彼女等は正しいのかもしれません。けれどもこれだけはいわせていただきたい。あのひとたちは自己中心的です。彼等彼女等の正しさは彼等彼女等のためにあるものです。決して私のための正しさではないんです。自分達の正しさ、自分中心の良心や善意や正義を相手の都合もかんがえずにおしつけているだけです。リナのビデオレターなんてもはや恋愛テロリズムです。

 私はプレゼントを全部拒絶して彼等彼女等と完全に連絡をたちました。

 私達はいきている世界がちがいました。

 孤独な闘病生活がはじまりました。

 副作用に耐えながらも抗がん剤による治療を続けました。しかしよくなりませんでした。去年、最後の望みをかけて骨髄移植に挑戦しました。強烈なリスクのともなう手術でした。新しい骨髄を移植するまえにいまの骨髄をからっぽにしなければなりませんでした。手術の前処置として致死量の抗がん剤を四日間にわたり投与されました。同時に毎日大量の水を点滴で体に入れていき毒素を抜きました。覚悟していましたが前処置の苦しみは想像を絶するものでした。私の肉体は一般のそれよりも強烈な拒否反応をしめしました。嘔吐をくりかえし目は真赤に充血しました。苦痛のあまりなんども意識をうしないました。朦朧とする意識のなかで幻覚や幻聴に襲われました。それも前処置は前処置でしかありません。本番はこれからでした。骨髄移植当日、首に管をさしこまれて骨髄液が徐々に注入されていきました。移植二日目でした。地獄がおとずれました。呼吸ができなくなりこれまで経験したことのない苦しみに支配されました。体勢をいくら変えても苦しみからは逃れられません。全身をのけぞらせベッドからころげおちました。大量の抗がん剤を投与したことによる副作用でした。急性心不全をおこし心機能障害から呼吸困難に陥ったのでした。肉体の故障とはおそろしいもので一箇所故障すると連鎖的にほかのところも壊れていきます。数日後には肺も心臓も限界に達していました。全身麻酔をうたれて人工呼吸器で二十四日間生死の狭間をさまよいました。

 目覚めたとき、すべてが夢のようにみえました。いまでもときどき夢のなかにいるようなきもちになります。全く世界がそこにあること、生きていることは奇跡でした。管を抜いたあとも咳がとまらず苦しい期間は続きました。それでも体調は回復していきました。スポーツドリンクを飲んだときは感動して泣いていました。口から飲んだりするのは一ヶ月振りでした。それまでほとんど絶食状態でした。副作用の影響で味覚障害でした。味なんてまともにしませんでした。食欲があったわけでもありません。はじめはむしろ食事に苦しみもともないました。しかしそれでも、回復するにしたがい、口から食べたり飲んだりする幸福をおもいだしていきました。

 骨髄移植から二ヶ月後、病気は再発しました。それだけではありません。合併症とあわせて癌も発見されました。私の体は病気と障害のなんでもデパートになりました。自分でも自分の肉体が壊れていくのがわかるほどでした。私自身も担当医もできるだけのことはしました。しかしもう終わりです。終わりなのです。この終わりはさけられません。死をうけいれて余生をすごすことにしました。闘病生活から解放されたのです。

 自分の人生をふりかえり『どうしてあんなくだらないものにこだわっていたのだろう』とかんがえるようになりました。おもいかえしてみると、死をうけいれるまえの私は、つまらないことに囚われすぎていました。ひとからどうみられるかだとか、なんていわれるかだとか、こうするべきだとか、ああするべきだとか……いまおもえばほんとにどうでもいいことです。ひとからなんていわれようと好きにすればよかったんです。どうせ生まれてきて死ぬだけなんです。そのほかは取るに足らないことばかりです。

 死をうけいれてからというもの、ゆっくりと、すべてが変わりはじめました。世界が徐々にちがうものにみえるようになりました。後悔でもあり発見でもありました。ここまできてようやく気付きました。それはある晩の出来事でした。中庭のベンチに腰掛けていました。降り積もる雪のうえで兎が交尾をしていました。そのようすをみているときにはっきり自分の欲望に気付いたんです。

 セックスしたいんです。抱きしめられたいんです。愛されてみたいんです。みなさんからすれば、いまの私は、いいえここまではなしてきたすべてが、下品で耳をふさぎたくなるような、見苦しいはなしにきこえたかもしれません。汚なくて痛々しくて貪欲な女にみえたかもしれません。そのとおりです。私はこれまで隠していただけで、事実、汚くて痛々しくて貪欲な女なんです。あるころまでは薄幸の美少女のように、最後まで美しいままとりみだすことなく、死んでいきたいとかんがえていました。今回のスピーチにしたってぎりぎりまで詩的で迂遠な表現をかんがえていたんです。しかしいまさらそんな小細工までして自分をとりつくろう意味もないんです。そのままいえることはそのままいえばいいんです。セックスしたいならセックスしたいといえばいいんです。私は素直にこういえるようになるまであまりに時間をかけすぎました。ここまで命が短いとはしりませんでした。

 人間は汚くて痛々しくて貪欲な存在なんです。闘病生活を続けていてそのことが痛いほどわかりました。闘病は汚いことだらけです。手術をするたびに体の傷は増えていきますし、血を吐いたり、げろを吐いたり、うんちやおしっこを漏らしたり、自分でもなにがなんだかわからない体液が体のあちこちからあふれだしたりするんです。人間の肉体って、命って、こんなに汚くて臭くて痛くて苦しいんだって、闘病していると気付かされるんです。どんなに美しくみえる男性だろうと女性だろうとみんなおんなじです。誰であろうと一皮剥けばその中身は血みどろなんです。美しいのは皮だけで、皮のそのまたさきの、ぐちゃぐちゃしたところのほうがよほど深いんです。私もかつては皮ばかりみていましたが、いまとなればわかります、このぐちゃぐちゃしたところこそが、目を逸らしたくなるようなこのおぞましいぐちゃぐちゃこそが、命なんです。病気になるとそのぐちゃぐちゃが皮を突きやぶり飛びだしてくるんです。だからまいにち、生きているだけでも嫌気がさすし、うんざりするんです。でも、それでも、この汚くて臭くて痛くて苦しい命を、すこしでも長く生きていたいっておもうんです。見苦しくても痛々しくても、この命をできるかぎり楽しんでから、死にたいっておもうんです。

 いまの私は男性を満足させるような美しい女性ではありません。髪もはえていませんし痩せてやつれているし傷だらけです。でもできるだけの準備はするつもりです。カツラもかぶりますし化粧もしますし体もきれいにします。私のもとめているものは犬や猫がもとめるものとなんらかわりません。単に愛をもとめているんです。一晩でいいから、嘘でもいいから、愛したいし愛されたいんです。本当の愛でなくてもいいんです。本当の愛なんて探しはじめたら百年あってもたりません。セックスしたところですべてが満たされたりもしないでしょう。虚しさものこるでしょう。それでもいいんです。どっちにしろ虚しさはのこるんですから。ですから、誰かお願いします、セックスしていただける男性は手をあげてください……」

 礼拝室が沈黙に満たされた。最後の言葉はかすれておりききとれなかった。女性はおちくぼんだ眼球をかがやかせながら席の端から端までみわたした。誰も手をあげてはいなかった。それどころか声もきこえてこなかった。真理さんの顔から微笑みが消えていった。痩せこけた頬を涙がこぼれおち、どんぐりのヘタのような医療用帽子は、いまにもずりおちてきそうだった。誰も彼女を笑うものなどいなかった。

「長くなりすみませんでした。ありがとうございました」真理さんは落胆したようすで腰をあげた。帽子がおちた。彼女はあわてて帽子をひろいあげると禿げた頭にかぶりなおした。長い髪がかつてそこにはえていたなんて想像もできなかった。彼女は口元をヘの字に曲げながらあふれる涙を袖でぬぐった。席にもどろうとしたそのときだった。手が二本同時にあがった。ふたりとも男性だった。

「すみません……私でよければお相手させていただけませんか」ひとりめの男性は律儀にたちあがりそういった。

「これは同情ではありません、非常に感銘をうけました、僕も立候補させてください」ふたりめの男性もたちあがりそういった。

 真理さんはおどろいていた。目をみひらいてふたりの男性を交互にみた。ひとりめは軍人風の男性で肩幅があり頼もしい印象、ふたりめは学者風の男性で洗練された印象、どちらも不快な印象はなく素敵な男性にみえた。だからだろうか、彼女はしばらくのあいだ、お洋服でも見比べるように両者の顔をなんども見比べていた。それは他人からみてもいささか失礼とおもえるほどだった。

「ありがとうございます」真理さんはそういうと最初にひとりめの男性を抱きしめて、次にふたりめの男性を抱きしめた「ふたりともこれからよろしくおねがいします」

 ふたりの男性はおどろいたようすだった。どちらかひとりをえらぶものだとおもっていたのだろう。私もそういうふうにおもっていた。おそらくこの場にいた全員がおなじようにおもっていた。しかし彼女は両者とセックスするという第三の選択肢をえらんだのだった。彼等は彼女の背中をささえながら席までエスコートした。

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