第1部-第5章:図書室事件 ~シモーヌ・ヴェイユにまつわる論争~
【警告】
この作品は、非常に重層的で長大な複雑な物語です。また、暴力表現、差別表現、性表現、著しく偏りのある政治的主張、反社会的及び反道徳的な哲学/思想、その他、不快な表現が含まれます。現実と虚構の区別の付かない方、善と悪の区別の付かない方、心身の健康状態が不安定な方は、読書を御控えください。
【第1部:美徳の紊れ ~モラルな上半身的精神~】
第5章:図書室事件 ~シモーヌ・ヴェイユにまつわる論争~
1
聖歌がきこえてきた。図書室のとなりの礼拝室で合唱の練習をしているようだ。彼等彼女等の歌声は思考をいちどさえぎってそれからとおざかった。
原稿はおおむね書きおえた。まだ書きなおさなければならないところはあるが仕上げは時間をすこしおいてからにする。本棚から漫画をぬきとると図書室のまんなかの共同机で読みはじめる。普段漫画はあまり読まないがこの病院に全巻揃っているものはだいたい読んでしまった。
漫画の奇妙なところは人気作のほとんどが少年漫画か少女漫画のどちらかにわかれているところだ。小説の世界にも少年小説や少女小説というジャンルがあるといえばある。とはいえそれが少年漫画や少女漫画のように大人気ジャンルかといえばそうでもない。人気小説のおおくは少年小説でも少女小説でもない。私は少年小説にも少女小説にもそこまでなじみがない。それゆえに少年漫画と少女漫画が市場を席巻している状況に違和感があるのだ。トイレでもあるまいに漫画を性別でわける必要性もあまりかんじなかった。
トイレにいくときも多目的トイレを使用する。分類されることにたいする拒絶感がこういうところにもあらわれている。性別に特別敏感というわけでもなく分類全般に敏感なのだ。性別は社会にたくさんある分類のうちのひとつでしかない。少年漫画や少女漫画の区別にとりわけ文句があるわけでもない。単にはじめはそこに違和感をおぼえたというだけだ。読みはじめてみると少年漫画や少女漫画にもおもしろいものがあった。
今、読んでいる少年漫画もおもしろい。しかしさすがに飽きてきた。この漫画に飽きているというよりは少年漫画自体に飽きかけている。最初に読んだ数種類の少年漫画はとてもおもしろかった。たとえば主人公が海賊王を目指す漫画はわくわくした。あとは主人公が鬼退治する漫画も。ただ何種類か読んでいるとおなじことの繰返しにもおもえてきた。というかこれは繰返しだろう。しかも最初に経験した少年漫画体験がいちばんでそれをこえられない。もしかすると私は過去の感動の幻影をおいかけているだけなのかもしれない。特に特殊な能力を使用したバトルには飽きた。
一般的に娯楽とは飽きるにしたがいふかめていくものだろう。娯楽としての読書にしてもそうだ。新しい書物に挑戦していかないと読書という行為自体に飽きてしまう。登山とおなじで慣れていくにしたがい挑戦の難易度をあげていかないと新鮮味がうしなわれる。常に書物をえらぶときはちょっと背伸びするくらいが丁度良い。人気の少年漫画は漫画文化においておそらく入口なので、ずっとそこにいたら飽きてあたりまえなのだろう。だいたい私は少年ではない。少年漫画の作者にはなんの非もない。前進しようとしない自分がいけないのだ。そんなのはわかっている。それでも少年漫画を読んでいる。自分の病室では読まないのに図書室にきたときは読む。理由は単純、たぶん、友達がほしいのだろう。
人気の少年漫画は共通の話題にしやすいはずだ。自分のような他人と接点をもたない人間に共通の話題はかかせない。正直なところ漫画を読んでいるというより漫画を読んでいる演技をしているといっても過言ではない。図書室でこういう演技をしておくだけでもなにかの機会にはなるかもしれない。虚しさをかんじないでもない。本気で漫画を好きなわけでもないのに、本当は漫画に飽きているのに、共通の話題作りのためだけに漫画を読んだりするのは虚しい。図書室で漫画を読んでいて実際にはなしかけられたことはいちどもない。ああ、そういえば、海賊王の漫画を読んでいるときにはなしかけられそうになったことはある。しかしそのときははなしかけられるまえに逃げてしまった。こわかったのだ。
こわい。そう、こわいのだ。
友達がほしいのに友達をつくるのがこわい。私は人間と仲良くなるために巣穴からでてきた虫である。人間からみたら私がこわいのかもしれないが私からみたら人間がこわい。恐怖の起源がどこにあるのかはわからない。理由をきかれてもわからない。人間にたいするこうした恐怖は虫がこわいのとおなじくらい理由のわからないのものなのだ。正確にいえば人間がこわいというより会話がこわいのかもしれない。そのなかでも対等な会話がこわい。こわいけどいちばんしてみたい会話とはそういうものだ。医者と患者のする会話ではなく友達同士のする対等な会話がしてみたいのだ。
友達がほしいのにはなしかけられるのをまっているだけなんておかしなはなしかもしれない。自分からはなしかければいい。けれども私にとってそれはとてもむずかしい。ほとんどできっこないはなしだ。来週の交友会のスピーチもうまくいくかわからない。そんなにうまくはいかないだろう。無事にスピーチできたらそれだけで進歩といえる。私のような人間からすれば人生のうちでひとりでも友達ができたらそれで十分成功なのだ。その友達にたいしても永遠の友情なんてもとめるつもりはない。最高の友情ももとめない。人並の友情でいい。数年もしくは数ヶ月でもいいから普通の友達付きあいがしてみたい。ただそれだけのことだ。
少年漫画の主人公がかかげる壮大な夢ではないが……まあこんなものだろう。
私は海賊王になりたいとはおもわない。おおきな目標をもちたいともおもわない。おおきな目標が『友達をみつける』というちいさな目標にまさるともおもわない。『友達をみつける』という目標は人生をとおしておいもとめるにあたいする目標だろう。ちいさいようにみえておおきくて、おおきいようにみえてちいさいこともあるし、ちいさな目標をおいかけているうちにおおきな目標をおいかけていることもあるかもしれない。しかしなんにせよいまの私には目標が必要だ。
友達ができたらしてみたいことはやまほどある。たとえばすきな書物にかんしてかたりあったり、だれもしらない秘密の公園でかたりあったり、星空を見上げながらかたりあったりしてみたい。いちばんしてみたいのはかたりあいなのだ。自分がいちばん苦手で避けてきたことだからこそ経験したい。友達とかたりあえばなにか奇跡でもおこるんじゃないかとさえおもっている。病気がなおったり障害がなおったりこれまでの人生が嘘みたいにまえむきにすすんでいったり。おそらくそんな奇跡はおきないのだろう。けれども友達がひとりでもできたら確実に自分は前進したといえる。私にとってそうした前進は病気や障害と名付けられている生きづらさを治療するよりも意義深い。そもそも……生きづらさって問題なのだろうか。
生きづらさとはなんなのだろう。生きていくうえでの苦しみだろうか。私の場合は、苦しみそのものが問題とはいえないようにもおもえる。いっそ苦しみたいとおもっている。そうでなければどうして過酷な戦場で死んでいくことを妄想したりするのだろう。やはりだれかのために苦しみたいのだ。正確にいえば自分の苦しみになんらかの理由をあたえたい。自分の命がなにかの役に立てるのであれば生きづらくてもかまわない。そのためになら命を捨てたいしそういうふうに死ねたらしあわせにちがいない。自分の命により、あるいは苦しみ、もしくは生きづらさにより、そのぶんだれかがしあわせになれたら、それは私がしあわせになるよりも意義深い。しかしいまのところ私の命も、苦しみも、生きづらさも、だれのためにもなっていない。生きづらさそのものよりもそうした理由の不在に耐えられない。
漫画の主人公には困難がつきものだが、主人公がそれをのりこえられるのは、その冒険に目的や意味や価値を見出しているからだ。主人公の冒険に目的も意味も価値もないまま困難ばかりがふりかかったらどうだろう。物語にならないしひたすら苦しいだけである。これとおなじようにひとは自分の命の苦しみを正当化するような物語をもとめている。たとえば苦痛をこらえながら勉強しているひとたちも仕事をしているひとたちも、そこになんらかの目的や意味や価値を見出せるから頑張れるのだろう。だが、どうにも目的や意味や価値が見出せない苦痛もある。私の苦痛はそういう苦痛である。
正面に中年の男性と女性が腰掛けた。私のまさに真正面、書物の頁をめくるときのかわいた音もききとれるほどの距離に、ふたりはたまたま腰掛けた。私と彼女達のあいだにはほんの一メートルくらいしかない。ふたりが私を認識しているかはわからない。この図書室にはかぞえきれないほどかよったがこれまでだれとも会話をかわしていないのだから、ふたりが私をしらなくてもなんらおかしくはない。ただ私のほうはふたりをだいぶまえから認識していた。ふたりは図書室でみかけるたびに哲学のはなしをしていた。あるいは哲学書を読んでいた。男性はソクラテスマニアで女性はカントマニアである。私は読んでいた漫画をとじると今度は『重力と恩寵』を読みはじめた。シモーヌ・ヴェイユである。ふたりはそれまでの会話をぴたりとやめてこちらをちらちらとみた、とおもえばふたたび哲学談話をはじめた。
ふたりを尊敬していた。ふたりの人柄はよくしらないがソクラテスマニアとカントマニアであることだけはわかっていた。どちらもひとりの哲学者と手間暇かけてむきあう研究者気質の読書家である。特に女性のほうは大学の哲学科出身で博士号持ちである。彼女の愛読書とおもわれる『純粋理性批判』は付箋をはりすぎて頁を開く側が盛りあがっているほどだ。男性のほうにはどれだけ専門的知識があるのかわからない。ただすくなくともソクラテスにかんしては一家言あるようだった。
歳もひとまわりほどはなれていそうだし友達になるのはむずかしいだろう。こうしてシモーヌ・ヴェイユを読んでいれば興味くらいはもってもらえるかもしれない。読書仲間くらいにはなれるかもしれない。私は彼女達から背表紙がみえるように『重力と恩寵』をすこしもちあげた。カントとソクラテスに精通したふたりならシモーヌ・ヴェイユにたいしても多少なりとも興味がある。
シモーヌ・ヴェイユは尊敬する思想家のひとりである。彼女は西洋哲学と神秘主義の伝統が交差するところに位置する思想家である。彼女はそれを外側からながめて解剖しただけでそれを理解したつもりにはならない。それの苦しみをみずから飲みこもうとする。そうした苦しみのうちからそれに接近しようとする。それを理解するというよりもそれと同化しようとする、すくなくとも同化しようとしているようにみえる。このような意味で彼女は神秘主義の伝統を継ぐものである。
『重力と恩寵』を読んでいるとふたりの視線をかんじた。私と彼女達のあいだに会話はなかった。顔をあげる勇気はなかった。緊張してきた。耳をすました。声がきこえてきた。図書室に彼女達の言葉はひびいた。ふたりはシモーヌ・ヴェイユのはなしをした。シモーヌ・ヴェイユを読んでいる私のすぐまえでシモーヌ・ヴェイユのはなしをはじめたのだった。耳をかたむけずにはいられなかった。私達はたがいに手を伸ばせば届きそうな距離しかはなれていなかった。きこうとしなくともきこえてきた。ふたりはきかせようとしていた。そうとしかおもえなかった。
2
「シモーヌ・ヴェイユ……あれはポエムかな」と女性。
「彼女はいかんせん女性だから哲学はむずかしいだろうよ」と男性。
「失礼だなあ、たしかに論理的な思考が苦手な女性もすくなくないけど」
「ごめんごめん、じゃぁなにかいきみは、ヴェイユを哲学者としてみとめるのかい」
「哲学者とはみとめられないかな。あれはロジックではなくてポエムでしかないから」
「そうだよねえ」男性が納得したようすでそうこたえると女性はこのように説明した。
「ヴェイユはエキセントリックな生きかたで死後に注目を浴びただけでしょう。本気で哲学を勉強しているひとで彼女を評価しているひとなんてほとんどいない。大学でもそんなひとみたことないもん。哲学にかぎらず素人ほどああいうひとが好きなんだよ。なんていうんだろう。自殺した作家をもちあげたりさ。結局、書いているものを読んでいるわけではないんだよね。書かれた背景に興味を惹かれているだけで中身なんてたいして読んでいない。自殺した作家をもちあげる読者のたいはんはそう。自殺という部分に興味を惹かれているだけ。そういう読者はその作家が自殺していなければ興味ももたなかったとおもう。シルヴィア・プラスなんかまさにそうでしょう。ほんとみんな好きなんだよねえ。かわいそうでよわくて病んだ女性のふわふわした詩的な文章が、さ。思春期の少女ならまだしも男性もそういうのが大好きなんだから。ほんとよくわかんない。綺麗な言葉で寝ぼけたこといっているだけなのに。アカデミックな環境で堅牢な文体に慣れしたしんだ自分にいわせるとなにがいいんだか。彼女達の軟弱な文体じゃ、学術的な批判や検討や異論には耐えられそうもない。まあそういう軟弱な文体すら『硝子のように繊細で純粋でうんたらかんたら』なんていう美辞麗句でごまかすんだろうけど」
「単に病的なだけだよねえ」と男性。
彼は相槌をうちながら彼女のはなしをきいているだけだった。
「そのとおり」女性はふかくうなずくと景気付いたようすでさらにはなしをつづけた。あてつけにきこえた。いいや、あきらかにあてつけだった。彼女の言葉には悪意がふくまれていたし、たとえあてつけのつもりはないにしても、配慮があまりにかけた態度におもわれた。どうしてわざわざシモーヌ・ヴェイユを読んでいる私のまえで、私にきこえるように、シモーヌ・ヴェイユを批判するのだろうか。私達がたがいに議論をかわしあう仲間かなにかならわからなくもない。けれどもそうではない。会話もかわしたことがない。シモーヌ・ヴェイユを読んでいるのが恥ずかしくなった。どこをみていいのかわからない。彼女達のほうをみることもできなければ文字に集中することもできない。いまここで『重力と恩寵』をとじるのもいやだった。読んでもいないのに読んでいるふりをして頁をめくった。彼女はこのようにつづけた。
「単に病的なだけ」女性はそういうとこちらをさらっとみた。もしくはみたようにみえた。そしてこういう「単に病的なだけでそこに真理なんてないでしょう。思想畑のひとたちは病的なものをやたらともちあげたりするけどさ。これも問題だよねえ。うん。どこに系譜があるんだろう。美術かなあ、文学かなあ、退廃主義的というか神秘主義的というか……なんにせよ真理とは関係ないし学問ではないよねえ。そうかんがえるとカントはやっぱり偉大なわけよ。論理的に明晰に厳密に記述しているし言語化して体系化しているもん。シモーヌ・ヴェイユは自殺しているわけではないけど彼女の奇行はなかば自殺みたいなものだし、明晰な文章も書くんだけどところどころで言葉になりきらず、曖昧な表現に逃げこんでいるようにもみえる。ユダヤ差別的な側面もあるし倫理面でも評価できない。差別主義者だもの。教師という仕事をほうりだして工場ではたらきはじめたのだって到底意味のあることだとはおもえない。彼女としては労働者の苦しみによりそうという目的があったのかもしれないけど、それにしても、労働者にたいする階級差別的なまなざしがなかったとはいえない。同情的なまなざしと、差別的なまなざしは、きりはなせるものではないから。現場の労働者からみてもわけのわからない女としかおもわれていなかったでしょうし……まあひとことでいうと聖女気取りの病んだ女性でしょう。洗礼も拒絶したらしいから正統なキリスト教徒ともいえない。正統な聖女とも正統な神学者とも正統な哲学者ともみなせない。単に病的なものが注目されているだけだとおもうなあ、私は。あれを読んでいるのもあらかたそっちのひとなんでしょう。病的なところが自分にあるから、そういうひとたちが彼女の病的な部分に惹かれるわけよ。そうとしかおもえない」
「シモーヌ・ヴェイユの著作をきちんと読みましたか」私はおもわず口を挟んでいた。自分でも意識しないうちにその言葉はとびだしていた。私がおどろいていたように彼女達もおどろいていたようだ。ふたりはこちらをじろりとみていた。彼女は控えめにほほえんでみせてからこうこたえた。
「すこしは読みましたよ」
「すこしは……ですか?」
「ええ」
「すこしは……」私はくりかえした、そしてこのようにつづけた「人間の精神は宇宙です。書きのこした言葉のうちすこし読んだくらいでなにがわかりますか。著作を部分的に読んだくらいでなにがわかりますか。シモーヌ・ヴェイユという人間の、あるひとりの思想家の、なにがわかるというんですか。貴方に、貴方達になにがわかるというのですか」私の声はこのときすでに自分でもわかるくらいにふるえていた「貴方達はみえていない部分にたいする想像力が欠如しているのです。貴方達は人間の精神を、またそれによりもたらされた書物を、理解するよりもまえに裁いているんです。理解するよりもまえにはかろうとしているんです。貴方達のちいさいものさしで。貴方達のはかれるおおきさは、貴方達のものさしのおおきさをこえることはありません。そこまではいいんです。勝手にそうすればいいんです。しかしなんにせよ言葉とは、言葉とは距離が大切です。書物にかきこまれた言葉はとおくからきこえます。けれども貴方は私のすぐそばにいますし、私は貴方のすぐそばにいるんです。私達はちかいんです。言葉をえらぶべきではありませんか。貴方達は私に、私に直接、直接的にそのちいさなものさしをあてがおうとしているのです。たしかに貴方達は巨人の肩のうえにいるかもしれません、ですが貴方達は巨人ではありません。その違いをわすれるからうぬぼれるのです。巨人の肩からちいさなものを見下ろして、自分がおおきくなったように勘違いするくらいならば、巨人の肩からおりて、巨人を見上げて、自分のちいささを自覚したほうがいくらかましです。それに……」ここまでくると私の言葉はとまらなくなっていた「シモーヌ・ヴェイユはユダヤ系の家庭にうまれた女性です。たしかにユダヤ教徒ではありませんがユダヤ差別の加害者とはみなせません。どちらかといえばユダヤ差別の被害者です。仮にシモーヌ・ヴェイユにユダヤ差別的なところがあるとして、もちろんそうみなせるところがひとつもないとはいいません、とはいえ、もしそうだとしても、彼女の記述のいちぶにそういう箇所があるからといい、それでもって彼女の全体を断罪したりはできないでしょう。貴方がしているのは広大な田畑のうちから、虫がついている葉だけとりだしてきて、この田畑は汚染されている、というようなものです。それに労働者にたいする見下しのまなざしがあったとしても、同情的なまなざしがあったとしても、そのことを理由に差別主義者と断罪するのはあまりに厳しいとおもいます。貴方の理屈でいえばカントもソクラテスもアリストテレスも差別主義者であり倫理的に評価できないことになりますよ。カントには反ユダヤ的思想が散見されますし、ソクラテスやアリストテレスなんて奴隷制度をなかば是認していた立場ではありませんか。カントやソクラテスやアリストテレスは差別主義者だから倫理的に評価できないというんですか。その理屈でいえばイエスふくめてあらゆる聖人君子でさえも倫理的に評価できない人物ということになりませんか。彼等彼女等でも倫理的に評価できない人物になるのなら世界のどこに倫理的に評価できる人物がいるのですか。私達はみな倫理的な欠点をかかえた人間であるはずなのに、どうして他人にたいしてそうやすやすと倫理的な完全性をもとめるのですか。貴方達は聖人をみおろして倫理的に裁けるほどえらいのですか。倫理的なのですか。貴方達は象をちいさいから評価できないと馬鹿にするありんこです。違いますか。私達は聖人ではないのだから、私達は聖人にはなれずに薄汚れているのだから、聖人の袖についた汚れを指差すよりもまえに、自分の汚れとむきあうべきでしょう。それともなんですか、ええなんですか……貴方達は彼等彼女等よりも倫理的に生きてきたとでもいうんですか」
「それは詭弁かなあ」と女性は眉間に皺をよせながらいいかえした「たしかに私達も聖人ではないけれど、だからといい、差別が許されることにはならないでしょう。いかなる差別も許されてはなりません。だからカントのような偉大な哲学者でも批判されているんですよ。それに私達がどうかとういうはなしと彼女がどうかというはなしは別問題。そこに論点のすりかえがあるんです。貴方はアカデミックな空間で専門的な訓練をうけてきたことがないからわからないかもしれないけど、学問の世界で、そういう詭弁は通じません。それに私のいいたいのはそこではありません。彼女は病的で論理も破綻しているといっているんです。正統な聖女とも正統な神学者とも正統な哲学者ともみなせないといっているんです。貴方もそうですが、彼女の熱心な読者のほとんどは、彼女の病的な性格や奇妙な生涯に共振しているだけです。彼女の書きのこした言葉自体にたいした中身はないでしょう」
「論点のすりかえ? 論点のすりかえなどしていません。事前に用意された議論でもないのだからそもそも適切な論点は最初から自明ではありません。貴方は一方的に論点を固定していい立場にもありません。貴方のいう詭弁とはどういう意味ですか」「ここでいう詭弁とは間違った論法という意味です」と女性は間髪入れずにこたえた。彼女は睨みつけるようにこちらをみていた。私は続けた「論点を変えることは間違った論法ではありません。すくなくとも『論点を変えること=間違った論法』とはいえませんしそこには論理の飛躍があります。論点決定権が貴方にあるわけでもありません。論点確定権も論点固定権も貴方にはありません。論点ははやい者勝ちできめていいものではないんです。論点とは双方手探りで見付けだすものであり適切な論点が発見されるまではうつりかわるものです。あるいは適切な論点が発見されるまではうつりかえなければなりません。最初に見付けた不適切な論点を、最初に見付けたからといい適切な論点とおもいこみ、不適切な議論を続けるのはそれこそありがちな失敗です。論点の身勝手な固定こそ詭弁にちがいありません。
それにどうやら貴方は勘違いしているようです。倫理とは社会で共有される規範です。スポーツでいうところのルールです。それはみんなできもちよく守れるルールでなければなりません。貴方のようなひとは、自分は競技の外側にいると勘違いしているようですが、貴方もそうした競技の内側にいるのです。貴方は他人にたいしてルールを一方的におしつけていい立場にはありません。自分を棚上げして他人にだけ規範を課すのならそれは支配です。貴方は倫理という競技の選手であり審判ではありません。もういちどいいます。貴方は倫理という競技の選手であり審判ではないんです。競技者の立場であり傍観者の立場にはないんです。自分以外の競技者に厳しい規範を要求するのなら当然貴方にもそうした規範をまもる義務があります。貴方が他者にたいして『いかなる差別も許さない』というのなら、貴方自身ももちろんこれからいかなる差別もしてはならないはずです。そして貴方の差別は死後も許されてはならないものになるでしょう。貴方が他人にくだした審判はそのまま貴方にかえってくるのです。倫理・道徳・正義にかんしては何人も審判になれないのです。審判の立場から他人を裁けるのは神だけであって、大上段から一方的に他人を裁こうとする人間は、自分を神かなにかと勘違いしているうぬぼれ屋です。それに私にいわせれば、私にいわせればですね、貴方のさきほどからくりかえす『病的』という言葉も十分差別的にきこえます。いいんですいいんです。慣れているのでそんなことはどうでもいいんです。重要なのは私ではありません。問題は彼女です。シモーヌ・ヴェイユです。シモーヌ・ヴェイユほど……シモーヌ・ヴェイユほど倫理的に生きた人間もいませんよ。シモーヌ・ヴェイユは特定の党派に安住することなく、教会に所属することもなく、善悪のどちらかひとつを選りごのむこともなく、矛盾さえもかかえこもうとして、常に社会でいちばん苦しんでいるひとたちに自分をかさねようとしたひとです。それを病的というのなら極度に倫理的であるということは病的なことにほかなりません。
それに、それにです、貴方は論理だなんだといいますが思索の方法は論理的思考だけではありません。学術的記述ないし論理的記述だけが思索をふかめるうえで有効な記述方法というわけでもありません。論理的記述が非論理的記述とくらべて正しいとする根拠などありません。論理的思考が直感的思考とくらべて正しいとする根拠もありません。大学の研究室で緻密な論理を構築したところで、それだけで、それを真といえる根拠はどこにもないのです。労働者の頭にふとよぎるひらめきよりも、瞑想者の霊感よりも、神秘家の体験よりも、貴方達の論理が優れているとする証拠はどこにもないのです。アカデミックな空間における思考の規範は、あくまで、アカデミックな空間における思考の規範であって、知的営みはアカデミックな空間だけにあるものではないんです。歴史をふりかえってもむしろ大学従事者の役割はきわめて限定的なものです。すくなくとも人文学においては、市井のひとたちの知恵や、思想家、神秘家、宗教家、芸術家、実務家の知性が学問のそれよりも先行しています。凡百の学者はあとからそれらをまとめているにすぎません。学術的記述とはそもそも先行者の記述ではないのです。それはあとから分類したり整理するときの記述方法なんです。知的営みにおいて学者はいちばんうしろからついてくるのろまな亀なんです。そしてそれでいいんです。それはそれでいいのですが、そういう立場でありながら、そういう立場をわきまえず、市井のひとたちや、思想家や神秘家や宗教家や芸術家や実務家の知性を見下すようになればおわりです。要は傲慢なんです。
『女性は論理的思考が苦手』という意見が偏見にすぎないことはいうまでもありませんが、そもそも、そもそもですね、『論理的思考が非論理的思考よりも優れている』という価値観自体がひとつの偏見なのです。論理至上主義というのはもともと、中世の大学など男性を中心とした言論空間において制度化された、狭量極まりない価値観です。そうした制度の外側ではいわゆる論理的ではない思索の方法で、真理に接近しようとしたひとたちがたくさんいたんです。特に女性は理性的ではないとみなされていたので制度の外側におかれていたんです。神学や哲学の分野における権威にはなれなかったんです。キリスト教文化圏において、女性の神学者や哲学者がほとんどいないことにされている一方で、神秘家に女性がおおいのもこれが理由です。けれども、だからこそ、女性は大学という制度の外側で、正統な学問とはまたことなる方法で、真理に接近していたのです。もちろん、それはかならずしも、貴方のいうような論理的なものではありません、しかしだからといって価値がないともいえないのです。それどころか、彼女達が祈祷・幻視・法悦・預言ないし神秘体験をとおしてつかんだものには十分に価値があります。このような意味でシモーヌ・ヴェイユの思想は西洋哲学と神秘主義の交流点にあたるのです。
だいたいですよ、カントが偉大な哲学者であることはみとめますが貴方はカントではないんですよ。カントがシモーヌ・ヴェイユを馬鹿にするならまだしも、なんでもない貴方がどうして大上段から彼女を馬鹿にできるんでしょうか。それにそもそも、カントの言葉をありがたがっている人間なんて、世間からみればほんとうに少数でしかありません。仮にそれが論理的に緻密なものだとしても、おおくのひとたちからすれば、だからなんだ、ということでしかないのです。またそうした市井のひとたちの素気ない態度もあながち間違いとはいいきれません。カントだけではありません。ヘーゲルやハイデガーのような知の大建築家達にしてもそうです。彼等が緻密な論理で構築した巨大な伽藍が、全くいきりたった男性器と同様に、ある種の欲望の象徴では《ない》と、だれが断言できますか。それらがいかにおおきかろうと、それらが無用の長物で《ない》とだれが断言できますか。私は、神学にしても哲学にしても、それがいくら立派なものにみえたとしても、ときに砂上の楼閣におもえてなりません。ブッタやイエスはそうした論理の楼閣のうえから、市井のひとたちを見下しましたか。病人を馬鹿にしましたか。それとも貴方はもしかすると、貴方のいうアカデミックな空間とやらが、ブッタやイエスのいたところよりも高いところにあるとでもおもっているのですか。神学者や哲学者が彼等よりも高いとこにいるとでもおもっているのですか。聖典や神話やそのほかもろもろの文学作品よりも学術的論文のほうが高いところにあるとでもおもっているのですか。ありえません。全くありえないはなしです。学問はいつからそんなに偉くなったのですか。
貴方は彼女の、詰まりはシモーヌ・ヴェイユの言葉は論理が破綻しているといいますが、それにしたって、だからなんだ、というはなしでしかありません。矛盾の肯定や、対立する概念の撞着・転倒・錯綜を思想にくみこむことは、文学においてはもちろん、神秘主義においてはめずらしくありません。東洋哲学ではよくみられるものです。西洋哲学においては、古代においてヘラクレイトス、近代においてニーチェが矛盾を包摂した思想を展開しています。ニーチェにかんしていえば学術的記述ないし論理的記述を捨てさり文芸的記述を採用しています。なんにせよ、なんにせよです……現実を直視するかぎり矛盾は否定できるものではありません。破綻のない辻褄合わせの論理こそむしろ想像の産物でしかないのです。それがいかにわかりやすく単純に整理にされており洗練されているようにみえたとしても、それは偽の模範解答にしかならないのです。シモーヌ・ヴェイユの言葉が表面的に矛盾してみえるのは彼女が現実と対峙していたからこそ、対峙していたからこそ、矛盾しているようにみえるのです。矛盾してみえるその言葉はこけおどしの修辞ではありません。
学術的記述において一般的に修辞は嫌忌されるものです。論述は物事を単純にいいあらわすために余計とみなされる贅肉をふりおとそうとするのです。けれども、世界を論理化ないし単純化するにあたり取捨されるそれ、論理を洗練する過程で都合良くけずりおとされるそれ、詰まり余計とみなされる贅肉、修辞とみなされる言葉のほうにこそ、現実の複雑な様相が反映されているのです。理性という彫刻刀が、世界という複雑な大樹から単純な彫像を掘りだそうとするそのときに、世界が単純な論理に還元されてしまうそのときに、まさにそのときに、けずりおとされる膨大な無駄、無駄とみなされてしまった細々とした事実の集積、屈折や歪曲や錯乱をはらんだ木屑のやまにこそ、世界はあるのです。シモーヌ・ヴェイユは虚飾を嫌いました。修辞を嫌いました。けれども世界を単純な論理に還元するような過ちは犯しませんでした。彼女の著作を真面目に読んでいたらあのひとが矛盾を否定していないことくらいしっているはずです。彼女は矛盾を積極的に肯定しています。『矛盾だけが現実のすがたであり現実性の基準であると』と書いてます。ここにしっかりと書いてあるんです」私は自分の手元にある『重力と恩寵』を指差しながらいった。枝のようにほそい指先は震えていた。このときはじめて自分が『病的』といえるほど興奮していることを自覚した。けれどもだからこそ言葉をおさえこめなかった。それは傷口からこぼれる血液のようにあふれてきた言葉だった。しかしそこで喉を詰まらせたように突然言葉がでなくなった。ここまで饒舌が続いたことのほうが異常だった。
「なんだかよくわからないけど」と女性はいった。そのあとなにが語られたのはよくわからなかった。私の意見を要約しながら彼女は理路整然とそれらに反論した。滑舌良くききとりやすい彼女の話術に圧倒された。即興で手際良くくみたてられていくすきのない論理、引用される古典、高度な学術用語……到底反論できそうにもなかった。反論どころか彼女の主張があまりに学術的で理解できなかった。彼女のたくみな弁論は哲学者のそれというよりも弁護士のそれだった。仮にこれを対等な論戦とみなしていいのだとしたらだが……自分でもわかるほど劣勢にたたされていた。攻守逆転はたちまちだった。勢いよく反論していた数分前の自分がまるでまぼろしのようだった。劣勢を自覚できないほどの馬鹿であるのならよかった。そこまでの馬鹿にもなりきれなかった。中途半端。中途半端なのだ。中途半端な知性こそが自分の劣等な立場を自覚させたのだった。自分の意見が丁寧にぱちりぱちりと潰されていることくらいはわかった。ぱちりぱちりという音をききとれるくらいの理性はのこっていた。彼女の頑丈で精緻な論理のまえでは、あるいは、権威付けられた体系的知識のまえでは、私の言葉は無力だった。彼女の言葉に耳をかたむける余裕もだんだんとうしなわれていった。悔しさ、情けなさ、動揺するきもちをかくすので精一杯だった。男性は審判のようにじいっとこちらの顔を観察していた。視線は右に左におよいだ。遂に顔をあげていることもできなくなった。机のしたで自分の両膝にのせていた両手は動揺でふるえていた。私は痙攣する唇をかくすために口元を手でおおった。しかしその手もまた痙攣していた。悲しみをかくすために怒ろうか、怒りをかくすために笑おうか、あるいは言葉でとりつくろうか、いかにごまかそうと、そうしたごまかしの素振りこそ、私の最もごまかしたいもの……惨めさがあらわれるのがわかった。故に沈黙したまま耐えしのぶしかなかった。彼女は沈黙を見逃さなかった。彼女はいちどおしだまると心配そうにこういった。
「どうしたの?」と彼女はいった「私も『病的』なんて差別的ないいかたしたのはもうしわけなかったけど、だけど貴方はやっぱり、気分がすこしすぐれないようにみえる。冷静さをかいているというか、興奮しているというか、精神的に正常な状態にはとてもみえない。あんなまくしたてるように意見をぶつけられてもね。失礼だけどもしかして貴方は、五階の……?」
「違うんです」虚勢をはることもできなかった「私は、私は差別云々をいいたいわけではないんです、貴方のようなひとはどうして、どうしてすぐにそうした社会の問題におきかえるのですか。私達の問題です。私達の。ここには私達しかいないのだから、私達がどうおもうかでしかないじゃないですか。仮に私が五階の患者だとしてなんなのですか。そんなのどうでもいいことです。どうでもいいんです。どうしてそんな表層的なはなしばかりにこだわるんですか」
「落ちついて」女性はうろたえるようにそういった。私の全身に精神的苦痛がじんわりひろがりだした。興奮で麻痺していた羞恥がいよいよその感覚をとりもどしたかのようだった。唇のふるえはとめようもなかった。それどころか肩までふるえだし目からは涙があふれだした。手で拭おうとそれはとめどなくこぼれてきた「私は……私は……貴方達を尊敬していたんです……はなしてみたかったんです……いいまかしたいわけではないんです、別にむずかしいはなしでもなくて、それが、ただそれが、それが悲しいんです」
『重力と恩寵』は涙でゆがんでみえた。ほんのすこしまえまで、彼女達にはなしかけてもらうために、これみよがしに『重力と恩寵』を読んでいた自分をおもいだしてますます情けないきもちになった。女性と男性は顔をみあわせて言葉を詰まらせていた。彼女達は異常なものでもみるようなまなざしをもはや隠そうともしていなかった。それはきもちのわるい虫をみるようなまなざしだった。
「すみませんでした」とだけいいのこし『重力と恩寵』を掴むとたちあがった。振りかえると図書室の出口に魔女がいた。興味深そうにこちらをながめていた。頭が真白になりどうしていいかわからなくなった。気付いていないふりをしながらそそくさと窓際の席にもどると交友会のために用意した原稿をピンク色の手提袋にしまいこんだ。
「どうかしましたか?」魔女の声だ。ヒールの足音が静かに、けれどもたしかに近付いてきた。彼女は間違いなく私を捕獲しようとしていた。こんな状態で彼女に会いたくはなかった。ここまで回復しかけていたのにふたたび病室に閉じこめられるのは絶対に嫌だった。咄嗟に禁書室のほうにむかいかけだしていた。