泣いた令嬢
婚約者に愛を覚えた季節もあった。
燃え上がるような恋ではなかったけれど、確かにイングリッドは婚約者であるヨハルヴァのことが好きだった時もあったのだ。
だが、いつしかヨハルヴァの隣はイングリットではない別の女性が侍るようになっていた。
それも連日違う女性を。
ヨハルヴァは、その女性たちへは甘く蕩けるような笑顔を向けるのに、イングリットにはあからさまに冷たい態度をとるようになった。
だからいつかこんな日が来るんじゃないかという予感はしていた。
「イングリットとは婚約破棄する」
覚悟はしていたが、いざ言われてみると自分でも思いのほか驚いたようで、イングリットは瞳を見開く。
その刹那、両目からボロボロと涙が零れた。
慌てて扇で顔を隠したイングリットは、か細い声で「承知しました」とだけ言い残すと、その場を逃げるように掛け去って行った。
一方、婚約者を屋敷へ呼びつけ、婚約破棄を言い放ったヨハルヴァは、イングリットが見せた涙に呆然としていたが、やがて頬が赤く染まる。
「な、なんだ。やっぱりイングリットは私のことが好きだったんだな。冷たくしても、違う女を侍らせても嫉妬してこないから、婚約破棄なんて最終手段を使ってしまったが、やっと本心を知ることができた」
ショックからか、すごい速さで立ち去ってしまったイングリットを抱き締められないことがもどかしい。
「あんなに泣くなんて本当に私のことが好きってことか。いくら気持ちを確かめるためとはいえ可哀想なことをした。明日になったら慰めて、きちんとプロポーズをしてやらなければな」
可哀想だと言いながらもヨハルヴァは愉悦に浸る笑顔を見せる。
「今まで関係していた女は全て切り捨てよう。イングリットに痛い思いをさせないための技も磨いたことだし、ここらが潮時だろう」
ニヤニヤとヨハルヴァが一人今後の算段をしている中、馬車に乗り込んだイングリットはまだ涙を零していた。
そんなイングリットへ、彼女の従者がハンカチを差し出す。
ハンカチを受け取ろうとした二人の手が触れて、反射的に顔を上げたイングリットの両目から零れる涙に、従者は困ったような笑顔を見せた。
◇◇◇
翌日、ヨハルヴァは意気揚々とイングリットの家へ向かった。
子爵家の三男であるヨハルヴァが、男爵家の一人娘であるイングリットの家へ婿に入ることで結ばれたのが二人の婚約の経緯だ。
所謂政略結婚だが幼い頃は仲が良かった。
しかし、年が経つにつれヨハルヴァは、どうせ婿に入るのだからとイングリットの扱いをぞんざいにしてしまい、気づけば彼女からも無関心な態度をとられるようになってしまっていた。
だが別にヨハルヴァはイングリットのことが嫌いなわけではない。
というか、むしろ好きである。
それなのに思春期を過ぎた頃から変なプライドがムクムクと沸き上がり、嫉妬心を煽ろうと好きでもない女性と関係を持ったりした結果すっかり拗らせてしまい、焦ったヨハルヴァは婚約破棄などという暴挙でイングリットの心を試したわけである。
あの婚約破棄は嘘で、プロポーズをしたらイングリットはどんな表情になるだろう? きっと頬を染めて今までのつれない態度を謝罪し、可愛らしい笑顔を見せるに決まっているが、そう考えただけで顔がにやけてくるのが止められない。
最近はすっかり訪れていなかった男爵家へ辿り着いたヨハルヴァは、先ぶれ無しの来訪に怪訝そうに眉を顰める執事を、きっと嘘の婚約破棄を信じているせいだと思い、勝手に応接室へズカズカと上がり込むとソファへ腰かけた。
だが、いつもはすぐにやってくるイングリットが出てこない。
10分、30分、1時間。
出された紅茶は既にすっかり冷たくなり、痺れを切らしたヨハルヴァが立ち上がった所で扉が開いた。
「遅くなりまして……本日は何のご用でしょうか?」
そう言って入室してきたイングリットは、酷く憔悴しているように見えた。
ドレスも締め付けの少ないデイドレスで、動きもどこかぎこちなくフラつく身体を従者に支えてもらいながら対面の席へ腰かける。
そんなイングリットの様子に、自分に言われた婚約破棄がそんなにショックだったのかと
ヨハルヴァは仄暗い喜びを感じた。
だが弱っているとはいえ彼女の隣にずっと従者が侍っているのが気に入らない。
思えばあの従者はいつもイングリットに付きまとい、ヨハルヴァが少しでも不埒な真似をしようものならすぐさま横やりを入れてきていた。
婚約者同士なのだから少しの触れ合い位大目に見ろよ、といつも思っていたヨハルヴァは露骨に嫌な顔になる。
「イングリット、こちらへ座ったらどうだ?」
「え?」
不機嫌さが声に出てしまったのか、身体を強張らせたイングリットに、ヨハルヴァは慌てて相好を崩す。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だ。もうお前を泣かせるようなことはしない」
ここ数年拗らせていたため久しぶりに優しく接したヨハルヴァに、イングリットは驚いているようだった。
戸惑うように眉間に皺を寄せると、目を細く眇めてヨハルヴァを見て、次に隣へ座る従者へ視線を移した。
「私の席はここで合っていると思うのだけれど?」
そう言ったイングリットの眉間の皺を、従者が優しく揉み解す。
「ああ、昨晩外されて、そのままでしたからね。大丈夫です、お席はここで合っていますよ」
「そうよね? でもさっきまで寝ていたから、つける暇がなくてよく見えなくて」
「すみません。ご無理をさせました」
見つめ合って話す意味深な会話。
それに甘さと親密さを感じて、ヨハルヴァは苛立って叫んだ。
「な、何をしている!? 婚約者の前で恥知らずが!」
立ち上がったヨハルヴァがイングリット達のソファへ回り込む。
「婚約者? 恥知らず?」
「イングリット、こちらへ来い! いくら呑気なお前でも従者に好きにされ過ぎだ! 夫以外の男に触れさせるなど手打ちにしてもいいのだぞ!」
ヨハルヴァが激高しながら、キョトンとしているイングリットの手を掴もうとしたところで、ピシャリッと腕を叩き落された。
「幾ら格上の子爵令息といえども、私の妻に無体を働くならば容赦はしません」
腕を叩き、イングリットを背に隠しながら言い放った従者の言葉に、ヨハルヴァが目を丸くする。
「は?」
「ですから、私の妻です。イングリット様は昨晩私と結婚されましたので」
しれっと、とんでもないことを言いだした従者に、数秒時が止まったヨハルヴァだったが、やがて同情するように鼻で笑いはじめた。
「ハハハ、何を言ってる? 主人への報われない想いを抱きすぎて、とうとう頭がおかしくなったのか?」
しかし笑われた従者の方は、逆にヨハルヴァへ憐れむような視線を向ける。
「怖れながら頭がおかしいのはヨハルヴァ様の方では? 昨日婚約破棄をなされたのは貴方の方ですよ」
「はっ! あの婚約破棄は嘘に決まっているだろう!」
自信満々に応えたヨハルヴァだったが、従者は益々憐みと侮蔑の色を濃くして冷静に言い放った。
「婚約破棄のような重大な宣言が実は嘘でしたなど、まかり通る訳がございませんでしょう? 貴方が婚約破棄したため、男爵家の一人娘で婿を迎えるしかなかったイングリット様は私と結婚なされた。ですから今は私の妻であり、貴方は妻に無体を働く狼藉者ということになります」
「婚約破棄なとどいう瑕疵がついて、まともな縁談は望めない私に彼は電光石火で求婚してくれ、父も認めてくれたのです」
従者の説明に追随するようにイングリットが困ったように笑う。
その顔が寂しそうに見えて、ヨハルヴァは胸が苦しくなった。
「イングリット、済まなかった。けれど、あの婚約破棄は嘘だったんだ。だから従者風情との結婚なんてなかったことにしていい。私が何とでもしてやるから」
手をのばしたヨハルヴァに、イングリットが瞳を瞬く。
きっと、まだ自分を信じていいか迷っているのだろうと考え、ヨハルヴァが意を決してプロポーズの言葉を囁こうとした時、イングリットがにっこりと微笑んだ。
「何か思い違いをされていらっしゃるようですが、私は彼と結婚できて幸せですので、余計な手回しはお断りしますわ」
ピシャリと言われた言葉に、ヨハルヴァは開いた口が塞がらない。
「……嘘だ。だって君は私に婚約破棄を言われて泣いたじゃないか? 今だってやつれているのは、私に捨てられたと思って悲しんだからだろう? いい加減素直になってくれ、私もこれまでの行為を謝るから」
「婚約破棄を言われて泣いた? ……あぁ」
クスクスクスと笑ったイングリットは、瞳の下を軽く押さえるとコテンッと首を傾げた。
「泣いたのは、驚いて目を見開いたせいでコンタクトがずれてしまったからですわ」
「コンタクト?」
聞き慣れない単語にヨハルヴァが反芻する。
「ええ、私目が悪くて。でも眼鏡は邪魔になりそうでしたので、異世界から来た聖女が最近開発したコンタクトを使用し始めましたの。瞳に直接装着するので確かに邪魔にはならないのですが、目にゴミが入ったりズレたりすると、とても痛くて思わず涙が溢れてしまいますのよ? あの時も驚いたらコンタクトがズレてしまって痛くて、痛くて……」
「泣いたイングリット様も可愛らしかったですけれどね」
「もう! 貴方はそればっかり!」
「本当のことですから」
茶々を入れた従者の胸をイングリットが軽く押す。
その手を優しく掴まえて口づけをする甘い空気を、ヨハルヴァが掻き消すように怒鳴りつけた。
「だ、だがそんなに憔悴している理由は? 私を想って悲嘆に暮れたんだろう?」
「確かに疲れ切ってはいますが、これは……」
ゴニョゴニョと口籠るイングリットの視線を受けて、従者が揶揄するようにヨハルヴァへ流し目を向ける。
「随分と無粋なことを聞くものですね。昨晩結婚したと言ったではありませんか? つまりそういうことですよ」
にっこりと笑ってイングリットの腰をなぞった従者に、ヨハルヴァの顔から表情が抜け落ちた。
「ふ、ふざけるな! たった一晩だぞ! 散々私の邪魔をしたくせに、何でお前はさっさとやってんだよ!」
「だって結婚しましたから」
当然ですというような従者を睨みつけ、ヨハルヴァは今度はイングリットへ非難の視線を向ける。
「イングリット、お前は私が好きだっただろう? それなのにこんな奴に……」
「私の旦那様をこんな奴呼ばわりしないでくださいませ!」
ヨハルヴァの言葉を遮ったイングリットは毅然として告げた。
「確かにヨハルヴァ様を好きだった時もありましたわ。けれど蔑ろにされても好きでい続けられるほど私の心は寛容ではありませんの」
「あ、あれはイングリットを嫉妬させるための演技で、婚約破棄も嘘で、だから……」
何とか弁明しようとしたヨハルヴァだったが、まだショックが大きく、上手い言い訳が出てこない。
そんなヨハルヴァへ、従者は冷たく扉を差し示す。
「おかえりください。好きな相手に愛の言葉一つ贈れないどころか、嘘の婚約破棄までしないと気持ちを確かめられないような輩は、イングリット様の夫に相応しくありません」
さっさと立ち去れと言う視線を受けて、ヨハルヴァは縋るようにイングリットを見つめる。
自分以外の男に抱かれたなど嘘だと言って欲しい。
イングリットの気持ちを確かめるために婚約破棄という嘘をついた自分のように、ちょっと気を引くための狂言だったと言ってくれれば……。
「イ、イングリット……私はお前を……」
「気持ちは言葉に表さないと相手には伝わらないものですね。さようならヨハルヴァ様、昔はお慕いしておりましたが、今は貴方の顔が見えなくとも何の支障もありませんわ。だって興味がありませんもの」
微笑みながら落とされた爆弾に、敢え無く撃沈されたヨハルヴァが木っ端微塵に沈むのを、廊下で控えていた執事が回収する。
そのまま実家の子爵家へ送り届けられたヨハルヴァは、顛末を聞いた父親からこってりと絞られ、厳しいと評判の騎士団へ入隊させられた。
もともと三男だったため、イングリットの家へ婿入りの話がなくなれば平民になるしかなかったヨハルヴァを、騎士団送りとしたのは父親の温情でもある。
しかし、これも自業自得というか、まさに自分が撒いた種というか、複数いた取り巻きの女の一人に刺されて呆気なく騎士生命は終わり、痴情の縺れの責任を取るという形で、刺した女と結婚するはめになったらしい。
元婚約者がそんな悲惨な結末を辿っている頃、イングリットは夫となった従者に今日も溺愛されていた。
「今日も貴女の可愛い顔をよく見せて?」
「あまり見られると恥ずかし……いっ!」
フイッと視線を逸らしたイングリットが、目元をハンカチで押さえる。
「またコンタクトがズレちゃいましたか?」
「ええ。便利だけれど、この痛さは改良が必要だと思うわ」
「そうですね。けれど泣き顔も可愛らしいです」
そう言って零れる涙を舐めとった夫に、イングリットの頬が染まる。
元婚約者に愛を覚えた季節もあった。
けれど今、クリアになった世界でイングリットは夫だけをその目に映し、恋心を咲かせている。
ご高覧くださり、ありがとうございました。