人出品子は悔やむ
シヤが自分の方へと駆け寄るのを確認し、品子は小さく息をつく。
「品子姉さん、いったい何が?」
「やぁ、ただいま。お土産、買ってくるの忘れちゃったな」
自然と出てきた軽口と共に、品子はにやりと笑って見せた。
品子の様子に呆れた顔をしながらも、シヤは肩を貸してくれる。
「井出さん! 品子姉さんをお願いします!」
部屋に入ってすぐにシヤは、彼女には実に珍しい大声で中にいる人物へと声を掛けた。
「えー、なにこれ。今日すっごく忙しいんだけどー」
相も変わらずのんびりとした口調を耳にして、明日人がまだここにいることを知る。
まずはつぐみの状態の確認をしなければと、品子は部屋を見渡す。
室内にはシヤと明日人、それにソファーに誰かが寝かされているのが目に入る。
「あ、あれは冬野君か? そうだとしたら惟之とヒイラギはどこだ? シヤ! 彼女は生きているのか?」
取り乱し叫ぶ品子に、明日人がゆっくりと答える。
「はいはい~、話は後でしてください。取りあえず治療から始めますよ。了承お願いしまーす」
白衣を羽織りながら、気だるげに明日人が品子の傍らにやって来る。
どうやら彼には、相当な無理をさせてしまったようだ。
「気持ちはありがたいが明日人。今の君の顔色は、随分よろしくない。私は取り急ぎではない。君は一度、戻った方がいいのでは?」
品子の提案に、明日人は頭をかきながら苦笑いを浮かべている。
「僕より明らかに体調が悪い方に言われても説得力ないですね。落月の上級者とたっぷり遊ばれていたと聞いていますよ」
「どうしてそれを?」
「この部屋の治療済みの人達を、二条の人に運んでもらっていますので。その時に報告も貰ってます。品子さんが落月のやつを連れて、ここから離れてくれたでしょう。おかげで随分、運びやすかったって言ってましたよ。床が固いですが、そこのシートが敷いてある所で横になって下さい」
つまりは惟之とヒイラギは、二条の人に搬送されたのか。
状況を理解した品子は、言われるまま床に仰向けになる。
「タオルを掛けますね。スカートは脱いでもらってもいいですか。着替えはたくさん準備してあります。動くのが辛いならこちらで処理しますけど?」
「いや、いい。自分で出来るよ」
「……はい、ありがとうございます。あらー。折れていますね、これ」
「例の上級者に、膝と肘でサンドイッチされたからな」
「あぁ。蹴りだけや殴打だけなら逃げ道もあっただろうけど、挟み込まれたんだ。女性に対して、こんなに痛めつけるなんて容赦ないなぁ」
明日人が淡々と状況を報告していく。
「なあ。個人的には、あの時の痛みを思い出すのでやめて欲しいのだが」
「あれ、そうですか? 分かりました。では治療をさっさと始めましょうか。改めて了承お願いします」
「……三条発動者、人出品子。治療を依頼します」
「はい、では始めます。右足がちょっと熱く感じると思いますが、そこは我慢して下さいねー」
天井を眺めていると、シヤが恐る恐るといった感じで品子の視界に入ってくる。
「教えてくれ。冬野君はどうなったんだ?」
「つぐみさんは、助かりました。体の毒も消えています」
毒が消えたとはどういうことだ。
明日人が治療したというのか。
いや、それはあり得ない。
考えがまとまらず、品子は思わず大声で叫びながら起き上がろうとする。
「シヤ、それは一体? どうして彼女の毒が消えている?」
「わあっ! ちょっと、品子さん動かないでください! シヤさん、この人を落ち着かせて! ……ああもう! ここの人達って、ちっとも僕の話を聞いてくれないんだから」
明日人がぼやく中、品子はシヤに肩をそっと押さえ込まれる。
大人しくしてなければいけない。
ようやくそれに気付き、深呼吸をして心を落ち着かせていく。
「つぐみさんは、兄さんの肩代わりによって助かりました」
「肩代わり? でもそれは治療発動者の能力のはず。ヒイラギは、そんな発動能力は持っていないはずだ」
品子の言葉にシヤはうつむいて言葉を続ける。
「私達はかつて、マキエ候補として治療発動の訓練を受けています。適応能力がないという判断で中止されましたが……」
上の連中は、この子達にそんなことをさせていたのか。
自分からその芽を潰しておきながら、よくものうのうと。
自分の中に生まれたどす黒い感情が、体を駆け巡るような感覚。
それを押さえようと、品子は唇をきつく噛みしめる。
「それで、それで兄さんはつぐみさんの毒の全てを引き受けました。そうしたら兄さんの体が黒くなって……」
シヤはそこまで言ってから声を詰まらせる。
「……はい、完了です。ちょっと僕は席を外すので、その間に着替えてもらっていいですか? 脱いだ服は二条の人が持っていくそうなので、あちらの隅にまとめておいてとのことでしたよ」
白衣を脱ぐと明日人は大きく伸びをして、廊下の方へと向かっていく。
「着替え終わったら、声かけてくださいねー」
出て行こうとする明日人に、品子は声を掛けた。
「あ、待ってくれ。シヤ、彼に冷蔵庫から何か飲み物を出してあげて」
「わぁ、ありがとうございます。シヤさん! 僕ねっ、何か甘いやつ飲みたいなー」
「品子姉さんのお気に入りコーヒー。渡してもいいですか?」
「えー、それは駄目。私が全部、飲むから」
「じゃあシヤさん、そのコーヒーちょうだ~い。僕が全部それ飲むー」
発動時の有能さから一転して、子供のように明日人は冷蔵庫へと走っていく。
その姿はパッチリとした二重の目元や色白の肌も相まって、さながら仔犬のようだ。
彼は確か二十一歳だと聞いている。
とてもそうは思えない行動に、思わず笑みがこぼれてしまった。
どうやらコーヒーは、彼の心をとらえたようだ。
ごくりと飲んでから、こちらに向けられるのは輝かんばかりの笑顔。
砂糖菓子のような甘い笑顔は、仕事時のキリリとした真剣な表情とは大違いだ。
そのギャップに、組織の女性達からの人気が高いのもうなずける。
「さて、始めるとするか」
明日人の行動に、笑顔が出る心の余裕を感じながら立ち上がる。
右足には痛みも腫れも全くない。
見事な明日人の能力に品子は感心する。
動くようになった体を一度、大きく伸ばす。
部屋を見渡すとシヤがいない。
着替えが終わるまで、明日人と一緒に廊下で待ってくれているのだ。
気を遣わせたと思いながら、部屋の隅にある着替えを取りに行く。
予備着替えと書かれたケースを開けて、中にあった服を手に取り着替えを始める。
あつらえたように服はサイズが合っていた。
「これは多分、出雲君の手配だろうなぁ。いいよな惟之は、こんな部下がいて。えっと、ぼろぼろになったスカートとシャツは、隅にまとめておけと言われていたな」
衣装ケースから離れたところに、品子の服に負けず劣らずぼろぼろになった服が確かに置いてある。
脱いだ服を抱え、品子は何とは無しに置いてあった服を見た。
「あー、これ惟之のスラックスだ。うわぁ、高そうな服なのに切られてやんの。ざまぁ」
そのスラックスの隣には、見覚えのあるTシャツが並んで置かれている。
「これは、ヒイラギのTシャツか?」
真っ白だった彼のシャツは、黒色でまだらに染まっていた。
思わず手に取り、まじまじと眺めてしまう。
「赤色ではないということは、血ではないのか?」
呟きながら、ヒイラギのシャツを元の場所へと戻す。
「さてっと、明日人に声を掛けにいくとするかぁ」
呼び戻そうと、廊下へと向かおうとしたその時。
「先生……」
か細い声に、体の動きが止まった。
すぐさま声の主の元へと、品子は駆け寄っていく。
ブランケットを丁寧に畳み終えたつぐみが、立ち上がろうとするのを手を伸ばし制する。
「あぁ、冬野君! そのままで休んでいなさい」
つぐみの肩に手を置き、覗き込んだ顔色はとても良好とはいえない。
「ずいぶん無理をさせてしまった。今、痛むところはあるかい?」
「……いいえ。大丈夫です」
声に力がない。
このままこの子は消えてしまうのではないか。
そんな不安に駆られる品子に、つぐみはぽつりと言葉を落とす。
「先生、ヒイラギ君は、……どこですか?」
その問いにどくん、と品子の心臓が跳ねた。
「えっと。ヒイラギは、怪我をしてしまってね。今は治療のために別の所にいるんだ。惟之も同じところにいるよ」
彼女は品子の答えに何も言わずうつむいている。
気まずさから思わず饒舌になるのを品子は止められない。
「シヤと医者が今、廊下にいるんだ。これから声を掛けて帰るところだよ。さて、少し休んだらここを出るとしよう」
そうだ、ここから出て彼女は普通の生活に戻ってもらうのだ。
千堂沙十美の話を信じるならば、この子に危険が及ぶ可能性は低い。
どうかこのまま、平穏な生活を。
そう思う品子に対し、つぐみは口を静かに開く。
「私は……。私は、少し前に目を覚ましました」
うつむいていた彼女は、品子の顔を見上げてくる。
「先生。肩代わりというもので、ヒイラギ君は私の体を治したのですね」
――だめだ、どうしよう。
この子を傷つけたくない。
その願いはもはや、誰も叶えてくれない。
「先生が着替えてヒイラギ君の。……黒くなっていたシャツを眺めているのを見て、ようやく理解しました」
「違うんだ。君は何も悪くないんだ。だから……。だから、どうか」
消え入りそうな声で、つぐみは言葉を続ける。
「私が、私がヒイラギ君をその『怪我』をさせた張本人だということに」
震えた声。
彼女は。
……彼女は泣いていた。
「違う! それは違うんだ! それは君が負うべきものではない!」
心がきしんで苦しい。
まるでそれから逃げるかのように、大声をあげてしまう。
その声に反応したシヤと明日人が、部屋へと駆け込んできた。
「私っ、私がっ、ああ……」
彼女は顔を手で覆ったまま、泣き続けている。
手から伝う涙が、彼女の途切れた言葉を語るかのようにとめどなく落ちていく。
……どうして私は。
こんな優しい子の心を、傷つけてしまうことばかりしてしまうのだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい。
もう、これ以上はもう。
「……明日人、シヤ。悪いけど先に帰っていてくれるかい?」
泣き続けるつぐみを、品子は抱きしめていく。
「私は最後の片づけを終えたら、彼女と帰るよ。……だから、お願い」
「……わかりました。シヤさんは僕が家まで送り届けましょう。それでいいですか?」
「うん、ありがとね。明日人」
明日人がシヤを促すように、背中にそっと手を添えた。
そのままシヤは数歩すすんだが、明日人を見上げると強い意志を持って告げる。
「ごめんなさい。少しだけ……」
品子達のそばに駆け寄ったシヤが、つぐみの膝にそっと両手を乗せた。
シヤの口が、何度か開いては閉じる。
そうしてようやく出てきた言葉は……。
「……ありがとう、ございました」
たった一言。
人と接するのが苦手な彼女が、精いっぱいの思いを込めた言葉。
それだけを呟いて、シヤは明日人の元へと戻る。
しばらくして、扉の閉まる音が品子の耳に届く。
今、この部屋に響いているのは彼女の悲しい泣き声だけ。
「冬野君。少し落ち着いたら、聞いてほしい話があるんだ」
しゃくりあげる彼女を抱きしめたまま、品子は話す。
「それが。……それが、全て終わったら帰ろう」
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