蝶の力
「どうか、彼女を見逃してほしい。代償は、……私の命を以って」
目の前の女性が、凛とした表情で伝えるのを室は黙って聞いていた。
足の骨は折れているはずだ。
自分は一切の加減をしなかったのだから。
だが彼女はその痛みなど見せることなく、背筋を伸ばし膝をきちんと合わせ、何事もないようにふるまっている。
相当な覚悟だと、室は感じ入っていた。
確かに冬野つぐみの件は、室と奥戸しか知らない。
品子は命を差し出すと言っているが、今の室にそれを刈り取ることはたやすい。
当初は奥戸の毒で少し動きが緩慢になっていたが、薬のおかげでそれも今は全く問題ないのだ。
従って相手にこそメリットがあるが、室には何も得るものがない取引の提案といえる。
その条件をどうしてのむ必要があろう。
本来なら一蹴するところではある。
だが室はそうはせず、品子へと問いかけることを選んだ。
「お前は……、十年前のマキエの関係者か?」
自分の問いかけに、品子は小さくうなずくと室を見上げてきた。
「私はマキエ様の姪に当たる。私の母とマキエ様の配偶者である方は兄妹だ」
なるほどそういうことか、と室は合点がいく。
彼女は十年前の出来事を再現しているのだ。
十年前にマキエは自らの命と引き換えに、その場にいた白日の発動者達の助命を自分へと求めて来た。
だが……。
「しかしあの時と今では状況が全く違う。前回は見逃すことに我らにもメリットがあった。だが、今回のお前の命でと言うのは釣り合わない。お前のその高潔さには、感服するがな」
室の発言に、品子に驚きの表情が浮かびあがる。
十年前、交わされたある密約。
彼女はその事情を知らなかったのだ。
震える声で彼女はちいさく呟く。
「では、どうして。……まさか!」
全てではない。
だが彼女は何かに気づいたようだ。
だが自分には、その真相を教える義理もない。
死ぬ前に真相に近づいたことは、彼女にとって幸か不幸か。
「お前のような存在を、失くしてしまうのは惜しいがここまでだ。せめて苦しまずに眠ってくれ」
近づいて来る室に品子は叫ぶ。
「ならば、冬野君は!」
「お前の後を追ってもらう。いろいろと知り過ぎたよ、その子は」
「お願いだ! あの子は本当に何も知らない! 我々に関わっていた訳ではない。頼む!」
死を決意した女性というものは、美しいものだ。
悲鳴に近い懇願を聞きながら室は思う。
すがるような目つきで室を見上げる品子の姿は、世のほとんどの男性が彼女が願えば叶えてしまうであろう美しさを湛えている。
だが今の室には、そのような美しさも些末なこと。
室は自身の右手に集中を始める。
発動が完了すれば、彼女との会話も終わりだ。
だがどうしたことか、発動が全く起ころうとしない。
思わず自分の右手を見つめる。
いつもと同じようにしか見えないのに、力の発動が出来ない。
それどころか、体が動かせなくなっていることに室は気づく。
「体の自由がきかない?」
思わずつぶやいた室の言葉に返事が来る。
『駄目だから』
どうしたことか、体の中から女の声が響いてくるではないか。
「体の中からだと? お前は、……誰だ?」
『させない。あの子には絶対に危害を加えさせない』
品子が室の声に驚いた様子を見せている。
つまり謎の女の声は、自分にしか聞こえていないということ。
自分の中に一体、何がいるのか分からないままの室に女の言葉が再び響く。
『あんたが勝手に飲んでおいて、その言い草ってないわ』
「勝手に飲んだ? ならばお前は」
思い当たるのは、先程の薬。
『つぐみには。あの子には絶対にあんたなんかを近寄らせない!』
「お前は、……渇望の娘か?」
『そうよ、あんたたちの言う特別なお薬の元の女よ』
「なぜこんなことを? いや、なぜこんなことが出来るんだ?」
『そんなの知らないわよ。私はただ強く願っただけ』
その言葉と同時に、室の足が勝手に動き出していく。
「一体、なんだ? ……これは?」
『なんか蝶道っていうらしいわよ。あんたは私と楽しくお散歩の時間』
「蝶道だと? それは奥戸の……」
◇◇◇◇◇
一体、何が起こっているのだ。
相手からの交渉決裂を聞き、品子は死を覚悟していた。
だが一向に変化がなく、見上げれば室は一人で何か呟いているではないか。
「お前は渇望の女か?」
その発言に、千堂沙十美の姿が思い浮かぶ。
この男には彼女が見えているのか。
だが周りを見渡しても、自分と室の他に人の姿はない。
さらに室は品子など目に入らない様子で、ぎこちない動きをしながらこの場から離れていく。
『体を操られて、どこかへ移動させられているようです』
かつてシヤが、つぐみから受けた報告で言っていた行動を思い出す。
「蝶道だと? それは奥戸の……」
室からも動揺した声が聞こえる。
呆けている場合はない。
この状態は、沙十美により作られているのだ。
理由は分からないが、彼女が奥戸の能力を手に入れた。
そうして室を体の中から操り、移動させてくれているのだ。
「この機会を逃すわけにはいかない。急いで撤退を」
再び動き出したことで、きしむような足の痛みが襲う。
「ぐっ、くそっ。こんなところで時間を食っている場合じゃないんだよ」
沙十美の采配により、室はビルとは反対方向に歩かされている。
じりじりと移動をしながら思うのは、つぐみのことだ。
今頃、あの子はどうなったのだろう。
正直あのままの状態では、自分が帰る頃には……。
駄目だ。
今はそんなこと考えている場合ではない。
あの子は待っていると、自分に言ってくれたのだ。
その思いを胸に、品子は足を前に出していく。
「だから私は帰る。約束だ。あの子との約束を!」
焦りのためか無意識に右足に少し力が入り、痛みにバランスを崩し品子は転倒してしまう。
打ち付けた痛みに、声を上げそうになりながらもなんとかこらえる。
「ははっ。這ってでも、行くしかないな」
両手と左足で這いながら、少しずつ前進していく。
……見苦しいこと、この上ない。
今の自分の姿を想像し、口の端が上がる。
そんな矢先、目の前を何かが横切った。
何事かと目を向ければ、手の甲に蝶が止まるとちくりと手に小さな痛みが走る。
するとどうだろう。
体が勝手に立ち上がろうとするではないか。
どうしたことか、あれほど感じていた足の痛みは消えている。
室と同様に、ふらふらとした動きながら歩けるようになっていることに品子は驚く。
ただ彼女らと違い、自分の意思で行きたい場所に行けるようだ。
一縷の望みをかけて話をしてみる。
「千堂君、君は居るのかい?」
返事は、……ない。
おぼつかない足取りながらビルへ着き、二階へ上がる。
もうすぐ部屋だ。
諦めきれず、品子は再び声を掛けてみた。
「冬野君を助けてくれたのは、君だろうか?」
やはり返事はない。
(でも、もう一度。もう一度だけ!)
思いを込めて言葉を出す。
「……ありがとう、あの子を助けてくれて」
自己満足かもしれない。
だが、これだけは伝えておきたかった。
『……違います。私はあの子を助けていません。それどころか、巻き込みました。あの子をあんな怖い目に』
品子の後ろから声がする。
『あいつはもうここには来ません。つぐみのことも他言させません。どうかあの子に……』
思わず品子は周りを見回すが誰もいない。
でも「何か」がいることは感じられる。
『許されないとはわかっています。あの子を助けたくても私にはもう出来ない。せめて、あの子にごめんなさいと……』
その声が途切れると同時に、再び痛みが襲う。
急に生じた苦痛に耐えられず、無様にそのまま倒れこみ思わず声を上げてしまう。
倒れた音と声が聞こえたのか、扉が開きシヤが姿を現した。
彼女は驚いた顔で品子を見ると、そのまま駆け寄ってくる。
「し、シヤ。……ただいま。部屋まで連れて行ってくれるかい」
辿り着いたことに安堵の息をつくと、品子は近づいて来るシヤへと手を伸ばしていった。
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次話タイトルは「ちがうばしょで」です。




