井出明日人
黒い水の痕跡を消す。
それが今の自分のすべき行動だ。
他は、何も考えなくていい。
ただそれだけを思い、品子は階段を降りビルの出口へと急ぐ。
建物から外に出た途端、体を貫いてきそうな日差しが自分を襲ってきた。
「これだけ日が照らしているならば、すぐに痕跡は消せるな」
手近なところから水を流し始める。
路面を擦るまでもなく水は混じりあい、日差しに焼かれては消えていく。
十分もかからず、店からビルに続いていた黒い水はほぼ消え失せていた。
もう少しだとため息をつき、品子は空を見上げる。
「しーなーこさーん」
この場に相応しいとは思えない、のんきな声が自分を呼んできた。
声のする方を振り返った品子は、小さく「嘘だろ」と呟いてしまう。
予想外の人物が笑顔で手を大きく振り、自分のもとへと走ってくるのだから。
井出明日人。
彼は四条の発動者だ。
ありえない人物の登場に、動揺を隠せず品子は言葉をこぼす。
「なぜだ。四条の発動者は今『祓い』に向けて待機中のはず」
品子の驚きはそれだけではない。
井出は上級の治癒の発動能力を持っている。
この事件は上級レベルの人間が来るような案件ではないのだから。
「ふわぁ~、あっついですねぇ。僕自身が溶けてしまいそうですよ~」
ネイビーのテーパードパンツにグレーの半袖のボーダーTシャツ。
さらりとそれを着こなした青年は、その言葉に反して涼し気な立ち姿でのんびりと話しかけてきた。
ふわりとしたマッシュパーマの彼の髪が、風で揺れるのを眺め、品子も答える。
「君がどうしてここに? っと、その話は後でも出来る。取り急ぎ、診てもらいたい女性がいる。頼む」
「わかりました、と言いたいところですが。ご存じの通り、僕にも出来ることが限られています」
笑顔のままで、明日人はそう答えてくる。
だが彼の目は全く笑っていないのを品子の目は捉えていた。
「あぁ、よくわかってるよ。出来る限りでいい。彼女は私達の為に本当に尽くしてくれたんだ。もう一度、言う。どうか頼む」
「品子さんが、そこまで言うなんて珍しいですね。……急ぎます」
彼は笑顔を消すと、ビルに向かい走っていく。
井出が本気を出せば、彼女の手足を治すことは可能なのだ。
だがそれは出来ないと、暗に彼は品子に宣言をしている。
水を流す作業を品子は再開させていく。
彼が望んで先程の言葉を口にしたわけではないのは、十分に理解している。
知っているだけに、自分が何も言えないもどかしさに品子は唇をかみしめることしかできない。
気持ちを切り替えようと顔を上げ、ふと奥戸の店の方へと視線を向けた品子は息をのむ。
「……参ったね」
思わず言葉がこぼれてしまう。
それは明日人への言葉であったか。
それとも奥戸の店から現れた、一人の男のことだったのか。
品子は考える。
いや、考えざるを得ない。
ーーどうすれば自分はあの男に殺されずに済むのかということを。
お読みいただきありがとうございます。
次話タイトルは「人出品子と室映士の場合」です。
室さん、働きづめです。
頑張って頂きたい。




