さいごのお客様
ぱたんと扉が閉まる。
その直前に振り返ったつぐみが見たのは、十数メートル離れた場所で叫んでいるヒイラギの姿だった。
自分の声は、きちんと届いていたのだ。
ずっと諦めないでいて、本当に良かった。
その思いに、つぐみの目からは涙がこぼれていく。
だがヒイラギは、そこから動かずに立ちすくんだままだ。
呼ぶだけで店の方へ来ない。
それはつまり、見えない扉は彼らを入れないようにする効果もあるということだ。
助けてもらうのは難しい。
ならば今は自力でここを出て、安全な所に行くことを最優先とすべきだとつぐみは悟る。
自分の意思で動けるだろうか。
体に少し力を入れてみれば、押さえつけられる感覚が手足を支配していく。
しかしながら店に入ってからは、その力が弱くなっているように感じられる。
だが今、逆らえばまた操られるに違いない。
体が動くようになってから、隙をついて扉に向かうべきであろう。
ならば状況の確認が第一だ。
つぐみはそう判断をして、店内を見渡す。
部屋の半分ほどは、すっぽりと抜き取られたように片付けられていた。
残りの半分には綺麗なアクセサリーが並び、上からの照明を浴びてきらきらと輝いている。
奥の方に段ボールがたくさん積まれてところを見ると、展示の準備か片づけの最中と言ったところだろう。
ゆっくりとならば悟られないだろうか。
そう思い出口へと目を向けたその時、段ボールが置かれている方向からカタリと物音がした。
(しまった! 人がいるんだ。一連の犯人だったら私はもう……)
本能的に扉へ向けて足を進め、何とか店を出ようとする。
だが急に動こうとしたのを察した何かの力が、再びつぐみを押さえつけてきた。
行動の自由を奪われた絶望を感じながら、つぐみが視線を向けた先の小さな机の前には。
ティーカップが載ったトレイを持って、驚いている様子の男性が立ちすくんでいた。
◇◇◇◇◇
「い、いらっしゃいませ? おかしいな。店の看板はすでに取り外したはずでしたが」
男性は慌てた様子で、手に持っていたトレイを机の上に載せる。
「すみません。この店は今日で閉店でして。もうすでに片付けにも入っておりますので」
申し訳なさそうに、彼はつぐみの元へとやって来る。
アイスグレーのスーツに淡い色味のシャツを着たその人物。
その口調と物腰は、とても柔らかな印象を与えてくる。
マッシュパーマの髪をセンターで分けた柔らかな雰囲気が漂う姿。
眼鏡越しに見える、くっきりとした二重の大きな瞳と綺麗な顔立ち。
この人物が沙十美の言っていた店長なのだ。
その姿からは全く想像出来ない、連続誘拐事件の犯人。
そのことを考慮に入れ、自分は行動せねばならない。
チャンスはある。
彼は閉店なので出て行って欲しいと言った。
まだつぐみを、ただの迷い込んだ客として見ているのだ。
このままなら帰れるかもしれない。
ほっとしながらつぐみは伝える。
「すみません。お店は終わっていたのですね。では失礼します」
どうやら今日でこの店を閉めるようだ。
つまりは、近々いなくなるということ。
彼がどこかにいなくなってしまう前に、品子達に伝えねばならない。
その焦りが、つぐみの判断力を鈍らせていた。
そのまま扉の方に向かおうとして、自分の体の自由が奪われていたのをようやくつぐみは思い出す。
「しまっ……」
ガシャンと大きな音を立てて、つぐみは倒れこんでしまう。
だがその痛みのおかげか、先程まで感じていた拘束がかなり弱くなっているのに気づく。
(う、動ける! 走るんだ、私!)
緩慢にしか動かせない体をもどかしく感じながらも、つぐみは両手で上半身を起こす。
立ち上がろうとするつぐみの左の手首を男性が掴み、そのまま立ち上がらせていく。
「あ、ありがとうございます。すみません。少し体調が優れなくて」
「……いいのですよ、無理はいけませんから。少し休んでいかれてはいかがです?」
「とんでもない。外の空気を吸えばよくなると思うので、これで失礼します」
目も合わせることも出来ず、うつむいたままつぐみはそう言って出口に向かおうとする。
だが彼は、つぐみの手首を放そうとしない。
「あの?」
「せっかく来たのですから、少し休んでいった方がいいでしょう?」
つぐみは反射的に相手の顔を見た。
彼に握られた手首から全身に広がるように鳥肌が立つ。
笑っている。
感情を一切、堪えることもせず。
ただただ、彼は嬉しそうに笑っていた。
「良かったですよ、この店の『さいごのお客様』があなたで」
彼の咲き誇らんばかりの笑顔とは反対に、つぐみの心に芽生えていくのは恐怖心。
「ゆっくり過ごしましょう。あなたか私。どちらかが、もういいと思うまでね」




