汐田クラム
「だから、謝ってくれって言っているんだよ」
会ったばかりでありながら、尊大な態度の男をクラムはさめた目で見つめる。
「言葉、わかんないのかなぁ。そんな目でずっとみていたら、嫌な思いするんだよ!」
強く押されたので、よろめく『振り』をしてやる。
「こいつ気持ち悪いよな。俺達の後ずっとついて来てさ」
男の言葉に、クラムは一歩さがる。
「おい。もうそんな奴、相手にするの止めようぜ」
男たちの一人の言葉に、残りの二人も同意しているのが聞こえる。
なんだ、つまらない。
クラムは自分を突き飛ばした男を見上げる。
期待を込めて。
だが表面上は不安そうな顔つきで眺めた男は、ゆがんだ笑みを自分へと向けてくる。
「俺は何だかまだ、むしゃくしゃしてるなぁ」
その言葉にクラムはうつむき、静かに嗤う。
「それじゃあ俺は、こいつに少しお兄さんとして。『世の中の厳しさ』ってやつを教えてから行くわ」
「ほどほどで帰って来いよ。先に行ってるからな」
意気揚々と仲間に別れを告げた男が、クラムへと向き直る。
「じゃ、言葉が解らないだろうけど、教えてやるよ」
肩を掴もうとする男の手を振り払い、クラムは駆け出した。
目を閉じ発動を開始したまぶたの中で、周囲の景色が広がっていく。
ここから右に行くと狭い道で、人が一人いる。
反対側の左側は同じく狭い道で、辺りに誰もいない。
ならば左だ。
どうだろう、ついてきているだろうか。
目を開き振り返りつつ、よろよろとした足取りで走りだす。
望み通りに男は、にやついた顔で自分を追いかけてきていた。
周囲に人がいないのを確認し、立ち止まる。
近づいてきた男は、嬉しそうにクラムの前に立つと拳を振り上げた。
一回、二回。
顔に男の拳が襲いかかる。
口の中に充満するのは血の匂い。
抵抗もせず尻もちをつけば、男が膝を曲げて大きく蹴り上げようとしているのが見える。
腕を交差させて顔を守る動きに、男がニヤリと笑った直後、腹に痛みが走った。
出すつもりもないうめき声が、クラムの口からこぼれていく。
そのまま続けて肩に二回、衝撃が来る。
ここまでで五回。
クラムは冷静に自分への攻撃を反芻し呟く。
「もうさ、これ正当防衛でいいよね?」
右手に集中して力を込める。
発動の完了を体に感じ、黒く膨らんだ今までの怒りがクラムの心の中から溢れ出していく。
「さぁ、解放しよう。……さようなら、お兄さん」
言葉と共に見上げた自分の表情を見た男が、驚きに顔をゆがませる。
自分が一方的に殴っていた少年が、喜びに満ちた顔をしているのだ。
小さく悲鳴を上げ後ずさる男へ、クラムが右手を振り上げたその時。
「いたー! アンドリュー君ここにいたのね! 先輩方っ、見つけましたよ!」
この場にとてつもなく相応しくない、のんびりとした声が響く。
想定外の出来事に思わず右手を止め、声へと目を向ければ、ビニール袋を下げた女性が笑顔でこちらにやって来るのが見えた。
「とうっ! 鳥海大学柔道部マネージャー冬野! 参上です!」
◇◇◇◇◇
息を切らした女性が、クラムに向けて飲み物が入ったビニール袋を掲げて見せる。
「もうアンドリュー君。勝手にいなくなるんだもん。おかげでみんなの飲み物、私が運ぶことになったじゃないですか」
頬をぷぅと膨らませて、女性は一人で話し続けていく。
クラムはただ茫然と、その様子を見つめてしまう。
その様子を気にすることなく、彼女は来た道へと振り返った。
「先輩方~! 私達ここにいま〜す。早く来てくださ~い!」
「ちっ、誰か来るのかよ!」
彼女が声を掛ける道の反対側へ、男は走り去っていった。
それを見送りながらクラムは考える。
一体なんなんだ、こいつは。
そもそもこの周りには、誰もいないというのに。
目を閉じ、クラムは周りを気配を察知する。
やはり今この辺りにいるのは、さっき逃げて行った男と自分とこの女性の三人だけ。
「つまりは嘘。……何のために?」
呟きが聞こえたのだろうか。
後ろを向いていた女性はふうとため息をつくと、厳しい表情を向け、クラムへと向かってくる。
その表情に、相手が敵の発動者ではないかいう考えが浮かんだ。
「まさか白日? まずい、早くこちらも発動しないと」
右手に発動を集中させようするも、先ほど急に解除した反動が起こり、体に力が入らない。
「そんな、こんなところで僕が?」
声が震えてしまったことに、苛立ちが募る。
自分は上級発動者なのだ、その辺の低レベルの奴らとは違うはずなのに。
「嘘だ! このまま殺されるなんて!」
必死に力を入れるが、体は動こうとしない。
「ぐうっ」
みっともなく後ずさるのが、今の自分の精いっぱいだ。
真っ直ぐに自分の方へと向かいながら、女性は鞄から何かを取り出している。
こんな所に来たせいで。
……やり場のない屈辱に堪えきれず、クラムは思わず目を閉じる。
次にクラムに来た感覚は、頬にひやりと濡れた感触。
驚いて目を開ければ、女性が自身のハンカチをクラムの頬に当てていた。
地面には、ミネラルウォーターが開封された状態で置かれている。
ここに来てようやく、彼女が手当てをしているのだと気付いた。
「あのっ、勝手にアンドリュー君って呼んでおいて何ですが、あなたの名前なんですか? っていうか大丈夫ですか? あぁっ。また聞く順番を間違えているよ、私!」
女性はハンカチに再び、ミネラルウォーターを掛ける。
「ごめんね、痛むでしょうけど」
彼女はクラムの顔に、そっとハンカチを当ててくる。
戸惑っているクラムの様子と沈黙に耐えられなくなったのか、相手は一方的に話し始めた。
「あの。少し前にあなたが四人組に絡まれているのを見つけたんです。助けたかったんですが、その、怖くて……」
クラムの顔を押さえてる彼女の手は、ひどく震えている。
「そ、それでおまわりさん呼ぼうと思ったんです。だけどそれじゃあ、来てくれる時間に間に合わないだろうと思って。そうしたら二人でこちらに行ったので人数が少ないなら、嘘をついて人がたくさんいるって言ったら、きっと何とかなると思って……」
あまりにおろおろした女性の様子に、次第にクラムは冷静になっていく。
「本当は殴られる前に、こちらに来られたらよかったのですが。……ごめんなさい」
なぜこの人が謝るんだろう。
分からない、全く理解が出来ない。
少し向こうに投げ出されたように置いてあるビニール袋をクラムは眺める。
近くの自販機で彼女はこれを買ったきたのか。
連れがたくさんいると見せかけるため。
それだけのために、この人はわざわざ手に入れたというのか。
クラムの視線に気づいた女性が、慌ててビニール袋を取りに行く。
再び駆け寄ってくると、目の前に袋を差し出してきた。
下から見上げるように見つめてきた後に、おずおずと話しかけてくる。
「お、お好きなもの、……どうぞ」
別に飲みたい訳ではないのだ。
とはいえ、口の中の血は確かに鬱陶しい。
手が動かせるのを確認し、袋の中にあるミネラルウォーターを一本取り出し口をすすぐ。
一息つき女性を見れば、おろおろとして両手を大きく横へと振りはじめた。
「大丈夫です! 私が勝手に買ったので、そのお水はもちろん私のおごりですよ!」
彼女は手当で残った水を手に取ると、がぶがぶと飲み始めた。
想定を超える行動に、クラムは目をしばたかせてしまう。
馬鹿じゃないか、なぜわざわざこんなことするのだ。
見返りを求めない行動ができる、この不思議な女性と自分との世界はあまりに違いすぎる。
もやもやした気持ちが消えないのは、反動による混乱もありそうだ。
早く退散したほうがいいと考え、彼女に声を掛ける。
「水、ありがとう」
礼を言って立ち上がろうとするが、ぐらりとした感覚と共によろめいてしまう。
まだ動けないのか。
再び座り込んだ自分に気づき、彼女が駆け寄ってくる。
心配そうに見つめてくる、その顔は真っ青だ。
なんて愚かなのだろう。
こんな初対面の人間を心配するなんて。
ここまでお人好しが過ぎると、呆れるしかない。
何の迷いもなく自分に差し出される手を、掴んでいいものか。
悩む自分に目が合った彼女は、こう言ってくるのだ。
「大丈夫ですよ?」
その姿が眩しいのは、夏の日差しのせい。
その笑顔が、自分を見つめるその瞳が、あまりにも美しくて。
気が付けば自ら求めるかのように、手を伸ばしてしまっていた。
ひどく汗ばんだその手を握り、立ち上がりざまに空いた方の手で、彼女を強く抱きしめる。
「え、え、え、え……」
同じ単語を馬鹿みたいに繰り返す彼女の頬に、軽く唇を当てる。
この暑さの為か、一連の行動の為か。
彼女の顔に浮かぶ、水に掛けられたかのような汗がクラムの唇を潤す。
「!」
硬直し何も言わなくなった彼女に、クラムは背を向けた。
動いてくれる足に安堵しながら、しばし歩いた後にふと振り返る。
彼女は先程の場所で、立ち尽くしたままだ。
「……僕、なんであんなことしたんだろ?」
自分自身の行動に驚きつつ、クラムは駅に向かって再び歩き出す。
さらに数歩、進んだのちよくわからない感情のままに思わずクラムは振り返った。
彼女は先程の場所で、倒れている。
――倒れている。
「え、え、え……?」
数十秒前の彼女と同じように。
馬鹿みたいに単語を繰り返しながら、クラムは彼女に向かい走りだした。




