触れられたくないもの
「じゃあこの資料は返してもらうわ。って、痛って! まだ怒っているのかよ」
惟之が資料を車に積み込んでいる最中、品子は持っていた大き目のファイルを彼の頭へとぶつけた。
「当たり前だろう。だまし討ちみたいなことされて、ご機嫌でいられるほど私の心は広くない。それで、お前の本当の目的は?」
頭をさすり、惟之は恨めしそうに品子を見てくる。
「だから、さっき言った通り資料の回収だよ。そしたら予想外に、冬野つぐみがこの家に居るもんだから。しかしお前、仲間に発動を使う気満々って、ありゃまずいだろうよ。規定違反もはなはだしいわ」
「え? だってお前、仲間じゃないし。だから違反でもないし」
品子は笑って惟之に言い放つ。
まじか、と呟く惟之の声が品子の耳に届いた。
「本気で言ってそうなところが怖いんだよ。一応、言っておく。今回の俺の行動は独断だ。他の連中はこの話は知らない。だから冬野つぐみがここにいることも、情報を得ていることも知っているのは俺だけだ。今度こっちに来るときに、余計なことを言わないように気を付けておけよ」
「はいはーい、ところでなぜ、彼女を試す必要があったんだ?」
「試した訳じゃない。最初は本当に、お前を断罪する気だったからな」
資料の不足が無いかを確認しながら、惟之は続ける。
「そもそもだ。こんな内密にして資料を冬野つぐみに見せずとも、彼女を協力者として上に報告して堂々と見せればいい話だろう。それをしなかったのは、彼女の存在を知られたくないというお前の意思か?」
ちらりと品子を見て、惟之は再び資料に目を戻す。
「まぁね。今回は巻き込まれたとはいえ、彼女は一般人だ。あの子の観察力を知られたら、きっと上は喜んで彼女を次からも『ご協力』させるだろうから」
「あぁ、あの子いい子そうだもんな。きっと『はいっ、私で良ければ喜んで! 頑張ります!』とか言いそうだわ」
「……使われるのは、私達みたいな悪い奴だけで十分。この件が終わったら、彼女には普通の生活に戻ってもらうよ」
ざあっ、と風が吹いた。
肌に触れるまとわりつくような夏の熱気が、利用しようとする誰か達のようだ。
その気持ち悪さを振り払うように、品子は頭をわずかに揺らしながら惟之に問う。
「なぁ、わざとだろ。冬野君の名前を先に言ったり、千堂君の情報を先に出したりしたのも」
「さてね。しかしそれを踏まえても、彼女のとっさの機転は大したものだ」
「あぁ、私も何度も驚かされているよ。これで力を持っていたら、凄いことになるだろうね。あ、それで彼女からの意見なんだけどさ」
手短に、つぐみの考えを惟之へと伝える。
「へぇ、特定の人にしか見えない扉ねぇ」
「あぁ、だからお前の発動で《《視て》》欲しいんだよ」
「わかった。が、少し時間が欲しい。あちらさんに気づかれないように準備をしておく必要がある。早くて決行は明日の夕方以降といったところか」
「仕方がないね。こちらでやっておけるものはあるか?」
「いや、……こちらで全て準備する」
「ん、了解」
自分を眺める惟之の表情に、品子はため息をつく。
「……何? 言いたいことあるなら、さっさと言いなよ」
品子の言葉に惟之は、戸惑い気味に口を開いた。
「なぁ、品子。この件が終わったら彼女を普通の生活に戻すって言ったけど、それはつまり」
「もちろん消すよ。私達に関する全ての記憶。じゃないとあの子、きっとまた協力するって言ってきそうだもん」
「そこまでしなくてもいいんじゃないのか。今回のように上には内密で、彼女の意見を聞かせてもらうとか。先程もそうだが、えらくお前は彼女にご執心じゃないか」
ぴくりと品子の肩が揺れる。
「それはやっぱり彼女があの方に似ているか……」
「ねぇ、惟之。駄目だよ、……それ以上は」
笑いながら品子は、惟之の言葉を遮る。
「その人を『守れなかった』くせに。どうしてそんなことを、私に言うの? その人の犠牲で助かったお前が、どうして私に言えるんだ?」
品子の言葉に惟之は黙りこむ。
そう、彼は黙るしかない。
偽物の笑顔を張り付けたまま、品子は目の前の男を見つめる。
こうなるのを知っていて、自分は言葉を出した。
彼が傷つくと分かりながら、品子は言葉の刃を振り下したのだ。
この行動は正しくない。
それを十分に理解しているというのに。
「……すまない」
だが先に謝ったのは、品子ではなく惟之だった。
「明日、準備が整い次第そちらに連絡する」
それだけ告げると、彼は車へと乗り込んでいく。
頭には、今すべき行動がいくつか浮かぶ。
だが自分は、それを一つとして行うことが出来ない。
足が、凍り付いてしまったかのように動かせないのだ。
もどかしさを感じながら、ただ彼の行動を見ているのみ。
「あ、惟……」
エンジンの音を聞き、ようやく品子の体は前に動く。
それは後悔の念からか、良心の呵責か。
あるいは罪悪感か。
手を伸ばし、品子は運転席を覗き込もうとする。
それに気づいてか、窓が開き始めた。
やがて窓から惟之の右手が伸びてくると、品子の頬を掴んでくる。
あろうことか、そのまま手を滅茶苦茶に振り回し始めるではないか。
「え、ひぇ?」
あまりの予想外の行動に、完全に思考が停止し品子はすっとんきょうな声を上げた。
「最後に言っておくぞ、品子。その顔と頭、しっかりとリセットしてから戻れ。じゃないと、あの子達が心配する」
「ひ、ひらい。わかった。……って何でヒイラギもお前も、人の顔をグニグニするの? お前ら、私の顔の形が変わったら責任とれるのか?」
「そんときゃ、綺麗になりましたね人出さん。とでも言ってやるよ」
ニヤリと笑って、惟之はようやく手を離した。
「こんなの、女性に対してする行動ではないぞ」
呟きながら、ヒリヒリとした頬にそっと指を添えた。
どうしたことか頬の痛みの分だけ、心の痛みが消えたように感じる。
だがその気持ちをこの男に素直に出せるほど、品子はまだ大人にはなりきれていない。
「……はいはいはい、どうもありがとうございます。では明日のご連絡、心よりお待ちしておりますわー」
閉まりゆく窓に、品子はそう叫んでやった。
惟之の車を見送り、まだ痛みの残る頬を撫でながら家へと戻っていく。
先程と違い、心が落ち着いているのが自分でも分かる。
もうリセットの必要はないだろう。
うん、惟之に感謝しなければ。
明日、会ったらこの礼ぐらいは言ってやろう。
そう考えリビングに戻った品子を見たつぐみが、顔がこわばらせると同時に叫び声を上げた。
「きゃああ、先生! ほっぺどうしたんですか? すごく赤くなっていますよ!」
つぐみの慌てようを見るに、どうやら頬は凄いことになっているようだ。
品子はここで、一つの誓いを立てる。
うん、惟之。
明日、会ったら殴る。
大き目のファイルなどではなく直接、拳で殴ろう。




