兄妹の会話
「おい、シヤ。この電話の件だけど」
ヒイラギは受話器を置くと、妹へ目を向ける。
彼女はソファーに座り、タオルで髪を乾かしていた。
だがその手つきは、どこかたどたどしい。
「……お前、突き飛ばされたとき、手を怪我したのか?」
兄の言葉にシヤは、自分の手のひらをみつめる。
「少しすりむきました。大したことではないので続けてください」
「わかった、品子からの電話だ。あのつぐみって人と接触を持つなってさ。なんかすげぇ勘が鋭いから、気を付けろだってよ」
「あぁ、確かにそうですね。……私もちょっと、動揺してしまいました」
「え、お前が?」
普段は感情の起伏の薄い妹の意外な言葉に、目を見開く。
「お前から動揺という単語が出てくることに、まず俺が驚いてるよ。あのつぐみって人にか? それこそ、動揺のしすぎでお前の筆箱、ぶっ壊したあの人に?」
「いえ。正式には、壊れかけていたのを壊したですね。そして変な挨拶をしたかと思えば、自分が怪我しているのに、『大丈夫?』とか聞いてくるとても残念な人でした」
シヤの様子がいつもと違うことに、ヒイラギは戸惑う。
「……お、お前、いつも以上に容赦なくない?」
「そうですか? さらに一度ならず二度までも同じ場所を怪我して半泣きになっていた、『残念オブザイヤー』冬野つぐみさんに近づくなということですね」
辛辣なシヤの口調に、ヒイラギは違和感を覚える。
彼女は、お世辞にも人当たりがいいタイプではない。
だが決して、こんな悪口のようなことを言う人間ではないのだ。
「それで冬野つぐみに会わないように、『リード』が必要だろう。だから一緒に行動するようにだって。しばらくお前の学校に迎えに行くから、勝手に帰んなよ」
「わかりました。ですが別につぐみさんが近くにいるなら、私が兄さんにスマホで連絡すれば一緒にいる必要ないのでは?」
「あ、そうじゃん。品子、抜けてんなぁ」
「それに気づかなかった兄さんも、抜けているということになりますね」
シヤがヒイラギに対して冷たいのは今日に限った話ではない。
だが、まるで突っかかるような言い方には戸惑いが生じてしまう。
「さっきから何故か、すごくとげがある言い方ばかりなんだが……」
ヒイラギはシヤに近づくと、彼女が頭にかけていたタオルを取る。
露わになったのは、いつも通りのこちらを見上げる顔。
目が合ってすぐに、ヒイラギは叫ぶ。
「……うりゃっ! 兄を舐めるな、妹よ! お前、何か隠しているな!」
タオルを再びシヤの頭に被せ、ヒイラギはゴシゴシと彼女の頭を拭き始める。
「え、え? 何? ちょっと兄さん、痛いです」
「お前、怪我しているからな。手伝ってやるよ~」
「ちょ、いいです。これくらい自分で出来ま……」
「ハイハイ、倍速モード入りまーす。口は閉じとけよ~」
「人の話をきちんと聞かないのは、兄さんの悪ひとふぉっ」
「ひとふぉって何だよ。よーし、そのまま歯ぁ食いしばっとけよ」
しばらく拭いてから、ヒイラギはタオルを外す。
そこにはボサボサになった頭と文字通り歯を食いしばり、その口の中に、いっぱいの不満をため込んだであろうシヤの顔がある。
「ははは、なんかエサ溜め込んだリスみたいだな」
「……人の話を聞かないのは、兄さんの悪いところです」
「だってお前、何か隠してるのに言わないんだもん」
ヒイラギの手からシヤはタオルを奪い返し、首にかけると窓の方に向かう。
窓ガラスに映る自分の顔をまっすぐに見つめ、髪を整えながら彼女はぽつりと呟く。
「でも、私がおかしいのに気づいてくれるのも。兄さんのいいところだと思います」
「まあな~。なんせ『お兄様』だからな~、俺」
「そしてすぐに調子に乗るのは、兄さんの悪いところです」
声に柔らかさが戻ってきている。
よかった、いつものシヤに戻ってるみたいだ。
ほっとした思いを抱え、ヒイラギは尋ねる。
「それで、何をそんなに溜めこんじゃってんの?」
シヤは持っていたタオルを、もぞもぞとさせながらうつむく。
そう長くはない沈黙の後、言葉を選びながら彼女は話し始めた。
「いいえ、溜め込んでいるというわけでは。……いえ、どう言ったらいいんでしょう? 何だかあのつぐみさんを見てると。どうしても思い出してしまうんです。……全然、違うのに」
やはりシヤも、そう感じていたか。
ヒイラギはため息をついてから口を開く。
「実は俺も少しだけそう思ってた。あの無駄にお人好しそうな所とか」
「人の心配ばかりしてくる事とか」
「……そう、少しだけ似てるんだ。だから、嫌なんだ」
もしこのつぐみって人が、あの時みたいになったら。
無意識に唇を噛みしめて目を閉じれば、浮かぶのは十年前のこと。
閉じたまぶたの中で、一人の女性が消えていく。
赤い霧を体から吹きだしながら。
その時のヒイラギは、見てることしか出来なかった。
いや、違う。
見たくないと目を閉じ、下を向いたのに。
そばにいた大人から無理やりに顔を上げられ、見ろと言われたのだ。
ヒイラギの横でシヤが、同じ姿勢にさせられ、悲鳴を上げている。
「なんで? なんで? やだぁ!」
その時の時間は、とても長くて苦しくて。
一度蘇った記憶は、どんどん流れ続けてしまう。
それはとても嫌な苦しい記憶だというのに。




