木津ヒイラギと木津シヤ
「痛っ、何なの! 止めてくれない!」
数メートル先の曲がり角で、沙十美の声がする。
「沙十美っ、誰かそこにいるの?」
相手にも存在を知らせようと、彼女の名前をあえて大声で呼びながら曲がり角まで走る。
息を切らし向かったその先での光景に、つぐみは言葉を失った。
左頬を押さえ、荒い呼吸を繰り返し沙十美が立ちつくしている。
彼女の足元には、倒れこんでいる中学生位の少女の姿。
そして少女に駆け寄ろうとする少年の姿があった。
◇◇◇◇◇
「沙十美?」
つぐみの声に、沙十美がつぐみへと視線を向けてくる。
「つぐみ? 何であなたがこんなところに?」
「それはこっちのセリフだよ。何が起こっているの?」
彼女達の周りには文房具、ノート、ファイルなどが散乱している。
先程の大きな物音の正体は、鞄がひっくり返った音だったのだ。
紺色のスクールバッグと、少女の制服には見覚えがある。
私立中学の多木ノ中学校のものだ。
つぐみの家の近所にも、同じバッグを抱えて登校する元気な女の子達を見ることがあるので間違いない。
多木ノ中は偏差値の高い学校だ。
さぞ優秀な子なのだろうとつぐみは思う。
つぐみは近づきながら、落ちていた物を拾い始めていく。
一方の少女は少年に支えられ、ようやく立ち上がろうとしていた。
文具はどれも中学生の女子らしからぬ飾り気のない、よく言えばシンプルなものばかり。
筆箱に至っては黒いプラスチックケース製で、落とした衝撃のせいでふたの部分が割れかかっている。
「ありがとうございます」
少年がつぐみに向かって一礼すると、少女のスクールバッグを拾い上げながら手を差し出してきた。
切れ長のすっとした目元。
少年とは思えない落ち着いた所作は、年下には見えない雰囲気を纏っている。
彼の制服は、伊織高校のものだ。
伊織高校も多木ノ中と同様に、レベルの高い学校であったはず。
共通する目元からみたところ、二人は兄妹のようだ。
ノートを返そうと、つぐみは彼らの方へ向かい歩みを進める。
「何なのよ! こんなところにつぐみがいるし。変な子達に絡まれるし。……いったい、何だっていうの!」
沙十美はそう叫ぶと、つぐみ達に背を向け駆け出していく。
追いかけなければ。
そうは思うのだが、さすがに抱えた荷物を放り出すわけにもいかない。
おろおろしているうちに「痛っ!」と小さな声が聞こえ、少女がしゃがみこんでいく。
「大変! 大丈夫?」
落とさないように荷物を両腕できつく抱え、彼女の方に足早に向かう。
左腕の内側にちくりとした痛みを感じる。
強く持った衝撃で、ひび割れていた筆箱が割れ、つぐみの肌に刺さってしまったのだ。
「ど、どうしよう! ごめんなさい。壊しちゃった! ……違う違う! あなた大丈夫? どこが痛いの? 私は腕が痛いわ!」
支離滅裂にしゃべり続けるつぐみを、二人は黙って見つめてきた。
気まずい雰囲気になっている。
何とか空気を変えようと、つぐみは口を開いた。
「いきなり知らない人に話しかけられたら驚くよね! え、えーとこんにちは。初めまして、私は鳥海大学一年の冬野つぐみです。あなたはシヤちゃんよね? 君の名前は何ていうのかしら?」
まるで初心者英語の例文のような言葉をつぐみは話し続ける。
だが少女は黙りこくり、下を向いたまま何も言わない。
一方の少年は、彼女の名前に触れた途端に険しい表情になった。
「……あんた何者だ。どうしてシヤの名前を知っている!」
さらりとした表情から一変し、彼は強い怒りを込めてつぐみを睨みつけてきた。
突然の豹変に驚きながらも、つぐみは答える。
「ご、ごめんね。さっき拾ったノートの表紙に名前が書いているのが見えたから。驚かせてしまって、……ごめんなさい」
強めの言葉に恐怖を感じ、つぐみは思わずうつむいてしまう。
「お兄ちゃん、つぐみさんは悪くないよ? ごめんなさい。驚かせたのはこちらの方ですね」
シヤの穏やかな声に、つぐみは顔を上げる。
目が合ったシヤは、ふわりと優しい笑みを向けてきた。
可愛いだけではなく気遣いも出来るなんて、なんて素敵な子だ。
状況を忘れ、つぐみは彼女の優しさに感動する。
「改めて紹介させてください。私は木津シヤです。そしてこちらが私の兄の……」
「木津ヒイラギ」
ぼそりと名を呟く彼の整った顔立ちに、思わず見入ってしまいそうだ。
「悪かった、変に疑って」
目は合わないが、反省している雰囲気は充分に伝わってくる。
誤解が解けたという安心から、つぐみは小さく息を吐いた。
その様子をシヤが心配そうに見つめてくる。
彼女の瞳の美しさに、視線だけでなく心まで吸い込まれてしまいそうだ。
恥ずかしい考えに照れが生じ、ごまかすようにつぐみはシヤへと尋ねていく。
「えっと。どうして、こんなことになってしまったのかな?」
「あの、実は私。あのお姉さんのピアスが、とてもきれいだなぁって思って」
もじもじしながら、シヤが答えてくる。
「それで、どこで売っているのか知りたくて話しかけたんです。でも突然の声掛けだったので、警戒させてしまったみたいで。話し方もよくなかったせいか、お姉さんを怒らせてしまったみたいなんです」
うつむくシヤに、つぐみはかぶせるように言う。
「いや、シヤちゃんは何も悪くないから! 大丈夫だよ! そんな悲しい顔しなくても全然っ! 大丈夫だからね!」
元気づけたい。
その思いからつぐみは、彼女へと親指を立てにっこりと笑ってみせる。
腕にプラスチックの割れた筆箱を、抱えているという事実を忘れたままで。
破片がつぐみの肌へと、より深く刺さっていく。
脳に送られてくる新たな痛みに、目の隅には涙がたまっていく。
それを拭うことなく、つぐみはシヤへと話を続けるよう促した。
「はい、でもちょっと待っていてくださいね」
シヤはポケットから、ハンカチを取り出した。
「お兄ちゃん、つぐみさんから荷物を預かって。あと、つぐみさん。ちょっと痛いけど我慢して下さいね」
そっとつぐみの腕に触れ、シヤはハンカチを優しく巻いていく。
「だっ、だめだよ。血で汚れちゃう!」
「もともとは私が筆箱を落としたのが原因です。これで服が汚れないといいんですが……」
ハンカチの両端をしばると、結び目を確認するシヤの指先が、するりとつぐみの肌に触れた。
直後、静電気のようなピリッとした痛みが走り、反射的につぐみは顔をしかめてしまう。
「あ、ごめんなさい。傷に触れてしまいました?」
謝るシヤに、つぐみは首を横へ振る。
「それで話の途中で、お姉さんの髪に糸が絡まっているのが見えたのです。取ろうとした動きが、何かされると思ったみたいで突き飛ばされちゃいました。もちろん悪いのは驚かせた私で、お姉さんは何も悪くありません」
「つまり沙十美の誤解だったんだね。痛むところはない?」
「少しお尻が痛いくらいですね。でもここなら誰にもあざとか見られないですから」
いたずらっぽい笑みを浮かべて見つめてくる姿に、つぐみも思わず笑ってしまう。
本当にかわいい子だ。
中学生の少女と話をする機会などないこともあり、ついドキドキしてしまう。
けれども今の会話で、つぐみに生まれたのは違和感。
聞くべきかと悩みながら上を見れば、もう空はオレンジと藍の色が競い合っている。
こんな時間まで、中学生の子を連れているのはさすがに良くない。
「そろそろ帰った方がいいよね。送っていこうか? お兄ちゃんがいるから、よっぽど大丈夫だとは思うのだけど。お家はこの近く?」
「いえ、この次の駅の長根町です」
「あ~、残念。うちとは反対側だ。じゃあ、多木ノ駅まで一緒に行こうか?」
「はい、お願いします。お兄ちゃんいいよね?」
ヒイラギがぶっきらぼうに、「おう」と返事をして、先に歩き出していってしまう。
「ごめんなさい。あまり女の人と話すことがないから、緊張しているみたいです」
「そうなの? 恥ずかしがり屋なんだ。……まぁ私も、言える立場ではないけど」
思わずこぼれた本音に、シヤは可愛らしい声で笑う。
話しながらだと着くのも早い。
程なく駅が見えてきたタイミングで、つぐみは気になっていたことを口にしてみた。
「シヤちゃん、沙十美のピアスが気になったって言っていたよね?」
「はい、そうですけど?」
不思議そうにシヤはつぐみを見上げてくる。
「さっきの鞄の中を見ても、すごくシンプルな装飾が好きみたいだね。スクールバッグも、何も飾ったりしていない。私の近所にも多木ノ中の子がいるけど、女の子はシュシュとか、小さなチャームを着けてたりするんだよね」
シヤが歩みを止める。
先を歩いているヒイラギは、自分達が止まったことに気づいていない。
「だから、何でシヤちゃんがそんなにピアスを欲しがるのかがわからないの。すごい違和感があるというか。……どうしてかなぁって」
シヤは下を向き、右耳に手を当てたまま何も言わない。
その姿はまるで、誰かの指示でも聞いているかのようだ。
だが彼女は、そんな機器らしきものなど持ってはいない。
「シヤちゃ……?」
ふぅ、とシヤはため息をついた。
「やっぱり嘘って難しいですね」
不思議そうな顔をするつぐみに向かい、シヤはぺこりと礼をしてきた。
「嘘をついてごめんなさい。ピアスが欲しいのは私ではありません。いとこのお姉ちゃんがいるのですが、その人にとても似合いそうだったので聞いたんです」
「え? あぁ。そ、そうなんだ」
「おーい、シヤ!」
スマホを掲げたヒイラギが、こちらへと走ってくる。
「何で来ないんだよ! 振り返ったら誰もいねぇし。ってそれはともかく。あいつが遅いから迎えに来るって言ってるぞ。俺達が駅にいるって伝えたら、すぐ近くにいるからって」
「あら、そうなんだ。でも私達は大丈夫だから、つぐみさんを送ってもらった方がいいんじゃないかしら?」
「え? 私、知らない人の車に乗せていただくなんて。そもそも初対面の人の車に乗るのは無理というか」
「いいえ、大丈夫ですよ。きっと、問題ないです」
ヒイラギのスマホが鳴り、慌てて彼はターミナルの方へと走っていく。
どうやらその迎えが来たようだ。
しばらくしてヒイラギと並んでやってきた人物に、つぐみはシヤの言葉の意味を理解する。
夕方の空に一足早く来た夜のような、漆黒の髪を揺らして現れた人。
「よぅ、冬野君! 半日ぶりだなぁ」
いたずらをたくらんでいる子供のような笑みをたたえたその人は。
人出品子は、つぐみへと楽し気に手を振ってきた。




