さらば強者、ようこそ弱者
玉衝国アリオトは温暖な気候の土地だ。
空気は乾いており、日差しは強いが薄着で過ごしやすい。
反面、降水量が年間を通して少ないせいで作物の育ちが悪く、砂漠化が大陸南から進行していた。
名産と呼べるものは英雄より授けられた鋼の秘術の他にもう一つある。
それは、塔と遺跡に出現する魔物のレベルが低いことであった。
この国に多くの夢追い人が溢れているのは、ただ高性能な武器や防具が手に入るからだけではない。
初心者から中級者まで比較的安全に攻略できるため、登竜門として認知されているのも大きな要因なのだ。
首都ルザリスから西に少し離れたマゼル平原を暑苦しい黒の鴉人は目的地に向かって歩いていた。
体温の機能が壊れているのかと思われるほどしっかりとスーツとコートを着込んだ彼女に暑そうな吐息はない。
閑散とした雑草だけの景色の中、街道を大股で突き進む彼女の口から吐かれているのは代わりにあるのは不満と愚痴だ。
「うぅ……3780α$がぁ……そりゃ、その為にお金貯めてきたけど、でもだって、普通の宿なら一泊50α$で……でも安全な方がやっぱりいいけど…残り800しかないよぉ……」
必死になって遺跡に潜り、一喜一憂しながらどうにか稼いできたお金が簡単に飛んでしまったのは、自分で決めたことではあっても凹んでしまう。
ミザールは塔も遺跡も危険度の高い場所が多く、まだまだ半人前な鴉人では深く潜ることが出来なかった。
それでも、育った孤児院に寄付していなければ数十万は貯まっていたので、ミザールよりも弱いと言われるアリオトの遺跡であれば安定して稼げると踏んではいる。
稼げる目処はあるが、それでもやはり凹むものは凹む。
「はぁぁぁ……あ? あぁ、ここか」
嘴の裏で文句を吐いているうちに目的地の近くまで来ていたことに気付き、少女は杖を握り直して黒い長方形の箱も担ぎ直した。
目の前にあるのは巨大な壁だった。
侵入者を阻むようで、何かを閉じ込めるような無骨な壁。
周囲をアリオト兵が哨戒して歩いており、厳重な警戒態勢が敷かれていた。
彼女は壁の麓にある検問所へまっすぐ向かい、警備につく兵の前で立ち止まると懐から鉄のプレートを取り出した。
粗雑に扱っていた渡航用の許可証とは違う、探索者ギルド発行の許可証。
それを受け取って魔法で鑑定をする年若い兵士は、物珍しそうに鴉のことをジロジロと見つめる。
「レイブンの探索者なんているんだな」
「珍しいかい?」
「……いや、あんたの方が詳しいだろ」
背丈からは想像もつかなかった高い声に少し驚いた兵士だが、すぐに反応した。
まあ、確かにと鴉はマスクの上から頬をかいた。
「それとも他の国じゃ普通なのか? レイブンは研究ばかりする不気味な奴らだって小さい頃から聞かされてるよ。実際この国のレイブンはどいつもまともに会話してくれやしないし」
「私が変わってる可能性はあるかもね」
「だよな。会話成り立ってるのが変わってるって言うのも変な話だけどよ。あ、悪い。同胞のこと悪く言っちまって」
「気にしてないから大丈夫。ただ他のレイブンには言わないほうがいいよ? 仲間意識強いから」
「助かるよ。内心やらかしたと思ったんだ。よし、ミザールギルド発行のだな。名前はカイナね。ん? ミザール? 渡ってきたのかあんた」
「それ、みんな驚いてる」
「あ、ああ、悪い。くそ、悪い癖なんだ」
「向いてないんじゃないの?」
「かもな。ほんと、悪かったよ」
プレートを受け取りながら軽口を叩くと、兵士は気恥ずかしそうに笑ってから敬礼で道を開ける。
本物の鴉人と信じて疑わない兵士に、鴉人を騙る少女カイナは、マスクの奥でも素知らぬ顔をして壁を通り抜けた。
壁の内側には、巨大な縦穴があった。
直径にして50m。自然と陥没したような歪な穴の底は見えず、際から覗いても遙か先に深淵だけが広がっている。
アネッタ第一陥没口。
銅時代に続く、アリオトで最も潜りやすいとされる遺跡に繋がる大穴。
この穴を含めて、この世界では遺跡と呼んでいた。
遺跡とは、旧時代の文明を指す。
普通のイメージであれば土を掘って出てくるのかもしれないが、それはこの世界の常識ではない。
神が旧い時代の上に新たな時代を作ったと言うのは比喩ではなく、文字通り上に作ったのだ。
故に遺跡は掘るものではなく、潜るものなのである。
カイナは手始めに陥没口の周りに建てられた施設に足を運んだ。
目指したのは一際大きな建物。真四角の大きな建物の入り口には“アリオト探索者ギルド アネッタ分所”と書かれた看板が提げられている。
中は全て木材で統一されていた。
床も壁も板張りで、カウンターから椅子まで木製。蝋燭の炎で照らされる年季の入った木材はキャラメル色に光っており、掃除がしっかりされていると見て取れた。
入り口正面の受付カウンターには三人の職員が立っており、カイナは一番真面目で大人しそうな女性職員を選んで前に並ぶ。
カイナ以外には誰もいないので、すぐに手招きで近くに来るよう指示された。
「はじめましてレイブン。どんな御用?」
思った通りのぶっきらぼうな喋り方をする彼女は、なかなか珍しい黒耳長族だった。
青黒い肌に銀色の髪。耳長人の証である長い耳と絶世の美しさは、同性のカイナも思わず見惚れてしまう。
その反応に慣れているのか、ダークエルフの受付嬢はわざとらしい咳払いを二度した。
はっと意識を引き戻されたカイナは、紅い瞳がじとっと見つめているのに気付いて少し帽子を下げる。
「あなたの方が珍しいって自覚はあるみたいね」
シックなスーツを着こなすダークエルフの胸に付けられた名札には『カーイネーラ』と書かれていた。
俗世に姿を見せないと言われるダークエルフだが、一族から離れて生きる者はそれなりに存在している。
むしろ鴉に驚かないであげたことを褒めてほしいくらいだと、カーイネーラは不満気に鼻を鳴らしてから「それで?」と問いかけた。
「なにをしたいの? 遺物の回収申請? それとも魔核? 依頼は個人も組織もあるけれど、来たばかりならまず一度潜ることをお勧めするわ」
「一応聞くんだけど、ミザールのサルマ第二陥没口と比べたらどれくらいのモンスターが出るのかな……?」
「サルマ? サルマのレベル帯は40くらいだから……平均四分の一以下かしら」
成人女性でも頑張れば倒せるレッサースライムを1として算出される魔物のレベル。
街道沿いに頻発するゴブリンが大体5に相当する。戦う術を持った成人男性がギリギリ倒せるラインだ。
そう考えると、平均レベル10はしっかりと実力を付けていなければ容易に倒すことのできない相手となる。
カイナにとって天国のような環境だ。以前と比べれば遥かに弱いモンスターしか出ないとなれば、ようやくまともな探索ができることになるわけである。
逃げたり隠れたり、時々挑んで丸一日かけても倒せないような日々がようやく終わりを迎えるとなると、涙が零れそうだった。
「それじゃあ、少し調べさせてもらうわね。ちゃんと許可出してちょうだい」
そんなカイナの様子など気にせず、カーイネーラは羽のついたペンの先を宙で走らせた。
彼女の肌に似合う蒼い魔力が軌跡に残り、魔術式となって明滅する。
書き終えた術式は紐のようにふわふわ揺れながら落下し、カーイネーラの持つ羽ペンに巻き付いて勝手に操り始めた。
カイナはそっと手を正面に翳し、描くことなく術式を発動させてみせる。
真鍮を思わせるくすんだ金色の魔力は円形の魔術式を鍵のようにカチンと回り、中心から大量の文字を放出した。
魔力に操られた羽ペンはその文字を受け取るとサラサラ紙に書き写していく。
カイナの使う下位下級の魔術『情報開示』 と、カーイネーラが使う下位下級の魔術『自動編簿』。
どちらも冒険をするには必須の魔術だ。
カーイネーラは力を失って羽ペンが倒れるよりも早く紙を手にとって確認し、脇に置かれていた丸い木の判子をポンと押してカウンターの下にしまいこんだ。
「カイナ。種族は真人の女。レベルは5。よくそれでミザールの遺跡に潜れたわね」
てっきり鴉人ではないことを指摘されるかと思ったカイナは、予想外の反応に言葉を詰まらせた。
「え、と。まあなんとか……?」
「安心していいわよ。貴女ほどじゃなくても変わってる奴なんていくらでもいるから」
「女装した豚人はルザリスに四人いるわよ」と言われたら、なるほど世間は広いと思うカイナであった。
「これで登録は終わり。暫くはこの遺跡だけしか潜れないけれど、ひと月くらいでこの国が開放している低級遺跡には全て入れるようになるから」
「分かった。ありがとう」
「そのレベルだと他の遺跡に行くのはまだまだ先になるだろうけど、頑張りなさい」
表情こそないが、言葉に込められた優しさは本物だった。
カイナは根掘り葉掘り聞かないでくれたことに感謝して深く頭を下げると、カーイネーラは青黒い肌によく合う冷たい鼻息を吐いて髪をかきあげ、さっさと別の業務へ移った。
それをカイナも気にせずカウンターから離れて外に向かう。
入れ替わりで入ってきた蜥蜴人が愛想の良さそうな受付嬢の元にまっすぐ進むのを見て、それはそうだろうとカイナは納得する。
同時に、自分にはとても合う人だとカーイネーラの存在に感謝した。
アネッタ第一陥没口の周辺には最低限探索に必要な店が揃っていた。
薬品店に武具店、簡素ではあるが宿泊施設も備えられており、街に近く敵も弱いため、アリオトがどれだけ力を入れているのかがよく分かる。
肩にかけた長方形の箱を担ぎ直して、カイナが向かったのは陥没口の侵入昇降機である。
大穴の周りに四ヶ所設置された昇降機は大きな鉄の箱を長い綱で吊ってあるという原始的なものだ。
ただ、その巻き上げは大きな駆動機に雷の魔術を流して動かす比較的高価な設備である。
銅時代の遺物か、ごうごうと激しく震えながら動くモーター音は少々不安にさせた。
「失礼。次は入れるかい?」
「んー? あー、あっちに聞いてくれ」
機械に描かれた、六角形で縁取られた魔術式に魔力を流す魔術師に尋ねると、砂色のフードで顔を隠した魔術師は搭乗位置に立つ兵士を指差した。
土埃で汚れた鎧を払っていた兵士は、近寄るカイナを見ると、ヘルムのスリットの奥で驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を外して「次入っていいぞ」と口にした。
「随分探索者が少ないんだね」
「今日は陽日だ。休日に潜りたがる奴は多くないだろ」
十三月、四週、七日で一年を数えることくらいカイナも知っている。
月、火、水、木、金、地、陽で一週を数えるのも知っている。
陽日が休日なのももちろん知っていたのだが、少なくとも休日なんてあってないものだとミザールの探索者や冒険者は考えていたし、そう教わってきた。
土地柄なのだろうか。自由気ままな稼業なのにわざわざ休日を揃える方がカイナからすると奇妙に見える。
マスクの中でふんふんと鼻を鳴らしていると、昇降機が戻ってきたようで、少し乱暴な音を立てて大きな鉄の檻がグラグラ揺れているのが見えた。
かなり高価な機械のはずだが、随分と乱暴な扱いに苦笑が溢れる。
兵士に促されるまま籠の中に入り、ガラガラと岩を転がすような音を立てながら下へ下へと降りていくカイナ。
海一つ跨ぐだけで感じさせられたカルチャーショックを興味深いと思いながら、揺れる籠の中でカイナは一つの結論を導き出す。
「……儲かってるんだなぁ、アリオト」
世界に誇る鋼の秘術に、希少な鉱石の産地。おまけに新米にも優しい遺跡まで完備。
機械は古かったが、仮に壊れてもすぐ部品を用意して直せるだけの財力があるのだろう。同じことをミザールの兵がやったら「壊す気か!」と上から尋常じゃないくらい怒られるはずだ。
モンスターが強すぎるせいで人を雇うのに必死な故郷とは大違いだと、まさか街を出ても感じさせられるとは思いもしなかったカイナである。
凡そ十五分の下降を終えて昇降機が遺跡の地面スレスレで急停止した。
綱の長さを目一杯伸ばすせいか、到着した瞬間に激しく鉄籠が上下に跳ねて、中のカイナを軽くシェイクする。
下で待機していた兵士が揺れを押さえてくれたが、カイナは綱が切れるんじゃないかと怯えて鉄の格子にしがみついて離れられなかった。
「大丈夫ですよ。切れたことは一度もありませんから」
「その一回目が私の時かも知れないだろ……!」
安心させようとしてくれる兵士だったが、カイナの怒りは収まらなかった。
道具は大切に使うべきだと、担ぐ箱を触りながら説きたくなる。
しかし、愛想を振り撒く若い兵士に言っても意味はないと思い直したカイナは素直に籠から降りて新しい遺跡の様子を見回した。
地底約五Km。
遥か上空から差し込む陽の光は浮遊する埃で僅かに陰り、昇降機の周辺に建てられた遺跡前哨地を優しく照らしている。
穴から離れれば離れるほどに景色は闇へと代わる。鉄の時代の地殻がこの広大な空間に終わりのない暗黒を齎していた。
地底の闇を照らすのは魔力で灯る松明の群れであり、荒廃した建造物を浮かび上がらせている。
遺跡。
神によって埋葬された旧き時代そのものであり、探索者たちが一攫千金を夢見て旅する夜の世界。
大陸は変わっても、この風景だけは変わらない。
それが少しだけカイナの郷愁を安らげた。
「さて、と。まずは小手調べと行きますか」
そう呟きながら、手に握る幾何学模様の彫られた魔鋼の杖を軽く振ってから意気揚々と歩き出す。
魔力で燃える松明は様々なルートに沿って整然と並べられており、未開地域にまで行かない限りは道に迷うことがないようにされている。
先人たちが脈々と続けてきた探索によって開拓された。おかげでこうしてカイナも安心して遺跡を探索できている。
アネッタ第一陥没口が繋がっているのは銅時代だ。銅層や、第三次世界などとも呼ばれる。
最も鉄の時代に近い文明を築いていたが、その技術力は今よりも遥かに進んでおり、用途は分かるが製造方法が分からないものが多く発見されている。
代表的なのは蓄電器だろう。鉄時代の今でも製造はできるが、市販できるほどの生産量がない上に品質も遠く及ばないため、遺物がとても重宝されている。
しかし七百年以上も前の文明から見つけ出しても実用できる物はそう多くはない。修復可能な物であれば
高額で買い取ってもらえるが、殆どは修復資材として捨て値になるものが殆どだ。
「これだけ探索されちゃってると、だいぶ遠くに行かないといい物は見つからないかなぁ」
初心者向けの遺跡として名を馳せるだけあって、遠くまで松明が灯されている。
つまり、近場で高価買取してもらえる品が掘り出せる確率はかなり低い。
モンスターが偶然持っていたり取り込んでいることを祈るか、それとも遠くまで遠征するかのどちらかだ。
前者は博打のようなもので、後者は危険が常に付き纏う。
それでも塔に挑むよりは安全だ。
「さてと」
カイナはコートの内ポケットに手を差し込み、古ぼけた手帳を取り出す。
茶色の革表紙は使い込まれすぎて凹凸がなくなり、傷やシミで汚れている。
烏羽の栞が挟まれたページを開いたカイナは胸の前に魔鋼の杖を掲げると、手帳に向かって呪文を呟いた。
「えーっと……『我は記す者を乞う。呼び声に応え、顕現せよ――“ワーリタール”』!」
杖をゆらゆらと振りながら魔力を流す。
真鍮色の光は杖を通って先端に集まっていく。
それをポンと手帳に当てると、光はページの中に吸い込まれていき、代わりに現れたのは雀の羽が生えた白いハツカネズミだった。
黒い万年筆を両手で握ったつぶらな瞳のネズミは、パタパタと頼りなげに羽ばたいて、円を作る魔法陣に包まれて浮かぶ古い手帳の上に降りると、自慢気に万年筆を掲げてみせた。
「よろしくね」
話しかければ、任せておけというように短い手で胸を叩いてみせる。
冒険をするなら欠かせない精霊魔法。
契約者の見たものの知らないことまで書き記してくれる書く意思の精霊。
それがこのワーリタールである。
下位下級の魔術である『自動編簿』ではなく、この下位下級の魔法を使う者はそう多くはない。
精霊に好かれる体質かどうかで魔法の才覚は決まるため、学ぶことで身に付く魔術と比べれば圧倒的少数なのだ。
羽ばたくワーリタールが手帳とともに自分の周りを飛んでいるのを確認して、カイナはマスクの中でふんすと鼻を鳴らした。
「それじゃあ、行ってみますか」
未知へと向かう好奇心に声を弾ませて、新しい探索の一歩を踏み出した。
軽い足取りで進む道は遙か先まで松明が並べられており、迷う心配はどこにもない。
世界が滅び、蓋をされるまではここも街だったのだろう。
原型を留めている家は多く、石で舗装されてたらしき罅割れた道沿いに並んでいる。
木や石で作られていることが多い鉄時代と違い、なんとも装飾や色に溢れた豪華な家ばかりだ。
中には十階以上の高さがある建物もあり、技術力の高さが窺える。
暗闇の中にぼんやりと浮かぶ無機質な近未来は、驚きと同時にどこか懐かしさを感じさせた。
「銀時代になるとこれより凄いらしいけど、想像つかないなぁ」
ある学者の書物にあった一文、“過去にある未来”は正しくその通りだと、遺跡に潜るたびに思い知るのである。
「お?」
呑気にランタンを揺らしながら、羽付きのハツカネズミと気楽な散歩。
そこに建物の影から現れたのは、一匹のモンスターだった。
青い水を集めたような、弾力のあるボディ。中心で白く光る丸い結晶。
クラゲのような臓器を持つ奇天烈な魔物、スライムだ。
魔物は塔の破片から生まれるはずだが、このスライムだけは詳しい生態を解明できていない。
どこにでもいるしどこからでも現れるため、どこか地中深くに母体となる株があるのではないかと言われている。
目耳口も鼻もなければ手も足もない、水袋に内臓だけが存在する奇怪な粘体動物。
それがスライムである。
「お、ぉぉぉ……ついに現れちゃったな?」
カイナはワーリタールに励まされながら、震えた動きで杖を構えた。
ブヨブヨと蠕動しながら動くメロン大の粘体に怯える長身の少女の構図は些か奇妙であるが、カイナの脳裏を過っているのはかつてミザールの遺跡で見た光景。
屈強な戦士が両足を溶かされ、生きたままスライムの体内に取り込まれていくトラウマものの映像がリピートされていた。
杖の先端、幾何学模様の溝が展開して三叉に形状を変える。狙い定めるは、ただ道を横断する一匹のスライム。
鴉のマスクの中で唾を飲み込んだカイネは、小さく短く呪文を唱えた。
「……其は青き雷。遍く敵を穿ち給え」
三叉の先に浮かび上がった魔術の式は円を描いて図を描き、周囲の外魔力を吸い上げて真鍮色に輝いた。
カイナの持つ内魔力の色に染まった術式は、発動の時を今か今かと待ち侘びるように明滅する。
そのマナを感知して、スライムは移動を止めて怯えたようにうねり始めた。
「っ……《プラズマボルト》!」
大きく振り上げた杖が再びスライムへと向けられた瞬間、術式から青い雷光が迸った。
放たれた三本の雷は屈折しながら何も知らないスライムへと襲いかかり、触れた瞬間強い閃光と雷鳴を発生させた。
光が止むと、そこには黒く焦げた地面と豆粒大の魔石だけが残り、このアネッタ第一陥没口最弱のモンスターは、第一格五位の最下級魔術によって消し炭になった。
派手な演出の後に降りた静寂。
プルプルとスライムのように体を震わせていたカイナは、勢い良く両手を掲げて感動を叫んだ。
「やったーー! 倒せたーーー!!」
成人男性が木の棒で力任せに倒せるような相手に大袈裟すぎるリアクションだが、今まで凶悪な環境でコソドロのように遺跡を回ってきたカイナにとっては大きな成果なのである。
背の高い鴉人もどきの少女が、薄暗い廃墟の中でピョンピョンと飛び跳ねて喜ぶ姿は少々奇妙な光景だ。
カイナの喜びに合わせてワーリタールも手帳にスライムの情報を書き殴ってから一緒に喜んでいたが、何かに気付くと慌ててカイナの前でジェスチャーを始めた。
しかし手を上げて跳ねるのに夢中で全く見ていない彼女は、突然鳩尾を抉るような衝撃に「へぐぅ」と情けない声を出して現実に引き戻された。
「な、なに?」
たたらを踏みながら後ろへ下がり、咳をしながら前を確認する。
そこには、倒したはずのスライムが一体。
いや、その後ろには六体いる。
「……」
そう言えば、とカイナはミザールの探索者ギルドで聞いた話を思い出す。
スライムはとにかく数が多いうえに、複数体で行動をすると。
環境の中で最下位にいる自覚があるから、種を存続させるために敵と戦える数を揃えようとすると。
そう話していた鹿人が、帰らぬ人になったと。
「い、いやいや、いけるいける。一体に一発なんだから七発で……」
そう考えていると、建物の影から更に四体。逆の建物の中からは六体。
わらわらと集まってくる粘体動物に、額から冷や汗が流れた。
カイナは、チッチと鳴くワーリタールを手帳ごと鷲摑みにすると、勢い良く魔石を拾ってから回れ右をして猛然と走り出した。
半泣きだった。
「いやぁぁぁぁ!!」
背後に迫る粘ついた着地音。飛び跳ねながら迫ってると見ずとも分かり、余計に恐怖が増していく。
結局カイナはアウトポストにまで戻り、そのまま今日の探索を終えることとなった。
付いてきたスライムは兵士が一人で黙々と斬り殺して処理をし、「スライムから逃げた人初めて見ましたよ」と言われる始末。
「本当のスライムを知らないからそんなこと言えるんだ!」
そう言い返したかったが、兵士が軽く処理していく光景を見て、カルチャーショックなのだとじぶんに言い聞かせることにしたカイナだった。
TIPS:魔法と魔術①
魔法は数多存在する精霊を介して現象を具現化するものであり、魔術は精霊を介さず世界に直接干渉して現象を具現化するものである。
魔法を扱うには精霊に好かれる体質でなければならないが、魔術は知識と技術があれば誰でも使用できる。
魔法と魔術は魔力へのアプローチが相反するため、どちらも行使できる者は極めて稀である。