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第8話 寝起きの事件

「……ん」


 体が奇妙な違和感を感じて、弓弦は目を覚ます。


 壁に背を預けて寝たはずが、気がつけば床の上で大の字に転がっていた。床のひんやりとした感触に心地よさを覚えているうちに、寝起きで不明瞭だった視界も段々はっきりしてくる。


(……今、何時だ)


 首をかたむけて壁にかかった時計を見れば、時刻は午後4時を少し過ぎたところだった。どうやら、一時間以上も昼寝をしてしまっていたらしい。


 どうりで目覚めがいいわけだ、と納得しながら体を起こそうとしたとき、ふと自分のみぞおちのあたりに重量を感じる。


 猫が乗っているのかと目を向ければ、重さの原因は弓弦の胸に伏せるようにして眠っているかなでだった。


「……っ!」


 驚きのあまり声をあげそうになったが、それだと確実に奏を起こしてしまうことに気づき、慌てて口を押さえる。


 思い出せば寝落ちする直前、奏は弓弦の肩にもたれかかってきていたような気がする。たぶん、弓弦が体勢を崩したことでこうなってしまったのだろう。


 ちなみに猫はとっくに起きていたようで、夕日が差し込む窓の付近にたたずんでいる。ひなたぼっこのつもりだろうか。


(とりあえず、起こさないように動かそう)


 自分の胸に頬を擦り寄せるようにして寝ている奏を起こさないように、そっと彼女の頭に手触れかけたそのとき。


「……だ、やだ………一緒に居て……」


 唐突に、奏の口から言葉がこぼれた。慌てて手を引っ込めたが、奏が目を覚ます気配は欠片かけらもない。


 なんだ寝言か、と再度引きはがしを試みるも、奏はがっちりと弓弦の着ているトレーナーを掴んでおり、ちょっと力を加えた程度では離してくれそうになかった。


 少しだけ首を起こして奏の顔を見ると、苦悶くもんの表情が浮かんでいる。形の良い眉は細められ、額には汗もかいていた。先ほどのうなされたような寝言といい、あまり良くない夢を見ているらしい。


「……奏、起きろ」


 奏の頭をぽんぽんと軽く叩き続けていると、「……んぅ?」という謎言語を発しつつもゆっくりと目を開けた。やがて、焦点がまだ合わない瞳が弓弦を捉える。


「起きたか。とりあえず、俺の上からどいてくれ」


 自分の上に数キログラムの重さがっているのはどうも落ち着かない。そんな思いから出た弓弦の発言だったが、奏がとった行動は予想外のものだった。


「……っ!」

「お、おい!? 奏!?」


 何の前触れもなくがばっと奏に抱き着かれ、抗議の意を込め声を上げる。


 前に事故で抱き着いたときにも感じた女子らしく柔らかな体つきに、弓弦の心拍数が大変なことになっていた。


 だが、奏の体が微妙に震えているのに気づいたとき、弓弦の心情は驚きから戸惑いに変わる。


「奏?」

「…………」

「お前、泣いてるのか?」


 弓弦の胸に密着するようにくっついているため表情は見えなかったが、彼女の細い肩は小刻みに震えている。


 とはいえ、泣いている女子に対してどういう対応を取ればいいかは検討もつかなかった。姉妹や特別に仲が良い女友達がいない弓弦にとって、女子の泣いているシーンを見た回数は片手で数えられるほどしかないからだ。


 どうしたもんかと、床に大の字に転がったまま考えていると、奏が声を震わせ呟いた。


「……どこにも、いかないで」

「い、いや、当たり前だろ。ここは俺の家だからな」


 焦りのあまり、口をついて出てきたのは自分でもどうかと思う返答だった。


「どうした。怖い夢でも見たのか?」

「……」

「奏?」

「……一人に、しない……でよ……」


 努めて優しく話しかけた弓弦の言葉には反応せず、奏はますます弓弦の胸に顔をうずめてしまう。弓弦としては、途方に暮れるしかない。


 しんとした部屋に、時折奏の鼻を鳴らす音だけが響く。


(……せめて俺に、兄弟でも居たらな)


 もし居れば、自分が年上の兄弟に慰められていたのかもしれないし、年下の兄弟を慰めることがあったかもしれない。こういうときはどうすればいいかといった教訓も、そこから得られていただろう。


 目の前で奏が泣いているのに何をしたらいいか分からない。そのことが非常に悔しかった。


 だから、


「その、嫌だったら言えよ」


 一応断りを入れた上で、しがみついてくる奏の背中を左手でぎゅっと抱き寄せる。そして右手は後頭部に回し、奏の長い髪をくしけずるように優しく撫でた。


 抱き寄せられたことでほとんど全体重を弓弦に預ける形となった奏が、さすがに弓弦の胸から驚いた様子で顔を上げる。その頬には未だ涙が伝っており、元々白い肌の色はいつもに増して血色を失っていて、痛々しかった。


「弓弦……?」

「……小さいときに、友達と喧嘩した俺が泣いてたら母親にこうして慰めてもらったのを思い出したんだよ」


 視線を逸らして「他の慰め方は知らない。嫌だったら悪い」と言い訳をする。


 泣き腫らしたような目でこちらを見ていた奏はしばらく呆けたような顔をしていたが、「……嫌じゃ、ない」とつぶやくと再び弓弦の胸に顔をうずめた。


「……もう少し、このままがいい」

「……はいはい」


 昨日、「迷惑をかけてもいい」と言ったのは弓弦自身だ。


「気の済むまで付き合ってやるさ」という意味を込め、弓弦はさらさらとした栗色の髪を優しい手つきで撫で続けた。







「明日は、学校?」

「ああ。だから、クラスの奴らに猫を飼える奴がいないか聞かないと」


 白い吐息を漏らしながら返事をすると、奏も頷く。


 まだ18時前だというのに、辺りはだいぶ暗くなっている。時折吹きつける冷たい風に体を震わせながら、二人は閑静な住宅街を歩いていた。


 奏を自宅まで送っていく途中である。

 

「ありがとう、付いてきてくれて」

「……俺が送って行くって言ったんだから、気にすんな」

「でも、寒いのに」

「だから、こうやって手を繋いでるんだろ」


 そう答えると、軽く触れられた手が少し熱を持った気がする。隣を歩く奏の顔を見れば、頬が少し赤くなっていた。


(見たところいつも通りだが……)


 そんなわけないよなぁ、と心の中でため息をつく。




 あの後、しばらく弓弦に抱きしめられ、髪の毛を撫でられるがままになっていた奏は、十分もすれば落ち着いたようだった。


 そろそろ帰る、と言った奏の様子がどこか寂しげで、そのまま見送る気にならなかった弓弦は、「暗いから家まで送る」と半強制的について行くことにしたのだ。


 弓弦が奏に抱く感情は、おそらく庇護欲ひごよくという言葉が一番当てはまるだろう。


 出会ったときのような、たまに奏が見せる暗い表情は、弓弦から奏を見捨てるという選択肢を取り上げてしまう。

 何か複雑な問題を抱えているであろうこの少女に、できる限り嫌な思いをしてほしくない、自分にできることがあれば助けてやりたいというのは、弓弦の偽らざる気持ちだった。


(もう二度と、昔みたいなこと(・・・・・・)は経験したくないからな)


 そんな考えごとをしながら歩いていたからか、いつの間にか険しい顔になっていたようだ。不安そうに奏がのぞき込んでくる。


「……弓弦?」

「ああ、悪い。考え事してた。……それにしても、寒いな」

「うん。夜は特に冷える」


 奏はほうっと自分の手に吐息を吹きかけている。女性には冷え性が多いと聞くが、奏もそうなのだろうか。


 寒がりにはキツイ季節だよなあ、なんてことを考えてたら、奏が横からぎゅっと抱きついてきた。


「……奏?」

「……弓弦の体温、あったかい」

「そうか。でも歩きにくいから離れてくれ」


 そう言って引きがすと、奏は見るからに不服そうな顔になった。


(もしかして、こいつ意外と甘えたがりなのか?)


 今と言いさっきと言い、弓弦に対する奏の距離は非常に近い。確かに「迷惑かけてもいい」とは言ったが、知り合って一週間以内の男性に対してここまで無警戒だと、照れるを通り越して心配になるのも止む無しだろう。


 とはいえ、弓弦という熱源を失い再び寒そうに体を縮こまらせている奏の様子を見ると、なんだか自分が悪いことをしているような気がしてくる。


「……妥協で、手だけならいいぞ」

「え?」

「寒いんだろ。大して変わらないと思うけどな」


 無いよりはマシだろと手を差し出すと、奏が驚いたような顔をする。ただ、それも一瞬のことで、すぐに頬を緩めた奏は弓弦の差し出した手をそっと握り返した。




 そんな経緯があって手を繋いでいた弓弦と奏だが、三十分ほど歩いたところで奏が立ち止まる。


「……着いた」

「ここが?」

「うん。私が住んでるとこ」


 そう言った奏は、名残り惜しそうに繋いでいた手を離す。弓弦の手の中にあった暖かさが消え、急に寒さが増したように感じられた。


 奏が立ち止まったのは、どこにでもありそうな一軒家の前だった。唯一周りと違うところと言えば、他の家は夕食時で明かりがついているのに、奏の家は真っ暗で人気ひとけが感じられないこと。そして、表札が出ていないことだけ。


「ここまでで大丈夫」

「分かった。気をつけろよ」


 そう言うと、奏は「弓弦、意外に過保護」と苦笑を浮かべる。確かに、自分の家の目の前で「気をつける」も何もないだろう。


 それでも、奏が家に入るまでは一応見届けてやろうと立っていると、ドアの鍵を開けた奏が振り返った。


「弓弦」

「なんだ?」

「あの。……ううん。おやすみなさい」

「? ああ、おやすみ」


 何か言おうとしたようだが、結局奏がそれを口にすることはなかった。扉が閉まり、ロックの音が聞こえたのを確認すると、弓弦も帰路につく。


「おやすみなさい、か」


 一人暮らしをし始めてから、しばらく聞いていなかった言葉だ。


 そう言ったときの奏は、夕方に弓弦の胸で泣きじゃくっていた様子からは程遠いものだった。一体、彼女はどんな夢を見て、ああも追い詰められた表情をしていたのか。


 本来接点がない弓弦と奏を結び付けているのは、弓弦が拾った猫だけ。それも、あと一週間以内に居なくなってしまう。


(……来週は忙しくなりそうだな)


 はぁ、とため息をついた弓弦は、帰りに猫用の飯を買うべく、コンビニがある方へと足を進めていった。







次回更新日は、9月12日(木)の21時です

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