第7話 猫の昼寝
「……何の進展も無し、か」
日曜日で学校が休みだったので、弓弦は朝から猫の引き取り手を探していた。
捨て猫の飼い主を募集するサイトに書き込み、定期的に確認していたが一向にコメントの付く気配はない。
(明日学校に行ったら、クラスの連中に当てがないか聞いてみるか……)
普段避けられている弓弦に協力してくれる人間がどれだけいるかは未知数だったが、手段は選んでいられない。
というのも、昨日奏が帰った直後、住んでいるアパートの大家が、弓弦の部屋を訪問してきたのだ。
「最近ね、笹瀬川さんの部屋が賑やかになったって、下の階の住人から言われたんだよ。……いや、別に文句を言ってるわけじゃないさ。ただ、どうも話を聞いてると、学校のお友達が遊びに来たって感じには思えなくてね」
いかにも気難しい老婆、といった風貌の大家にじわりじわりと問い詰められ、弓弦は仕方なく事の経緯を説明せざるを得なかった。
一通り聞き終えた大家は、ふうむと考え込んだ後で、弓弦にこう告げた。
「事情は分かった。引き取り手を探しているなら、うちのアパートにも飼い主募集の張り紙をしていい」
意外にも、下された処置は寛大なものだった。
だが、弓弦が礼を言おうとすると、大家はこうも続けたのだ。
「知っての通りうちのアパートはペット禁止だ。物件が汚れたら、掃除が大変だからね。必ず来週中には引き取り手を見つけるか、保健所に引き渡すか、どっちかにしな」
それまでは大目に見てやるさ、と言って大家は帰ってしまった。
保健所に引き渡せ、というのは厳しい対応に聞こえるかもしれないが、子猫を野生に帰すよりも適切な対応であることは、前に獣医にも言われたことだ。
ただ、保健所に送られた動物の未来は決して明るくない。
譲渡会で里親が決まればいいが、決まらなかった犬や猫は殺処分にされることだって珍しくはないらしい。
こういったこともあり、弓弦は何とかして引き取り手を見つけようと躍起になっているのである。
(保健所送りなんかになったら、奏が悲しむだろうしな)
雨が降りしきる中で「自分と同じだから」と捨て猫を助けようとしていた奏の様子を思い出す。
そんな彼女は、きっと自分以上に猫が幸せになることを祈っているだろう。
みぃみぃ、と胡坐をかいていた弓弦の足元に猫がすり寄ってくる。
ようやく分かってきたことだが、この猫が弓弦に構ってくるのは、決まって飯の催促をするときだけだ。
お前は能天気だな、と呆れながら子猫用のウェットフードを用意しているうちに、そういえばと思い出す。
(奏、今日は来ないのか?)
時計を見れば、正午をとっくに過ぎていた。
昨日の帰り際に「また明日」と言っていたから、てっきり朝から来るものとばかり思っていたが、そういうわけではなかったらしい。
なんとなく落ち着かず、珍しく学校の授業の予習に取り組んだりしていると、午後一時を過ぎた辺りにようやく慎ましやかなチャイムが鳴る。
扉を開けると、制服姿の奏が立っていた。
「……どうしたその格好?」
「午前中、模試があったから」
弓弦の問いかけに若干疲れたように答えた奏は、「お邪魔します」と弓弦の脇をくぐって扉をくぐる。そして、部屋に入るなり床に転がっていたクッションにぼふんと顔をうずめた。
どうやら、若干どころではなくかなり疲れているらしい。
「そうか、受験生だもんな」
「勉強は嫌いじゃないけど、模試は苦手」
「まあ、気持ちは分かる」
自分も中学校時代、結果が帰ってくると毎回陰鬱な気分になっていたものだ。
「手応えはあったのか?」
「……たぶん、数学と理科はできた。他は微妙」
「へえ。俺は理系科目全部苦手だったからなあ」
「問題、見る?」
上半身だけ起こした奏が、スクールバッグをごそごそと漁って問題用紙を取り出し、こちらに見せてくる。
(中学校の内容とか、もう覚えてねえぞ)
弓弦の通う米川高校は、勉強で言えば中の上くらいのレベルだ。入試のときはそれなりに勉強したが、受験から半年たった今、どれだけ当時の知識が残っているかはかなり怪しい。
受け取った問題用紙をパラパラとめくる。すでに自己採点は終えているらしく、各ページには丸がたくさんついてーー
「……って、数学これ満点じゃねえか!」
「……? さっき、できたって言った」
「そういう意味!? じゃあ、他の科目の微妙ってのも……」
慌てて国語や英語の科目の問題用紙を見ると、女子らしい丸っこい字で数か所だけバツ印がつけられていた。
「もう限界……お腹すいた」
奏はそれだけ言うと、再びごろんと床に転がった。
*
「奏って、頭いいんだな……」
「……?」
弓弦が作ってやった出来立てのホットケーキを頬張りながら首を傾げた奏に、弓弦は気にせず食べてていいと手を振る。
(ここ数日、こいつが勉強しているところなんて見たことがなかったんだが)
子猫をもふっているか、スマホで写真に収めたりしている場面しか弓弦の記憶にはない。
やがて、ごくんと最後の一切れを飲み込んだ奏がこちらを向く。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様。……昨日のプリンまだあるけど、いるか?」
「いる」
即答だった。
思わず苦笑を浮かべつつ立ち上がった弓弦が、冷蔵庫からプリンを取って戻ると、奏が真剣な顔で模試の問題用紙にペンを走らせてる。
「ほいよ」
「ありがとう……弓弦、電子辞書持ってる?」
「あるけど、何に使うんだ?」
「英語の復習。知らない単語、出てきたから」
弓弦と話しながらも、奏の持つペンは動き続けている。空腹も満たされ、すっかりやる気を取り戻したらしい。
それが止まったのは、部屋をうろちょろと動き回っていた猫がこてんと奏の足元にすり寄ってきたときだった。
みぃみぃ、としばらく鳴いていたが、奏が問題用紙から手を離し、優しい手つきで体を撫でてるうちに眠ってしまったようだ。
目じりを緩めた奏が口を開く。
「……幸せそう」
「そうだな」
「弓弦、ありがとう」
「……いきなりどうした」
「猫、助けてくれて」
思わずどきりとする。
大家に見つかり、本格的にタイムリミットが設けられてしまったことは、まだ奏に言っていない。それを過ぎれば、保健所に連れてかなければならないことも。
正直弓弦は、一週間と言わず飼い主が見つかるまでは部屋に置いてやってもいいか、と考えるようになっていた。
もし、本当にこの猫を見捨てなければならないという状況になったら、奏はどういう反応をするだろう。
そんなことを考えた結果出てきたのは、当たり障りのない言葉だった。
「……期間限定だって言っただろ」
「うん。それでも」
こちらを見上げてくる奏は目を細め、猫の幸せを自分のことのように喜んでいるのが伝わってきた。
「猫、撫でる?」
「……別に俺はいい」
「……………」
「……分かった分かった! 撫でる! 撫でるから!」
しょんぼりと肩を落とした奏を見て、弓弦は慌てる。
(こいつ、だいぶ感情が分かりやすくなってきたな……)
最初はあった壁のようなものが薄くなってきているのだろうか。
良いことなのかもしれないが、なんだか振り回されることが増えてきた気がする。
壁際にいる奏の隣まで移動した弓弦は、足を伸ばした奏のふとももに陣取っている猫の背中のあたりをかいてやった。
ふわふわとした手触りは、確かに奏が夢中になるのも頷ける。
弓弦に触れられた猫はぴくりと身じろぎをしたが、起きるまでには至らなかったらしく、そのまま気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
「いい身分だよなあ」
「……」
「奏?」
返事が無いのを不思議に思い隣を見れば、奏が目を瞑って壁にもたれ掛かっていた。
よっぽど疲れていたのだろう。呼びかけてみても、時折「……ん」と寝言のような反応が見せるだけで、目を覚ます気配はない。
(仕方がないな)
しばらくこのままにしてやろうと、毛布を取ってくるために立ち上がろうとしたそのとき、こてんと右肩の辺りに重みが加わった。
奏がバランスを崩し弓弦の方にもたれかかってきたらしい。いつの間にか、すうすうと穏やかな寝息すら立てている。
一瞬体が硬直したが、サラサラとした髪の感触や温かい奏の体温を右半身で感じるうちに、次第に自分の瞼も重くなってきた。
思えば、この土日は普段より早起きしているのだ。体は睡眠を欲しているのだろう。
(三十分、いや、一時間ぐらいこのままでいいか……)
そう考えたのを最後に、弓弦は意識を手放した。
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次回更新は、9月9日(月)の夜21時を予定しています。
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