第5話 二人の関係
翌朝。ピーンポーンというチャイムの音で、弓弦は目を覚ました。
朝っぱらから誰だよ、と寝ぼけた頭の中で文句を言いつつ覗き穴から外の様子を覗く。しかし、そこには誰の姿も見えない。
「悪戯か?」と思いながら、チェーンロックは付けたままの玄関の扉を開けると、こちらを見上げてくる小柄な少女――奏と目が合った。
「おはよう」
「ああ、おは……ってお前、学校は」
「……弓弦、まだ寝ぼけてる?」
こてん、と呆れたように奏は首を傾げる。頭の後ろで一つに結ばれた栗色の髪が、ふさっと揺れた。
寝起きで霞んだ目を擦って見ると、奏の服装が昨日と違うことに気づく。
キャメルカラーのジャンパースカートに黒のブラウスという、秋らしい装いだ。どう見ても、これから学校に行くという恰好ではない。
そこで、ようやく気が付く。
(そうか、今日は土曜日か)
寝巻に使っていたジャージのポケットに入れっぱなしにしてたスマホの電源を点けると、デジタル表示の時計は十一時をわずかに過ぎたことを示している。
もしこれが平日なら、文句なしの大遅刻だった。
「それにしても、こんな早くに来るなんてな」
「11時って、早い?」
「……俺にとっては。まあ、いいや。とりあえず上がれよ」
チェーンロックを外し、奏を家に招き入れる。寝起きのため、部屋はまだ布団が敷いたままの、やや散らかっている状態だが仕方あるまい。
(外で話してるのを誰かに見られるのよりは、ずっとマシだ)
弓弦は心の中でそう呟くと、「そこで待ってろ」と奏に告げて一旦部屋に戻った。
急いで布団をたたみ、換気のために窓を開ける。するとすぐに、秋らしい涼しげな空気が部屋に入ってきた。
服装は寝巻きのままだが、ジャージなのでまあいいだろう。
「よし、もういいぞ」
「……お邪魔します」
部屋に来るのは二回目だというのに、なぜか緊張したような面持ちで奏が入ってくる。
その辺に落ちていたクッションの上にお行儀よく正座すると、きょろきょろと部屋を見回した。
「弓弦、猫は?」
「たぶん箪笥の上だろ」
子猫は、どうやら弓弦の洋服ダンスの上が相当お気に召したらしい。昨晩からの定位置になったようだ。
(そういえばあの猫、どこでトイレしているんだろう……)
あまり考えないようにしていたことを思い出してしまい、思わず顔をしかめる。数日後には、一度部屋を大掃除しなければいけないかもしれない。
そんな弓弦の心中の悩みには気が付かない様子で、奏は箪笥の上の方をじっっと見ている。
しかし、そのままでは猫を見れないと悟ったのか、立ち上がって箪笥の方に近づき、ひょこっと爪先立ちをした。
かなり無理な体勢をしているので、足元はぷるぷると震えている。
弓弦が使っている箪笥は一人暮らし用としてはかなり大きく、一八〇センチ近い弓弦と同じくらいの高さがある。
おそらく子猫の様子は、小柄な奏の視界にはジャンプしても入ってこないだろう。爪先立ちならなおさらだ。
「……見えない」
「そうだろうな。しばらくしたら降りて来るんじゃないか?」
「……猫、今何してる?」
「くつろいでるな……いや、寝てるのかこれ」
だらーんと肢体を広げて転がっている様子は、とても居候の身分には見えない。完全にここを自宅だと思っている様子だ。
ふと、休日の昼間にテレビの前でくつろいでいた弓弦の父親を幻視させるほどのだらけ具合だった。
見たままの状況を説明してやると、奏はポツリとつぶやいた。
「弓弦、羨ましい」
「何が」
「猫、ちゃんと見れて」
「と、言われてもなぁ。あいつの方を降ろしてやろうか?」
「……いい。起こしちゃうの、可哀そうだから」
短い間の逡巡の末、奏は肩を落として首を振る。無表情ながらも、しょんぼりとした心情は十分伝わってきた。
よっぽど子猫と戯れるのを楽しみにしていたのだろう。
落ち込んだ奏の様子に、さすがに居たたまれなくなった弓弦は、寝起きの頭で思いついた提案をふと口にした。
「じゃあ、俺が奏を持ち上げてやろうか?」
「……え」
呆けたような奏の反応を聞いて、ようやく自分の発言した内容を理解する。
「いや、ち、違うぞ!? 今のは抱き締めるとかそういう意味じゃなくてだな……」
「う、うん。大丈夫。分かってる……」
「そんなことより、さっさとあの猫をどうするか話し合おうぜ」
「…………」
「奏?」
「……うん」
何故か残念そうに、渋々と頷いて奏は再びクッションの上に戻る。
(……そんなに猫が見たかったのか?)
とはいえ、さすがに女子中学生を抱っこして持ち上げるわけにもいかない。
弓弦は微妙な沈黙を誤魔化すように咳払いをした後、奏の前に腰を下ろした。
そして、スマホのメモアプリを開き、昨日調べたことを伝える。
「グ○グル先生に聞いたところ、捨て猫を拾った場合は『まず動物病院に連れて行くべき』だそうだ」
「病院?」
「ああ。飼い方や気を付けなきゃいけないことも、一通りそこで教えてくれるらしいが、その前に寄生虫とかの処理をしなきゃいけないんだと」
「そっか……いくらぐらい、かかる?」
「ざっと見積もって一万円を超えるらしい」
「……む」
一万円、という金額に奏が顔をしかめる。
(まあ、そういう反応になるよなぁ)
弓弦が中学生の頃は、毎月千五百円のお小遣いを貰っていたが、それでも他の友人に比べたら多い方だった。
奏がお小遣いを貰っているかは分からないが、そもそも貰っていたからといって即決で出せるような金額ではない。
こうなることは調べたときから予想していたので、何事も無い風を装って言葉を続ける。
「あー。まぁ、ぶっちゃけそれは何とかなる」
「……へ?」
きょとん、と奏が目を丸くした。
「なんというか、俺、一人暮らしだし。親から仕送りは十分貰ってるから。病院代くらい払っても、生活する上では別に困らないというか……」
微妙に奏から視線を逸らしつつ、簡単に事情を説明する。
弓弦の口座には、毎月、家賃や水道光熱費、食費等がまとめて振り込まれていること。
しかも、「高校生のうちはアルバイトをさせたくない!」という母親の方針もあり、その額は一人暮らしをする上では十分すぎるほどのものであることを。
両親の稼ぎで生活させてもらっている弓弦は、極力無駄遣いをしないようにしているが、今回は仕方がない。
「人助け」ならぬ「猫助け」のためだし、きっと両親も納得してくれるだろう。
それよりも。
(自分で稼いだ金じゃないし、恩着せがましく言うのは嫌なんだよな……)
どうやって目の前の少女に気を遣わせないようにするかの方が、重要な問題だった。
「とにかく、俺が引き取るって言ったんだから、お前は気にしなくていい」
「……でも」
「納得できないなら、せめて治療費の代わりにお前もアイツの面倒見るの手伝え。世話の仕方とかなら、ネットで探せば見つかるだろ」
「……そんなことで、いいの?」
「ああ。あんまりごちゃごちゃ言ってると、治療費全部お前持ちにするぞ」
卑怯な言い方だが、効果は十分だったようだ。しばらく奏はもごもごと口を動かしていたが、やがて観念したように下を向く。
「……ありがとう」
「……いいって言っただろ」
奏の声が少し震えていたのには、気づかないふりをした。
*
「うん。予防接種もしておいたし、これで大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
奏と猫を連れて近所の動物病院に来たところ、それほど待たされることなく診察を受けることができた。
人当たりのよさそうな年若い(といっても三十歳は超えているだろう)獣医の方に診てもらったところ、猫の健康状態はさほど問題がなかったようだ。
(そもそも元気じゃなかったら、そもそも箪笥によじ登ったりできないもんな)
と思いつつも、一応胸を撫でおろす。
奏はと言えば、子猫の健康状態や、世話の仕方を詳しく教えてくれる獣医の言葉を聞き漏らすまいと、一生懸命にメモしている。
いつものぼうっとした表情ではなく、少し緊張した面持ちになっているのが弓弦には新鮮で面白かった。
「注意していただく点は以上になります。……あとは、一応うちの病院でも里親募集の張り紙はしておきますが、お二人の方でもお知り合い等で引き取ってくれる方がいないか探してみた方が良いでしょう」
「分かりました」
「いやぁ、それにしても感心ですよ。まだお若いのに、きちんと拾われた子の面倒を見てくださってるなんて。結構多いんですよね、拾ったはいいけど世話ができずにそのまま再度捨ててしまう方」
「はぁ」
「一度人間に拾われちゃうと、どうしても野生には戻りにくくなってしまいます。まあ、それ以前に犯罪に当たる可能性もあるんですが……」
獣医の言葉に、弓弦は曖昧に相槌を打つことしかできなかった。
まさか「自分も、一週間後には元々捨てられていた場所に放すつもりです」とは言えない。
そんな微妙な弓弦の様子には気づかず、獣医は嬉しそうに言葉を続ける。
「妹さんの方も、熱心に私の話を聞いてくれましたしねぇ。この子も、いい人たちに拾われて幸せものですよ」
「え、いや、こいつは別に――」
「ありがとうございます。……そろそろ行こ? お兄ちゃん」
言葉を遮るように口を挟んだ奏が、くいくいっと弓弦のジャケットの裾を引っ張る。
その目が「いいから合わせて」と言っているように感じられたので、黙ってそれに従った。
可愛がってあげてくださいねぇ、と最後まで愛想よく見送ってくれた獣医に軽く会釈をし、病院から十分距離が空いたところで弓弦はようやく口を開く。
「俺たちのどこを見たら兄妹に見えたんだ……」
「……本当のこと説明した方が、よかった?」
「……次からは従兄妹で通そう。そっちの方が信憑性あるだろ」
「確かに」
ふむふむ、と奏は頷いた。とりあえず、口裏を合わせておけば怪しまれることもないだろう。
(それにしても、兄妹か)
一人っ子の弓弦にとっては、馴染みのない響きだ。
ふと横を見れば、猫の入ったケージを大切そうに抱えている奏の様子が見えた。弓弦の視線に気づくと、不思議そうに首を傾げる。
「……どうかした?」
「いや、なんでもねえ」
(もし妹がいたら、こんな風に一緒に出掛けていたんだろうか)
そんなことを考えながら、歩幅の小さな奏に合わせてゆっくりと帰り道を歩いていった。