第2話 弓弦の日常
「笹瀬川ぁ。お前さん、今月になってから何回目の遅刻だ?」
「……数え間違いじゃなければ、今日でちょうど十回目ですね」
「おう、正解だ。で、それについて何か思うところはねえか?」
「来月こそは五回以内に収めたいな、と」
「バカ野郎っ! 五回も十回も大して変わるか! だいたいお前はいっつもいっつも――」
翌日。登校した弓弦は教室ではなく、職員室に向かった。
正確には、朝のホームルームの時間に遅刻したことで、担任によって連れてこられたのだが。
入学以来何度も聞かされている説教を聞いたふりでやり過ごしていると、一時間目の授業が始まる直前になって解放された。
ため息をつきながら教室の扉を開けた瞬間、雑談に興じていたクラスメイトたちの視線が一斉に弓弦に向けられる。
気まずい沈黙が教室を満たすが、それも一瞬。クラスは再び元の喧騒を取り戻した。
ただ、その話題は弓弦が来る前とは違う。
「……ねえ、笹瀬川ってやっぱり」
「……うん、それ私も聞いた。この前は隣の高校の人と――」
「やっぱり、あの頬のケガも喧嘩のせいかな?」
「しっ、聞こえるよ!」
一部はひそひそと、一部はこちらに聞こえることも憚らず、弓弦についての噂話を繰り広げているようだ。
入学して以来、弓弦はクラスメイトから腫れ物に触るような扱いを受けていた。
人相が悪いのも理由の一つだが、それ以上に大きいのは弓弦にまつわるある噂だろう。
『笹瀬川は中学時代に同級生を血まみれになるまで殴ったらしい』
誰が言い出したのか、入学して間もないころにそんな噂が急速に広まり、弓弦には好奇と怖れの入り混じった視線が向けられている。
弓弦は、それについて一切肯定も否定もしてこなかった。そのため、今日も今日とてクラスメイトたちは尾ひれが付きまくった噂話で盛り上がっているようだ。
よく飽きないなぁと他人事のように感じながら自分の席につき、周りの様子を気にすることなく机の上に顔を伏せる。
昨日は、突然現れた「客人」のせいでまともな睡眠が取れていないのだ。
(せめて二時間目……いや、できれば昼休みまでこのまま寝てたい)
そう願いながら、瞼を閉じる。
そんな弓弦の頬には、今朝貼られたばかりの新品の絆創膏があった。
*
「拾ったぁ? 猫を?」
「成り行きでな。……って、なんだよその顔」
「いや不良が猫拾うって、漫画でもあるまいし。まさか、ギャップ萌えでも狙ってんの?」
昼休みになると、弓弦は校内で最も人気のない場所に足を運んでいた。
数年前まで使われていた旧校舎の屋上である。
そこで昼食を口にしながら、昨日から今朝にかけての出来事を、広瀬海斗――弓弦にとって学校で唯一の話し相手である友人だ――に語っていたところ、この反応であった。
「で、そいつの世話をしてたら頬を引っ搔かれたと。弓弦お前、今の自分の顔を鏡で見てみろよ」
「うっせぇ。……まぁ、いつもより、クラスの奴らが騒いでたからなんとなく察してる」
「そりゃ、人の一人や二人殺ってそうな人相の奴が、頬に傷作ってたら騒ぎたくもなるよなぁ……そういや、また新しい噂が流れてたぞ?」
「今度は何だよ」
「聞いて驚け。お前は隣の高校の不良五人と喧嘩して、一人で全員血の海に沈めたらしい」
「へえ。俺はいつからそんな強くなったんだろうな」
「まったくだ。実際は、ヤンキーの拳一発で沈みそうだもんなあ」
お前見かけよりずっと貧弱だし、と海斗は呆れたように肩をすくめる。
校則違反の金髪に、今はつけていないもののはっきりと残ったピアス穴。
おまけに、学校指定の制服にも海斗は自己流のアレンジを加えているようだ。学ランのボタンの数とか裾の長さとか、原形からだいぶ遠ざかっている。
そんな真正の不良(?)である海斗は、どういう訳だかやたらと弓弦に構ってくる。
前に一度、噂についてどう思っているのか聞いたところ、
「一人ぐらい、そういう面白い奴が友達に居た方が、人生楽しそうだろ?」
と真顔で返された。さすがに唖然としたのを覚えている。
もしゃもしゃとサンドされたレタスを咀嚼しながら弓弦は呟いた。
「それにしても、寝不足になるわ、クラスからの誤解は深まるわ。猫を助けてやったのに、何も良いことがねえ……」
「お? でも、可愛い女の子とオトモダチになれたんだろ?」
「そういうのじゃねえ。相手はガキだぞ。第一、名前すら聞いてないし」
昨夜。子猫の入った段ボールを持って帰宅しようとすると、少女はそのままどこかへ行ってしまった。
時間も時間だったし、おそらくは帰宅したのだろう。
態度や発言から、何か少女には複雑な事情がありそうなのは察したが、帰る場所があるならばまだ少しは安心できる。
(まあ、もう会うこともないだろうしな)
そう考えながら昼食のサンドイッチの最後の一口を口内に放り込んでいると、背後からカンカンカンカン、と音がした。
誰かが、この屋上へ繋がる階段を昇ってきているらしい。
「あ、やべ」
隣の海斗が慌てているが、弓弦は動じもせずお茶のペットボトルに口をつける。
どうせ、今から来る相手は弓弦にとっては脅威じゃないのだから。
「こら、二人とも! 旧校舎の屋上は許可無く立ち入り禁止って何度も言ってるでしょ!」
そう言いながら、校内で「不良」と評される強面&チャラ男子二人の前に臆することなく仁王立ちしたのは、弓弦や海斗と同じ制服姿の女子生徒だった。
海斗が属するA組のクラス委員長、天王寺晴香である。
女性にしては高めの身長と、腰まで届くほど艶やかな黒髪。
合気道と剣道など、多種の武術に秀でているらしく、その肢体は引き締まっているが、女性らしい胸部だけは、詰め寄られている海斗に今にも当たりそうなほどの大きさだ。
外見的な美しさと自他共に規律を守らせる品方向性さもあって、天王寺は男女問わず人気を誇っている。
校内で浮いた立場の弓弦や海斗とは、対照的な人種であった。
「だいたい、広瀬くんはその学ランなんとかならないの? カッコつけてるのかもしれないけど、正直ダサいわよ」
「なっ! う、うっせーな! お前には関係ないだろ!」
「関係ありますぅ。広瀬くんみたいなカッコを許容することで、だんだんとクラスの風紀が乱れるのよ!」
そして、この光景も入学以来何度も繰り返されているものだ。
毎日とは言わずとも、かなりの頻度で立ち入り禁止の旧校舎屋上を使っている弓弦と海斗にわざわざ注意を飛ばしに来るのは、クラス委員達の中でも飛び抜けて真面目な天王寺だけである。
優等生かつ美少女である天王寺に、至近距離から睨まれて動揺している海斗を見て、弓弦は我関せずの姿勢を取ることに決めた。
(俺のクラスの委員長がこいつじゃなくて、本当に良かった)
先程から海斗に向かって小言を重ねている天王寺は、弓弦のことを完全に意識の外に置いている。
A組のクラス委員である彼女にとって他クラスの生徒である弓弦は、あくまで「海斗のおまけ」ということらしい。
(触らぬ神に祟り無し、だな)
余計なことを言って、天王寺のお怒りがこちらにも飛んできては困る。
後方のやり取りをBGMに、昼休みらしい賑わいをがみせるグラウンドを遠い目で見つめながら、弓弦は家に置いてきた「客人」をどうしようかと考え始めた。
*
放課後を告げるチャイムが鳴ると、すぐさま弓弦は帰路についた。
いわゆる「帰宅部」の弓弦は、放課後の学校に留まる理由はないし、帰宅を急ぐ理由もない。
普段であればゲームセンターに行ったり、古本屋で漫画の立ち読みをしたりと、適当に時間を潰してから帰宅するのが弓弦の日常だった。
ただ、今日に限っては「帰宅を急ぐ理由」がある。
昨日、成り行きで拾うことになった子猫の存在だ。
(壁とか布団が傷つけられてないといいんだが)
雨風による衰弱具合は、少なくとも弓弦の素人目には大丈夫だと思われた。
あの後で買ってきた子猫用のミルクも口にしていたし、弓弦の部屋に来てからしばらくすると、段ボールの中でうろちょろと動き回る元気も取り戻したようだ。
どちらかというと心配なのは、子猫が段ボールから出て、家の中を荒らしていないだろうか、という点である。
家の状況に一抹の不安を感じながら歩いていると、いつの間にか、弓弦は昨日少女と出会った空き地の近くまで帰ってきていた。
さすがに今日はいないよな、と思いながら一応空き地を覗くと、
「………………はぁ」
思いっきり、いた。
空き地の隅っこにぽつんと腰を下ろしている少女は、昨日と違って制服姿ではあるが、間違いなく雨に濡れながら捨て猫を撫でていた少女と同一人物である。
(制服を着てるってことは、中学生だったのか)
昨日は外も暗く、しかもフードを被っていたため気が付かなかったが、少女の髪色は淡い栗色だったらしい。
陽の光が当たるときらきらと輝いているように見え、弓弦も少し見とれてしまったほどだ。
一方の少女は、相変わらずのぼうっとした表情で空き地の反対方向を見つめており、弓弦に気づいた様子はない。
「お前、またここに居たのか」
「……あ」
仕方なく声をかけてやると、少女は慌てた様子で立ち上がる。しかし、弓弦が学校用の鞄以外持っていないのを見ると、不思議そうに目を見開いた。
「猫、置きに来たんじゃないの?」
「あ? 数日はうちに置いといてやるって言っただろ」
「……じゃあ、どうして?」
「いや、どうしても何も、ここ俺の通学路だから。たまたま通りがかっただけだ」
嘘は言っていない。
本当はもっと近い帰り道があるのだが、今日は無意識の内に少し回り道をしていたらしい。昨日のこの場所での出来事が強く印象に残っていたからだろうか。
「そう言うお前はどうしたんだ。今度は捨て犬でも拾ったのか?」
「……あの子、いつここに返されちゃうのか、分からなかったから」
弓弦の冗談に取り合わず、少女は首を横に振る。
あの子、というのは弓弦が拾って帰った子猫のことだろう。
確かに、思い返してみれば弓弦は少女に「しばらく預かる」としか言っていない。
それが一日なのか二日なのか、それとも一週間を超えるのか、少女には分からなかったのは当然だろう。
(だからと言って、さすがに一日じゃないことは分かれよ……)
「あのなあ、数日って言っただろ? 二、三日くらい……ってのはさすがに短いか。一週間はとりあえず家に置いといてやるから、余計な心配はすんな」
「……うん」
小さく頷いた少女は、相変わらずの無表情ではあるものの、ほんの少し肩を撫でおろしたように見えた。
すると少女は、弓弦の方をチラチラと見つめ、視線が合うとふいっと目を逸らすという謎行動を繰り返し始めた。
「なんだよ」
「…………あの」
「……言いたいことがあるならさっさと言えよ」
早く帰りたいんだが、と本音を隠しもせず急かすと、少女はやがて観念したように俯いた。
「その……あなたの家、行ってもいい?」
「へ?」
拍子抜けな声が出た。
(家に来る? 誰が? こいつが? 俺の?)
瞬時に混乱に包まれた弓弦の様子に気づかないのか、少女は耳をやや赤くしながら言葉を重ねる。
「あの子、元気かなって。昨日は、撫でるくらいしかできなかったから……」
「ああ、猫目当てか。それなら……って待て違――」
目的が分かったため安心し、思わず許可を出しかけたところで気づく。
高校生男子が中学生くらいの少女を家に上げるという事実は何も変わらないことに。
慌てて発言を撤回しようとしたが、時すでに遅し。
「……ほんと?」
少女が弓弦を見上げてくる。
いつも通りの無感動そうな表情に反して、その藍色の瞳に喜びと期待の色を宿らせているのに気づき、弓弦はがっくりと肩を落とした。