エゴと揺蕩う
岩肌も空も同じくらい白くて眩しくて。境界線はどこだろうと、目を凝らして探していた。この作業は眠くなる。眠ってはいけない状況なのになんだかやめられない。宙ぶらりんのこの格好は最初は痛かったけれど、今は寒さに麻痺して何も感じない。登山仲間が助けを呼びに行ってくれたが、いつその助けが来るのかは分からない。いつまでこの姿勢なのかなと暢気に考える。どうにも危機感というものが沸いてこない。俺は体を持ってくれているロープに視線を映して瞬きをした。
買ってきたばかりのアイスクリームメーカーのハンドルを、面白いと言う感情を隠さず顔に出しながら瑠合はまわしていた。季節は夏で、子供の頃からどれほど通ったか分からない彼女の家の木製テーブルに、俺は対面で座っていた。片ひじをテーブルについて爪をいじっていると、瑠合の含み笑いが聞こえた。
「みどり君は抹茶アイスね。みどりだから」
「抹茶あるのかよ」
「ない。買ってきてよ」
「嫌だよ」
親しい相手には取り繕うことをしない瑠合は、幼稚園から近所づきあいが始まった俺に対してもそうだった。牛乳と生クリームは固形化が進んでいるらしくハンドルの動きが段々と重たくなっている。
「作ってんのバニラアイスだろ。抹茶なんていついれるんだよ」
「上から降りかければいいでしょそんなの」
「なんだそのふりかけ方式」
「味は一緒だよきっと」手が疲れたようで回す腕を変えた。
「今年も行くの? 雪山登山」
瑠合はちらりと俺を見てすぐアイスクリームメイカーに視線を戻した。
「行くよ。もう友達とも計画立てているからな」
「よくやるよねえ、寒い時にわざわざさあ」
「寒い時じゃなきゃ雪ないだろう」
「なんでわざわざ雪山よって話しよ」
「お前こそなんでわざわざそんなもの買ってんだよ」
「母親がさあ、大人になった息子にふるまうのよ」
瑠合は色々すっとばして話し出すのが癖だった。
「なに、なんの話」
「映画の話。小さい頃見たの。その母親はさ、息子が小さい時に死んでいるんだけど、ある日急に現われるのね、大人になった息子の前に。夏の暑い時期にさ、アイス作るシーンがあるの。ストーリーほとんど覚えてないけどそのシーンの印象強くてね。なんか思い出しちゃったのよね最近。なんでだろうね」
わあ凄いちゃんと出来てる、とはしゃぎながら固形化したアイスを瑠合は嬉しそうに見せてきた。
はっと目を開ける。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。瑠合のアイスを食べたのはその一回だけ。瑠合自身も親御さんたちも何度か食べたようだけれど、俺はその一回こっきりで終わってしまった。ひゅうと風が鳴る。顔に雪が降ってくる。
ああ、花みたいだな。
ふと、左手に違和感を感じた。見ればいつの間にかガラスの器を持っていた。アイスクリーム用のグラスが指と指の間に短い足を通して手の中に納まっている。理解できずひっくり返したりして器を見る。上に向けると舞った雪の結晶が中に入った。それを覆い被せるようにして、銀色の金属がぽんっと何かを器に乗せた。アイスだった。
(アイスディッシャーっていうんだよこれ)
わざわざ買ったというアイスすくいの道具を得意げに見せびらかしてきたあいつ。引っ込んでいくそれを目で追う。器具を持っているむき出しの白い腕、その先に瑠合がいた。居間のテーブルの席について、自分の器にアイスを乗っけていた。目の前は氷の壁のはずなのに。どうしてか今はあの夏の日の光景が広がっていた。瑠合はあの日着ていた木綿みたいなワンピース姿でそこに座っていた。
「瑠合」
瑠合は俺を見ると右手で持っているスプーンを顔のところに持ち上げて振った。気づけば俺は右手にスプーンを握っていた。手の中に現われたそれらに驚いている俺に構わず、瑠合は変わらぬ笑顔のままアイスをほお張る。
「ヨモツヘグイじゃないのかこれ」
「そんなわけないじゃん」おかしそうに瑠合は言った。
「みどり君なんて死んだって連れて行かないから安心しなよ」
「おまえの母ちゃん泣いていたぞ。おまえがそれ買った理由話したら」
瑠合の傍らにあるアイスメーカーを顎で指す。
「まるで死ぬのが分かっていたみたいねって」
「それは誤解だわ。あたしだって予想外すぎてびっくりしたんだから。まさか事故にあうとか思わないよね」
瑠合は喋りながらぱくぱくとアイスを口にほうり込んでいる。俺も一さじ掬って口に運ぶ。しゃりっと歯にあたるそれは、およそ俺の知っているアイスの食感とは違った。
「シャーベットみたいだ」
「そりゃそうだ。みどり君の食べてんのは氷だもの。あたしががんばってアイスによせてるの」
「こおり? ……雪か、もしかしてこれ」
「そうだよ。今みどり君の周り雪しかないじゃん」
でもさすがに抹茶味はむりだったよと瑠合は軽口を叩いた。
「お前、凍え死ぬかもしれん奴に氷の塊食わせんなよ」
「大丈夫だって。心頭滅却すれば火は冷たいって言うでしょ。あれの逆バージョンよ」
そんな事をのたまう、馬鹿な幼馴染に苦笑する。
「みどり君もう雪山登るのやめなよ。今回は助かったけど次はわからないよ」と瑠合が言った。
「やだよ、やめねえよ」
「みどりく~ん」呆れに怒りを混ぜて、瑠合が睨んでくる。
「お前、俺が死にはぐってるから出てきてくれたんだろ? じゃあ、もう絶対やめねえ」
本当はヨモツヘグイでもいいんだ。
「来年も再来年も、山に登ってやる」
離れないですむんなら、本当はなんでもいいんだ。瑠合は睨むのをやめてじっくりと俺を眺めた。
「あの映画さ、思い出したの。親はさ、息子が悪いやつに目をつけられたのを守るために両親揃って現れたのね」
瑠合は一瞬何かを飲み込むように俯いた後、顔を上げてキラキラした目をこっちにくれた。
「あたしも、そんな感じでみどり君の前に来たのかもね」
そんなわけはない。俺にとっての最悪は夏にもう起きてしまったのだから。そう思ったけど、何も言わず笑う瑠合に合わせて笑ってやった。
「迷ったらまたお前、アイス作ってご馳走してくれよ」
「やーだよ、冗談じゃない」
笑いながら瑠合は俺のグラスを取り上げた。どこからか人の声がする。いつの間にかスプーンもなくなった。目の前には、ただの氷壁がそそり立っている。
「こんなくそ寒い中でアイス食わせんなっつうの」
墓にアイスをお供えしても、すぐに溶けてなくなっちまうなと空を仰いだ。