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しんてーき

作者: うにくりょ

 ちっとも短編ではありませんが、連載ものでもないので「短編」にチェック。間違っていたらごめんなさいです。

 中身は長井です。(←長い)

 時間を惜しまない方は、一読をお勧めします。

全国を統一する者とは、どのような人物であれば成し遂げられるのだろうか。百戦百勝の武略の長けている者だろうか? それともたった一枚の手紙で、一国を切り取ってしまうほどの知略者だろうか? いやいや、敵さえも取り込んでしまうほどの魅力の持ち主だ、という人もいるかもしれない。

日の丸正将 ――彼は不幸にもそのどれも有していない、小心で優柔不断な若者だった。しかし彼は、後に?神帝?と呼ばれ敬われるほど人物になるのである。

話しは、彼がまだ王位についたばかりの、十五歳の時から始まる。

正将は先王がわずか四十の若さで急逝した為、まだ初陣をしないうちに王位に就いた。兄弟は三人おり、彼は次男だった。しかし長男は病弱で立つ事もままならぬ為、跡を継ぐ事になったのである。

しかしそれをよく思わない者が多くいた。なぜならば末弟の正勝は、何をやらせても常人以上の才を発揮したし、人付き合いもうまく、先王の遺臣達のほとんどが、正勝に心を寄せていた。中には進んで家臣になる事を願い出る者までいた。

それに比べ、正将は誰から見ても暗愚だった。何をやらせても常人以下。あまり人前には姿を現さず、話し掛けても愛想なく返事を返す始末だった。

そんな正将にとって、唯一ともいえる味方は、守役の二藤部圭蔵とその子圭介だけだった。

その圭蔵がある日、山賊退治にて初陣を飾るように正将に進言した。正将は王位に就いてからも公の場に現れる事が少なく、書物ばかり読んでいる生活をしていた。

圭蔵の言葉を聞いた正将は、情けないほど気弱な表情になり

「圭蔵。そちは、わしが虫も殺せないほどの小心である事を知っておろう?」

と進言を退けた。が、圭蔵は続けた。

「若。今は西を見ても、東を見ても乱世の時代でございまするぞ。国主は互いに領地を奪い合い、その為には親兄弟も殺める弱肉強食の時代にございまする。若はこの葉堵より、一歩でも外に出た事がおありか? 我が国の北西に位置する佐上では、度重なる戦火により、田畑が荒れ果て、その上飢饉に覆われた為、野には餓死者が溢れ返っておりまする。我が国の南に位置する豊釧とよせんは、醜き兄弟争いの為、たかだか銭勘定しかわからない商人に乗っ取られもうした。東に位置する播虞では、相次ぐ重税に耐えかねた百姓どもが反乱を起こし、国主を倒して衆議会による自治を始めましたぞ。それに南東に位置する――」

「うるさい。わしが、書見している時は静かにしろ」

いらだたしげに正将は言った。

「いいえ、黙るわけにはまいりません。この圭蔵、亡き大殿に若の事を託された身にございまする。このように不甲斐ない若殿では、死した後、大殿に叱られてしまいまする」

うんざりした正将は、圭蔵に背を向けた。

「若。この圭蔵の進言、どうしても受け入れてもらえませぬか?」

「くどいぞ圭蔵。わしは戦は嫌いじゃ。こうやって書物を読んでいた方が、何倍楽しいかわからぬ」

正将の言葉に圭蔵は溜め息をついた。

「仕方ありませんな……」

圭蔵はズカズカと正将に近づき、襟首を引っつかんだ。

「わ、な、なにをする。は、はやく放せっ!」

「圭蔵は若を説く事に疲れもうした。これからは実力で説きまする」

圭蔵は、その状態のまま正将を引きずって評定の席に連れていった。

評定では、すでに山賊退治の話し合いが行われており、家臣一同が集まっていた。圭蔵は空席である上座へ、正将を放り投げた。そして、諸将に向かって大声で言った。

「この度の山賊討伐の件。我が領内の民を苦しめるような輩は、早々に我が手で退治、殲滅しなければならぬ、と若が仰せにございまする。よって此度の討伐は、若直々に総大将になられる旨、皆々様よろしゅうお願いいたしまする」

諸将は不意を打たれ沈黙していた。何十人もいる評定の席が、しーんとしていた。が、すかさず沈黙を破った男がいた。末弟の正勝である。

正勝は尻餅をついている正将の前で平伏し

「我が君御みずからの出陣とあらば、諸将皆々だけでなく、一兵卒にいたるまで士気も高まりましょう。よきお考えにござりまする。この正勝、喜んで先鋒をつかまつりまする」

と言った。しかし顔は明らかに正将を蔑んでいた。

正勝につられるように、諸将も正将に平伏した。だが、どの顔にも困惑と不安の色しか窺えなかった。

そんな雰囲気を敏感に察した正将は、怖じ気づき逃げ出そうとした。しかし、側にべったりと圭蔵が侍り、それを許さなかった。

圭蔵は小声で正将に耳打ちする。

「若、なにを怖じ気づいておりまする。そんな姿では、誰一人としてついてきてくれませぬぞ。背筋を伸ばし、ビシッとなさいませ、ビシッと」

「け、圭蔵。だ、だめじゃ。やっぱりわしには、大将は向いていない。そ、そちがかわりに指揮をとってくれ」

「若、何も心配する事はございませんぞ。諸事あらゆる事は、この圭蔵がやりまする。若はどっしりと腰を下ろしていてくだされ」

と圭蔵はたしなめた。しかし、正将はいぜんとして不安な面持ちをしていた。

「し、しかしだな……」

「若。これが若の最後の機会でござりまするぞ。この圭蔵とて、もういつ死んでもおかしくない年にございまする。この機を逃せば若は――」

とここで視線を正勝に向け

「弟に食われまするぞ」

「…………」

「もはや選択肢の余地はございませぬ。ここで初陣を飾らねば必ずや弟君に討たれましょうぞ。それとも若は、弟君と合戦して勝つ自信がおありか?」

今の時点で正勝が反旗を翻せば、正将のもとに味方する将は圭蔵とその周りの者だけであろう。正勝がこの時期になっても反旗を翻さないのは、戦上手の圭蔵の采配を恐れての事であり、圭蔵の死後は何のためらいも無く、兵を動かす事は目に見えていた。

「圭蔵の一生のお願いにございまする。御出陣くだされ」

ここまで言われては、正将も断る事ができなかった。正将は力なく

「わかった。よきに計らえ」

と言った。


第一章 『若殿初陣』


かくして、正将は鷹取城を出陣。山賊討伐の為、兵二千を動員した。

正将軍は馳川を越え、山賊の住処となっている定宮山へと向かっていた。しかし、この行軍中に一つの事件が起こった。

定宮山まで後少しという所に、小さな森があった。小さいとは言っても、広さにしてドーム球場の十個分ほどはある。

この森は木々が生い茂り、視界が利きにくい。伏兵を配するには最適の地形であった。

圭蔵はすぐさま斥候を放ち、森の隅から隅までを調べた結果、伏兵はなかった。その報告を聞いた正将軍は、森奥深く進軍した。

まず先鋒が通過し中軍に位置する正将が、森の半ばを通過しようとした時だった。森から正将に向かって矢が放たれた。

矢は正将から大きく外れて後ろの木に突き刺さった。

「敵だっ! 敵襲だっ!」

誰かがそう叫んだ。

「早く逃げないと、皆殺しにされるぞっ!」

不意をつかれた近衛兵達は、とっさに武器を捨てて逃げ出した。正将の周りに残っていた者は、圭蔵とその子圭介だけだった。

事態をとっさに悟った圭蔵達は、正将の盾となるべく馬をよせた。正将は青い顔をしてただ呆然としている。

圭蔵は正将を落ち着かせる為

「若、大丈夫でござる。例え千の敵が押し寄せてこようとも、この圭蔵。若をお守りいたしまするぞ」

と言った。だが正将は、口をパクパクさせながら手を震わせている。

「若、敵は……」

と圭蔵がいった時

「て、敵……敵じゃっ! 逃げねば……逃げねば殺されるぞっ!」

と叫びながらただ単騎で、森の奥へと駆けていってしまった。

「若! 若っ!」

あわてて圭蔵が追いかける。しかし、正将の乗っている馬は、先王が元服時に正将に与えた物で、この国一番の駿馬だった。

段々と正将との距離が開いていく。圭蔵が懸命に追いかけるが、差は開く一方だった。

「若っ! お一人で先行されるのは危険にございまするっ! どうか、お戻りくださいませっ!」

必死に叫ぶ圭蔵の声は、正将に届いていなかった。それでも声の続く限り呼びかけた。だかその甲斐虚しく、正将の馬は見えなくなってしまった。

圭蔵が再び馬に鞭を入れようとした時

「ぎゃー」

正将の叫び声が、森をこだました。

圭蔵は焦った。焦って頭上に突き出ていた小枝を見逃した。小枝が視界に入った時、それは鋭い槍となり圭蔵の目に突き刺さった。

「ぐわっ」

あまりの痛みに圭蔵は、馬からずり落ちた。そして、主から解放された馬は、森の奥に消えてしまった。

「ぐっ……く……これしきの傷っ」

圭蔵は、力任せに枝を引き抜いた。が、枝は深々と突き刺さっていた為、枝だけではなく眼球ごと引き抜いてしまった。

「かの名将の如く、食らってくれるわっ!」

とそれを食べてしまった。余談だがこの話しは、たまたまその光景を目撃していた逃亡兵によって、自国だけではなく、周辺国にまで広がる事となる。

圭蔵は戦袍をひきちぎり、なくなった目を覆った。白い戦袍があっという間に、赤く染まった。

圭蔵は懸命に正将の駆けた方向へ走った。走りながら、重い兜や先祖代々続いた甲冑も投げ捨てて、身一つで追いかけた。

やがて尻餅をついて座り込んでいる正将を発見した。

「若っ! ご無事にございましたかっ!」

正将は呆けた顔で、圭蔵を見た。しかし、先程とは違い意識ははっきりしているようだった。

「圭蔵……その傷は……」

「かすり傷にござる。それよりもお怪我は?」

「馬から振り落とされた時に、腰をしたたか打っただけじゃ」

その答えに圭蔵はほっとした。

「ご無事でなによりにございまする。さっ、おつかまりくださいませ」

圭蔵は正将に肩を貸した。その時、正将の馬が過ぎ去った方を見た。森はすぐそこで途切れており、その向こうは切立った深い崖になっていた。もし、正将が馬に振り落とされていなければ、命は無かったであろう。

「若はついてござる」

圭蔵は、誰にともなく言った。


圭蔵と正将は無事本陣へと帰還した。事態はすでに全軍に伝わっており、本陣には諸将が集まっていた。

そして正将の帰還に一同がざわめいた。しかし、諸将の目は以前に増して冷たかった。総大将が味方を捨てて逃げ去った事は、正将の暗愚を決定的なものにしたらしい。正将が上座に腰を下ろしても、誰一人頭を下げようとはしなかった。

「御大将の御前であるぞっ!」

圭蔵が怒鳴りつけた。諸将はようやく頭を下げた。だが、正勝は平然としていた。

「正勝殿っ!」

圭蔵の催促に、正勝は、ニヤリ、と正将の方を振り向き

「はて、どこぞに御大将がおられるのかな? 大方、未だに森を駆け回っているのでござろう?」

と言い退出して行った。正勝の側近が後に続く。諸将も続々とそれに続き、本陣には正将と圭蔵父子だけが残った。

山賊退治は、一刻足らずで終わった。素人集団の山賊と訓練された正規兵では、勝負にならなかった。

凱旋した圭蔵は、大広間にて諸将にこの度の戦における論功行賞を行う旨を伝えた。論功行賞とは、諸将に対して褒美の割り当てを行う席であり、国主にしてみれば諸将との主従を固める重大な儀式であった。

が、一刻、二刻と待てども誰も姿を表さなかった。

圭蔵は傍らの正将をちらりと見た。正将は心痛な顔でうつむいていた。思いつめた表情をしている。

その顔を見て圭蔵は、山賊討伐に正将を連れていった事を深く後悔した。

(まさかこんな事になるとは……)

そこへ息子の圭介が飛び込んで来た。

「大変ですっ! 正勝様は典武城にて、諸将を集めて勝手に論功行賞を……」

と言いかけて圭介は、重く沈んだ空気を感じ取り口をつぐんだ。

(矢を射たのは、正勝の手の者に違いない。わしが、斥候を出した時、敵は見つからなかった。あれは罠……)

圭蔵は怒りのあまり唇を噛んだ。口に血の味が広がる。

(諸将は、完全に若を見限った。今まで日和見を決め込んでいた将まで、こぞって寝返るに違いない。もし今、正勝に反旗を翻されたら、いくらわしでも、勝つ事は不可能だ……)

なくなった目の奥がうずいた。出血は止まったとはいえ、痛みは治まっていない。

(何という事だ……若を守るわしが、若を窮地に追い込むとは……どうすれば……)

重い沈黙に耐えかねたのか圭介が口を開いた。

「父上。私が思いまするに……」

「うるさいっ!」

圭蔵は思わず怒鳴ってしまった。が、あわてて

「いや、すまん。すこし考え事をしていてな」

と謝った。十方向、敵に囲まれても顔色一つ変えない圭蔵が焦っていた。

(焦るな……焦らず今できる手を考えよう)

こうなった以上、正勝は近く兵を起こすに違いない。もしかすると、諸将が自分の城に集まっている今日かもしれない、と思った。

(正勝が、諸将を総動員すれば五千の兵は集まるだろう。対する我が軍は……かき集めて五百がせいぜい……しかも、この辺りの地形は平地続きで、野戦では万に一つの勝ち目も無い……かといって、篭城するにも兵士が足りなさすぎる)

建設当初、鷹取城は空掘りに薄い板を立てただけの、屋敷とも言える貧弱な城だった。しかし、先々代の頃から天下の乱れる吉兆が出始め、それに伴い改築、改修を進めて来た。

今では、山にそびえ立つ難攻不落の巨城になりつつあった。ここに篭れば二、三年は持ち堪えられる自信があった。しかし、この手の城は、城兵が少ないと広大な城壁を守りきれないという欠点があった。

わずか五百人では、半分の城壁も守れないだろう。かといって本丸に篭るのは、愚である。なぜなら米蔵と井戸は、本丸には無いからである。これでは、持って十日という所だろう。

(戦っても勝ち目が無い。戦って一矢報いるか……)

圭蔵は慌てて首を振った。

(若はまだ十五歳。しかもわしのせいで、死なせたとあっては、先王に顔向けできぬ。若だけは、何としても助けねば……取るべき道はひとつ。どこかに亡命させるしかない)

しかしそんな事ができるだろうか? 周辺国はすべて敵国である。また遠くの国で親交のある国はなかった。見ず知らずの正将を受け入れてくれるわけが無かった。

(打つ手は……他に打つ手はないのか)

考えを張り巡らしていた圭蔵の脳裏に一つの地名が浮かんだ。

(どことも交戦していない中立国が一つだけある……だがあそこは、はるか西にある島国……船で向かうにしても、正勝軍の追撃を受ける事は必至……)

正将のいる葉堵国は、北にわずかな海がある為、そこから船に乗る事は可能だった。しかし、鷹取城の北には、正勝の典武城があった。五千近くの正勝軍を突っ切るのは、死地に等しい。だが、迂回していては、先に港を抑えられてしまうかも知れない。そうなると正将の逃亡路はなくなり孤立してしまう。

(どうする……)

その時、一人の兵士が駆け込んで来た。

「只今、正勝公が諸将に、正将様打倒の檄文をお送りになり、典武城に兵を集結させている由にございまする」

迷っている暇はなかった。今動かねば津波のように押し寄せる、正勝軍に飲み込まれてしまうだろう。

「若。かかる事態を招いたのは、すべてこの圭蔵の責にござりまする。若は何一つ悪くござらん。ですがもう一つだけ圭蔵のわがままを聞いてくだされ」

言われた正将は聞いているのかいないのか、うつろな目でうつむいていた。

「若、すぐにでも正勝軍は、鷹取城に押し寄せてまいります。今は落ち延びる事をお考えくださりませ」

「もうよい……よいのじゃ。わしは疲れた」

「若、何をおおせられます。今落ちねば若のお命は――」

「うるさい、だまれっ!」

今までうつろな目をしていた正将が急に怒り出し、圭蔵の袖につかみ掛かった。

「元はと言えば、すべて貴様が悪いのではないかっ! そもそも貴様がわしを山賊討伐に連れ出さなければ……だいたい矢が飛んで来た時、なぜわしの馬のたずなを握っていなかったっ! 貴様もわしが恥をさらすのを、皆のように蔑んだ目で見ておったのであろうっ! この裏切り者めがっ! この……この……」

正将の言葉は涙声になっていた。

「もうよい、もうよいのじゃ……」

圭蔵は胸の奥が抉られるような思いに駆られた。いっそこのままここに残り、共に自刃した方が正将にとって幸福のように思われた。

だが次に飛び込んで来た伝令が、圭蔵に冷静を取り戻させた。

「只今、正勝公典武城より出陣。約五千の兵を率いて、鷹取城に進撃中の由にございまする」

このまま自刃すれば世間は間違いなく、正将を何代にも渡って笑い者にするだろう。それは圭蔵にとっては、自分が馬鹿にされるよりも耐えられぬ事だった。

圭蔵は心を鬼にした。

「この若造が、なにを下らぬ事をぬかすかっ! 今、貴様が落ち延びねばこのわしは、愚将として何代にも渡って、その悪名を残すではないかっ! 貴様を逃がすのは、貴様の為ではない。わしの為じゃ」

正将は泣くのも忘れて、圭蔵を見ていた。

「わかったら、とっとと落ちよ。異存があっても聞かぬ。……圭介、必要な物だけをまとめ、落ちる支度をせい。それと……大田和昌を呼べ。わしは兵をまとめる」

と圭蔵は正将から背を向けた。その顔は、苦渋に満ちていた。


第二章 『猛烈一騎』


結局、正将達に従った者は百人にも満たなかった。兵達にとって、それは死地に向かう事に等しく、圭蔵も無理に引き止めなかった。

正将達は真っ直ぐ正勝軍の方へと向かった。やがて両軍は川を前にして対峙した。しばらくして正勝軍から降伏の使者が来た。圭蔵はすこし考える時間をくれ、と言って使者を追い返した。

そうこうしているうちに正勝軍は、正将達の周りに兵を配置し、取り囲むような包囲陣をしいた。そして再び、降伏の使者をおくった。

圭蔵はその申し出を受けた。ただし正将の助命を条件とした。

その報告に正勝軍の将士達は、ほっと胸をなで下ろした。死を覚悟している正将達を相手にすれば、多大な損害を被るからである。

かくして白旗を持った正将と圭蔵が先頭となり正将軍が、正勝の本陣へと向かって駒を進めた。何かを覚悟したのか正将は、凛々しい顔をしており胸を張って馬に乗っていた。

正勝のいる陣所に着いた時には、すでに日が暮れていた。各陣所でおびただしい数のかがり火が焚かれた。身体検査が行われ、刀などの武器が押収され、正将と圭蔵だけが、身一つで正勝の前に姿を見せた。

正勝は満足げに二人を見下し、もっと近くによるように言った。正将達が数歩近寄った時、正勝は側近に目配らせをした。

突如、体格のいい男が出てきて、正将の胸倉に深々と刀を突き立てた。

「う、ぐっ……」

正将が悶絶しながら片足をつく。苦痛の顔が、かがり火に照らされ歪んで見える。同時に辺りにいた諸将が、一斉に刀を抜きはなった。

「兄上。元はといえば、兄上がいけないのですよ。私に家督を譲らなかったばかりに……せめてもの兄弟の情け。この二人を早々に討ち取れっ!」

号令と共に二人に向かって、諸将が殺到した。圭蔵は素早く身をかわした。しかし、動けぬ正将には、何本もの槍が突き刺さった。

「ふふっ、馬鹿殿を見捨てて自分が助かろうとは……お主も悪よのう」

正勝は、正将の死骸に近づき、後頭部を、ぐりぐりと踏み潰した。

「だが、そのような不忠者を生かしておくわけにもいかぬ……殺せ」

圭蔵は、槍を突き出しながら飛び掛かる一人目を紙一重でかわし、刀を上段に構えていた二人目を投げ飛ばした。落ちた刀を拾い上げ大声で

「鬼の二藤部圭蔵とは、このわしの事じゃっ! 死にたい奴は前へ出ろっ!」

と怒鳴った。周りにいた誰もが、圭蔵に気押されてしまった。

「恐れながら正勝公に物申す。かような仕打ちを続けていれば、滅亡の途を歩まれるのは必定。いずれ義により立ち上がる者が、あなた様を討ち取りましょうぞ」

その言葉に正勝は激怒し

「おのれほざいたなっ! 皆の衆、何をしている。はよう討ち取れぃ!」

と命令したが誰一人として動かなかった。そのまましばらく、にらみ合いが続いた。圭蔵は大きく息を吹き、刀を持ち直した。その時誰かが、圭蔵に向かって矢を放った。

「くっ」

圭蔵は、飛んで来た矢をとっさに払った。しかし、体勢を崩した圭蔵に第二矢が放たれた。矢は右肩に深々と刺さり、圭蔵は刀を取り落とした。

一人の若い男が圭蔵の前に歩み寄った。圭蔵は顔を上げ男の顔を見た。しかし見覚えはなかった。

男は刀を上段に構え振り下ろした。圭蔵の首が、ゴロンと正勝の前に転がって行った。

男は圭蔵の死体に平伏し

「二藤部圭蔵殿、見事な御最後。この長間忠義……感服いたしました」

と言った。そして忠義は、呆気に取られていた正勝の前に進み出て

「恐れながら申し上げます。ここに転がる正将王の死骸は、影武者の大田和昌かと思われまする。いそぎ追手をつかわすがよろしいかと……」

と言った。正勝はあわてて、精一杯の威厳を示し

「なにゆえこれが兄上でないと申すか。第一、こやつが影武者だとしても、もはや兄上の行き場所などなかろう? 追手を出さずと賞金首にしてしまえば、すぐ捕らえられるではないか」

「もしこのお方が本物の正将王ならば、圭蔵殿は共に城で自刃させるか、最後まで戦って死なせるはずにございます。なぜならば、かようなだまし討ちで死んでしまっては、正将王だけでなく、圭蔵殿の名誉まで傷がつきまする。それを承知で降伏するとは、腑に落ちませぬ。また、殿のかようなに汚いだまし討ちを見抜けぬ圭蔵殿ではございますまい」

この忠義の言葉に正勝の側近は、怒りをあらわにした。

「おのれ、下郎の分際で殿を愚弄するかっ!」

「待て」

正勝が、鋭く側近を制した。正勝は忠義に興味を持ち始めていた。

「とするとこれは時間稼ぎの茶番劇になるわけだが、その間圭蔵は兄上をどこに逃がした?」

「普通の国が見ず知らずの、正将王を受け入れるとは思えませぬ。とすると中立を謳っている国しかございませぬ」

「はて、そのような国が、どこぞにあったかのう……」

「拙者に一カ国だけ心当たりが……はるか西の果てにある伊予国にございます」

「伊予国? はて聞いた事が無いのう。それはいかなる国か?」

「小さな島国ですが、領内には多くの金山を有し、経済力の点から言えば、大陸で一、二争うほどの豊かな国にございます。気候も穏やかで肥沃した農地を有しており、海漁も盛んでここ数百年、一度も飢饉に遭った事が無いとか」

「ほう。それほど豊かな国が、なぜ今まで沈黙していた? 一国や二国、あっという間に平らげられよう」

「欠点がいくつかございます。第一に人口が極端に少ない事。隣国の十分の一しかございません。第二に今までたいした災害に遭わなかった事。豊かであればあるほど人は、脆弱になります。第三にこの国は、巫女という神によって統治されており、他国への侵攻は、信仰によって禁止されておりまする」

「なるほど。だが、そのような国にあの兄上が逃げ込んだとて、再起は図れまい」

「いえ、気になる事が一つだけございます」

「なんだ?」

「かの国には巨大な龍が住みついているそうにございまする。竜の鱗は堅く槍刀をとおしません。さらに口からは焼けつく熱風を吐き、人をあっという間に溶かしてしまいます。もしこの龍が正将王の味方につくと、はなはだ厄介な事になりまする」

が、この言葉に正勝は首をかしげた。

「おぬしの言っている事がいまいちよく分からん。そのようなたいそうな龍を、あの兄上が味方に引き入れる事などできるとは思えんし、第一わしに刃向かってくる事でさえ怪しい者だ」

「たしかに……今の正将王は恐れる存在ではございませんが……」

ここで忠義は目を光らせた。

「弱者は、時には強者を打ち倒しまする。なぜなら自分にいつも満足しないからです。しかも正将王は、何か一つ始めると、とことんやりきるお方。将来、殿を危うくするは、このような人物にございまする」

正勝はしばらく考えていたが

「例えおぬしの言う通りだとしてもどうする? 兄上はすでに船の上だろう」

「その事で、それがしに一計が……」

忠義はここで含み笑いをし

「もはや廃棄寸前の古米があれば、正将王を討つ事はたやすい事でござりまする」

と意味ありげに言った。


はるか西に位置する伊予はこの乱世に至っても、他国の侵攻を受ける事もなく、平和な時を送っていた。豊富な金山に飛びぬけた技術力は、大陸でも有数の部類に入る。しかも隣国の加勢は、毎年何万の凍死者が出るほど極寒の土地であり、農地もわずかで遠征する余裕が無い事も、伊予を侵略から守っていた。

しかしその伊予にも悪雲が立ち込め始めていた。

加勢国が攻守同盟を破棄して、伊予に対して宣戦布告をしたのである。そもそも両国は同盟といっても、半ば従属に近い関係だった。伊予は加勢に対して食糧を分けるかわりに、労働力を搾取していた。立場的には圧倒的に加勢の方が弱く、加勢はいつも伊予を妬み、憎悪していた。

そして、その加勢国が侵攻を開始したのは、正将達が亡命してからわずか三ヶ月後の事だった。

最新兵器を積んだ伊予の海軍を、加勢は圧倒的人員で押した。やがて矢玉が尽き、最新兵器が役に立たなくなった後の伊予海軍は脆かった。開戦からわずか五時間後、海に立っている伊予の旗は、一本もなくなっていた。

勢いに乗った加勢軍は、伊予五島のうちの三島を瞬く間に制圧。残すは、難攻不落の要塞を擁する王都?天恵?と、龍が住んでいるという小島を残すのみになった。

その頃、伊予の王都では、降伏か徹底抗戦か、という大変な騒ぎになったいた。長い平和続きだった伊予国民の戦意はすでに地に落ち、国が降伏論に傾き出した頃、加勢が思わぬ要求をして来た。

「亡命した正将を引き渡せ」

というのである。

これには降伏論者も困惑した。なぜなら「人を犠牲にする事は、断じて行う事勿れ」という巫女の教えがあったからである。

結局、伊予は何の結論も出せぬまま、徹底抗戦を行なわざるおえなかった。そしてその日以来、正将達の風当たりが強くなり始めた。さらに伊予国民の間に、

「正将は悪魔の使いである」

などという流言が飛び交い、一時は正将邸が炎上するという事態にまでなった。幸い被害はほとんど無かったものの、正将達にとって楽しまぬ日々が続いていた。

さて、そんな混乱のさなか、この国を現在統治しているのは、第七十六代目になる巫女だった。この巫女には、智代という一人娘がいた。

智代は当然、第七十七代目を継ぐ人物だったが、本人にはあまり自覚が無かった。いつも城を抜け出しては、侍女や執事を困らせていた。

そして智代はいつものように城を抜け出して砂浜に行った。朝日を浴びながら海を見るのが、智代の好きな日課だった。そしていつものように浜辺を歩いていたが、ふと海に面してそびえる岩山に登りたくなった。

何かをしたいと思うと、いても立ってもいられなくなる智代は、岩山を駆け登った。そして、ちょうど岩が突き出ている部分に立った。

強い潮風が吹き付けてくる。智代は目をつぶり両手を大きく広げた。

その時だった。

智代の立っていた岩が、急に崩れ落ちた。智代は叫ぶいとまも無く海に身を投げ出されてしまった。

冬の海水は手足が痺れるほど冷たい。さらに悪い事に投げ出された衝撃で、足の骨を折っていた。

すでに泳ぐ力も無く半ば死を覚悟した時、ちょうど二藤部圭介に連れられた正将が、その光景を発見した。

正将はすぐさま着ている衣服を脱ぎ捨てた。服を着たままでは泳ぐ事すら難しい事を、正将は書物で読み、知っていた。

そして何のためらいも無く智代を助けるべく海に飛び込んだ。二藤部圭介が止める間も無い、素早い行動だった。

結果、何度か溺れかけながらも、正将は無事智代を救い出した。しかし、その事で体が冷え切ってしまった正将は、何日も高熱を出して意識不明になるという大風邪をひいてしまったのである。

それを聞いた智代は、正将を見舞う為に毎日、彼の屋敷に訪れた。国一番の薬師に調合させた薬や、贅を尽くした食事を持ってきては正将の看病をしていたのである。

驚いたのは圭介である。なにしろ正将の屋敷は、王都からかなりの郊外に建っており、行きだけで三時間はかかろうかという距離を、智代は毎日通ってくるのである。

しかもいつも従者が二人いた。一人はすでに白髪の交じった初老の男で、もう一人はあでやかな着物を着た中年の女だった。

圭介は智代がただ者ではないと思い、本人や従者の二人にそれとなく訪ねてみたが、その点になると三人は一様に、口をつぐんでしまうのであった。

智代にしてみれば、自分の身分に一種の嫌悪感があったし、そんな事で正将達との気安さを失うのが怖かったのもあったのだろう。

ともあれ、智代の看病を受けて約半月後、正将の体調はようやく回復の兆しを見せ、熱が下がり食欲が戻り始めた。しかし体重は、以前より三十キロ近く痩せ落ち、いぜんとして歩く事すらままならぬ身であった。

正将がそんな生活を送っていた頃、再び加勢国が侵攻の気配を見せはじめていた。それを察した伊予は、海岸線の防衛を放棄、王都に篭城する旨を決めた。

制海権をすべて握られていた伊予には、どこに上陸してくるかわからない海岸線を守る余裕はなかったのである。

戦場が攻城戦になると見た加勢は、本土のあぶれた農民を次々と最前線に送り込む準備を始めていた。

伊予国の存亡を賭けた戦いは、もう間近に迫っていた。


戦が近いと知った智代は、正将達を現在、住んでいる屋敷から、王都の中に移すように勧めた。

圭介もそれに賛成したが、なぜか正将はここに残るといって聞かなかった。智代が理由を尋ねても頑として言おうとはしなかった。

不思議に思った智代は、ある日圭介と二人きりになった時、その理由を聞いてみた。

「なにゆえ、正将様は王都にお移りになりたがらないで、このような辺鄙な所にこだわりなさるのです? 圭介殿は何か訳をご存知ありませぬか?」

智代の問いに圭介は、苦渋の表情を浮かべ、言うべきかどうするかを考えていた。だが、やがて意を決し小声で

「これは絶対に口外しないでいただきたい」

と言った。智代は圭介の目を真っ直ぐ見つめながらうなずいた。

「実は……殿は、他者という存在に大きな劣等感を、抱いてございまする。都住まいを避け、ここに居を構えているのも、そういう理由からにございまする」

智代はなんとなくわかった気がした。すでに正将達がたどって来た過去を知っていたし、正将がなんとなく距離を置いて接している事に、気がついていた。

「しかし、このままここにいては、必ずや加勢の手の捕らえられましょう? それでなくても加勢は、我が国に正将殿を差し出すように、要求しているのですから……」

圭介は、智代が「我が国」といった時のアクセントが、妙に気になった。まるで自分の物のような言い方だった。

「智代様……前々からお聞きしたき儀がございます。いったい智代様はどういう御方にございますのか?」

「わたくしは、現巫女の一人娘にございまする」

もはや隠す必要も無いと判断していた智代は、何のためらいも無く言った。圭介はそれで納得した。物腰といい、着ているものといい、とても平民には見えなかったからである。

「正将様の事はこの智が、どんな事があってもお守りいたし、誰にも文句は言わせませぬ。そう圭介殿から、説得してもらえませぬか?」

圭介は主君が眠っているであろう方向を見た。今の正将は劣等感の虜になっている。

(恐らく、お聞き入れくださらないだろう)

かといってここに留まれば捕らえられ、おそらく、正勝の手に渡ってしまうだろう。

(力ずくで……)

と何度考えた事だろう。父、圭蔵なら間違いなくそうしたに違いない。しかし、圭介は正将の痛みが理解できる分、これ以上、正将を傷つける事はしたくなかった。

(傷つけぬように、殿を動かせるような巧い手はないものか……)

二人は深い溜め息をついた。

「何かよき策はないものか……」

とその時、圭介の視線に、赤ん坊を抱いている母親を形どった人形が見えた。圭介の頭に、ある事が閃いた。

「一つ、それがしに考えが……」

と圭介は智代に耳打ちした。

智代はその考えにひどく驚いた様子だったが、すぐ快くうなずいた。

「では、善は急げと申します……今夜にでもすぐ」

と言って、圭介は退出した。


やがて日も暮れ、夕日が西の空へと沈む頃。いつものように智代は従者二人を連れて、屋敷を後にした。が、少しも歩かぬうちに従者だけ帰して舞い戻った。突然の智代の行動に従者は訝ったが

「野暮な事を聞かないで」

と言い半ば無理やり帰した。

舞い戻った智代は、物置へと身を隠し、じっと夜がふけるのを待った。


少しうたた寝をし始めていた智代は、戸が叩かれる音に目を覚ました。

「智代様、殿はお休みになったようでございまする」

と圭介は言い、去って行った。

智代は大きく伸びをし

(ここに寝泊まりするのも、悪くないわ)

と思った。

足音を忍ばせ、正将の寝室に向かう。ふすまをそろりと開けると、正将は寝息を立てて眠っていた。

智代は着ていた着物を脱ぎ、白衣一枚になって正将と同じ布団に入った。

そして痩せこけた背中を包み込むように抱きしめた。

正将は、背中を伝わる暖かい感触と、甘い匂いに目を覚ました。そして、寄り添っている人物を見て、のけぞらんばかり驚いた。

「と、と、と、智代殿。な、なにゆえ、ここに……」

そんな正将の狼狽を見て、智代はくすりと笑い

「正将様……なにゆえと申されましても、あなた様がお呼びなさったのでございますよ」

「わ、わしには、呼んだ記憶など……」

「さあ、そんな所におられましては、また風邪がぶりかえされまする。これへ参られなさいませ」

と布団から飛び出した正将の、袖を引っ張った。

「そ、そうは参らん。正将はそのような……」

「そのような?」

智代が意地悪く聞き返すと、正将は情けない顔をして

「その、なんというか、その……」

としどろもどろになった。そんな正将の態度を、もどかしく感じた智代は、思い切って強硬策に出る事にした。

智代は突然大声で

「正将様!」

と怒鳴りつけ

「大の殿方が、そのような気弱な事で、どうされまするのか? わたくしをお助けくださいました時のように、しっかりとなさいませ!」

と言った。

「さあ、これへ参らせませ。何もとって食べたりはいたしませぬ」

「う、うむ」

すっかり智代に気圧されてしまった正将は、従順な猫のように従った。そして、恐る恐る布団に戻る。が、依然として智代との距離を、かなり離していた。

智代はそんな正将の手を取り、力ずくで正将を引き寄せた。

「わ、わわっ」

そして、慌てる正将をしっかりと抱き留めた。それでも正将は、わずかな抵抗示し、智代から背を向けた。

智代は仕方なく、正将の背に寄り掛かるように、体を触れ合わせた。

「正将様……人間はこのように寄り添えば、暖かいものにございまする。なのになにゆえ、智に打ち解けてくれませぬ?」

「い、いやそんな事は――」

正将が、おどおどと言う。すかさず智代は、うるさい口を手で封じた。

「いいえ、正将様は智と話す時、いつも心の奥で猜疑に駆られておりまする。本心を打ち明ける事を拒んでおられまする。それではいくら智が打ち解けましょうとも、なにも変わりませぬ」

口を塞がれている正将は、「うー、うー」と何かを言っていたが、智代は構わず続けた。

「そうだ、正将様。智と夫婦になりましょうぞ。さすれば……ふふふ」

言葉が進むにつれ正将は、手足までじたばたし始めた。

「まっ、正将様。かようにお喜びになって。では智もこれから……正将様を殿と――」

と智代は正将の顔を見た。

が、正将はどうした事か目をしばたいて、懸命にもがいていた。

「殿……どうなさいました?」

はたと智代は、自分の手が正将の鼻まで塞いでいる事に気がついた。

「まあ」

と放してやる。すると正将は大きく息を吸い込み、激しくむせび返った。そしてそのまま意識を失ってしまった。

揺り起こしても何の反応も無い。

「殿……殿? 圭介殿! 殿が……」

と大声で圭介を呼んだ。

バタバタと圭介が寝室に駆けこんできた。

「殿っ! しっかりしてくだされ!」

と腕を取り脈を確かめようとした時、正将が

「う、うーん」

と寝言を言った。

圭介と智代は顔を見合わせ、ほっと息をついた。


正将は、智代に引きずられるように王都へと居を移した。入場時、側には圭介とべっとりと寄り添う智代がいた。この為、王都の人々は智代の婚約者と認識した。

正将達は王都に入るとすぐ、巫女のいる天恵城へと向かった。王都に居を移した挨拶と正将と智代における婚約の許可をもらう為である。

巫女の正将に対する初印象は、きわめて悪かった。なにしろ正将と圭介を取り違えたほどである。そして、巫女に声をかけられても、正将はうろたえるだけだった。

だが夕食時になって、いろいろな世間話をしているうちに、巫女は段々と正将を気に入り始めた。

言葉の端々に教養があり、幾多の書物から得た知識を実に自由に話していたからである。さらに巫女が気に入ったのは、正将の目だった。正将の目は今までの鬱積が、積もりに積もったように、どんよりと曇りがかっていた。しかし、その奥には、決して曇る事の無い強い光があった。巫女は今まで四十年近く生きて来た中で、これほど強い光を見た事が無かった。

(もしかすると……)

巫女は、ふと、この青年の力を試してみたくなった。

数日後、巫女は正将に

「私にとって、一生を動かしかねないほどの大事な用があるので、何があっても早急にくるように」

という旨の手紙を出した。と、同時に門番に

「今日は何があっても、人を通さないように」

と厳命した。

やがて手紙を受け取った正将達が駆けつけたが、案の定、門番に止められてしまった。圭介と智代が必死になって説いたが、門番は頑として聞かなかった。

その時、正将が門番の前に進み出て

「わしは、気も弱くなにも役に立たない男だが、巫女様は落ちぶれたわしを受け入れて下された。その巫女様が、一生に関わるほどの用件に、わしをお呼びなされてくれもうした。わしにとっては、命を賭けてでも巫女様に会わねばならないのでござる。このとおりでござる。通してくだされ」

と深々と頭を下げ懇願した。門番は、困惑した表情で、

「そういわれましても……これは厳命で従わなければ私は、死刑になってしまいまする。真に申し訳ございませぬが、お引き取りくださいませ」

と言った。正将は頭を下げたまま、じっと何かを考えていたが

「しからばしかたがない」

と言い、腰の刀で門番の後頭部を強打し、気絶させてしまった。

そして途中、道をふさごうとする兵士達をなぎ倒しながら、巫女のいる謁見の間まで必死に走った。

巫女は正将のこの行動に満足した。なぜなら、急を要する時ほど人の本性は出るもので、門破りまでして駆けつけた正将は、果断な行動ができる人物と見てよかった。

巫女はこの件のすぐ後、正将を三百人程度の小隊長に命じた。正将はその沙汰に、うろたえながらも応じた。


ついに加勢軍が、天恵にまで押し寄せて来た。これに対し伊予軍は城壁を必死に守備し、加勢軍の何重もの波状攻撃をよく防いだ。

しかし時が経つにつれ、圧倒的劣勢の伊予軍は疲れ果て、じりじりと押され始めた。城壁の一角が崩されそうになった時、野に伏していた二千の兵が、敵軍の背後を突き、これを壊走させる事に成功した。

奇襲部隊は悠々と入城し、伊予軍の戦意は高まったかに見えた。

突如、空気が割れるような大きな音がしたかと思うと、大きな弾が飛んできて、城壁を粉々に粉砕した。

「大筒……」

誰かがうめくように呟いた。

すると再び大きな音が響き、今度は城兵をなぎ倒した。

城兵の無残な死体を見て城内は、大混乱を起こした。そこへ、再び加勢軍が押し寄せて来た。諸将は慌てて混乱を鎮め、押し寄せる敵軍をなんとか防いだ。しかしこの攻撃により戦意を失った城兵の半数が、敵軍に降伏するという事態に陥り、天恵はすでに落城寸前であった。


その夜、天恵城内では、緊急の軍議が行なわれていた。しかし、諸将は誰もが心痛な面持ちで沈黙していた。すでに加勢国の攻撃を跳ね除けるほどの戦力はなく、翌朝の総攻撃で陥落する事は目に見えていたからである。

軍議は何の結論も出ないまま終了した。各陣所に戻る諸将の顔は皆、悲愴に満ちていた。

そんな中、正将はじっと何かを考えてこんでいた。そんな正将に智代は

「殿、なにをそんなにお考えにございまする?」

と聞いた。しかし正将は

「ん? うん」

と気返事を返すばかりで、何も言おうとはしなかった。

(こんな時に、なにを考えていらっしゃるのかしら……)

と思ったが重ねて聞こうとはしなかった。

智代は城壁から敵陣を見下ろした。敵陣はおびただしいかがり火が灯り、すでに夜半であるというのに、敵本陣には明々と明かりが点いていた。

そこに料理を持った、何人もの人々が絶え間なく出入りしている所を見ると、どうやら酒宴でも開いているらしい。

(すでに勝ったつもりでいる……)

そう考えると悔しくもあり、情けなくもあった。

そこへ大量の柴草を持った圭介が通りかかった。

「圭介殿。なにをなさっておられるのです?」

智代は不思議に思い聞いた。通常柴草は、松明に使われる。当然、正将の陣所にも、使いきれぬほどの柴草が常備されていた。

「いえ、殿が早急に集めるようにと、ご命じなさいました」

圭介の後ろを見ると、山のように柴草の積み上げられた荷車を、重そうに引く兵士が何人も見えた。

「一体、何に使われるのです?」

これだけあれば、約六千本の松明が作れるだろう。

「さあ……それがしには、とんとわかりかねまする」

智代は圭介の柴草を半分持ってやり、共に正将の元に戻った。すると正将は、全兵士に命じて、一人二十本ほどの松明を作るように命じた。

やがて六千本もの松明が出来上がると、正将は圭介に

「そちはこれより約二十名を率い、荷車に出来上がった松明を括り付けよ。そして、北門の崖に向かい、合図と共に一斉に松明をつけるのだ。恐らく敵は、我が軍総出の夜襲と見、少なからず混乱に陥るはずじゃ。そこへおぬし達二十名は、松明と共に崖を駆け降り、銅鑼を鳴らし掛け声を上げ、敵陣を駆け回れ。そして、適当に暴れまわったら引き上げよ」

と命じた。圭介は「はっ」と言い、すぐに準備に取り掛かった。いつもとは違う正将の行動に、智代は困惑した表情で

「殿、なにをお考えにございまする?」

と聞いた。すると正将は、智代の方に振り向き

「私は、ずっとこの戦について考えていた。そしてある事に思い当たった。お智。なぜ我が軍は、これほどの城に篭っておきながら、劣勢を強いられているのだと思う?」

「……それは、緒戦において海軍が壊滅した事でござりましょう? それにより、敵軍は次々とこの伊予に上陸できるのでございますから」

と智代は考えながら言った。

「お智。いつも出来の悪い小隊長をしっかりと支えている、その優秀な頭脳で、もっと根本的な所から考えておくれ。たしかに制海権を手にした敵は、次々と兵員と補給物資を前線に投入してくる。あの重い大筒をこの戦線に投入できたのだってそのせいだ。でもね……私にはどうしてもその事が大局に影響していたとは思えないんだ」

智代は、正将の話し方が微妙に変わっている事に気がついた。そして、正将の顔はいつもと違い、生気に満ちていた。

「私は今まで、軍事にまつわる数々の記録を読んで来た。その中でも今みたいな状況は、多々あった。今この戦場における戦力比は、二十対一だけれども、記録の中には、五十対一とか、ひどいのであれば、百、二百なんてのもあった。そしてそんな絶望的な戦力差においても、敵を奇襲によって見事打ち破った例や何年も篭城し続けた例もあるんだ」

「でも、結果的には、わずか数日で落城しかけておりまする」

事実、そうであった。翌朝、敵が押し寄せれば、あっけなく陥落する事は目に見えている。

「お智は、なぜだと思う?」

智代はしばし考えてから

「大筒のせいでございましょう?」

と言った。しかし、正将は首を振り

「たしかにあの兵器は、我が軍に恐怖を植え付けたよ。でもたとえ、あれが千発飛んでこようとも、城が落ちるわけでも、城兵が大量に死ぬわけでもないんだ」

「でもあれにより、お味方は戦意を失い、危うく壊滅しかけたのでございましょう? でしたら……」

智代がそういうと、正将は楽しそうに微笑み

「それだよ大きな敗因は」

と言った。智代は分からないというように、首をかしげた。

「どういう事にござりまする? あのようなものが飛来してまいれば、誰でも肝を潰しましょう?」

「いや、問題はその後なんだ。たしかにあんな兵器を使われて、我が軍は混乱した。運良く敵兵を追い払う事はできたが、この城の将はみんな大砲に気圧されてしまったんだよ。今夜のお通夜みたいな軍議を見たろう?

……敵に大砲がある。それは射程外から飛んできて、大きな音は城兵を怖じ気させる。そのままでは戦う前に負けたようなものだ。だったらそれをどうやって防ごう? 打って出て破壊するか? それとも城兵を鼓舞し、明日に備えるか?

なんて事を一言でも誰かが言ったかな? みんないつもの私みたいに、うつむいて黙りこくってただけだ。つまり、みんなが敗北と決めてつけてしまった所に、問題がある」

「だったら、殿はなにゆえ、発言なさいませんでした? 殿とて黙ってうつむいていた一人だったではございませぬか?」

智代の言葉に正将はただ苦笑して

「あの状況で新参者の私が、何を言っても無駄だったろうし、それに満座で発言できるほど、私は肝が据わっている人間ではないよ」

と言った。

「それに諸将を振るい立たせるなら、もっと良い方法がある」

その時、圭介が準備を終えたとの報告が入った。

「どうなさるおつもりに、ございますのか?」

智代は急に不安になった。

「なに……そう難しい事じゃない。これから大筒を壊しに行くだけだよ」

と事も無げに言った。

その言葉に智代は驚いた。なにせ正将の手勢は、三百も満たないのである。いくら圭介に陽動作戦を展開させるといっても、大砲の周辺には一万の兵はいるだろう。三百程度ではとうてい勝ち目はない。万が一成功したとしても、再び帰還することは、不可能である。

智代は勝ち気な顔を崩して、正将の袖を掴み

「殿。それはあまりにも無謀にございまする」

と必死に止めた。

「智はたとえ国が滅びて、貧しい貧民に身を落とす事になろうとも、殿と共に生きとうござりまする。早まった真似だけは、なさらないでくださいまし」

そんな智代を見て正将は、はにかんだように笑い

「人間、一度は死ぬような事をするべきかもしれないな。こんなかわいらしいお智を始めてみた」

と言い

「でも残念ながら、私は自分も部下も殺す気はないよ」

「……えっ?」

智代はよく分からず聞き返した。死力を尽くしても不可能に近い事を、誰も殺さずにやることなど、できるはずが無い。

「つまりさ、大事なことは大筒を破壊することじゃない。破壊するぞ、という態度だ」

正将はそう言い、敵陣を指差した。

「敵陣を見てごらん。本来なら夜襲に備えているはずの兵士は、座り込んで談話をしているし、本陣に至っては宴まで開いている。我が軍が打って出て来ることはないと、たかをくくっているんだ。もしこの状態で私が、急襲したら敵は大混乱に陥り、統率の無さをさらけ出すだろう。へたをすれば同士討ちをしかねない。そんな事になれば、今後も夜襲の恐怖が抜けきらなくて、眠い目をこすりながら毎晩見張るだろう。あれだけの大陣営だ。見張りにまわす兵士だけでも大変な数だろうね」

「もしそれで、三分の一の兵が昼間眠ることになっても、残りの三分の二は攻め寄せてまいりましょう? それにその策は、先程おっしゃいました味方を奮い立たせることには、なりませんでしょう?」

「ところがさ、もし私の夜襲が成功したら味方はどう思う?」

「それは……敗戦続きだった士卒達は喜びましょう」

「そう。それで?」

「それで……それで……智にはわかりませぬ」

「つまり人は、自分が弱い存在であればあるほど他者に依存しやすく、その他者が頼りなければ頼りないほど、より強い他者に依存したくなる。あっさりと降伏してしまった半数の城兵を見れば、それは一目瞭然だ。で、だ。もし私が夜襲に成功し、他の諸将よりも頼りげに見えたら……」

「……士卒達はこぞって、殿の指揮下にお入りになるやもしれませぬな」

「一応、軍規によってそれぞれの持ち場は離れられないことになっている。だが、私の人気はあがるだろう。そうなれば諸将は、私に対して敵愾心をむき出しにし、ごぞって奮闘する」

智代は改めて正将を見た。すでに頼りない表情は微塵も無く、その顔は自信に満ちていた。

「しかし、もし夜襲に失敗し、思った通りに味方の士気がお上がりにならなかったら?」

「明日にも歴史上から、伊予国という明記が消えてなくなるだろうね」


『夜襲』


西門に集結した正将軍は圭介に合図を送る為、火矢を打ち上げた。突如、六千もの松明の火が、暗闇に浮かび上がった。

それを見た敵があわてて動き出すのが闇を通して伝わって来た。

圭介は松明のついた荷車を、崖から突き落とさせ、自分達も跡を追うように敵陣に突っ込んだ。

敵陣はほつれた布のように乱れ、農民兵などは我先へと、逃亡した。辛うじて逃げずに留まった正規兵も、闇の中から迫り来る掛け声や銅鑼に耐え切れず壊走した。圭介達はほとんど抵抗にあうこと無く、敵本陣へと駆け抜けた。

それを見た本陣は、あわてて体勢を立て直すべく、各陣所に救援の伝令を送った。やがて、西門に配置されていた部隊が、少なくなったのを見計らって、正将は突撃の合図をだした。

正将は敵陣を駆け回りながら、かがり火を消すことを命じていた。すると暗闇と敵襲の脅威に怯えきった兵卒達が、至る所で同士討ちを始めた。

闇に浮かんだかがり火が次々と消えていくのを、智代は城壁の上から見ていた。智代と同じく、多くの兵卒達がその光景を、身を乗り出して見ていた。

智代はそれを見て、正将の夜襲が成功したことを確信した。後は、正将が無事帰還するのを待つだけだ。

しかしその時、異変が起こった。

敵の一軍が、長槍を突き出しながら、混乱しきった味方へと突撃してきたのである。と同時に別の一軍が西門を封鎖した。

正将はそれにより、自分が包囲されたことに気がついた。いたるところから、味方を躊躇なく殺戮してくる敵軍が近づいていた。

急いで引き揚げの合図を鳴らし、西門に向かって踵を返した。が、西門にはすでに敵兵が充満しており、何百もの矢が正将達を狙っていた。

(ままよ……)

正将は馬に思いっきり鞭を入れ、猛然と敵弓兵に向かって行った。

「放てっ!」

敵大将の号令が聞こえたかと思うと、雨のように矢が正将軍に降り注いだ。矢は次々と正将軍の兵卒に突き刺さった。

正将は腰の刀を引き抜き、飛んでくる矢を何本か弾いた。しかし、腕一つ鍛えていなかった正将は、弾いた衝撃で刀を取り落としてしまった。

第二矢が、再び正将軍を襲った。飛来する矢が、何本か正将の兜を打つ。その中の一本が正将の利き腕に刺さった。

あまりの痛みに正将は、落馬しかけた。しかし何とか持ち直した。

すでに敵との距離は、手が届きそうなほど近づきつつあり、弓兵は正将の姿を認めると、あわてて左右に散った。すかさず後ろから長槍隊が、穂先をそろえて繰り出して来た。が、しかし正規兵ではない農民達が混じっている為、穂先に大きな乱れがあった。

正将軍はその乱れを縫うように突っ込んだ。しかし、すでに五十人にも満たない正将軍は次第に包囲され始めていた。

城壁の上から智代はその光景を見、西門を守備している将に、正将を救出するように掛け合った。が、敵の乱入を恐れた西門の将は、出撃しようとはしなかった。

しかも、救出しようと志願する兵士達にも、門を開けさせようとはしなかった。これではたとえ正将が門にまでたどり着いたとしても、門は開かないだろう。

智代はこの時ほど自分の無力さと、伊予国の自己保守を恨んだことはなかった。

智代は急いで城壁を駆け上り正将軍を見た。正将が、片腕を庇いながら敵と戦っている姿が見えた。すでに十数人になっている正将軍は身動く事さえもできず、敵兵のじわりじわりと迫る包囲網は、時と共に分厚くなっていた。その光景は蟻の群れに投げ込まれた芋虫を見ているに等しかった。

その光景に耐えられなくなった智代は、ある決心をした。

すぐそばにいた兵士の刀を奪い取り

「わらわは、第七十六代目巫女の一人娘、智代。腰抜けの伊予軍に変わって、正将殿の加勢に参る」

と一人、城壁を飛び降りて正将の方へと駆けていってしまった。

驚いたのは、西門の将である。新参者の正将はともかく、次期巫女である智代を見殺しにするわけにはいかなかった。

すぐさま門を開いて、全軍で智代を追いかけた。

その光景に正将を包囲していた敵軍は狼狽した。すでに救援はないものと見て、城側に対する後詰めの備えを解いていたからである。

敵軍はあわてて陣を整え、素早く撤収してしまった。

智代は真っ先に正将に駆け寄った。正将は、利き腕の矢傷の他に、脇腹を槍で突かれており、意識がもうろうとしていた。

「殿、死んではなりませぬぞ」

智代は正将の手を握りながら、涙声で言った。

西門から打って出た伊予軍は、負傷した味方を接収して引き上げた。東の空にはすでに、朝日が顔を出していた。


『正将の挙兵』


さて、伊予と加勢が激戦の真っ只中にある頃、葉堵では正勝の指揮による、諸国侵攻が行なわれていた。

正将を追放した正勝は、そのわずか数ヶ月後に北西にある佐上国を武力によって併合。佐上国の、田を追われ食にあぶれた農民を組織、編成し、強力な軍団を作り上げた。その武力を背景に南に位置する豊釧と主従同盟を締結。そして東の播虞に侵攻……と目まぐるしい領土拡張戦線を繰り広げていた。

そしてその正勝の作戦に、的確な進言と奇怪な策略で大きく貢献している人物がいた。

長間忠義である。

まず忠義は、葉堵軍が「占領軍」とならぬよう、軍律を大きく改正するよう正勝に進言した。

それは、一個小隊の誰か一人でも軍律違反しただけで、その小隊全ての者が斬首に処されるという、凄まじいものだった。

が、当初、この軍律には多くの反感者が出、軽んじるものが多かった。彼らにしてみれば、新参者の忠義を快く思っていなかったし、その忠義が本当に実行するとは思っていなかった。

そんな中、前線に向かおうとしていた一軍が、雨で増水した川を渡れず、立ち往生してしまった。その時、この軍は敵の背後を突くという重大な任務中であった為、将である政彦は、近くの村からありったけの資材を徴収し、早急に橋を架けた。

その政彦軍は、橋を渡って進軍し、そのまま敵の背後を突き、勝利に貢献する大功を立てた。

しかし戦後に、橋を架ける為、政彦が村から資材を徴収していた事が、忠義の耳に入った。すぐさま忠義は、政彦を問い詰めた。しかし、問い詰められた政彦は平然とした表情で

「あのような緊急事態では、仕方なかろう。それともなんですかな。それがしを処罰なさるとでも?」

と忠義を小馬鹿にした口調で言った。無理も無かった。なぜなら政彦といえば、正勝の親族の中でも最も気に入られていた人物だったからである。

そんな政彦を忠義は冷ややかな目で見、

「御身はまだ、ご自分のなさった事の重大さが、お分かりになられぬようだな」

「ほう。ぜひ、それをお伺いしたいものですな」

政彦のその言葉に忠義は、キッとした表情で

「民より物を盗む事は、軍律でも最も重い部類に入る事を、知らぬわけではございますまい! それを将みずから破られるとは、御覚悟はできておりましょうなっ!」

と怒鳴りつけた。しかし、政彦は平然とした顔で

「どのような覚悟か、楽しみじゃ」

と言った。

忠義は左右に、政彦を縄で縛りつけ刑に処すように命じた。しかし、左右の誰もが、正勝の報復を怖がって動こうとはしなかった。忠義はその事に激怒し

「上官の命令に従わぬ者も死刑じゃっ!」

と居合い抜きで左右の首を飛ばしてしまった。

これには、生き残った左右が肝を冷やし、震える手で政彦を縄で縛り処刑場へと運んだ。

が、処刑場に座らされた後も政彦は平然とし、大声で忠義を罵っていた。その政彦に忠義が刑を実行しようとした時、一人の兵士が駆け込んで来た。

その兵士は忠義に

「至急、政彦様の処刑を取りやめるようにと、正勝様直々のご命令でございます」

と書状を渡した。

それを聞いて政彦は、ニヤリとした。そして、揶揄するように忠義を見た。

しかし、その政彦の表情はすぐ凍りついた。

忠義は、正勝直々の書状を一目もせずに、破り捨ててしまったのである。そして、ひどく冷めた声で

「わしは先程、軍律を破った左右を斬り捨てた。しかし、この政彦が行なった軍律違反は、左右がした事よりもはるかに罪が重い。罪の高低差をつける為、政彦は極刑に処す!」

と言った。そして

「こやつの全身の皮を剥ぎ、城門の前に晒せっ!」

と命じた。左右は思わず後ずさったが

「従わぬ者は斬る!」

と言った。

死刑者が皮を剥ぐ為に刀を研いでいる見て、初めて政彦の顔に恐怖が浮かんだ。

「た、忠義、き、貴様……わ、わしにそのような事をして、た、た、ただで済むと思うのかっ!」

とわめいた。

しかし、忠義はいぜんとして冷たい目で

「貴公は、それがしの心配をするよりも、自分の心配をした方がよかろう。皮を剥がれた皮膚と言うものは、風に当たるだけで激痛が走るらしいぞ」

と言った。顔には侮蔑した表情が浮かんでいた。

やがて刀を研ぎ終えた死刑者は、ゆっくりと政彦へと歩み寄った。それが政彦には、悪魔の使者に見えた。

「や、や、やめろ。貴様は、わしが誰であるか、し、知っておるのか……わしは、葉堵西部に位置する春日城の主、ま、政彦であるぞ。わしが本気を出せば貴様など……き、貴様など……やめろ……やめろっっっ――」

死刑者の刀が政彦の頬に食い込んだ。

政彦の叫び声は、葉堵平野全域に響き渡ったという。

この一件により軍律は徹底され、兵士達は道に落ちている物さえ拾わなくなった。しかしなによりも、将兵達の心に刻まれたものは、忠義への恐怖だった。

そしてその恐怖は強い統率力となり、忠義は一糸乱れぬ精鋭を作る事に、成功したのである。

こうして葉堵国の勢力地図は、日増しに大きくなっていったのである。


正将の決死の夜襲により伊予軍将兵は奮い立ち、その後、半年もの間、城を守りきる事に成功した。やがて加勢の国力は渇き尽き、補給物資の無くなった加勢軍は、城から打って出る伊予軍の反攻を支えきれず追いつめられ、多くの兵士が海に没した。

全ての島を奪回した伊予軍の中には、

「今こそ加勢国へ進出し、殲滅すべき」

との声もあったが、加勢同様、伊予の国力も疲弊しきっており、とても遠征できるだけの余力は、残っていなかった。

こうして両国は、大きな傷痕を背負ったまま、停戦条約を結ぶ事となったのである。

さて、その頃にはもう重傷だった正将の傷は、全快し始めていた。あの夜襲以来、正将邸を訪れ見舞いに来る者が後を絶たず、正将と智代は、一躍有名人となっていた。

そして、この人気は面白い事に、正将と智代によって大きく層分かれをしていた。

正将を支持する者の大部分は、主に農民や傭兵などの言わば下級兵士達で、たった三百名で万単位の敵陣に斬り込んだ事が、受けたようだった。

それに対し智代は、たった一振りの剣を手に、取るに足らない愚将を命懸けで救ったと言う事で、将官クラスの人気を集めた。

こんな中、臆病者と罵られ、将官の身分を剥奪されていた男がいた。正将を見殺しにしようとしていた西門の将、梶原平次である。

平次はあの件以来、まるで罪人のような差別を受け続け、次第に正将を憎むようになっていた。

そしてその憎しみは、正将が有名になればなるほど強くなり、ついに平次は正将暗殺計画を実行する事にしたのである。

まだ加勢との戦争が集結していない頃、平次は銘刀を手に正将邸に侵入した。以前諜報関係の仕事をしていた平次にとっては、たやすい事だった。そして、正将の寝首を掻くつもりで寝室に忍び込んだ。

すでに夜半過ぎだと言うのに、正将の寝室には明かりが灯っていた。平次はそっとふすまを開け、部屋の中をのぞいた。

包帯姿の正将が横たわっていた。正将は死んだように眠っていた。平次は刀を持ち直し、部屋の中に入った。

平次は枕元で、正将の顔を覗き込んだ。その顔は、どこからどう見ても、気弱で小心者の顔だった。

(よりによって、こんな青年に自分の人生が壊させるとは……)

平次は自分が急に馬鹿らしくなった。出しかけた刀をしまい帰ろうとした時、突然ふすまが開き、智代が入って来た。

「あっ」

二人は驚きのあまり硬直した。しばし後、智代は平次の刀を見、平次が何をする為にここに来たのか全てを察した。

一方の平次は、うな垂れていた。

そこへ今度は、圭介がやって来た。圭介は平次を見るなり

「ややっ、おのれ曲者」

と腰の刀を引き抜いた。

しかし平次は、微動だにしない。全てをあきらめた表情だった。

斬りかかろうとした圭介を智代は

「おやめなさい」

と止めた。

「この者は、わたくしが以前、雇っていた間者です。どうしても殿をお見舞いしたいと申すので、こっそりと通しました。さあ平次。用が済んだのであれば、どこへなりとも行きなさい」

平次は智代をちらりと見、塀を越えて闇の中に消えた。圭介は何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わずに退出していった。

正将と二人きりになった智代は

「殿。人気者はつろうござりまするな」

と言った。寝ているはずの正将の頬が、少し動いた。


伊予攻略に失敗した加勢国では、大きな反乱が起こっていた。しかし、すでにそれを鎮圧できるほどの力は、加勢国にはなく、戦火は全土へと飛び火した。そして、その機に乗じて動き出した国があった。加勢の隣国、枝津えつ国である。枝津軍は約五千の兵を持って、加勢国に侵攻。その猛攻の前に加勢軍は次第に追い詰められ、皮肉にも伊予と同じく、王都篭城戦を強いられる結果となった。枝津軍は、各地に展開する加勢反乱軍を味方に引き入れ、約十倍もの兵力で王都を取り囲み、城兵の家族を前線に出し降伏を呼びかけた。

結果、城兵の大半は投降し、王都は落城寸前であった。

そんな中、一通の書状が伊予に届いた。加勢王族軍による援軍の要請だった。

その返答をめぐっての議論は紛糾した。

援軍の反対派にすれば、

「つい先程まで伊予を苦しめた加勢を助ける義理はない」

という事だった。しかし、賛成派は教本の一節をとり

「巫女の教えには、人が苦しんでいるのを、見過ごすべからず、とある。諸将は巫女の教えに逆らうおつもりか?」

「たしかに教えにはそうある。しかし今の伊予国に、どこに援軍を送るだけの余力があるのだ? へたすれば、我が国も滅亡しかけん」

「かといって巫女の教えに背くは、重罪。ここは是が非でも援軍を送るべし」

といつまでたっても、結論は出なかった。

時間の浪費にいらだった巫女は、玉座より立ち上がり

「たしかに加勢は憎むべき敵であるが、憎しみからは何も生まれぬ、との教えもある。わらわ達の今日があるのは、すべて教えに従っていたおかげであり、教えに背くは伊予国の滅亡を意味するものである。よって我が伊予は、援軍を派遣する事にいたす。諸将、何か御異存はあられるか?」

巫女の決定に、諸将は平伏し賛意を示した。こうして、援軍を派遣する旨は決定したのだが、その次には総大将を誰にするかと言う事で、またもめ始めた。通常の場合ならば、一番位の高い巫女か、その次に位置する者が務めるのであるが、戦乱に荒れた大地を整えねばならず、重職者は動く事ができなかった。

結局、諸将一人一人による推薦と言う事になり、圧倒的多数で智代が指名された。しかし智代は

「皆々様のご指名ありがたき幸せにございまするが、わたくしは戦などほとんど

無縁であるただのおなご。そこでわたくしは、夫、正将を御推薦いたします」

ちなみにこの二人、先月に正式な夫婦となっていた。

「決まりじゃな」

すかさず巫女が言い、反対論が出る前に決定させてしまった。諸将は、はぐらかされた表情で賛意を示した。

出陣する正将達に巫女は

「我が国の最新兵器を持っていくがよい」

と言い、完成したばかりの新型兵器を約千個与えた。

正将が国を追われて約一年。ついに将十数名、兵三千を率いる総大将へとなったのである。


加勢国への上陸を果たした正将達に、驚くべき情報がもたらされた。なんと当初、加勢反乱軍を含めても七千程度であった枝津軍の兵力が、今や二万にまで膨れ上がっているというのである。この数を聞いた諸将は顔色を変えてざわめいた。が、正将が智代を通してある作戦を打ち明けると、諸将は感心したように、正将達を見た。

正将軍が真っ直ぐ、王都に向かって進軍する動きを見た枝津、加勢反乱軍二万は、それを迎え撃つ為、天木山の頂上に陣を張った。

山から駆け下りる軍勢の力は二倍とも三倍ともいわれている。枝津、加勢反乱軍がそれを狙っているのは明らかだった。

にもかかわらず、正将軍は山の麓である小道に陣を張った。小道と言っても、五百人程度が通れる道である。このまま枝津、加勢反乱軍が駆け下りてきたら、わずか三千の兵力では、簡単に蹴散らされてしまう事は目に見えていた。

正将は陣を張り終えると、小道に馬防柵を作るように命じた。しかし、馬防柵とは言ってもそれは、人が通れるか通れないほどの間隔ごとに、杭を打っただけのひどくお粗末な物だった。

変わった事と言えば、小道の端と端の木に、針金のような糸を結び付けていた事と、多くの兵士が、厚い布のかぶされた荷車から、細い筒を取り出していた事だけである。

その作業を眺める正将の顔は、自信に満ちていた。

一方、枝津、加勢反乱軍陣地では、山を駆け下り正将軍を一蹴する作戦が、満場一致で決められた。誰がどう見ても、枝津、加勢反乱軍の勝利は間違いない状況であった。

正将が麓に陣をしいて数日後、枝津、加勢反乱軍二万は勢いづいて山を駆け下りた。その様子を木の影からそっと窺う女性がいた。智代である。

智代は、さっと手を上げた。すると紐を使って行なう伝達方法により、数秒後にその情報が正将の元に届いた。

正将は立ち上がり馬防柵の向こう側を見た。大きな砂塵が迫り来るのが見えた。


『火力兵器』


枝津軍の大将は、自ら先頭に立って馬を飛ばしていた。馬防柵を破壊する為の手斧を、ぐっと握り締めた。

一歩、二歩、三歩と駆け出すたびに、確実に馬防柵との距離が縮まる。すると馬防柵の向こうで長槍隊が構えているのが見えた。柵の間から槍が飛び出ている。

(あんな防備、手斧で蹴散らしてくれる)

と大将は、ニヤリとした。

手斧の射程範囲に迫り、騎馬兵全員が手斧を振りかざした。

とその時、大将はふと宙に浮く感覚に襲われた。

そして、地に落ちた感覚。そのまま意識が途切れた。


真っ二つになった敵騎兵の上半胴が、次々と正将陣にまで飛び込んで来た。しかし、正将は、不思議とそれが怖いとは思わなかった。

(一年前は、虫さえ殺せなかったわしが……)

そう考えると、おかしな気がしないでもない。

やがて動物の断末魔の叫びが辺りに響いた。勢い余った馬が、柵から突き出た長槍に突き刺さったのである。

敵騎馬兵の後続は、速度を落とす事もできずに、次々と正将の仕掛けた鉄製の糸に、身を切断されていった。

ようやく事態に対応できた一人の騎馬兵士が、身を低くし剣を立てたまま、糸のある場所を駆け抜けた。

カーンという凄まじい音と共に鉄糸が断ちきられた。同時に騎馬兵士の剣もへし折れた。その騎馬兵士が、折れた剣を捨て手斧に持ち替えようとした時、馬がつんのめるように前へ倒れた。

足元にあった二本目の鉄糸が、馬の足を切断したのである。

馬から投げ出された騎馬兵士達は、顔面から地上に叩き付けられた――と思ったその時、地面が陥落し大きな穴が口を開けた。底には、鋭く尖った竹槍が何本も立っていた。

多くの騎馬兵が落とし穴の犠牲になっていく。

かろうじてまぬがれた兵士も、第三、第四の糸の餌食となった。

このトラップによって先鋒の騎馬兵は全滅した。しかし後続の歩兵は、その死骸を乗り越え、糸を断ちきりながら迫って来た。

それを見た正将は、さっと赤い小旗を振った。

柵の前に立っていた長槍隊が潮のように後退し、かわりに細い筒のような物を持った兵士が柵の前に立った。

鉄砲隊である。

当時、鉄砲はあまり流通していなかった。かなり高価な物だったからである。しかも命中率が極端に悪く、一発放つと銃口が焼け、しばらくは発射できない。

それを技術国であった伊予は、改良を繰り返した。先月やっと完成した物を、持ってきていたのである。

三部隊に分かれた鉄砲が、交互に入れ替わり敵兵に銃弾を浴びせていく。敵兵は退く事もできずに次々と倒れていった。

約三時間後、生き残った枝津、加勢反乱軍は、三千にも満たなかった。対する正将軍の被害はなかった。

戦いは、正将軍の完全勝利に終わった。しかし、竹槍を持った農民や加勢正規軍の死骸が多く混じっていた事に、正将達は気がつかなかった。


『王都参着』


枝津、加勢反乱軍を蹴散らした正将軍はその後、たいした抵抗にあう事無く、悠々と加勢国王都への入城を果たした。

しかしそれを迎えた王都の雰囲気は、どこか妙なものだった。枝津国を追い払った援軍として入城した正将軍三千に、民衆達が笑顔で手を振っている。「伊予国万歳!」と叫ぶ者もいる。だが智代は、それらの歓待が人為的に造られた物のような感覚に襲われた。

智代は圭介の側に馬を寄せ

「圭介殿。少しおかしゅうございませぬか」

と小声で聞いた。しかし、圭介は平然とした顔で

「何がでござる?」

「雰囲気にございまする。どこかぎこちなさを、感じられませぬか?」

智代の言葉に圭介は、改めて周囲を見回し

「別に何も」

と言った。

「……さようにございまするか」

智代はあっさりと引き下がった。別に何らかの確証があったわけではない。

(思い過ごしかしら……)

しかし、違和感は喉につっかえた小骨のように、心の奥底に沈殿していた。

王都による歓待を終えた正将軍は、城外に陣をしいた。王族達は、豪奢な屋敷を宿舎にする様にと強く勧めて来たが、妙な雰囲気が気になっていた智代は、正将に城外にて陣をしくように進言したのだった。

やがて日が沈み、皆が寝静まった夜半。突然、陣所の一角から火の手が上がった。火は枯れ草に燃え移り、とてつもないほどの大きな火柱が、闇の空を赤く染めた。

が、必死の消火活動により、火はそれ以上燃え移る事無く消えた。

まだくすぶった煙が立ち込める中、縄で縛られた一人の男が、正将の前に引き出された。

男はあちこちがほつれている、ぼろぼろの布切れを着ており、全身すすで真っ黒であった。

「この者は、火の手が上がった直後、見張りの者に捕らえられました。この者が火をつけたに違いありませぬ」

と圭介が報告した。

智代は詰問する為、男に近づいた。ちなみに陣中に問わず諸将の前では、正将をほとんど無口でいさせる事を、この夫婦は暗黙のうちに決めていた。なぜなら、黙っている正将の姿には、気弱さなど微塵も感じさせない、大将の威厳があったからである。

「そちは、何者であるのか?」

智代の問いに男は顔を上げた。憎々しげに智代を睨み

「我は、血盟団の一人なり」

と言い、小指のなくなった左手を突き出した。

「いつか我が同志達が、きさまら占領軍の首を、この指のように叩き落としてくれるわっ!」

男はそれだけ言い、舌を噛みきって死んだ。

その後、男の行動ついての議論が、夜を通して行われた。

「大方、敗軍に属していた落ち零れ集団の一人じゃ。第一、血盟団などとかっこつけた名前をほざくからして、くだらぬ奴等じゃ。かまう事はない」

「いやしかし、かの者の粗末な服装、緩慢な身のこなし。とても兵士とは思えぬ。あれは戦を知らぬ平民のように思えるが」

智代もあの男に対しては、ただの農民ではないか、と思っていた。とすると妙な事になる。なぜ援軍に駆けつけ、侵攻国であった枝津を追い払った伊予が、農民にこのような事をされるのであろう?

智代はなにか嫌な予感を感じた。

「どうせ反乱軍びいきだった農民が、腹いせにした事じゃ」

その言葉は、この不可解な状況にとって、自然でなおかつ説明のつくものだった。しかし、智代はどうも、それだけでは納得できないものを感じていた。

諸将は散々言いあった挙句、結局

「ただの農民が腹いせに火をつけた」

と言う所に落ち着いた。他に考えようが無かったからである。

しかし、納得のいかなかった智代は、諸将の去った後、正将と圭介に

「殿。智はどうも嫌な予感がいたしまする」

と今までの考えを述べた。すると正将も

「さすがお智じゃ。私も同じように感じていた。王都での民衆が我らを見る目。顔は笑っておったが、あれはまるで占領軍を見る目だった」

と言った。しかし圭介だけは半信半疑な表情で

「しかし、もしそうだとするとおかしな事になりまするぞ? 我らは、援軍として参ったのです。なにゆえ、占領軍として扱われなければなりませぬ」

「……うむ」

と正将はうなずいてから

「のう、お智。本当に枝津国は侵攻目的で、この国に入ったのかのう。もしかしたら枝津国は、他の目的でこの国へ来たのでは無かったのだろうか?」

しかし、侵攻以外で他国へと進出する理由などあるのだろうか? 智代は、わからないというふうに首を振った。

「しかし、殿。進出してからの枝津軍は、加勢軍を打ち破り王都を陥れようとしたのでございまするぞ。この行動を侵攻以外に解釈できましょうか?」

「……うむ。だが私は、何か重大な事を見落としているような、気がしてならないのだよ」

正将は不安そうな顔でそう言った。


その答えはすぐに分かった。

王都より西にある神指城にて、加勢国王子と名乗るものが、農民達を従え決起したのである。

この報告を聞いた正将は、直ちに密偵を放ち、その王子とこの国の状況を調べさせた。すると正将達の知らない事実が、次々と浮かび上がって来たのである。

そもそも、伊勢での反乱は王位継承問題から、始まったものだったのであった。先の伊予国遠征で留守居役を任された次男が、国王を幽閉、長男や反対派を追放して、専制政治を行なった。しかしそれは、民に重税を課し、再び伊予遠征を謳ったもので、反感を募らせた民衆や諸将の支持を得た長男が、反乱を起こす結果となった。その長男は、枝津国と婚姻関係であった為、枝津に国を半分与えるかわりに、救援を求めたものであった。

つまり正将達が壊滅した反乱軍は、この国にとって解放軍として認識されていた。それを打ち破った正将軍は、占領軍としての認識を受ける事になった、と言う事である。

「何と言う事だ……」

圭介がそう呟いた時、伝令が飛び込んで来た。

「王都が、住民の一揆により占拠された由にございまするっ!」

あわてて幔幕を出て、王都のある方角を見た。幾筋もの黒い煙が、立ち上っていた。

正将は諸将を集め軍議を開くように圭介に命じた。敵地奥深くに孤立してしまった正将軍の、今後の行動を決める為である。


正将軍はにわかにあわただしくなり、撤退の準備を始めた。撤退する理由は、約二万の解放軍を壊滅させた正将軍に、和睦が成功するはずもなく、補給路を断たれた以上、こうする他無かったからである。

撤退の予定コースでは、殿部隊が持ち堪えている間、本隊は急いで北上し、海岸線で待つ輸送船に乗り込むというものであった。

正将は、殿部隊として鉄砲隊を五つに分け、それを要所々々に配置して撤退を開始した。

それを見た加勢軍は直ちに追撃を開始。死を恐れぬ農民部隊は、幾多の死骸を積み上げながらも、鉄砲隊に突撃し続け、正将が設定した殿ラインをたやすく崩してしまった。

さらに悪い事に、撤退する正将軍を農民のゲリラ集団が、毎夜、夜襲を繰り返し、進路を妨害したのである。

精根尽き果てた正将軍は、次第に散り散りとなり、正将達はわずか数百の兵士と共に、東へと追い詰められていった。

正将達は、未開の土地である加勢東部へと、踏み込む事になったのである。


『未開の地』


敵軍の追撃は、未開の地である東部にまで及び、正将に従う者は、十数人という有り様だった。もはや食糧も尽き果て、狩猟を行ないながらの逃亡であった。

そんな正将達を、追撃部隊は執拗に追い続け、飢えと疲労により、すでに歩く事もままならなくなった。

次々と脱落して行く部下達を見て正将は

「もはやこれまで……」

と覚悟しかけた時、突如、追撃の手が止んだ。

不思議に思った正将達だったが、今の彼らは、その訳を探る事よりも、食糧調達と体を休める小屋を作る事で、手一杯であった。

葉と蔓で雨露を凌げる小屋を作り、蛇だろうがネズミだろうが、食べられる物はすべて捕り、その日その日を凌いだ。そのせいで、数人の部下が下痢を引き起こし倒れた。そんな光景を、正将達は、ただ黙って見ているしかなかった。しかし、生き残った者は、徐々に体力を回復していったのである。

やがて、生活する事に困らないほどの余裕ができた頃、始めて正将は密偵を出し、敵軍が追撃を止めた理由を探らせた。

すると妙な噂が、国中を駆け巡っていた。

「王子が失踪した」

というのである。その事に関して軍上層部は、「急病になり、療養中」と発表しているが、その後、何日も王子は、人々の前に姿を現さなかった。「見舞う」という将官クラスにさえ、王子の居場所はわからなかった。それだけに、噂は信憑性を増したようだった。

数日後――噂は思わぬ方向に向かい始めた。

「援軍に来た枝津の将軍が、王子を誅殺した……」

そこで正将が、軍の内情を調べさせてみると、実権は王子ではなく、枝津国の将軍が握っている事が分かった。

枝津国と加勢国は、失踪している加勢の王子のもとに枝津の王女が嫁いで、婚姻関係になっていた。そして今回の救援は、その王子による縁からのものであった。

しかし枝津は狡猾だった。先の伊予戦争で困窮した諸将を買収し、実権を握った。その事に反発していた反対派が、噂を発展させたのかもしれなかった。

(だが……)

なぜ王子の居場所が、隠蔽されているのか、正将には分からなかった。総大将である王子がいなくなれば、実権を握っている枝津が困るのはもちろん、?いる?という事だけが、存在意義のある王子にとっても、兵は混乱し、民は動揺し、諸将の反感を買うのは必至でだった。

(とすると……王子が病気というのは、事実なのだろうか?)

が、正将はすぐこの考えを斬り捨てた。

(もしそうならば、事実を隠蔽するなり、影武者をたてたりするに違いない。第一、病気ならば将官達には伝え、緘口令を敷くのが普通だ……)

しかし今回は、その将官達まで困惑し、動揺している。

(なぜだ? なぜそこまでして、隠す必要がある?)

が、考えている暇は無かった。いつまた追手が迫ってくるか分からない。特に次期統治者である智代だけは、絶対に伊予へ返さなくてはならない、と正将は心に決めていた。数日分の食糧を確保した正将達は、さらに東へと進んだ。

その行路は、深い森に険しい山々があり、厳しいものだったが、幸いだったのは、季節が夏で、食糧には困らないという事だった。

加勢東部に入って二ヶ月後、正将達は山の頂から、一つの小さな家屋を発見した。

「と、殿。あれは……」

圭介が身を乗り出して見た。すると、小さな家屋が何十戸も連なる小さな村が見えた。その光景に疲れきった部下達は喜んだ。同じ人間だけを見るだけの二ヶ月間。彼らが他の他者を求めたくなるのは、当然の成り行きだった。

喜び勇んだ圭介が我先へと、先頭を切って山を駆け下りていく。正将と智代は、その様子を苦笑しながら見ていた。

が、圭介が、山の山腹に差し掛かった時、突然、姿が消えてしまった。驚いた後ろの者が注意深く、圭介の消えた辺りに近寄ると、そこには、大きな穴があいている事に気がついた。

穴の中を覗き込む。すると圭介は、そこにある鋭い杭に太股を突かれていた。あわてて、周りの者が集まって、圭介を穴から助け出した。

しかし、圭介の太股からは血が溢れ、止まる気配が無かった。正将は、以前読んだ断片的な知識だけを頼りに、とりあえずの応急処置を施した。

「殿……面目ありませぬ」

苦しそうに圭介が言った。白い布で覆った部分が、すでに血で染まっていた。

(どうにかして出血を止めなければ……)

とその時、正将の目が何かを捕らえた。

(誰かがいたような……)

辺りを見回す。しかし、人影は見当たらなかった。

「殿。このままでは、圭介殿が危険にございまする。ここは急ぎ麓の村に行き、助けを請いましょう」

智代の言葉に正将は我に返った。

「よし。直ちに圭介を運ぶのじゃ」

力の強い部下の一人が、圭介を背負う。正将達は、猛然と山を駆け下りた。

しかし、いくら進んでも、村との距離は縮まらなかった。

「これは一体、どういう事じゃ?」

焦る正将がそう呟くと、突然辺りに法螺貝が鳴り響いた。

「!?」

正将達は、身を堅くした。辺りを見回す。すると、木陰からこちらを覗っている男がいた。

男は、正将の視線に気がつくと、さっと身を翻し森の奥へと走って行く。すると

ボーン

という鈍い音が辺りに鳴り響いた。その途端、男の背姿が二つになった。別人とも思ったが、その動きは、まったく同一の動きをしていた。

ボーン

再び音が鳴る。すると、今度は四つになった。

「何じゃあれは――」

信じられぬ表情でそれを見ていた。やがて男の姿が消え、正将が向き直った時、なんと目の前にその男がいた。

男はすでに白髪の老人で、あごに白い立派な髭を生やしていた。その髭をしごきながら

「こんな山奥に、何の御用かな?」

と聞いた。しばらく正将は、口をパクパクさせていたが

「実は怪我人がおりまして。治療を頼みたいのだが、いくら進んでも村にたどり着かぬ。御老人は、行き方をご存知ないか?」

「村? ほっほっほっ。そのような物、ここらにはござらんぞ」

「しかし、あそこに……」

と村の方角を指差したが、そこには何もなかった。

「まあ、怪我人がいるならば、我が家に運びなされ。秘伝の薬草を処方いたそう」

老人はそれだけを言い、勝手に歩き始めた。

正将達は、しばらく顔を見合わせていたが、あわてて老人の後を追った。

少し歩くと、森の真ん中というのに、小さな藁ぶき屋根の家があった。老人が、その中に入った。正将達も続いて入ったのだが、中の様子に驚いて立ちすくんだ。

外から見ると、小さな藁葺き屋根の家なのに、中は豪奢な絨毯が布かれ、広さは向こう側の壁が、見えない程であった。

老人は、棚から青色の草を取り出し、すり鉢で挽きはじめた。正将は圭介を、柔らかい絨毯の上に寝かせた。

すでに顔には生気が無く、苦しそうにうめいている。

そこへ、老人が薬を持って来た。老人が、薬を傷口に当てようとした時

「おい、暴れるかもしれないで、しっかり抑えとけ」

と正将達に言った。

老人が薬を傷口に当てる。すごい力で圭介が暴れ出した。

それを必死に抑えながら、正将は

(本当にこれで治るのだろうか?)

と懐疑的な目で老人を見た。すると老人は、圭介を見たまま

「心配いたすな。明日になれば血が完全に止まり、膿む事もないだろう」

と言い、今度は黄色い薬を取り出した。正将はその治療を黙って見ていた。


『幻術師の老人』


圭介の傷は、わずか二日で完治した。傷痕もまったく残っていない。狐につままれた気分で正将は

「御老人は、魔術師か?」

と聞いた。すると老人は笑って

「山深く住む狐爺と言うわけじゃな。しかし、わしは、何も超能力者でも奇人でもない。ただの人間じゃよ」

「しかし御老人――」

「これ、老人はやめい。わしは、見た目ほどの歳は、とっとらんわい。わしを呼ぶ時は、そうよのう……信玄坊主とでもいたせ」

と言ってから、「わっはっはっ」と豪快に笑った。

「では信玄殿。普通の人が、なにゆえかような奇跡を起こせようか? 自分を何人にも見せたり、圭介の傷をわずか二日で治したりと、どう見ても人間の成せる業とは思えぬ」

信玄坊主は、質問には答えず、向こうで正将の鎧を磨いている智代を見て

「かの者は、美しきおなごじゃ。しかもよく働く。そなたの奥方であるか?」

「きゅ、急に何をおおせられる……そのような事関係ござらんではないか」

正将のあわてた表情を見て、信玄坊主は、にっと笑い

「そなたは、正直者じゃな。真実がすぐ顔に出る。さぞかし、周りの人間は大変じゃろうて。かの者も……」

と言ってから、信玄坊主は

「おっと、これは失言じゃった。すまぬすまぬ。さて、わしは薪拾いに行って参るが、おぬしらは、ゆっくりとくつろいでおれ」

信玄坊主は立ち上がり、家から出て行った。

この時、正将は、信玄坊主が自分に関するすべてを、知っているような感覚がした。

大きく伸びをし、立ち上がる。すると、棚に飾られている小さな絵が、視界に入った。

絵は、写真立てのような物に入っており、正将はそれを手に取った。そこには、赤い凶悪な龍が、一人の人間によって、額に剣を突き立てられている情景が、描かれていた。

(…………?)

一見すると、よくある善対悪の絵画だが、正将は一つの疑問を感じた。なぜなら、龍の背景になっている色が、水色で明るい色なのに、対する人間の色は、くぐもった灰色であった。

(これではまるで、凶悪な龍の方が、正義と言わんばかりではないか?)

正将は妙な感覚に捕らわれながら、絵を置いた。そして振り向くと、目の前に信玄坊主の顔があった。

「わあっ!?」

「その絵が気に入ったか?」

「い、いや別に……ただなんとなく、変に思っただけじゃ」

「ほう……」

信玄坊主は、正将の顔をのぞき込むように、首を曲げて

「どう変に思った?」

「そ、それは……これではまるで、龍が肯定されているような絵ではないか」

しかし、信玄坊主は首をかしげ

「龍が、肯定されてはいけんのか?」

「しかし、これではまるで、悪役を肯定しているようではないか?」

「悪?」

信玄坊主は、呆けたように龍の絵を見

「おぬしには、これが悪に見えるのか?」

「そ、それは……」

「たしかにこやつは、人を食らい、田を荒らし、人々に恐怖を植え付けた。じゃが、そのおかげで人は助け合い、やがては団結し、この龍は倒されたのじゃ。結果、人は争う事無く治世を築いた。人間の歴史においては、この龍こそが、英雄じゃろう?」

しかし正将には、信玄坊主の言う事が分からなかった。だから

「言っている事が、わからぬ」

と言った。

「なぜ、人を不幸にした者が、英雄なのじゃ?」

「分からん……とな」

信玄坊主は、じっと正将の目を見つめた。正将はその視線に耐えられなくなり、思わず目をそらした。

「そうか。おぬしは幸せ者じゃな」

しばし遠い目をした。正将はそこに、何人たりとも近寄れない、強い意志を感じた。

「おぬしは、正将……と申したな。正将は、これから伊予に帰って、どうするつもりじゃ?」

「……わからぬ」

と言った。正将の答えに、信玄坊主は笑い

「それも、分からぬ……か。ならば、わしが決めてやろう。祖国に帰るのじゃ」

「…………」

正将は黙って、信玄坊主を見た。そして、智代を見る。

「祖国はとっくに捨てた。もう何の未練も無い」

「嘘つけ」

信玄坊主は、きっぱりと言いきった。

「何を根拠に……」

「目を見れば分かる。おぬしはすでに、自分が自分勝手な人間で、自分のせいで仲間が苦労し、犠牲になっていく事に、気づいておる」

「そんな事を考えた事も無い」

「いや、直感では分かっておる。それを分からんと申すは、おぬしの偽善意識のせいじゃ」

「……そんな物はない」

「おぬしが、伊予を助ける為、敢行した夜襲。あれをおぬしは、伊予の為にやったと言っておるが、本当は自分の為にやったのであろう? そして、この度の加勢での合戦も、おぬしは、伊予の為と言っておるが、本当は自分の功名の為に、やったのであろう? だから、あれほど凄惨な殺戮をしても、何にも感じぬのじゃ」

正将は、しばらく何かを考えていた。が、やがて

「だったらどうする? 私は、お智が好きじゃ。圭介が好きじゃ。伊予国が好きじゃ。今の環境が好きじゃ。何一つ壊したくない。だから、それを守る行為が、悪であるとは誰にも言わせん」

正将強い口調で言い、信玄坊主を険しい目つきで睨んだ。

「ほっほっほっ、それよそれ。それこそが、おぬしの本当の姿よ。いい目じゃ」

正将は、はっとしてうつむいた。

「だから祖国に帰るのじゃ。自分の憎き者を討つ為に、何万という仲間を犠牲にするのじゃ。そしておぬしは、あえてこの絵の龍となるのじゃ」

「……なぜ? なぜ私が、そのような事をしなくてはならん。私はこれより、伊予に帰り、智代達と共に、平穏で平凡な一生を終えるのだ」

「何万という仲間を犠牲にしながらか? おぬしの祖国である葉堵国は、今や大陸最強の国じゃ。その中で、特に宰相の長間忠義は、おぬしを目の仇にしておる。おぬしがいかに、平穏に時を過ごしたとしても、このような事態は、これからもずっと続く。その度に、おぬしは窮地に陥り、助かる為に、数え切れぬほどの人を犠牲にする。動いても、座していても、犠牲者が出るのであれば、おぬしは動かざるおえまい」

「……そんな事は、誰にも分からぬ。それに私は、保守的な人間で、そのような決断をするとは思えぬ」

「人の世には、大半が凡人により構成されているが、中には、生まれつき宿命を背負った者もいる。その者は、いかに無能で、臆病であろうとも、周りの環境に追われ、動かざるおえなくなる人間じゃ」

「それが、私であると?」

「おぬしが、これまで歩んで来た過去を、振り返ってみい。今までおぬしが、自発的に動いた事などあったか? 追い詰められ、それを打破する為の行動を、して来ただけじゃろう? それに結果がついて来た。おぬしは、それだけの人間じゃ」

信玄坊主の言葉に、正将は心痛な面持ちで、物思いにふけっていた。


数日後、信玄坊主の案内で、正将達は加勢東部を抜け、古泉こせん国へと入った。古泉国は、未だどこの国とも交戦していない国であり、他国者の入国は、容易であった。

信玄坊主は、その古泉国の北部にある港まで、正将達を案内した。

「夕方までには、伊予行きの船が出るはずじゃ。それに乗れば無事、待望の伊予に帰れるじゃろう」

「信玄様……いろいろありがとうございました」

智代が、丁寧に礼を言った。

「この御恩は忘れません。いつか必ず、御返しいたしまする」

「ほっほっほっ、若いのに、礼儀正しいお嬢さんじゃ。正将には、もったいないぐらいじゃ。だが、返礼の心配はいらぬぞ。なにせ、わしも行くのじゃからな。いやいや、すでに正将の許可は得てある」

「え?」

驚いて智代が正将を見る。正将は黙って、智代達に背を向け

「そんな許可は、しておらん」

「まったくいい歳して、いつまでたっても照れ屋じゃな。素直に「あなたの力が、必要なのでなにとぞ力をお貸しくださいませ」と言えばいいものを……まあよい。わしも、隠遁生活に飽いていた所じゃ。ついていってやろう。さてとりあえず、伊予行きの船を探そうかのう」

と言い、信玄坊主は、一人で勝手に歩き出した。

「ほれ、何をしておる。さっさとわしに、ついてこんかい」

智代と圭介は、顔を見合わせ正将を見た。正将はしばらくそっぽを向いていたが、やがて溜め息をつき、信玄坊主の後を追った。

そんな正将を見て、智代と圭介は、あわてて後に続いたのであった。

船旅は順調であった。心配されていた時化もなく、無事、伊予についたのであった。

しかし、長旅で疲れきった正将達を迎えたのは、牢獄であった。彼らは伊予に上陸した瞬間に、罪人として逮捕されてしまった。

彼らは訳の分からないまま、暗い牢獄へと放り込まれた。


『解放軍決起』


伊予国王都の一室。薄暗いその一室に、一人の女性が力なく腰を下ろしていた。現巫女である。

幽閉されてすでに数ヶ月。彼女は、日のまったく当たらない薄暗い部屋で、じっと耐える事を余儀なくされていた。

入り口は、見張りの兵士が常に固めているし、部屋には、薄い毛布一つの他に何も無い。廊下から漏れる明かり。それが唯一の光である。

初めは騒がしかった彼女も、やがて憔悴し、今では起き上がるのさえ、億劫になっていた。する事は考える事しかない。だから彼女は考えた。

最初は取り止めの無い事からだった。自分の楽しかった頃の思い出。自分の若い頃。大変だった巫女の職務。そして、娘の事……

(何という事……)

全てが罠の一連だったのだ。見えない策主は、すでにあらゆる手段講じていたのだ。

婿の正将が、伊予軍を率いて出陣した直後、王宮内でクーデターが起こった。結果、巫女は国の実権を奪われ、幽閉された。

首謀者である大臣は、即座に巫女の幼い遠族を擁立。自分は摂政として、背後から実権を握る事となった。

ほとんどの諸将は遠征していた為、さしたる抵抗にあう事もなく、クーデターは成功した。しかも、わずかながら抵抗をしていた者達も、巫女を人質として取られている上、遠征軍全滅の報を聞いた為、従わざるおえなかった。

こうして伊予国は、大臣に乗っ取られ、同じように王位継承者を失った加勢国も、枝津国に吸収併合されてしまった。

事態は、見えない策主の思惑通りに進んでいる。巫女は直感的にそう思っていた。

そして巫女は考えているうちに、その策主の姿がおぼろげながら見えて来た。

(婿殿がこの国に来てから、この伊予にも騒乱が起こっている……)

とすれば、正将の生国。葉堵国の仕業の他考えられなかった。

以前巫女は、正将が亡命した直後と、智代との婚儀の時に二回、葉堵国に密偵を出している。

背後に策謀が無いか確かめる為である。結果、祖国を追われた王という事実以外、浮かんでこなかった。

が、その時、葉堵国一の知略家の噂を聞いた事があった。

名は長間忠義。一介の下級武士から、葉堵国一の重臣にまで昇りつめた男である。

人の心を津波のように飲み込み、苛烈な軍律と鮮やかな謀略によって、今では味方からも恐れられている。

(他は、武力一辺倒の無骨者だけ……)

葉堵国の仕業なら、この男以外考えられなかった。

巫女は、今までなぜこんな事に、気がつかなかったのだろう、という後悔に襲われた。

(敵は、長間忠義……兵を向けるならば、葉堵国)

彼女は、何とかしなければ、と思った。しかしこの状況下で、何ができるというのだろうか?

正将達は、加勢で壊滅させられ、生きているかも分からない。しかも、ここから抜け出せる事などできるだろうか?

改めて部屋を見まわした。しかし、部屋の中には薄い毛布としかない。

その時、廊下から複数の足音が聞こえて来た。足音は、部屋の前に止まり、厚い鉄扉が押し開けられ、一人の太った男が入って来た。

「これは、巫女様。ご機嫌麗しゅう。いかがですかな、牢獄での生活は?」

と憎々しげに言った。

この太った男こそ今回の反乱の首謀者、大田直信である。

直信は、肉厚の顔を気持ち悪く歪め

「今日は良き知らせをお持ちいたしました。実は昨日、港にて智代様御一行を、捕らえたとの報告が入りましてな」

直信はここで「ククッ」と笑って

「まさか、智代様が生きておられるとは……こうなるとわたくしも、少し困った事になりまして……」

しかし巫女は、直信の言葉を聞いていなかった。

(智代が生きていた……)

死んでいたかもしれない娘が、生きていたという事だけで、巫女の胸は、詰まりそうになっていた。

「巫女様……巫女様!」

直信の怒鳴り声で、巫女は我に返った。

「困りますなぁ、しっかりと聞いていただけなければ。まあいずれにしろ、お二人とも、死んでいただかなければなりませんがね」

と再び「ククッ」と笑った。

(…………)

何の反応も無い巫女を、直信が面白くなさそうに一瞥し

「ククッ……まあ、また参りますよ」

ときびすを返した。その直信に向かって、巫女は力いっぱい体当たりした。

「う、ぐわっ!」

不意を打たれた直信は、石壁に思いっきり頭をぶつけ、気絶してしまった。うろたえる側近が、刀を抜こうとした時、巫女はすでに直信の刀を、直信の喉に突き付け

「いかに非力なわらわとはいえ、この状況でこの者を突く倒す事など、たやすきもの。控えよ」

側近達は、仕方なく刀を鞘に納め、後ずさりした。

巫女は直信を引きずりながら、注意深く牢獄を抜け、大広間に出た。そして、大声で自分の一番信頼していた側近を、呼ぶように命じた。

あわててその側近が駆けつけた。巫女は側近に直信一味を捕らえるように言い、疲れたようにがくりと膝をついた。

側近は、近衛兵に命じ即座に直信一味を捕らえさせる一方で、巫女の体を休めさせる為、寝室へと運んだ。

久方ぶりに、柔らかい寝具に包まれた巫女は、死んだように眠り続けた。


数日後、正将達は牢獄から救出された。巫女は、満面の笑みで正将達を迎えたが、当の本人達は苦渋の表情が濃かった。

なにしろ兵三千、主だった諸将のほとんどを、失ってしまったのである。特に、昔からの知り合いの多かった智代は、深く自分を責めていた。

しかし彼らの帰還は、伊予国で盛大に祝された。なにしろ、遠征軍初めての生存者なのである。

まだ行方の分からない者の家族にも、もしかしたら、という希望を与えた。正将達は旅塵を払い落とす間もなく、それらの慰労の為、動きまわらなくてはならなかった。

そして正将達が、それら事に追われている頃、葉堵国では、大規模な反乱が起こっていた。

この頃の葉堵国は、すでに大陸の東半分を支配下においており、その動員兵力は、およそ三十万にものぼっていた。

国力は、伊予国の約百倍。正将が忠義の計略に躍らされている間に、葉堵国は巨大帝国を築き上げていたのである。

先月、葉堵国国王であった正勝は、みずからをかの一代の長門帝国の始祖「榊 康柾」の再来と称し、国名を安岐大帝国と改め、帝位に就いた。

が、これをよく思わない者が多くいた。なぜならば、当時の王の位は、旧長門帝国の子孫、長渡国が諸国の王を、形だけながらも任命するものであり、正勝の帝位は、その長渡国と同列に並ぶ、と宣言してものだからである。

すでに、ハンコを押すしか力のない長渡国だったが、正勝の帝位には憤慨し、旧長門帝国の威信を持って、諸国に安岐帝国打倒を促した。

旧長門帝国を信仰にしている国も多い。一斉に諸国は、反安岐帝国の旗印に集った。そして、十万の兵力を持って、安岐帝国に侵攻した。

それに伴い、次々と安岐帝国に反乱が起き、正勝以下、重臣達は青ざめた。

しかし、長間忠義だけが平然としていた。

「今まで反意を潜めていた者が、ここぞとばかりあふれ出もうした。これを討つ事は、不忠者を一掃する事になり、我が安岐帝国の地位を盤石なものにいたしましょう。何をそう悲観なされまするのか?」

「し、しかしじゃ……今の我が軍に従う者は、わずか五万。しかも、四方を敵に囲まれた状況で、いかに戦うのじゃ」

「たしかに、現状は限りなく不利です。しかしながら、この劣勢を打開するのは、たやすき事にございまする」

忠義はここで、意味深な含み笑いをした。

「人は生きていく中で、数々の過ちを起こしまする。それは、国という単位に変わっても同じ事。今まで長渡国のして来た過ちを、すべて白日の元にさらしましょう」

数日後、諸国に長渡国のこれまで行なって来た悪事の噂が広まった。噂、と言っても、忠義は事実だけを流した。それだけに、噂は信憑性を持って、確実に広まっていった。

たちまち長渡軍の結束は崩れ去った。

以前、安岐帝国を見限った諸将も、再び安岐帝国への帰参を申し立てた。それを忠義は、快く受け入れた。

が、内心では、すでに不忠者と定めていた。すでに心の中では、そういった不忠者に対するリストが作成されていた。

混乱が静まり、安岐帝国が以前よりも、威信を振るうようになった時、その時の不忠者は、無理難題をふっかれられ、一つ一つ潰されていった。

忠義は、完全な安岐帝国を築く事に成功したのである。

圧倒的な兵力で、諸国を飲み込む帝国軍は、すでに向かう所、敵無しの状態であった。

そんな中、かつての長渡王が、諸国を放浪しながら、伊予国にたどり着いていた。すでに、何もかも失った貴族が頼れる国は、伊予しかなかったのである。

正将が、加勢遠征から帰国して五年。

再び、伊予に悪雲がたち込め始めていた……。


場所は伊予国王都における、謁見の間。

ある夜、正将は、極秘に巫女に呼び出されていた。

「何か御用にございますか?」

すでに正将は、髪をオールバックに固め、気弱な一面を、まったく見せない青年になっていた。

しかも、漂う気質があり、大将の感すらあった。

「あなたを呼んだのは他でもありません……」

巫女は立ち上がり

「葉堵国遠征をしていただきたい」

と言った。

正将は驚いた。なぜなら伊予には、他国遠征は行なう事勿れ、という教えがあったからである。統治者である巫女がそれを知らぬわけが無い。

だが、巫女は正将を見て言った。

「わらわにも、この国の掟は分かっているつもりです……だが昨日、そうも言っていられない事態が起こりました。先の安岐帝国遠征で、敗北を喫した長渡王が、我が国に亡命を求めて来たのです。それを拒む理由はありません。だが、彼はそれと共に、再び安岐帝国討伐を伊予に要求して来ました。それも我が国は拒めません。なぜだか、わかりましょう?」

正将は、伊予国の神法を思い出していた。一つだけ思いあたる。

「第二法。人が苦しんでいるのを、見過ごすべからず、ですか?」

「そうです……。他国遠征の禁止は、第十法。いかなる理由があろうとも、上の教えが優先されます」

「しかし、それだけで遠征とは……いささか軽率ではございませんか?」

巫女は、正将から目をそらし、しばらく黙った。その様子は、言おうかどうかを迷っていた。が、やがて決したように

「理由は、もう二つあります。一つは、このままでは遠からず内に、伊予は帝国に併合されてしまうでしょう。それに対する危機感。そして、もう一つは……あなたです」

「私?」

「あなたもすでに気づいておりましょう? 自分が原因で、伊予に数々の災いが起こっている事に……。いえ、それを責めているわけでは、ござまいせん。ただ今のままでは、あなた自身も不安定な存在のまま。この遠征は、あなたの為でもあるのです」

この時、正将の頭の中に、信玄坊主の言葉が浮かんだ。

(おぬしは、周りの環境に追われ、動かざるおえなくなる人間じゃ)

もしそうだとすれば、今の正将は動くべき時を迎えていた。しかし正将には、どうしてもその考えを受け入れる気には、なれなかった。

「……そのお考えは、ありがたく思います。ですが、ならばなおさら、お受けするわけには参りません。私はすでに何人もの部下を、相次ぐ敗戦で失っています。その私についてくる者など、誰もいないでしょう」

「先の加勢遠征の事を、言っているのですね。けれどあれは、初めから仕組まれた罠だったのです。気に病む事はございませぬ」

「いえ、いかなる事情があろうとも、敗北は敗北。何を申しても、いいわけにしかなりません。それに……私はもう、戦地に赴きたくありません。なにとぞ、御理解くださいませ」

と、深々と頭を下げた。目には強い否定の意志があった。巫女はその目をじっと受け止めて

「そうですか……ならばしかたありませんね。今の事は忘れてください」

正将は、無言で宮中を辞した。が、頭の中では、何かを考えていた。そして、屋敷に帰るとすぐさま信玄坊主を呼んだ。

「ふっふっふっ、さては、祖国に帰りとうなったのじゃな」

信玄坊主は、正将の顔を見るなり言った。

「そこでどうしたら帰れるか、を聞く為にわしを呼んだのであろう」

正将は、それには無言で火鉢をいじった。そして火鉢の中の赤い炭を取り出し

「なぜ木炭は、こうも長く赤々と燃え続けるのか。人が燃え続けるように、手を加えるからか? それとも、木炭自体が燃え続けようと、がんばっておるのか? それとも……」

「それを突き詰めて考えるは、愚じゃな。そんな難しい考えは、まず人に伝わらんし、自分自身の為にもならぬ」

それは正将自身にもよく分かっていた。だが、聞かずにはいられなかった。なぜならそれは、物心ついてよりずっと考えて来た事であり、恐らくこれからも一生、考え続けなければならない事だったからである。

「今宵巫女に、自分が原因で、伊予に数々の災いが起こっている、と聞いた時からずっと考えていた。ここ五年で伊予国は、かなり復興されたし、長渡国の王が亡命して来た事で、大義名分もそろった。しかも、巫女直々に討伐令の許可も下された。時は満ちた。今動かなければ、私は一生、厄介者として生きていかなくてはならないだろう。だが……どうにも心が定まらぬ。全ての要素の指針が、行動をせよ、と言っておる。そして、それは私にも分かっている。だが、体が動かない。信玄坊、私はどうすればよい?」

「ほっほっほっ。今、おぬしにできる事は、動かぬ事よ。ただ流れに身を任せ、天に流されるのじゃ。そうすれば、何からの答えが出る。それが、宿命を背負ったもののサガじゃ」

正将は、失望と疲れの入り交じった表情でうつむいた。そして、じっと考えていた。信玄坊主は、いつのまにかいなくなっていた。しかし、それさえも気がつかないほど、考え込んでいた。

今動かなければ、自分は一生後悔する。だが、体が言う事を聞かない。

(なぜだ?)

正将は、不甲斐ない自分に対して腹を立てていた。行動を起こす事は、たやすいではないか。ただ、巫女の勅を受け、出陣すればよい。後を決めるのは、運と実力だけ。なぜそれができない……なぜだろう?

ここで、大きく溜め息をついた。

(落ち着こう)

正将は、努めて冷静に、自分の意識というものを考えていた。そして、もっと客観的に考えてみる事にした。

自分は何を怖がっているのだろうか? 失敗を恐れているのだろうか? それとも、自分がいばらの道を歩む事を、嫌っているのだろうか?

どうもしっくり来ない。

本当に失敗を恐れているならば、あの夜襲は行なわなかっただろうし、いばらの道を歩みたくないならば、加勢遠征などには参加しなかっただろう。

(他に理由があるのか?)

正将は、自分の過去を一つ一つ思い出してみた。


祖国での出来事。

伊予に来てからの事。


正将は、伊予に来てから明らかに行動的になっていた。

(祖国にいた頃と、何が違うのだろう?)

無論、取り巻く環境はまったく違う。この国に来たおかげで、智代に逢えたし、巫女にも認められた。

が、それが直接の原因ではないと思う。

なぜなら智代を助ける為、海に飛び込んだ時は、正将の側には圭介しかおらず、その時の正将は、伊予の厄介者扱いされて、失意のそこにあった。

それでも行動する事ができた。

(他に違いは……?)

他には何も無いように思える。

(わからない)

正将は「ふうっ」と息をつき、大きく伸びをした。そして立ち上がり、夜空を眺めた。空には、無数の星が散らばり、煌々と光り輝いている。

その中で、三つ並んでいる星が目についた。

(そういえば昔、あの星を旗印にした者がいた、という書物を読んだ事がある……その者は、一介の足軽からやがて、大大名にまで上り詰めたが……ん?)

何かが正将の頭で引っかかった。

(もしかすると……)

すぐさま正将は、理論に理論を積み重ね、実に簡単な事実にたどり着く事に成功した。その事実は、正将を鼓舞し、行動を促した。

正将は、深夜にもかかわらず、巫女に会う為、屋敷を飛び出した。そして巫女に会った途端

「ただちに、安岐帝国討伐の旗を、揚げたいと思います」

「……急にどうしたというのです? 先程は、あれほど拒絶の意を、示していたというのに」

巫女は、正将の急変にひどく驚いていたが、出陣には快く承諾した。

「数日中に、諸将を集めこの事を伝えます。あなたは、その席でそれに伴う、おおまかな説明を行うのです。陣割、進路、作戦……できますね?」

「はい」

正将は自信を持って言った。そして、深々と頭を下げ退出した。

帰り道、途中に信玄坊主がいた。どうやら正将を、待ち伏せしていたらしい。すでに空になった徳利が、何個も転がっていた。

信玄坊主は、正将の姿を認めると

「おう、正将。まあ飲め」

と言って、正将に杯を持たせた。その杯に酒をなみなみと注ぎ

「どうやら、心は決まったようじゃな」

「……ああ」

正将は、注がれた酒を一息で飲み干し

「やっと、行動を起こせた」

「それはよかったのう。どれ、酒の肴におぬしが、出した結論を聞かせてもらおうか」

「私が今まで行動できなかったのは、なんてことはない。潜在意識に騙されていただけだ。私の潜在意識は、今まで私という一人の人間の本質を、封印していた。つまり、平和主義者が最も嫌う、自己中心的考え方だ。彼らはそれを、人としてあるまじき物として、排除的な意識を人に刷り込んだ。それが今まで重しのように、私にのしかかっていた。だが、人の世において取るべき道は、二つしかない。『進む』か『立ち止まる』だ。私は、今までの潜在意識を斬り捨て、本質を引き出した。もう迷わない。これからは、いかなる犠牲を払おうとも、世界を自分中心に回していく」

「ほっほっほっ、ずいぶんな極論を出したものだ。まったくおぬしらしくない。だが、段々といい目になって来たのう」

信玄坊主は、正将の杯に酒を注いだ。正将は注がれた酒を飲もうと、杯を傾けたが手が震え、落としてしまった。

改めて、自分の両手を見る。震えはいつまでたっても収まらなかった。

「怖いのじゃろ?」

正将は、返答に詰まり信玄坊主を見た。信玄坊主は、正将の落とした杯を再び、正将に持たせた。

「ほれ、今度はしっかり持て」

再び酒を注ぐ。が、その酒は、振動で常に波打っていた。

「信玄坊……怖い、とはどういう事だ?」

「ふむ……つまりは、おぬしが根っこからの、臆病者であるという事よ。あの極論を、まだおぬしは嫌っている。おぬしは、潜在意識を斬り捨てたと言ったが、その実は、潜在意識の上に、あの極論をかぶせただけよ。そして、その極論に自分が、支配される事を怖がっているのじゃよ」

正将は黙って、震える手を見た。すると正将の頭に

(今なら戻れる)

と囁く声が聞こえた。すると今まで燃え続けていた、前進の気持ちが、段々と収縮し始め、再びためらいが生まれ始めた。

内向的になっていく気持ちを、正将は必死に叱咤した。するとまた、力が全身をみなぎるような気分になった。が、しばらくするとまた、内向的な感情が大きくなっていった。

正将は何度も何度も、しぼもうとする、自分の気持ちを叱咤した。やがて、何度も繰り返すうち、徐々に内向的な感情は弱まっていった。

そして、それは完全に消え去った。津波のように押し寄せる葛藤が消え、晴れ晴れとした感覚になった。

だがそれも束の間、今度はひどい孤独に襲われた。

「なぜか、この世は私しかいない感覚がする……」

「正将。それが、おぬしの求めていたものじゃ。自己中心者エゴイストになるとは、誰にも頼る事のできない、孤独な人間になる事じゃ」

「……そうか」

正将は、全てを悟ったように、ぽつりと呟いた。


安岐帝国を討伐する、と言ってもそれを為し得るのは、非常に困難な事であった。復興されつつある伊予国の兵力は、新兵五千。対する安岐帝国は、精鋭三十万。これでは、話しにならなかった。

そこで正将は、現在苦しみの中にある国々に、解放という名目で進軍し、兵力を増やす事にした。

一ヶ月後、正将は加勢国に進出。加勢は、枝津国に乗っ取られていらい、重税に継ぐ重税で、国民は貧困にあえいでいた。

怒涛の快進撃で、即座に王都を陥落させ、枝津国の将軍を追放した。そして、幽閉されていた王を助け出し、再び王位に就かせた。

伊予軍は、一躍英雄となり、軍に追随する志願兵が多くいた。正将は、それらの志願兵に、過剰とも言えるほどの食糧を与えた為、その噂を聞きつけた貧民達が、こぞって集まり、兵力は一気に三万にまで膨れ上がった。

その兵力を率いて、正将は枝津国に侵攻。信玄坊主が、事前に仕掛けていた内応策が功を奏し、瞬く間に併呑してしまった。

が、枝津国の国民の目は冷たい。なぜなら、ここでは占領軍として、認識されていたからである。

そこで正将は、民の心を掴む為、戦で働き手を失った者や、老人への福祉の充実など、弱者への配慮を特に強くやった。

そして、悪徳商人などを、有無を言わさず片っ端から潰し、そこから奪った金品を、すべて民に施した。

強き者が、弱き者を救うという構図を作ったのである。

結果は、思った以上に好評であった。正将達に対して、占領軍と意識を消していった。再び兵力を吸収した正将軍は、五万にもなっていた。

その後、正将は枝津国に滞在し、兵士達の訓練を行ない、武具を整えるのに忙殺された。なぜなら、兵力の八割が戦を知らない農民だったからである。

兵達が、ようやく軍というものに馴れ始めた頃、安岐帝国は、怒涛の進撃で近づいていた。

すでに加勢国の東にある、古泉国にまで近づいてきており、もはや目と鼻の先であった。正将は、すぐさま兵五万を連れて、加勢国と古泉国の国境に、軍事要塞を築かせ、来るべき決戦に備えた。

やがて古泉国は滅亡し、帝国軍が、桜ヶ谷の要塞前に布陣した。

その数はおよそ五十万。

眼下に広がる一面の平野が、人で埋まっていた。


帝国軍が、要塞への攻撃を開始した。が、城は堅く、兵の士気も昂揚している正将軍は、びくともしなかった。

「これ以上、犠牲者を出すのは、よくありませぬ」

長間忠義が、正勝に進言した。

「ここは、持久戦になさるのがよろしいかと」

「それで城が落ちるのか? 我が軍は、五十万もいる。このまま、攻城を続けた方が、早く片がつこう」

「いえ、攻城を続けるのは、反対いたしませぬ。しかしながら、今までのような、我武者羅な突撃は、効果は望めませぬ。城壁より高い櫓を組ませ、そこから矢の応酬戦を、行なうがよろしいかと」

「……何か考えが、あるのか?」

正勝の問いに、忠義は、にやりと笑い

「三日いただければ、戦わずして、正将軍を大混乱に陥れまする」

と言った。


『撹乱作戦』


それは、三日と経たず実行された。今までの攻城戦で、帝国軍の捕虜となった者達が、貴人とも思わせるような、きらびやかな衣服を身にまとい、城外にて

「降伏すれば、このように重く用いられるぞ」

と大声で説いた。

一瞬、城内は騒然とした。馴れない戦闘と、度重なる防衛戦で、城兵達は疲弊していた。が、それぞれの部隊長が、叱咤し程なく騒ぎは収まったかに見えた。

だが、静まりかけた城内で、今度は幾筋もの煙が上がった。

「火事だ! みんな早く逃げろっ!」

誰かがそう叫んだ。

それと同時に、帝国軍が攻城戦を開始した。

すでに戦意を喪失しかけていた城兵達は、我先へと逃げ出していった。防衛線は崩れた、と帝国軍が城内に侵攻しようとした時、今まで、ピクリとも旗印が、動かなかった一軍が、防衛ラインを再構築する為に、動き出した。

圭介率いる近衛騎士団であった。

この部隊は、圭介が自軍の中から、一人一人選抜して編成した精鋭部隊であった。数は三千程度。だが、この少勢で帝国軍の侵攻をよく防いだ。

それを見て、逃げ出した将兵達は、再び戦線に復帰してきた。正将軍が、帝国軍を押し返し始めた。

その時、耳をつんざく音と共に、大砲が城内に突き刺さった。そして、大きな音と共に、爆発した。

通常大砲は、炸裂弾ではなく、鉛の玉が飛来してくるだけであり、殺傷力はあまりない。しかし、忠義はそれを改良し、着弾後、細かい破片を破裂するようにした。

密集した人込みに撃ち込めば、何十人もの人間に重傷を負わせるほどの、威力があった。

たちまち、何人もの城兵が炸裂弾の犠牲になっていった。

そしてそれは、驚くべき事に、帝国軍に対しても、大きな被害を与えていた。次々と味方の大砲によって、倒れていく帝国軍だったが、彼らは怯む事無く、ひたすら城壁を目指した。

日が暮れた頃、帝国軍は引き上げた。地上に転がる死体は、敵味方合わせて、五千にも及んだ。


正将は奇妙な感覚で、しょんぼりとうな垂れている諸将を見た。どの将にも、昨夜までの覇気はなく、疲れた顔をしている。

外には、五十万の帝国軍と最新鋭の大砲。内は、たかだか五万の新兵と、意気消沈しきった将達。

どことなく、伊予で夜襲を決行した夜に似ている。

(人は、環境によって同じ反応をするらしい)

その雰囲気に、耐え切れなくなった圭介が

「各々方、何という情けない顔を、しているのか? 兵達が動揺している今こそ、将は厳然たる態度を、示すべきでござろう。それが何だこの覇気の無い、面持ちは? このままでは、戦う前から負けたようなもの。……殿。殿からも何か言ってくだされ」

しかし正将は

「……うむ」

と言ったきり黙ってしまった。かわりに信玄坊主が

「ほっほっほっ、まあ、そう気張らずともよいではないか。戦は、始まったばかりじゃ」

「だが、信玄殿。状況は、昨日までとは、まったく違いまするぞ。このまま手を、こまねいていては、重大な危機に陥りましょう」

「いや、なに。何も手を打たずに、待つわけではない。それに手なら、もう既に打ってある」

「どういう事にござる?」

信玄坊主が、何かを言いかけた時、正将が急に立ち上がり

「皆の者! 明日、全てを決めるっ!」

と言い放った。

「明日の未明。敵本陣に総攻撃をかける」

「と、殿……一体どうなされたのですか?」

突然の正将の行動に、圭介は慌てて聞いた。

「敵にあのような大砲がある以上、もはや篭城は無意味。座して滅ぶよりは、出でて活路を求めん」

「ですが、敵も十分に備えておりましょう。危険ではございませぬか?」

敵の指揮官は、百戦練磨の正勝と忠義である。当然、万全の備えをしているだろう。

「心配は要らぬ。すでに長間忠義は、内乱鎮圧の為陣中にいない。しかも、敵陣内の反乱分子を、信玄坊が説き伏せた」

圭介は、驚いて信玄坊主を見た。なぜなら、今までの謀略はすべて、信玄坊主が圭介を通して、行なっていたからである。信玄坊主には、単独で動きまわれる程の、地位も権力も無い。

「しかし、殿。たとえ、長間忠義が十万の兵を率い、戦線を離れたとしても、敵の兵力はまだ、四十万ござる。少々の内応では、意味を成しませんぞ」

「寝返る兵力が、大砲二十門部隊でもか?」

居並ぶ諸将が、一様に緊張した面持ちを、正将に向けた。

もしあの大砲を、敵陣に撃ち込む事ができれば、旗のある所、どこへ撃ち込んでも、多大な打撃を与えるだろう。

「しかし、あの砲は、長間忠義の側近中の側近と、帝国一の精鋭部隊が、守っておりまする。そうたやすく、篭絡できるとは、思えませぬが……」

忠義は部下にはまめな男で、側近達には神のように、敬れていた。帝国精鋭部隊は、言うまでもなく、葉堵近衛兵の中から厳選された者達である。忠義心も高い。裏切る要素は、無いように思えた。

「帝国軍とて、一枚岩ではない。付け入る隙は、いくらでもある。わしを信じよ」

「は……はっ!」

釈然としない思いで、圭介はうなずいた。

「うむ……圭介。明日の先陣は、お前に頼むぞ」

その時ふと、圭介の頭に、ある疑惑が、通り過ぎた。が、それは、形になる事無く消え去った。

「では、これより、陣割を発表する」

正将の低い声が、諸将に覇気を取り戻させた。

長い軍議が終わり、準備に慌ただしい最中、正将は智代を呼んだ。

そして、彼女の顔を見るなり

「そなたは、これより頼りになる重臣を連れて、伊予へ帰るのじゃ」

と言った。

言われた智代は、一瞬、正将が何を言っているのかわからず

「は?」

と呆けた声を出した。

「今日より、そなたとの縁を切る。もはや、わしらは夫婦でも何でもない」

その言葉は、智代に認識されるまで、しばしの時間を要した。

「殿。何をおっしゃっているのです? ご冗談は、お止めくださいませ」

智代は、訴えるように正将を見た。

「殿。……智が殿の興を削ぐような事を、何かいたしましたか? わたくしに、できる事なら、何でもおっしゃってくださいませ。何が、お気に召されないのでございまするか? 性格? それとも容姿? 殿……何かおっしゃってくださいませ」

しかし、正将は黙って夜空を見、智代の前から立ち去ろうとした。

その正将に智代は、追いすがった。

正将は、袖を引くその智代を乱暴に払いのけ

「くどいっ!」

と怒鳴りつけて去った。

そして、すぐさま部下に命じ、智代を伊予行きの船に乗せるように命じた。

智代は、その指示におとなしく従った。しかし、その瞳には、涙が溢れていた。


『決戦、長良平野』


東の山に太陽が顔を出し始めた頃、正将軍は一斉に要塞から打って出た。それに対し、帝国軍も備えをしてあった。

草原に銅鑼が鳴り響き、たちまち野に人がうごめいた。

そして先鋒の圭介が、帝国軍と接触した。

錐を揉むように突き進む圭介軍は、帝国軍を押しまくった。その最中、圭介は帝国軍の大砲を見た。

重々しい大砲は、沈黙している。

突如、真横から数千の鉄砲が放たれた。

バタバタと倒れる圭介軍。圭介は怯む部下を叱咤し、単騎、鉄砲隊に突撃した。後れまじと、部下達が後に続く。鉄砲隊は、慌てて鉄砲を投げ捨て壊走した。

かわりに圭介の背後を、騎馬兵が突いた。

兵をまとめ、きびすを返す圭介。今度は、手当たり次第に敵をなぎ倒していった。

圭介軍は強かった。しかし、雲霞の如く押し寄せる帝国軍に、次第に包囲され始めた。

圭介は戦況を把握しようと、一人丘の上に昇った。すでに正将軍は、あちらこちらで分断され、大海に浮かぶ浮き島のように、ぽつりぽつりと旗印が見えるだけであった。

寝返る予定である大砲を見る。しかし、大砲は依然として沈黙していた。

(……やはり寝返らぬか)

正将がいる本陣を見た。本陣もすでに包囲され、苦境に陥っている。

(……殿)

圭介は死を覚悟した。その心の中は、正将に対する恨みも、後悔も無かった。

槍を高々と天にかざし叫んだ。

「鬼将軍、二藤部圭蔵の子、圭介。義のため見事、殉してくれるわ。皆の者、我に続けっ!」

帝国軍本陣の旗めがけて、我武者羅に突き進んだ。

突然の勢いに慌てた帝国軍が、本陣を守るべく幾多の防衛線をつくった。しかし、その防衛線は、火のような勢いの圭介軍に、次々と破られていった。

死を覚悟した圭介軍は、まさに死神の集団であった。十五ある防衛線の、十三まで打ち破られた時には、さすがの正勝も、采配を落とし戦慄した。

しかし、ここで沈黙していた帝国軍の大砲が、火を噴いた。

大砲の炸裂弾が、圭介軍に降り注いだ。多くの帝国兵と共に、次々と圭介軍は倒されていった。

圭介も馬が被弾し、地面に転げ落とされた。が、衝撃でくじいた右足を、引き摺りながらも圭介は、敵本陣めがけて進んだ。

大地を揺るがすほどの衝撃と共に、数え切れぬほどの炸裂弾が降り注ぐ。大きな鉄片が、すでに感覚の無い左足に突き刺さり、靭帯を切断した。

立つ事もできなくなった。それでも地面をはうように、敵陣を目指した。が、それも限界が近づいていた。

おびただしい出血と、激しい痛みが意識を奪い去ろうとしていた。

(ああ……)

圭介は最後の力で、空を見た。

青いはずの空が赤く見えた。

意識はゆっくりと、しかし確実に圭介の中から消えていった。


勝敗は決した。辛うじて要塞へと逃げ延びた将兵達も、津波の如く押し寄せる帝国軍に、たちまち飲み込まれていった。

要塞内の陣所に次々と火がかけられた。紅蓮の炎は、たちまち諸施設を飲み込んだ。

赤々と燃える要塞を見た正勝は、勝利を確信し、城内に入るべく進軍を開始した。

とその時、背後から土埃を上げて迫る一軍が見えた。正勝は、その軍に向かって偵察隊を出すと、それは反乱鎮圧に向かった忠義の軍であった。

「はて……?」

不思議な事に忠義軍は、大きく横に広がり、敵を包囲する為の陣をしいていた。

とても、行軍をする為の陣ではない、と正勝は首をかしげた。

その刹那、激しい爆音と共に、大地が揺れた。

要塞内で大爆発が起こったのだ。爆風に多くの帝国兵が、成す術も無く、飲み込まれていった。

間髪入れずに今度は、帝国軍の大砲が火を噴いた。あろう事に、炸裂弾が正勝の本陣に降り注いだ。

その音に驚いた馬が、激しくいななき、勝手に駆け出した。正勝もその例外ではなかった。しかし、それを阻んだ者がいた。

忠義軍である。

忠義軍が、槍を前に突き出しながら、正勝軍に突撃を開始した。同時に大砲の警護に当たっていた、精鋭部隊が、正勝軍の背後を突くように、包囲陣をしいた。

「おのれ忠義……」

正勝は、唇を強く噛み締めた。

忠義軍が、容赦なく正勝軍の将兵を討ち取る。

正勝を護る者達は、次第次第に数を減らし、ついには、正勝と以下数人になった。

そこで忠義は兵を止め、側近を従えて正勝の前に姿を現した。

「惨めな姿でございますな、皇帝閣下」

「忠義、貴様……」

正勝は忠義の姿を見ると、怒りをあらわにした。肩の槍傷から、血が勢いよく溢れ出た。

そんな正勝を、忠義は冷ややかな目で見

「まあ、そうお怒りなさりますな。閣下とて、以前このような形で、二藤部圭蔵を討ち取りなされたで、ございましょう」

「誰のおかげで、今の貴様の地位が、あると思っているのだ。すべてわしが、目をかけたからではないかっ! この裏切り者めっ!」

忠義は「くくっ」と馬鹿にしたように笑い

「私がいなければ、閣下は、兄を追い出した、薄汚い田舎大名で、一生を終えたのではござらんか? よく自分の立場を、考えなされ。閣下は、私に操られた人形に過ぎぬのですよ。まあ、もうすぐ本当の人形になってもらいますがね」

忠義が手を挙げた。鉄砲隊が一斉に、正勝達に銃口を向けた。

「何か、言い残す事は?」

すでに正勝は、観念したようであった。首をうな垂れ、しばらく考えていたが

「一族には、手を出さないでくれ」

と言った。忠義は、それには答えず手を振り下ろした。

鉄砲の爆音が辺りに鳴り響いた。


正勝の死によって、帝国軍が混乱し、その大部分が忠義に降伏した。忠義はそれらの兵を総動員させ、ある死体を探させた。

二藤部圭介の遺体である。

しかし相次ぐ砲撃と、混乱によって、形をとどめていた死体はほとんど無く、捜索は難航した。

が、数日後、遺体は思わぬ形で見つかった。

なんと、古井戸の中に放り込まれていたのである。井戸の中は、かなりの冷温であったので、腐敗はほとんどしていなかった。

忠義は、その遺体を丁重に埋葬し、国王を弔うような、豪奢な墓を立てた。

忠義はその墓の前に立ち、合掌した。その姿をすぐ後ろにいた男が、虚ろな目で見ていた。

「せめて、線香の一本でも、お上げなさいましては?」

忠義が男に言う。しかし、男は黙ったまま、何も答えなかった。

風が強く吹いた。その時、男の戦袍が激しくなびき、伊予国の家紋が見えた。

忠義は、それをちらりと見てから

「ではそろそろ参りましょうか。恐らく諸将も新帝の登場を、首を長くして待っている事にございましょう」

「……うむ」

男は、それだけ行って歩き出した。

その先には、天にも届かんばかりの大きな高台と、地を埋め尽くすほどの人間がいた。

男が高台に昇ると、途端、歓声が沸き起こった。

「正将様、万歳! 神帝様、万歳!」

今一つの歴史が、終わりを告げた。


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