恋心
なんだかんだ言いながらルチアは旅支度を手伝ってくれた。
あまりにもとんとん拍子に話が進むことにコウタは驚きつつ、
「野宿の仕方とか、カイゼリオンのこととかもっと教えてよ」
と冷静にアドバイスを求めたので、それから五日ほどかけてカイゼリオンの操縦方法やメンテナンスの方法、テントの張り方や火のおこし方などの旅の仕方を教わり、それでも足りない、細かい部分はメモにまとめて貰った。
そして五日目の夜。
あらかた準備を終えてコウタは二番風呂に入り、長かった一日の疲れを取っている。
龍族に毎日風呂に入る習慣は無いので、レニーシャたちはルチアと他愛ない話で盛り上がっていた。
その時間を使って、ベラートはレニーシャとルチアを自室に呼んだ。
入り口の正面に小さな文机と、右側に白百合の一輪挿しを前にした掛け軸が小さな床の間に飾られている。掛け軸に描かれているのは滝登りをする鯉だ。
ふたりを出迎えて座らせると、ベラートも正座し、深々と頭を下げた。
「まずは礼を言わせてくだされ」
「そんな。あたしたちこそ、コウタロウさんに負担を強いるのです。お礼なんて……」
「いえ。おふたりの助力がなければ、コウタはどうなっていたか、分かりません」
「あ、あたしは無我夢中でした。もう一度同じ事をやれ、と言われても、出来るとは思えません」
ふふ、と後ろでミィシャが小さく笑う。
「おふたりともそれぐらいで」
あ、とふたりは照れ笑いを浮かべ、こほん、とベラートが咳払いをして空気を変えた。
「おふたりをお呼び立てしたのは他でもない。コウタのことです」
はい、と頷くレニーシャ。
「コウタは、両親の愛情を知らずにワシとルチアの手で育ちました。あれが物心つく以前に喪いましてな。実際ジェーナもどれだけ覚えているかも、あやしいぐらいです」
なんと言えばいいのか分からず、レニーシャは曖昧に頷いた。
「それ故に、我を殺し、ワガママを言わず、無理にいい子で居ようとします。そんな者が保護者の目を離れればきっとタガが外れ、ご不便やご迷惑をかけるでしょう」
それは杞憂だとレニーシャは思う。だって彼はあんなに純粋で素直なのに。
それを口に出来なかったのは、ベラートの表情が不安一色で塗りつぶされていたから。
「ワシが龍族の方々にお願いができるような立場に無いことぐらい、重々承知しております。ですが、それでも、コウタの無事だけは願い、祈らずには居られないのです。どうか、コウタロウを見捨てないでやってください」
深く深く頭を下げるベラート。
慌てるのはレニーシャだ。
膝立ちではしたなく音を立てながらベラートに駆け寄り、肩にそっと手を置く。
「頭を、頭を上げてください。ベラートさんはなにも間違ったことはしていません。あの戦争はベラートさんでなければ、和議にはしなかったと父は申しておりました」
それでもベラートは頭を上げない。
困り果ててレニーシャはただ懇願するしかなかった。
「お願いです。あたしはベラートさんに頭を下げられるようなものではありません」
それでも頭を下げたままのベラートに、レニーシャはミィシャに助けを求める。
こくりと頷いてミィシャは静かに言う。
「ベラートさま。その点に関しては心配ご無用かと」
「どういうことです?」
「お嬢が、ベラートさまを直接訪ねず、コウタロウさんを介したことを考えていただければ、自ずと分かるかと」
顔を上げ、まじまじとレニーシャを見る。
どんどんどんどん顔が赤くなっていく。
「……そう、なのですか?」
唇をぷるぷると噛みしめ、火が付きそうなほどに顔が赤くなった頃、絞り出すように。
「……コウタには、言わないでください……っ」
先ほどまでの不安に満ちた表情と打って変わって、ベラートはからからと大きく笑う。
「そうかそうか。ならばこれ以上の野暮は言いますまい。なにとぞ、よろしくお願いしますぞ。なんなら、旅が終わった後でも末永いお付き合いがあれば、この老いぼれも眼福というものですがの」
「は、はいっ」
*
まだ陽も昇りきっていない頃、三人とふたりはフォーゼンレイム邸の門の前に居た。
「じゃあ、試してみましょう」
ミィシャの提案にコウタは星帝丸を抜き、レニーシャは髪を一本抜いてコウタに渡す。
「でも、髪の毛で大丈夫ですか?」
レニーシャからの何気ない問いにコウタは首を振る。
「これでダメだったらお願いするよ」
ん、と頷くのを待って、コウタはレニーシャの髪を鍔に括り付けて高く掲げた。
「答えて、星帝丸」
小さく、だがくっきりと口にすると、星帝丸に組み込まれた魔素が反応し、赤く輝く。光はやがて刀身全体に広がり、そのまま切っ先に集まると一条の光となって天に突き進み、ある高さで止まる。
あれ、とコウタが首を傾げた直後、くい、と折れ曲がり、眼前に広がる農場地帯を越え、その先に望むエスタ山脈に向かって伸びていった。
「わ、……ほんとだったんだ。あ、疑ってたわけじゃないです。こいつにそんな能力があったんだなって思って」
「いえ。わたしも見間違いだったら、と内心冷や冷やしていましたから」
言って上品に微笑む姿に、どくん、と一拍だけ心臓が高鳴った。
後ろでレニーシャに睨まれているとも知らずに。
星帝丸を鞘に収めて腰に差し、脇に置いた荷物に手を掛ける。かつてベラートが使った大型のリュックサックには数日分の着替えと食料、傷薬や胃薬などの薬剤。野営用のテントと調理器具などが詰め込んである。
リュックの右脇にはベラートから譲り受けた木刀が差してある。どんな土地に行っても稽古だけは欠かすでないぞ、と釘も刺された。
よいしょ、と担いで数歩進んで、ふらつかずにちゃんと歩けることを確かめる。が、リュック全体の重量は肩ひもが食い込むほどに至ったので間にタオルを挟んで痛みを抑えることにした。
辛ければいつでも代わりますから。とミィシャが申し出てくれたのは正直助かった。龍族の筋力は人の数倍はある。この程度の荷物なら軽々と運べてしまうほどに。
レニーシャたちも自分の着替えなどを詰めたザックを背負う。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけるのよ」
「うん」
「しっかりな。お嬢さん方を困らせるで無いぞ」
「分かってるよ」
困ったように笑うと、ルチアがレニーシャとミィシャに抱きつき、なにか囁く。小さくてコウタには聞こえなかったが、三人とも真剣な表情だったので特に気に留めることは無かった。
「よいかコウタ。純星流は受け入れる剣術。それだけは心に留めておくのじゃぞ」
何回も何回も、うんざりするほどに聞いた小言だった。なのに、旅立ちの前だからだろうか、初めて聞いた時以上に心に染みていった。
「ありがとう。おじい、ルチアさん、行ってきます」
深く頭を下げ、上げた表情は晴れやかだった。
「良い顔じゃ。その笑顔忘れずに無事、ジェーナも連れて帰って来るのじゃぞ」
「うん」
最後にもう一度会釈してコウタは歩き出す。レニーシャたちもお辞儀をしてコウタに続く。
「い、行ってきます!」
「お世話になりました」
ルチアは手を振って答える。目元に光る物を浮かべながら。
「おじいもルチアさんも元気で!」
急に振り返って言うものだから、ルチアはついに泣き崩れてしまった。
「ばかもん。今生の別れでもあるまいに」
ベラートの呟きは風に巻かれて消えた。
同時にコウタたちの姿も高く茂る果樹園に隠れて消えた。
少年の旅立ちは、いつだって唐突。そんなことをルチアは思っていた。