ジェーナ
コウタの家はカルボン・シティの郊外にある。静かなのはいいけど、お買い物が大変なのよ、と伯母のルチアはよく零している。
フォーゼンレイム家の食費の大半を担うコウタは、その申し訳なさもあってよく買い物を手伝っているが、確かにこの距離を女性ひとりで往復するのは大変だろうと思う。
三人暮らしには大仰すぎるほどの豪邸を前に、レニーシャはどこか緊張しているようだった。ベラートの経歴を知っていても、いまの彼がただの好々爺でしかなくても、龍族と彼との間には浅からぬ因縁があるのだから。
巨大な門を潜り、うんざりするほど遠い玄関まで歩く。後ろでレニーシャが、「本当に木と紙で出来てるんですね」と感心している。
龍族の家は石造りが大半で、ここカルボン・シティでもこんな造りの家はフォーゼンレイム邸だけなので余計に珍しいのだろう。
「おじいの生まれ故郷はみんなこういう造りみたいです。床に敷く畳も、わざわざそこから取り寄せた、って言ってました」
どこか誇らしげなコウタを先頭に玄関まで到着すると、ゆっくりと引き戸を開けてコウタは少し大きな声で言う。
「ただいまーっ」
ややあって、ぱたぱたと軽いスリッパの音が聞こえてきた。
「おかえりなさい。お疲れ様。闘戦場、大変だったみたいね」
細く緩く垂れたまなじりと、柔らかな声。腰屏風の向こうでエプロンで手を拭きながら出迎えたのはコウタの伯母、ルチアだ。
「うん。でも怪我とかは龍族のひとが治してくれたから」
コウタの強がりに微笑みで返し、レニーシャたちに視線を向ける。
「それより、お客様?」
「うん。えっと、レニーシャさんとミィシャさん。おじいに会いたいって」
思わぬ用件に目を丸くするルチア。
「あらあら。お父さんも隅に置けないわね」
言いながらぱたぱたとスリッパを鳴らしながら屋敷の奥へ走っていく。
「お父さーん、お客様よー」
取り残されてしまった三人は、なんとなく顔を見合わせ、ややあってコウタが切り出す。
「まあいいや、あがってください。あ、靴は脱いでくださいね」
ひとり靴を脱いで、よいしょ、と土間から上がって来客用のスリッパを用意していると、
「ならん。コウタ、そのふたりを上げてはならんぞ」
奥から鋭い眼差しを携えた老人がゆっくりと姿を見せた。
「おじい?」
コウタの疑問には答えず、ベラートはミィシャに視線を向け、低く言う。
「すまんが、後ろのお嬢さん」
「はい」
「その深く被ったフードの下には、ふた目と見れない傷でもあるのですかな?」
「いえ、そんなものは」
「ならば、それを取ってもらえるかの。ワシは嘘や隠し事の類が大嫌いでの」
「あ、あのっ、ミィシャは龍の力が強くて、ひとに変化してても顔にも鱗が……」
そこまで言って、はっと振り返るレニーシャ。だいじょうぶですよ、とミィシャが小さく頷く。
「失礼しました、ベラートさま。街中では人族の方々を驚かせてはいけない、と隠しておりました」
深く頭を下げるミィシャ。突如ベラートがからからと大声で笑い出し、ふたりは呆気にとられてしまう。
「なぁにそんなことを。ワシやこの街の住人がいまさらそんなことで驚いたり、まして罵倒なぞする愚か者がおるものか。のう、コウタ、ルチア」
「そうですよ。ぼくも試合では随分お世話になってますし、月に一回は酔っぱらった龍族のひとが龍の姿で暴れてるんですから。ね、ルチアさん」
いつの間にか戻っていたルチアに声をかけると、右頬に手を当てて首を傾げ、どこか困った様子でこう返した。
「ええ。私もこの前、顔見知りの龍族の方からプロポーズを受けましたもの。……丁重にお断りしましたから安心してくださいお父さん」
そ、そうか。と胸をなで下ろすベラート。
「ああ、勘違いなさらぬようにな。龍族であっても人族であっても魔族であっても、ワシやコウタへの挨拶も無しにいきなり求婚するような輩に大切な娘をやれぬ、と言う意味なのですから」
言ってまたからからと笑う。
「ささ、フードでは暑いでしょう。ぱぁっと外しなされ」
「で、では、失礼します」
やや緊張した様子でふぁさ、と外す。赤い髪が流麗に流れ、額と頬には紅鋼玉をちりばめたかのように赤い鱗が並び、耳の先端は尖り気味。左右のこめかみから伸びる一対の角は小振りで、亜麻色に艶めいている。
「ふむ。なかなか勇ましくて麗しい面じゃの。隠す必要は無かろうに」
「ほ、本当、ですか……?」
「先ほどワシがなんと言うたか、もう忘れたか?」
つい、と視線を隠す仕草すら美しい。
「……その横顔、少し見覚えがあるの。アラビーシャの娘か?」
「はい。ベラートさまによろしく、と言付かっております」
「そうか。かの一族は酒豪揃いじゃからの。どうじゃ。あとで一献」
「わ、わたしでよろしければ」
恥ずかしそうに会釈する姿に、ベラートの目尻がまた一段階下がる。
「こんな美人さんに酌をしてもらえるなら、我が家の酒器も喜ぶじゃろうて」
かかか、と笑うベラートの横ではコウタがミィシャに見惚れ、そんな彼にレニーシャが小さく唇を尖らせていたことを、当のコウタは知る由もなかった。
男たちがこれ以上鼻の下を伸ばす前にルチアがぱん、と手を叩いてふたりを現実に引き戻した。
「さ、立ち話もなんです。おふたりとも上がってくださいな。いまお茶を用意しますから。コウタ、客間にご案内して」
「うん。こっちだよ」
まずレニーシャの、次いでミィシャの手をとって優しく引き寄せる。
「お、おじゃまします」
「失礼、します」
美髭を撫でながら、うむ、と満足そうにベラートは頷いていた。
*
ふたりを通した客間は畳張りの、広く涼やかな部屋だった。部屋の中央には黒の長机が鎮座し、縁側を背にレニーシャとミィシャが、反対側にコウタとベラートが座った。
長机の真ん中には、木製の器に整然と盛り付けられた茶菓子が置かれ、四人それぞれの前の緑茶は柔らかな湯気を昇らせている。
時折鳴り響く鹿威しの音にミィシャが小さく驚いている隣で、レニーシャが真剣に事情を説明している。内容はコウタに語ったものと同じ。なのでコウタは少し退屈そうだ。
「……ふむ。そちらの事情は分かった」
ずず、と少し温くなった茶をすすり、右横に座るコウタに視線を向ける。
「コウタ」
「なに?」
「闘戦場に現れた黒いガウディウムのことはワシも聞いた。見事じゃった、とも聞いておる」
唐突に話題が変わってコウタは少し戸惑う。
「……うん。それがどうしたの?」
「分からぬならいい。それよりも、じゃ」
そこで言葉を切って、ず、と茶をひと口すすって、ふう、と息を吐いてレニーシャたちの背後に広がる庭と空を見つめ、ゆっくりとコウタに告げた。
「レニーシャさんたちと旅をしてこい」
「な、なんで!」
「男子十三は元服の年齢。純星流はそのとき武者修行の旅に出るのが慣わしなのは、コウタも知っておるじゃろ」
「う、うん。でもいまは学校とかがあるから、闘戦場の試合に出ることで代用してるんでしょ。……でも、さ」
コウタの瞳が映すのは、この場に居る誰でも無かった。
「ジェーナのことか」
弱々しく頷くコウタ。
それは、コウタの実の姉。
三年前、彼女が十五才の誕生日を迎えた翌朝、「龍族に稽古を付けてもらいに行く」と書き置きを残してこの家から姿を消した、姉。
あれも剣士じゃからの、とベラートは放任しつつも知り合いの龍族に片っ端から連絡を付け、孫娘を見たらすぐに教えてくれ、と根回しをしたにも関わらず、未だ消息の掴めない、姉。
いつだって楽に勝てるのに、なぜかコウタをライバル視していた、姉。
自分だって姉がいなくなった寂しさを引きずっているのに、この広すぎる家に祖父と伯母だけを残して旅に出るなんて、コウタには出来ない。
「コウタの気持ちも分からぬでは無い。じゃがの。それとこれとは話が別じゃ」
ベラートはいつになく真剣だった。
「でも」
「魔素の枯渇が本当に人族と縁遠いものじゃとコウタ、お主は本気で思うておるのか?」
「だ、だって……!」
「ワシとて、龍族との諍いを止めようと奔走しておった頃は百年後の未来なぞ、微塵も頭には無かった。ただ現状をどうにかしたいと言う思いだけで動いた。結果は当然あの時の理想とは全く違ってはおるが、あれが全くの無意味な行為だとは思っておらん」
ずず、と茶を啜って舌を濡らし、コウタを見据える。
「じゃからコウタ、お主の腹の内にある思い、それに素直にまっすぐ進め。それが許されるのは、むしろ子どもの内だけなのじゃからな」
「……」
それでもコウタは迷う。
具体的な内容はまだ聞いていないが、世界の危機、という言葉が重く全身にのしかかって、軽々しく請け負うことができないのだ。
ただでさえ、龍族との戦争を終わらせたベラートが祖父なのだ。多分姉のジェーナもそうだが、日頃からなにかするたびに「さすがベラートさんの孫」とか「ベラートさんの孫なんだろ」と比較され続けてきた。
迷う理由はもうひとつある。
いっそ家出したい気持ちは物心ついた頃からずっと抱えてきたが、こんな重荷を背負わされての旅立ちはもっとイヤだ、という気持ちも少なからずある。
「コウタロウさん……」
レニーシャが辛そうな目で見つめてくる。やめてほしい。自分はそんな大層な人間じゃないのに―耐えかねて立ち上がろうとした瞬間、
コウタの視線の先、中庭に雷が落ちた。
覚えがあった。
つい先刻、闘戦場に落ちた雷と同じものだと理由もなく感じた。
だとしたら、落ちたあとに出てくるのは、黒いガウディウム。
ではなかった。
黒いガウディウムに酷似した鎧を纏った、長髪の女性だった。
この世の怨嗟を集め、圧し固めたような黒いガウディウム。それを人のサイズまで縮小し、頭部だけは露出して、両耳から鉄紺色の玉の付いたピアスを付け、両肩を頭を、ただだらりと下げた前のめりの姿勢で彼女はそこに立っていた。
「……姉、さん……っ」
間違い無い。
見間違えるものか。
誰がなんと言おうと、あの黒い鎧を着た女性は姉のジェーナだ。
ジェーナは抜き身の刀の柄を握りしめ、ゆっくりと客間を睥睨し、レニーシャに視点を定めると、躊躇無く下から上へ一閃した。
その先に居たのは、レニーシャだった。