憶蝕症
『そこまで! 武器を棄てて投降しなさい!』
やっと、警備用の白いガウディウムが数機、試合場に乱入した。彼らも観客たちの避難誘導を行っていたのだ。
「……っ」
しかし黒いガウディウムは落ちた右腕を拾い上げると、そのまま一足飛びに闘戦場の外へ逃げ、何度も跳躍を繰り返しながら街の外へと消えていった。
「……はぁっ」
緊張の糸がぷっつりと切れたコウタはその場に座り込み、そのまま大の字に倒れてしまう。遠くでイグラードが呼んでいる声が聞こえるが、疲労による睡魔と、どこからか流れてくる龍族の治癒の息の心地よさに抗いきれず、目を閉じてしまった。
せめて剣の礼を言いたかったのだが、それも無理そうだった。
*
「起きたか、坊主」
目を覚ましたそこは、闘戦場に常設されている医務室だった。
脇からの声がイグラードだと気付いてコウタは上体を起こす。ひどく重い。きっとイグラードとの試合で体力も気力も使い果たした後で、あの大立ち回りを演じた影響がまだ残っているのだろう。よくあれだけ動けたと思う。
いくら龍族の治癒の息であっても、体力までは回復できないのだ。
それを察してイグラードも急かすようなことはしない。
その途中で見えた自分のからだからは軽鎧はすべて外され、木刀と共に部屋の隅にきれいに並べられていた。こういうことは前にもあったのでさほど驚くことはなかった。
「えっと、すいません。イグラードさんが運んでくれたんですか?」
「ああ。もう少し筋肉付けろ。軽すぎだぞ。下手にケガさせたら俺がベラートの爺さまにどやされるんだからな」
すいません、と一度苦笑し、表情を引き締めコウタは言う。
「あの、やっぱり」
コウタがなにを言わんとしようとしているのかを察したイグラードが、先んじて言う。
「あ? そのための軽鎧だろうが。俺もこの仕事はじめて長いけどな、誰が相手だろうと力加減をしたことなんか一度も無ぇぞ」
瞳の光や口調から本音だと分かる。
「むしろ、加減してるのは坊主の方じゃねえか、って俺は思うけどな」
「そ、そんなこと……」
ないとは言い切れない。
「ま、俺は坊主の師匠じゃねえから、これ以上は言わねえけどな。最後、見事だったぞ。
それは自身持っていい」
あのガウディウムのことか、と思ったが、なにか引っかかる。
「……あれ?」
「どうした?」
「ぼく、どうやってあのガウディウムを退治したんでしたっけ」
「なんだ。興奮しすぎて忘れたのか」
がはは、と笑いながら説明してくれた。でもやはり記憶はおぼろげだ。特に、彼から剣を借りたあたりから、すっぱりと抜け落ちている。
イグラードの言うように、頭に血が昇りすぎて混乱しているのだと決めつけて疑問を押し込め、ずっと言おうと思っていた礼を口にする。
「イグラードさんが剣を貸してくれたおかげです。ありがとうございます」
「それでも、だ」
真っ正面から褒められてコウタは照れるやら恐縮するやら。
「は、恥ずかしいです……」
自分が勝った相手を褒めるなんて、そうそう出来ることじゃない。
イグラードの器の大きさにコウタは萎縮するばかりだ。
そんなコウタの様子を、がはは、と笑い飛ばすイグラード。
「坊主がもう少しでかけりゃ、これから呑みに誘えるんだが、十三じゃあさすがに気が引けるからな」
言ってまたがはは、と笑う。試合場以外で言葉を交わすのは初めてだから、こういう風に笑うんだ、と新鮮に映った。
「あ、そう言えば試合は?」
「明日に順延になった。試合場もそうだが、街にも少し被害があったからな」
「そうですか……」
「安心しろ。軽いけが人ばかりだ。それに坊主が気に病むことじゃない。誇っていいことだ。……まあ、とにかく今日は養生しろ」
「はい」
「じゃあまた試合でな」
ぱしん、と膝を叩いてゆっくりと立ち上がり、出口へ向かう。
「おおそうだ。剣、抜いてくれて助かった。ぼろっちく見えても、相棒なんでな」
「いえそんな。初めてなのに、すごいしっくり手に馴染みました」
「世辞はよせよ」
しかしまんざらではないようだ。くすぐったそうに身をよじっている。
「ま、なんだ。記憶が無くなる病気とか流行ってるみたいだから気をつけろよ」
「あ、はい」
「じゃあな。お疲れさん」
そう言い残して、そそくさとドアを開ける。
「はいっ」
返事を待って静かにドアを閉め、イグラードは去っていった。
もうひと眠りしようかとも思ったが、すぐに家族のことが脳裏に浮かび、
「んっと、取り敢えずおじいに報告しないと」
前回大会よりも成績は上がったのだから褒めてもらえるかも、と期待しつつベッドから降りて軽鎧と木刀を回収する。
からだを動かしてもどこも痛みを感じないのは、治療してくれた龍族のおかげだろう。イグラードも包帯ひとつ巻いていなかった。すごいな、と思いつつドアを開ける。
控え室に繋がる通路はやや薄暗く、天井も低い。
通路には大会スタッフと、談話を取ろうと待ちかまえていた記者たちがそれぞれ数人。
おそらくイグラードを目当てに待つついでに、自分への取材も行う算段だったのだろう。
なので記者たちには適当なコメントであしらって、スタッフたちに軽い挨拶をしつつ闘戦場を後にする。
「ふう。仕事熱心な記者さんたちだな」
こんな時まで、と半ば呆れ半ば感心しつつ足早に自宅へ向かう。
ひと息ついたら小腹が空いてきた。
闘戦場の外にずらりと並ぶ屋台で何か買っていこうかと思うが、イグラードの話ではそれも無理そうだし、なにより出発前に伯母のルチアがごちそうを用意してますからね、と言っていたのを思い出した。
「よし、我慢しよう」
決意は口にしないとブレる。
家で待ちかまえるごちそうを思い描き、負けたばかりだと言うのに自然と笑みがこぼれてしまう。
足取りも軽い。選手控え室に立ち寄って手早く手荷物もまとめて闘戦場を後にする。
外は思っていたよりも落ち着いていた。
今日の試合が中止になったことで立ち並ぶ露店や屋台は店じまいを始め、子どもたちがその脇で指をくわえてその様子を見つめている。中には売れ残った商品を無料で配る店主もいて微笑ましい。
なにより、月に一度か二度ぐらいの頻度で龍族が酔って暴れたりするこの街では、ガウディウムが街を壊したぐらいでは混乱するに値しないのだろう。
そう思うと気持ちも軽くなる。
「良かった。元気そうで」
胸のつかえが取れたコウタは、屋台をぐるりと見回す。
彼に気付いた店主たちからは、「惜しかったな」とか「最後かっこよかったじゃねえか」などと投げかけられる声に笑顔の会釈で返しつつ帰路についた。
「あ、あの。少し、お話を聞いてもらえますか?」
闘戦場が随分小さくなった頃、そう声をかけてきたのは、フードを深く被った、コウタより少し年上の少女だった。