ティロ
「ティロは、あたしの弟です」
ミィシャが苦しそうに目を伏せたことに、コウタは気付いていない。
「たぶん、ジェーナさんと同じように、記憶を奪われ、別の記憶を植え込まれて利用させられているんだと思います」
「だから、あんなこと訊いたりしたんだ」
そうつぶやいて、コウタはレニーシャの手を取って言う。
「なんで、言ってくれなかったの」
「ティロが行方不明になったのは十年前です。正直、諦めていました」
「だめだよ。そういうことを諦めたら」
「……はい」
また敬語に戻っちゃったな、とショックを受けるコウタ。
「コウタロウさん、龍族は同胞の痛みに感情を動かされることはあっても、死を長く引きずることはありません」
「え」
「ティロ坊がいなくなって、捜索隊も出されました。が、慣例通り三日で打ち切られ、ご両親もそれで葬儀を出しました。……お嬢だけです。十年近く過ぎたいまもティロ坊のことを心配なさっていたのは」
「死は当たり前のこと。お前もはやく踏ん切りを付けろと、出発の日まで言われていました」
それを聞いて思わず出た言葉は、自分でも驚くほど硬く、強い口調だった。
「じゃあ、最初っから弟さんを探す旅だったってこと?」
なんでこんなことを言ったのか分からない。
でもレニーシャは怒ることもせずにまっすぐ答えてくれた。
「それは違います。目的はあくまでも魔素の減少を止めること。ティロに会えたのは本当に僥倖なんです。それだけは、信じてください」
「……ぼくも、言い過ぎた。疑ってごめん」
怒っていない証明に、と笑顔を浮かべるコウタ。
レニーシャは視線を外し、うつむいてしまう。
「コウタの言いたいこととか、やりたいことは、できるだけ尊重したいです。でも、実の姉弟が相手を殺すつもりで戦うのは、やっぱりどうしても、納得できなくて……っ」
唇を噛みしめ、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしてしまうレニーシャ。
「もう。レニーシャが泣かなくてもいいじゃない」
「だって、だって……」
ぽんぽん、と頭を優しく叩いて。
「泣かせてごめん」
「そういう風に、言わないでください……っ」
泣きやまないレニーシャに困り果てていると、ミィシャがレニーシャの背後に回ってそっと耳打ちし、コウタに微笑みかける。
「コウタロウさんは、稽古の支度をなさってはいかがです?」
「あ、はい」
微笑みの奥にしっかりとした怒りを感じ、コウタは足早に小屋を出る。
「……ふぅ」
そしてすぐにドアにもたれ、こん、と後頭部を当てる。
少し、頭を冷やそう。
そのためには稽古だ。
小屋にある木刀を取りに行える雰囲気では無かったので、魔素集めを兼ねた走り込みにしよう。
すぐに決めて軽く屈伸運動をしてから走り出す。
これからどうやって旅を続けていくのかも考えないといけないな、と頭をかきながら。
ジェーナの傷は順調に回復した。
その間にコウタは、姉がどんなところに居たのか、元の賢者からの命令はどんなものだったのか、などを聞き出し、ある決意を固めていた。
夕食後ののんびりとした空気の中、滅多に口を開かないバウドが突然こんなことを口にした。
「これから、どうするつもりだ」
それは暗に、いつまでこの小屋にいるつもりだという意味も含んでいるとコウタは感じ取った。
「姉さんから聞いたんですけど、見えない山に全部の答えがあるんだと思います。だから、行きます」レニーシャを見て、「ぼくひとりでも」
「あ、あたしも、行きます。……置いていかないで」
いまだにレニーシャの表情は晴れないままだ。
だからコウタは強い口調で言った。
「今度ティロってひとが襲って来ても、邪魔とかしないって約束できる?」
「コウタロウさん、それは」
「あのひとはぼくを狙ってる。ぼくはまだ死にたくない。だから全力で戦う。ぼくじゃ手加減が出来ないぐらいの強い相手だって、ミィシャさんなら分かるでしょ?」
ゆっくりと頷くミィシャ。
「でも、でも……」
「あの時は逃げてくれたから良かったけど、あんな風にかばったら、レニーシャが後ろから斬られてた可能性だってあったんだからね」
「だってティロは!」
耐えかねて叫ぶレニーシャを、コウタはまっすぐに受け止める。
「うん。ぼくだってレニーシャの弟さんを斬りたくはないよ。だからさ、ティロってひとも記憶を戻せば、どうにかなると、思う……よ」
語尾が窄んだのはレニーシャが、瞳一杯に涙を溜めて睨み付けていたからで、さらに彼女は怒鳴りつけてきた。
「ばかっ! コウタのばか!」
コウタは苦笑するしかない。
「二回も言わないでよ」
「……でもっ」
「うん。だいじょうぶだよ。イザとなったら生きてるひとを斬るってことを、レニーシャが覚えていてくれれば、ぼくだって無茶はしない」
「約束して、ください。ティロの記憶が戻らないうちに、弟を斬ることはしないって」
彼女がそう返してくることは、コウタでも予想していた。
「それは、難しいよ。記憶を奪われていても、仮に他の誰かから命令されてたとしても、姉さんを惑わしたんだ。直接顔を見たらどうなるか分からないから」
ぐい、と涙を拭って、レニーシャは責める口調で言う。
「じゃあ、いまあたしが寝ているジェーナさんをどうにかしても、コウタは黙って見ていられますか」
強く鋭い、彼女が龍族であると思い出させるには十分な迫力を持ってレニーシャは問い詰めてきた。
「……そうだね。ごめん。レニーシャの弟さんだもんね」
「約束してください」
「……守るように、努力する。ごめん、それ以上は言えない」
互いの思いはただ中空で空回りし、届くことはおそらく永遠に無い。
コウタは剣士であり、レニーシャは姉なのだから。
解決策か、せめて妥協案だけでも、と思考を巡らせるふたりに、ミィシャが重い口を開いた。
「お嬢。コウタロウさんも。わたしが最大限のフォローをします。コウタロウさんが道を踏み外さないよう、お嬢の命が危険にさらされないよう立ち回ります。それでどうでしょうか」
はい、とコウタは頷いたが、レニーシャは無言のままだ。
「わたしが信じられませんか? お嬢」
「……信じてる。けど……」
「では、ティロ坊とコウタロウさんのどちらか一方の命しか救えない、としたら、お嬢はどちらを選びますか?」
口ごもり、上目遣いにコウタを見やり、すぐに視線を下にやって。
しばらくあって上げた顔に曇りも翳りも見えなかった。
「分かった。みんなでティロの記憶を取り戻せばいいだけじゃない。なにもコウタがティロを斬るって決まったわけじゃ無いんだし」
コウタに視線を合わせ、
「ごめん。ワガママ言って、いろいろ困らせて」
「ううん。レニーシャの気持ちも、少しは分かるから」
ありがと、と言って微笑む。
「終わったか?」
すっかり蚊帳の外だったバウドが声をかける。
「あ、ご、ごめんなさい。えっと、いつ出発するか、でしたよね」
ああ、と疲れたように頷くバウド。
「荷物はまとめてあるから……明日、でいい? ふたりとも」
「うん」
「構いませんが、ジェーナさんはどうなさるおつもりですか?」
「んっと、バウドさん」
「構わん。お前たちにも出て行って欲しいわけじゃ無いからな」
「ありがとうございます。ここ、居心地がいいから、姉さんのことが無くてもずっとお邪魔しそうでしたから」
「そうか」
むすり、と笑った。
「じゃあお風呂入ってきます」
「待って。火加減あたしが見るから」
「い、いいよ。温くても」
ひょっとしたら裸を見られるかも知れない、という恥ずかしさでコウタは拒否する。
「やだ。熱々にしてやるんだから」
「怒ってるの? 困らせたから」
ふん、と強く鼻息を鳴らしてコウタを睨み付ける。
「そうよ。あんな思いさせて、コウタもちょっとは痛い目にあえばいいんだから」
言ってそのままドアを開け、ずんずん風呂釜のある方向へ歩いていった。
ぽん、と肩に手を置かれ、振り返るとミィシャが居た。
にこりと笑った瞳の奥に、果てしないほどの恐怖を感じたがもう遅い。
「痛い痛い痛いですっ! ミィシャさんっ!」
みしみしと音を立てる左肩。だが骨を折ろうとしたり、筋肉や骨を怖そうという乱暴な意図は感じない。凄まじく痛いだけだ。
「お嬢を泣かせた罰です」
慰めたり励ましたりしてくる、とか一瞬でも期待したことが間違いだった。
ふと思う。
自分よりずっと強い彼女が護衛に付いているのならば、自分が旅に同行する必要性はどのぐらいあるのだろうか。見えない山を探すだけなら、星帝丸があれば十分なんだし、と。
「反省なさってください。わたしは、お嬢の、ゆ、友人なのですから」
コウタの左肩を開放し、ふぅ、と治癒の息を吹きかける。
コウタは、なんで言い淀んだのだろう、とも思ったけれど、もっと大きな疑問を先にぶつけることにした。
「あの、ミィシャさん」
「なんでしょう」
す、と一度左肩をさすってコウタはミィシャに向き直る。
「なんでレニーシャって、ぼくを……」
そこまで言った直後、ドアが吹き飛んだかと思うほどの勢いで開け放たれた。
「コウタ! お風呂の火、入ったから!」
顔が赤いのは風呂釜の火に炙られたからだろうけど、出て行く前より怒りの度合いが強いのはなぜだろう。
意味が分からないが、女性の怒りを宥める方法はひとつしかない。
「ごめん。いま行くから」
それでもう莫迦な考えは霧散してしまった。
取りあえずいまはしっかりと目的地を目指そう。
レニーシャを守ろう、とあの時決めた気持ちに、嘘や偽りは無いのだから。