ジェーナ
ジェーナ・フォーゼンレイムが、自身に放浪癖があると知ったのは武者修行の旅に出てからだった。
弟の成長はめざましく、このままではいずれあっさりと追い抜かれてしまう。
武者修行の旅に出よう。
半分は日に日に強くなる弟から目をそらすため。
もう半分は言わずもがな。
祖父が龍族と浅からぬ因縁があることは知っていたが、それでも彼らの剣術を会得しなければ、弟に負ける。
純星流の型を棄ててでも。
最初はそう思っていた。
旅暮らしの中、あるいは闘戦場の試合で幾度も降りかかってきた危機を救ってくれたのは、純星流の型だった。
修行の方向性が決まった。
いまのまま、強くなろう。
それで弟に負けるのならば仕方がない。
コウタはきっと世界の誰よりも強くなるのだから。
「そ、そんなことないよ。僕だって負けてばっかりだし」
謙遜しながらコウタがジェーナの語るこれまでの旅路に割り込む。
ベッドに上体を起こしたジェーナは柔らかく微笑みながら、叱るように返す。
「でも、さっきわたしに勝ったじゃない」
「ちゃんとした勝負なら、負けるよ」
「コウちゃんは優しいから」
手加減なんてしないよ、とは言い切れなかった。
決して、姉との実力差を測ってのことではなく、自分の心根の弱さからくるものだとコウタは断じた。
こほん、とミィシャが咳払いして話題を変える。
「ジェーナさん、元の賢者とはどういう存在ですか?」
一度言い難そうに視線を落とし、小さく息を吐いて。
「彼女は、……レニーシャさんによく似た女性です」
レニーシャはただ静かに頷くだけ。
「旅の途中、野営の準備をしているわたしの前にふらりと現れ、わたしから丸い珠のようなものを抜き出しました」
ふいに顔を上げ、コウタを見る。
「その翌日からです。コウちゃんとの記憶が、ティロ君のものとすり替わっていたのは。そのときは少し頭痛を覚えただけで違和感は感じませんでした。野営の後片付けをしているところへティロ君が現れると元の賢者の元へ案内され、彼女へ忠誠を誓うよう、記憶を書き換えられてしまいました」
淡々と語ったジェーナに、レニーシャもミィシャも言葉を失った。
ただコウタだけは冷静に疑問を投げかける。
「ぼくと戦ってた記憶もあるの?」
「うん。そのときのコウちゃんは、顔も知らないただの敵とだけしか認識出来なかったけど」
「あの黒いガウディウムはどうやって手に入れたの?」
「プリンセッサは、わたしが家を出る少し前に光后丸と一緒におじいが。家を出ることなんて、ルチアさんにも話してなかったのに、よ? びっくりしたけど、見抜かれてたのかな、って」
そっか、と頷くのを見て、ミィシャがそっと告げる。
「コウタロウさん、ジェーナさんはお疲れの様子です。事情を訊かれるのは一旦止めた方が良いかと」
「あ、うん。ごめん姉さん。長いこと喋らせて」
「ううん。わたしもコウちゃんと喋れて嬉しかったから」
立ち上がってドアに向かい、そこでふと足を止めてミィシャに振り返り、何気ない口調でコウタは言う。
「あ、そうだ。雲鯨、って聞いたことある?」
「あの子が言ってたような気がする、ってぐらいね。ホントのこと言うとね、記憶を奪われてた頃のことって、あんまりよく覚えて無いの。夢を見てる時みたいだったから」
そっか、とつぶやくコウタの死角で、レニーシャは視線を落とし、ミィシャはその肩にそっと手を置いていた。
レニーシャたちの様子に気づかないまま、コウタは冗談めかして言う。
「また急にいなくならないでよ」
「そんな体力無いから大丈夫よ」
苦笑するジェーナの瞳の奥には確かに疲労の色が滲み出ていた。コウタもようやくそれに気づき、立ち上がる。
「よかった。ありがと。お休みなさい」
「うん。甘えさせてもらうわ」
笑って返してドアを潜る。
ミィシャ、レニーシャの順でドアを潜った。
ジェーナはただじっとレニーシャの後ろ姿を見つめていた。
*
「ねえコウタ」
「なに?」
「怒るかもしれない事訊いてもいい?」
「なにそれ。聞いてみないとわかんないよ」
「んっとさ、お姉さん、なんだよね。ジェーナさんって」
そこまで聞いて、レニーシャが何を言いたいのか分かった。
「家族を攻撃して苦しんだりしないの? ってこと?」
「……うん」
「ウチは剣術やってるでしょ。姉さんとだって何度も稽古してるから」
「だからって」
「レニーシャには、どれだけ説明しても分かってもらえないと思うよ。剣を交えるなら、どんな相手でも殺す気で闘うってことは」
当然のこととして話すコウタに、レニーシャは嫌悪感に近い感情を覚え、反論しようとする。
「剣術においてお嬢は素人です。口出しするのは控えた方が」
後ろからの言葉に驚き、苦しそうにミィシャを見上げながら言う。
「ミィシャも、そうなの? もしあたしが剣を持ってたら、そういう気持ちになるの?」
レニーシャを見つめるミィシャの瞳には深い慈愛があった。
「気構えの問題です。剣術とは相手を効率よく殺すための手段を、合理的に体系化したもの。仮に稽古であっても、稽古であるからこそ、その気持ちは絶対に持っていなければいけません。何者よりも強くなりたいのであれば」
助かります、とコウタが小さく礼を言う。
「今日はぼくがご飯つくるね」
待って、とコウタの裾を引っ張るレニーシャ。
「じゃあ、逆の場合、は? コウタが憶蝕症になって、記憶のちゃんとあるお姉さんと戦うことになったら?」
「姉さんなら、もっとうまくやると思う。ぼくよりずっと強いから」
「でも、もし」
「どれだけ未熟でも、ぼくは剣士だよ。レニーシャ」
突き放すような、笑顔だった。
僅かによろめく。ミィシャが優しく受け止めた。
「お嬢、リビングへ行きましょう」
弱々しく頷くことしか、できなかった。
*
コウタは手早く野菜炒めをつくり、リビングに持ち込んだ。
レニーシャに暗い顔をさせていることに罪悪感はあったが、こればかりはどうしようも出来ないから、と割り切ることにした。
「さ、食べてよ。レニーシャの好きな味にしたから」
「……ありがと」
暗い顔のまま、もたもたと食べ始めるレニーシャ。コウタもぎこちなく食べ始める。実は作っている最中も、レニーシャに言い過ぎたと動揺していた。
そんなふたりの様子を見てミィシャは薄く微笑み、箸を付ける。
バウドは作業場で星帝丸の調整をしている。一日一食で十分だ、と公言しているので呼びに行くことはしない。いつ食べに来てもいいように多めに作ってはあるが。
しばらく無言のまま食事はすすむ。
あれだけ沈んでいたレニーシャの表情が、皿の中身が減るにつれてどんどん明るくなっていく。絶交されたかも、と覚悟していたコウタの表情も柔らかくなる。
ふう、と満足そう吐息を最後にレニーシャの表情から暗さは無くなった。
ゆっくりとコウタに視線を合わせて、できるだけ真剣な表情で。
「ごちそうさま。それと、ごめん。変なこと訊いて。コウタが怒るかも、って予想はしてたんだけど、さ」
「ぼくも言い過ぎたよ。怖い思いさせて、ごめん」
てへへ、と照れ笑いを浮かべるふたり。ミィシャも嬉しそうだ。
ミィシャが食べ終わるのを待って、コウタは皿を下げ、食後の茶を用意する。その香りに惹かれてバウドが姿を見せた。彼も休憩にするつもりだったらしい。
ジェーナ以外の全員が揃ってからコウタは口を開く。
「じゃあ、今度はぼくが訊く番。いいね、レニーシャ」
うん、と真剣な面持ちで頷く。
「あのティロってひとは、レニーシャにとってどういうひとなの?」
違う意味に取られそうな質問だったが、レニーシャは誤解せずに答えてくれた。
「ティロは、あたしの弟です」