時の狭間と白の青年
屋敷の中は、薄暗かった。
灯りはろうそくの小さな光だけで、他には何もない。
(灯りがある、ということは誰かいるのでしょうか…)
フィリアはそのまま真っ直ぐ歩いて、正面にある扉を開いてみる。
「わぁ…」
そこは、図書室のようだった。
円形の部屋で、天井は高く、壁は全て本棚になっている。
そこに隙間なく並べられている本の数々にフィリアは目を輝かせた。
本好きには堪らない光景である。
部屋の中央には、小さな机が置いてある。
随分昔に作られたもののようだが、丁寧に扱われてきたのだろう。
それは淡い飴色の輝きを放っていた。
(すごい…こんな場所があったなんて知りませんでした。誰かの隠れ家とかでしょうか?)
フィリアが物珍し気に辺りを見回していた時。
突然、部屋の空気が変わったような気がして、フィリアは顔を上げた。
「珍しい客だな。」
そして、次に聞こえてきた声に驚いて、フィリアは勢い良く視線をその方向に向ける。
今まで気配を全く感じなかった。
それなのに、その青年は確かに先ほどまで誰もいなかった部屋の、中央にある机に頬杖をついてこちらを見つめていたのだ。
(白い……。)
彼の第一印象を一言で表すなら、白だろうと思った。
フィリアのような白銀ではなく、純粋な純白の髪。
切れ長の瞳は色素の薄い、ブルーグレー。
まずこの国では見ない色の組み合わせだ。
いや、もしかしたらこの世界でもこんな全体的に白い色を持っている人はいないかもしれない。
肌も陶器のように白く、気怠げな表情でこちらを見る青年はその神秘的な容姿故に、妙に妖しい雰囲気を醸し出していた。
(綺麗な人……)
「人間、か。」
「え……?」
不意に青年が呟く。
「人間…捧げられた【花嫁】…。」
形の良い唇から発される言葉は、どうやらフィリアに向けてのものではないようだった。
何の感情も浮かんでいない、冷たい瞳。
それはフィリアに向けられているにも関わらず、どこか遠くを見ているようで。
静かにこちらを見つめるだけの青年。
その様子は、あまりに無機質で。
まるで美しい人形のように見えた。
「あの……」
「お前、どこから入ってきた?」
フィリアは声にかぶせるように問いかけてきた青年に驚いたが、小さな声で答える。
「えっと…ふつうに塔への道を歩いていたら、いつの間にかここに…。」
青年はふ、と瞳を伏せた。
「道から、迷い込んだのか。」
そう呟いて、何かを考え込む。
青年に付き合っていては、いつまでたっても話が進まないと思ったフィリアは、思い切って声を上げた。
「あ、あの。私、フィリア=マキアートと言います。人間の国から来た【花嫁】です。あなたの名前は?あとここは何ですか?」
顔を上げた青年と視線が合って、フィリアはどきりとする。
なぜだろうか。
青年の瞳を見ると、昔、湖を覗いた時のことを思い出す。
どこまでも澄んでいて、透明で。
底の見えない、色。
それが、少し恐ろしいのだ。
何もかも見透かされているような気になってしまう。
今まで出会った人々の中に、青年のような不思議な瞳を持つ人はいなかった。
「俺は、トワ。この屋敷はどの世界にも存在していない。この屋敷はどこにでもあって、どこにもない。」
(……え?)
フィリアには青年、トワの言っていることが残念ながら理解できなかった。
どこにでもあるのに、どこにもない。
全くもって意味不明である。
フィリアがぽかん、としているのを見て、自分の言葉が伝わってないと分かったのだろう。
トワは整った眉を上げ、ため息をついた。
(む…何か感じ悪いです。この人。)
その人をバカにしたような仕草に、フィリアはいらっとする。
儚げな容姿のくせに、何だかとっても性格が悪そうに思えてきた。
「つまり、ここは時の狭間にあるということだ。時計を見てみろ。ここには時間が流れていないだろう。」
トワの指差す方向には、古い時計があった。
その時計を見て、フィリアは首を傾げた。
(あれ…針が動いていないですね。)
「あれは壊れているのではなく、動かないんだ。お前が外から時計をここへ持ち込めば、それもまたあれと同じように針が動かなくなるだろう。」
「では、ここは本当に時間の流れがないということですか?でも、そんな話今まで聞いたことないです…。」
この世界の人々は確かに魔法という、日本人だった頃のフィリアから見ればファンタジーな力を持っているが、それでも時間を操る魔法はこの世界に存在していないはず。
時間、というものは神のみが操ることを許されるものであると、この世界では考えられているのだ。
「それはそうだろう。時の狭間に住んでいる奴なんて俺くらいだろうからな。それにこれは俺ではなく、もっと大きな力を持つ者がやったことだ。」
そんなことが出来る人なんて神くらいだろう、と言いかけてフィリアは息を呑んだ。
トワの表情があまりにも【無】であったからである。
ブルーグレーの瞳は光を無くし、ただただ冷え切っていた。
これ以上聞いてはだめだ、とフィリアは理解する。
人は誰しも聞かれたくないことを、一つや二つ持っているものだ。
これ以上、あれこれ聞くのはマナー違反だろう。
「あの、ではここへはどうやって来るのですか?私は今回、道を歩いていたら突然ここへやってきてしまいましたけれど、次に同じ場所へ行ってもここへ来れるわけではない、ということなのですよね?」
どこにでもあって、どこにもない。
つまり、フィリアが今回ここを見つけたのは偶然ということなのだ。
トワが「迷い込んだ」と言っていたことから考えて、ここへはふつう来ることが出来ないということ。
「ああ、お前の言った通りだ。外からここへ来るには鍵がいる。まあ、たまにお前のように迷い込んでくる奴はいるけれどな。」
そう言って、トワは懐から銀の鍵を取り出してフィリアの方へ見せる。
かちゃり、と鍵とそれに繋がれた鎖が触れ合う音がした。
「これはどこの鍵穴にも入れることが出来る。つまりそこに扉があるのなら、この鍵でどこからでもここへ来ることが出来る、というわけだ。」
そう言った後、トワは無造作に鍵をフィリアの方へ放り投げた。
「えっ⁉︎あ、わ…わっ!」
慌てて鍵をキャッチするフィリアの様子を眺め、トワは小さく笑い声を上げた。
「それをお前にやろう。フィリア=マキアート。またここへ来るといい。」
「へ……ど、どうして。」
フィリアは手の中にある美しい鍵を見つめて、狼狽える。
この鍵はそんな簡単に人に渡していいものではないはずだ。
そもそもフィリアとトワは今日初めて出会ったのに、いきなり屋敷の鍵を渡されても困る。
「まあ、細かいことは気にするな。気が向いたらまた来るといい、と言っているだけだ。次は茶くらいご馳走しよう。」
気づくと、いつの間にか視界は濃いミルクのような白い霧で覆われ始めていた。
(部屋の中なのに、霧……?)
壁に並べられた本もトワが座っていた椅子と机も、だんだん白く霞んでいき……。
真っ白な世界の中で、トワの声だけが響く。
「あとはいつ来るかも分からない終わりを待つだけかと思っていたが…どうやらまだ楽しめそうだ。また会おう、フィリア。」
その声を聞いたのを最後に、フィリアの意識は薄れていった。
『…フィリア。』
名前を呼ばれただけだ。
それなのに、その低く甘い声に。
なぜか泣きたくなるほど胸が痛くなったのは、なぜだろうか。
白銀の少女を元の世界へ送り届け、誰もいなくなった屋敷の図書室で、白の青年は微笑む。
「【花嫁】か…。懐かしい呼び名だ。」
前にその言葉を聞いたのはいつだっただろう。
あれからもう随分、時がたった。
『まあ、【花嫁】といってもほとんどこの国では物扱いだけどね。』
そう言って豪快に笑ったあの人のことを思い出す。
変わった人だった。
いまでも鮮やかに甦る優しい記憶。
今回、フィリアに鍵を渡したのは単なる気まぐれだ。
暇で暇で仕方がなかった時に、タイミング良く現れたため、つい渡してしまっただけ。
正直に言うとほんの少し、期待はある。
自分を楽しませてくれるかもしれない、という。
「まあ…全てはこれから、か…。」
そう、ただの愚か者であったのなら記憶を消すなりすればいい。
何だか面白くなりそうだ、と青年は美しい顔に笑みを浮かべた。