乙女ゲームの世界と青薔薇の洋館
(どうしましょう……)
周りがカナと王子に気を取られているうちに密かに大広間を抜け出したフィリアは、塔への道を早足で歩いていた。
(まさか、ここが乙女ゲームの世界だったなんて……)
人々の視線がカナたちに集まっている時でよかった。
そうでなければ、顔色が見るからに真っ青なフィリアは大広間を出るまでに声をかけられていたことだろう。
あの瞬間、思い出したのは膨大な記憶。
でもそれは、はっきりとしたものではなかった。
前世、フィリアは地球というところの日本という場所で暮らしていた女性であったこと。
住んでいた詳しい場所は思い出せないが、海の見えるところだったような気がする。
家族は、両親に妹。
それから、幼馴染で親友と呼べる人もいた。
前世のフィリアについて思い出せるのはそれだけだ。
家族や前世の自分の名前も、何歳だったのかも、何が原因で死んだのかも、覚えていない。
ただ、ひとつだけはっきりと、この世界が舞台となっていた乙女ゲームのことは思い出せた。
しかしそれも完全なものではない。
記憶に欠陥がある訳ではなく、前世のフィリアも実際にその乙女ゲームをやっていたわけではなかったからだ。
前世のフィリアは親友の人からその乙女ゲームのことを聞かされていただけなのである。
そのため詳しい知識があるわけではない。
だけど前世の親友は随分と熱心にその乙女ゲームをやり、フィリアにその内容を語っていたようで、大まかなストーリーと攻略対象のことは何となく覚えていた。
ヒロインは言うまでもなく、カナ=バリトンである。
それから第一王子 ロベルト=フェノールはメインの攻略対象だったと記憶している。
あとは、騎士や魔術師に貴族の子息たち。
その乙女ゲームは攻略対象が多めだったので話題になったのだと聞かされた。
彼らについては、名前は思い出せないが出会えば自然と分かるだろうとフィリアは思う。
舞台はヴァンパイアの統べる王国。
カルデナ公国で平凡な生活を送っていたカナ=バリトン。
カナは白魔法の使い手だったが、その力を利用されることを怖れた母の言いつけに従って、白魔法の力を隠して暮らしていた。
しかしある時、馬車に跳ねられ大怪我をした子供を助けるためにカナは思わず人前で力を使ってしまう。
それからその話が国に伝わり、カナは呼び出されることになってしまうのである。
そして、カナはそこで告げられる。
『君は【花嫁】に選ばれた。フェノール王国へ行きなさい。』
と。
(ああ…どうして思い出せなかったのでしょう。既視感は幼い頃から感じていたのに……。)
考えてみれば、今日のパーティーでの出来事もイベントにあったような気がする。
第一王子に気に入られたことを妬む令嬢に突き飛ばされるカナに、第一王子が手を差し伸べるシーン。
(…ええ、確かにありました。でも、それより考えなくてはならないのは、私自身のことです。)
そう、重要なのはそこではないのだ。
フィリア=マキアート。
コンスタンティノ王国から来た【花嫁】が、ゲームにも出てきていた。
魔法技能に優れた白銀の髪と空色の瞳を持つ少女。
彼女は友人であり、悪役でもある少女だ。
前半はヒロイン、つまりカナの友達役。
訳も分からずフェノール王国へやって来たカナにフィリアは優しく声をかけて二人は仲良くなる。
それが変わるのは物語の終盤だ。
例の乙女ゲームには、少し変わったキャラクターがいた。
攻略しなければ、悪役となりヒロインたちに危機をもたらすキャラクター。
攻略すれば問題はない。
しかし、攻略せず放っておくと最後にヒロインはたちの敵となってしまうのだ。
詳しい内容は、残念ながら分からない。
そのキャラクターに何が起こり、悪役となってしまうのかも。
でも、とにかくそのキャラクターだけは攻略しておかないと、最後の最後に今までの努力が全て台無しになってしまう可能性があるのだと、前世の親友が言っていた。
そしてフィリアはそのキャラクターが攻略されず、悪役となってしまった時に共に登場する。
悪役の忠実なしもべ、つまり操り人形として。
そう、その時既にフィリアは死んでいる。
魂を抜き取られ、意識のない人形となってしまっているのだ。
フィリアに何が起こったのか、ゲームでは明かされていない。
自分の意思で例のキャラクターに近づいたのか、それとも無理矢理身体を乗っ取られてしまったのか。
だが、ひとつだけ分かっていることがある。
(ええ、ええ。これは間違いなく、死亡フラグですよね…。)
思わず苦笑いが顔に浮かぶ。
フィリアはこのままだと死亡する運命にあるらしい。
これは、何かしら手を打つ必要がありそうである。
(と言っても……問題が、あります。)
先程から、例のキャラクターの名前が出てきていないことから分かるかもしれないが、思い出せないのだ。
例のキャラクターについての情報が。
そういうキャラクターがいたことは、はっきりと思い出せるのに、それ以外は何も分からない。
名前ですら、記憶にないのだ。
(これでは、手の打ちようがないではありませんか…。)
フィリアは途方に暮れて、大きなため息をついた。
これでは記憶が戻ったにも関わらず、フィリアに出来ることはほとんどない。
どうしたものか、と再びため息をつこうとしてフィリアはあることに気がついて、視線を上げた。
フィリアは塔への道を歩いていたはずだった。
しかし、ここは一体どこだろうか。
いつの間にか道を外れていたらしく、フィリアは知らない小道に立っていた。
石畳の道の両脇には見たことのない樹々が立ち並んでいる。
木肌はぼんやりと白っぽく光を放っているように見えて。
空に輝く蒼い月の光が、樹々の間から石畳へ射し込んでいた。
「綺麗……。」
夜も深くなり、ただでさえ暗い中、道も分からず森の中で一人きり。
普通なら恐怖を感じるはずの状況で、フィリアは思わず呟いた。
耳が痛くなるほどの静寂。
時折、遠くで動物の鳴き声がして。
それでも、なぜか怖いとは思わなかった。
目の前に広がる景色があまりにも幻想的で、美しかったのだ。
『そう…ーー…の、奥にはね。ー…がいるの。』
不意に記憶の奥で、かつての親友の声がした。
途切れ途切れの、声。
何か、大事なことを思い出しかけて、でもすぐにそれは遠ざかってしまう。
ぼんやりと淡い光を放つ、小道の先をしばらく眺めて。
ふらり、とフィリアは小道の奥へ向かって歩き出した。
この道の先に何かがある、と妙な確信があった。
それに何となく、行かなければならない気がしたのだ。
視線の先に何かが見えたのは、それから数分後のことだった。
まず見えたのは、咲き誇るたくさんの青い薔薇。
そしてそれらに埋もれるように、洋館がひっそりと佇んでいた。
「こんなところに……。」
建物があるなんて、知らなかった。
誰かの所有物だろうか。
フィリアが塔の周りを散歩した時は、こんな建物はなかったはずだ。
そもそもここが、塔の近くであるのかさえ分からないが。
少なくとも今までに、森の中に洋館があるなんて話は、誰からも聞いたことがない。
洋館の正面まで来ると、門が少し開いているのが見えた。
そっと押してみると、門は鈍い音を立てて動く。
少しの間迷うが、やはり好奇心には勝てなかった。
フィリアはなるべく静かに門を開くと、敷地内へと身体を滑り込ませた。
(薔薇の……いい香り。)
洋館へ続く道を歩きながら、漂ってきた薔薇の香りにフィリアは頬を緩める。
誰かが丁寧に世話をしているのだろう。
青い薔薇。
話に聞いたことはあったが、実際に見るのは初めてだった。
青い薔薇も蒼い月と同じく、この国でしか見られないものだ。
青い薔薇は太陽の光が弱点で、月明かりの下でしか咲かないのだという。
幼い頃、コンスタンティノ王国でサラから青い薔薇の話を聞いた時、フィリアはぜひ一度見てみたい、と願ったものだ。
こんな形でこの国へ来て、青い薔薇を目にすることになるなんて、思ってもみなかったが。
もう一度、青い薔薇を目に焼きつけて、フィリアは洋館に向き直る。
目の前には大きな扉。
その扉も門と同じく、少しだけ隙間が空いていた。
ギィ…
フィリアは扉に手をかけて、開く。
この先へ進めば、何かが分かる。
そんな予感がしていた。