呼ばれた理由と蒼い月
フェノール城の奥に、今ではもう誰からも忘れ去られた塔がある。
塔の名は【スフェーン】。
戦争が終わり初めてこの国へ捧げられた、ある一人の【花嫁】が名付けたらしい。
誰かがその時、その【花嫁】に聞いたという。
『その名に意味は、あるのですか?』
すると彼女は微笑んで言った。
『ええ。私はこの名に、私たち【花嫁】の想いをこめました。意味を知っているのは、私一人ですけれど。私以外の【花嫁】たちの想いをこめて、この塔の名は【スフェーン】とします。』
彼女はとても変わった人だったという。
いきなり知らない国へ連れて来られて、怯えて部屋に引きこもってしまった他の国の【花嫁】たちと違い、積極的に城内を歩き回った変わり者。
いつも笑顔を絶やさなかった明るい人。
そんな彼女は、一人の子供を産んだ直後に体調を悪くして亡くなった。
まだ、二十代半ばだったらしい。
彼女が残したのは、一人の子供と塔に付けられた【スフェーン】という名だけ。
その名の意味を知る者は、もういない。
彼女が亡くなった今、【スフェーン】という名の意味は永遠の謎とされたのだった。
「スフェーンの塔…。やはり変わった名前です。この名にどんな意味がこめられているのか、気になりますね…。」
スフェーンの塔のある一室、そのバルコニーでフィリアは独り言をこぼす。
今日は満月で、灯りがなくともバルコニーは十分に明るかった。
穏やかな風がフィリアの銀を揺らす。
バルコニーの柵にもたれ掛かりながら、フィリアは瞳を閉じた。
頭の中は一気に聞かされた色々なことを詰め込んだせいで、容量オーバー中である。
夜の風は冷たくて、気持ちがいい。
頭上の大きな蒼い月を見上げて、フィリアは息をついた。
『ここから先は、礼儀などは気にせず質問等をしてくださって構いません。
では、話を始めさせていただきます。』
あの後、王に変わり側近が話を始めた。
『まず、皆様にはスフェーンの塔で暮らしていただくことになります。』
【スフェーン】の塔。
そこは代々、人間の【花嫁】たちが暮らす塔であるらしい。
城の結界に加え、塔の周りにはさらに強い結界が張られていて、安全面に心配はないそうだ。
(ああ、なるほど。昔の【花嫁】たちが引きこもるわけです。命の危険がある国で、塔だけが安全だと言われたのだから、そこから出ようなんて思いませんよね。)
フィリアは引きこもった昔の【花嫁】たちの行動に納得がいき、心の中で呟く。
城の中は安全だと聞いても、まだ不安だったのだろう。
例の変わった【花嫁】は違うようだが。
だから彼女たちは二重の結界の中に引きこもり、毎日を過ごしたのだ。
もったいないことだ、とフィリアは思う。
(だって、こんなに広いお城なのです。見て回らないなんて、もったいなさすぎます…。)
…どうやら、フィリアはどちらかというと変わり者の部類に入るようである。
『皆様がするべきことは、王族や有力貴族の後継の方々と関わりを持ち、相性の合う相手を見つけることです。』
『あくまで選択権は王族、貴族の方々にありますが、運が良ければ将来、嫁ぐことも可能でしょう。』
そこで声を上げたのは、マリアだった。
『あの〜、相性の合う、とはどういう意味ですか〜?』
『ああ、それはもちろん血の相性です。』
さらりと帰ってきた答えにフィリアたちは唖然とした。
血の相性…性格や趣味などではなく?
それから話を聞くうちに分かったのは、ヴァンパイアは生物の血を好んで飲むということだった。
血は血でも、知能が高い生物の血が特に美味らしい。
ただの獣の血も飲めないわけではないが、生臭くあまり人気ではない。
つまり、今のところ特にヴァンパイアたちの中で人気なのは人間の血なのである。
ちなみに、ヴァンパイアがヴァンパイアの血を飲むことは出来ないらしい。
ヴァンパイアの血はとにかく不味く、獣の血よりも飲めたものではないという。
『つまり、ヴァンパイアの食事は血であるということか?』
リサが問うと、側近は首を振る。
『いいえ。ヴァンパイアの食事も人間とほとんど変わりません。血は嗜好品です。人間が好む酒と同じようなものです。』
つまりフィリアたちは、この国の王族や有力貴族たちのために贈られた酒、のようなものなのか。
確かにそれなら【花嫁】という言い方は正確ではない。
【生贄】【捧げ物】などがぴったりだ。
自分たちはすでに「物」の扱いなのかもしれない、とフィリアは思った。
『では、なぜ人間の国に求めたのが、何かしらの才能がある少女、なのです?話を聞く限りでは、人間であれば才能がなくても、男であっても、良いように思えますが。』
次に質問したのは、ジュリアだった。
『才能がある者、としたのは知能が高い生物の中でもさらに優秀な才能を持つ者の血が美味だという報告があるからです。』
『また、女性である理由は、今この城にいらっしゃる王族、有力貴族の後継の方々がほとんど男性であるからです。もともと、ヴァンパイアという種族に女が生まれることが少ないのですが。皆様、この城で女性にお会いになっていないでしょう?』
なるほど、確かに今までフィリアは城内で女性の使用人に出会わなかった。
待たされた部屋についていたのが、男だけだったのはそういうわけだったのか。
あのような場に女性の使用人が一人もいないのは、少し不自然だと思っていたのだ。
『以上がこちらからの説明です。何か質問はありますか?』
そこで、フィリアは気になっていたことを質問する。
『では、私から一ついいでしょうか。これから暮らす塔以外、つまり城内に立ち入ることも許可いただけるのでしょうか?私は図書館に興味があるのですが。』
フィリアの問いに答えたのは王であった。
『城内に立ち入ることは許可する。図書館も自由に使って良い。他に学びたいことがあるのならば教師をつけよう。茶会なども自由にして良い。』
『ありがとうございます。』
どうやら役割を果たせば、ある程度の自由は約束されるらしかった。
フィリアは安堵する。
実はフィリアは、かなりの読書好きなのだ。
コンスタンティノ王国にいた頃は、街の図書館に入り浸り、十歳になるまでに全ての本を読破した。
世界最大の王国の、大きなお城の、図書館。
きっと、とんでもなく広いのだろう。
フィリアはまだ見ぬ夢の場所を想像して、胸を躍らせた。
『あの、すみません…。それで、私たちが城外に出られない理由は何なのでしょうか?私たちは命を狙われているのですか?』
思わず自分の世界へ飛んでいたフィリアだが、カナの発言に我に返る。
そうだ、肝心のその話がまだではないか。
【花嫁】の役割が衝撃的ですっかり忘れていた。
『ああ、そうでした。その話ですね。彼らは【血に狂った者たち】と呼ばれています。たまにいるのです。血の味に魅了され、飲まずにはいられなくなる者たちが。人間にとっての酒と同じように、ヴァンパイアにとっての血には中毒性があるものですからね。』
ああ、確かに人間にもいる。
昼間から酒を飲まずにはいられないような人たち。
仕事もせず、酒場で賭け事をやっているのを見かけたことがある。
あれと同じようなもの、ということかとフィリアは思う。
『まあ、それだけならばよかったのですが…。はじめに言っておきます。この国で人間の血は高級品です。一生に一度、口にできれば幸せ、と言えるほどに。』
ざわり、空気が揺れる。
『昔、人間の血の味を知った幸運なヴァンパイアの一人がどうしても、もう一度あの血を飲みたい、という欲求を我慢できなくなり国境付近にいた人間の少女を攫って来たのです。そして彼女の血を全て抜き取り、誘拐を手伝ってくれた仲間と分け合って飲みました。仲間たちもはじめのヴァンパイアと同じく、血の味に魅了され、その行為は密かに何度も繰り返されることになってしまいます。その後、国境付近で人が消える、と人間の国が騒ぎ出したため、国はそれについて調べました。そして見つかったのです。森の中で血を全て抜き取られた人間の死体が、大量に。』
フィリアは息を呑んだ。
読書が好きなフィリアは歴史のこともかなり勉強した。
しかし、今まで読んだ本にそんな話はなかったはずだ。
本当にあったというのか。
昔、そんな事件が実際に。
『信じられないという顔をしていますね。まあ、そうでしょう。これは人間の国は知らないことなのですから。その後、人間の国では神隠しだと言われ、うやむやになったと聞いています。』
『でもどうして、人間の国に言わなかったんですか…?』
『戦争を、起こさないためです。』
『この事件が起こったのは、例の戦争が起こる数十年前。今から数百年前のことです。当時の王は争いごとが嫌いな方でした。この事件の真相が人間の国に伝われば、必ず戦争が起こるだろう。そうしたらたくさんの人が死ぬことになる。王はそうお考えになって、真実を隠すと決めました。
…皮肉なことに、その数十年後、例の戦争が始まってしまったのですが。』
側近は自嘲気味な笑みをこぼした。
フィリアたちは黙ったまま、何も言えなかった。
話の内容が衝撃的すぎたのだ。
『話を戻します。この時事件を起こした者たちは、その後指名手配されましたが捕まりませんでした。しかしそれからも国境付近での誘拐、この国へ来ていた人間の行方不明が時折起こりました。そして必ず、数日後にあの事件と同じような血を抜き取られた人間の死体が見つかることから、彼らが生きていると分かったのです。それから彼らは【血に狂った者たち】と呼ばれるようになりました。』
つまり、フィリアたち人間にとってこの国は危険以外の何ものでもないということか。
城から出ればすぐに彼らに見つかり、血を抜き取られて殺されるのだから。
『ですから、この城から外へは決して出ないようにお願いします。これは皆様の為なのです。』
それから質問等も出なかったため、謁見は終了し、フィリアたちは塔のそれぞれの部屋へと案内されたのだった。
(つまり私たちがやることは王族、貴族と関わり、血を提供し、気に入られるように努力すること。
はあ…まさか【花嫁】が嗜好品扱いとは思いませんでした。まあ、でもとにかく頑張るしかないですね。)
もともとフィリアたちに選択権はない。
【花嫁】に選ばれた以上、フィリアたちはこの環境で生きてゆくしかないのだから。
見上げた月は、透明な煌めきを放つ深い蒼だった。
ブルームーン。
この国でしか見ることのできない蒼い月。
人間の国ではブルームーンを見たら幸せになれる、と言われている。
(どうか私たちを見守っていてください。)
フィリアは夜空に光る蒼い月へ、静かに祈りを捧げたのだった。