◆第一話『聖都メルヴェロンド』
七大王暦一七三五年・十一月七日(ディーザの日)
心地良く、穏やかな風に肌を撫でられる。
すぅっと細く息を吸うと、腹の中がひんやりとした。
空気が澄みきっていなければ、こうまで涼やかな気持ちにはならない。
「やっぱここの空気は別格だな」
ベルリオット・トレスティングは、今しがた飛空船でメルヴェロンド大陸圏内に入った。
眼下に映る野原では、小さな動物たちが自由に駆け回っている。
空には悠々と飛ぶ鳥たち。
それらと一緒に、縦に長く平たいものが浮かんでいた。
フラントト。
メルヴェロンドにしかいない特殊な生き物である。
鳥とは違いアウラの力のみで飛んでいるらしい。
そのためか、《災厄日》が近づくとどこかへ姿をくらますという。
「子どもの頃に来て以来だから、すごく懐かしい感じがするわ」
飛空船には、リズアート・ニール・リヴェティアも乗っていた。
他には、騎士団団長を務めるユング・フォーリングスのみ。
ユングが操縦席、ベルリオットが補助席、リズアートが後部座席に座る形だ。
王城騎士となり任務が大幅に増えた中。
合間を縫って練習し、ベルリオットも飛空船を操縦できるようになった。
しかしまだ完璧とはいえないため、仕方なくユングに操縦してもらっている。
「会議よりは、この大自然を眺めながら会食の方がよっぽど向いていますね」
前方を向いたまま、ユングが言った。
会議。
およそ一ヶ月前、ディザイドリウム大陸が大幅に下降した。
メルザリッテの大陸落下説が現実味を帯びた瞬間だった。
多数の強力なシグルに襲われ、ディザイドリウムの被害は甚大。
これ以上、大陸が落下し続ければ国が確実に崩壊する。
ゆえに、《運命の輪》から《飛翔核》へ注ぐ時間を大幅に前倒しすることで最低高度を引き上げ、一時的な安全を確保。
その間に、ディザイドリウム国民はリヴェティア大陸に移住することとなった。
現在、移住計画は順調に進み、来週にも完了する段階に来ている。
とにもかくにも、このディザイドリウム大陸の一件が大陸落下説を証明するものとなり、各大陸の王も無視できなくなった。
この問題にどう対応するのか。
それを話し合う場が、今回、このメルヴェロンドの地で設けられたわけだ。
「本当はもっと早くに開きたかったんだけどね」
「致し方ないでしょう。王の務めもありますし、なかなか集まる機会は作れませんから」
「おかげでリヴェティアには厳しい日程だったけどね。言い出したのはわたしだからしかたないんだけど」
本日、リヴェティアは《災厄日》である。
時刻は十五時。
リズアートは、リヴェティア大陸に近づいた《運命の輪》から《飛翔核》へアウラを注ぐという王の役目を果たしたあと、すぐに会議の場であるメルヴェロンドに向かって出発したのだ。
顔に疲れがうかがえるのは、きっと気のせいではないだろう。
「そんな中にあって、今回の会議を実現させたのですから。一国民として陛下を尊敬しております」
「わたしもひとりの人間として、生きるために必死なだけよ」
ユングからの賛辞を、リズアートが大したことはないとばかりに流した。
口ではそう言いながら、本当は自分以外の人間のことを考えている。
それがリズアートという人間だということを知っているため、先の言葉は謙遜だとすぐにわかった。
「でも、約千七百年間も行われなかった七大陸王会議が、こんな形で再現されるなんてな」
ベルリオットの何気ない言葉に、リズアートの表情が物憂げなものに変わる。
「過去は希望にあふれた会議だったんでしょうけれど。今回は、きっとそんなものにはならないと思うわ」
「どういうことだよ?」
こちらの問いに、リズアートが目を伏せ、少し考える素振りを見せた。
目を上げると同時、彼女は語り始める。
「《運命の輪》はアウラを補充したあと、リヴェティアから順に各大陸を周っているわけよね。それで《運命の輪》に異変が起きていて、一度に溜められるアウラの量が徐々に減っている、と」
さらに継ぐ。
「そしてディザイドリウム大陸が下降したのは、まわってきた《運命の輪》の中に残されたアウラが少なくて、充分なアウラを《飛翔核》に注ぎ込めなかったから」
「まわってくるまでに、他大陸が《運命の輪》から自大陸の《飛翔核》にアウラを注いでるからだな」
「そう。それはつまり言い返れば、ディザイドリウム以外の大陸が《飛翔核》にアウラを注がなければ、ディザイドリウムは落ちなかった、ということになる」
「それは……っ」
「もちろん、どの大陸だって一度でもその機会を逃せば崩落するわ。だから、せざるを得ない。ただ重要なのはそこではなくて、どの大陸を最後に残すか、それを任意で選べるということよ」
現状、アウラを補充した《運命の輪》は、リヴェティアからファルール、メルヴェロンド、ティゴーグ、ガスペラント、シェトゥーラ、ディザイドリウム大陸の順でまわっている、というのが最有力の見解だ。
つまり、リヴェティアがアウラを《飛翔核》に注ぎ続ければ最後に落ちる大陸となる。
では仮にリヴェティアがアウラの注入を止めたらどうなるか。
当然、次に注ぐ権利を持つファルール大陸が最後に残る。
リヴェティア、ファルールが止めれば、その次に注ぐ権利を持つメルヴェロンドが最後に残る。
そうして高い優先権を持つ大陸が《飛翔核》へのアウラ注入を止めれば、たとえディザイドリウムの次に落ちるとされるシェトゥーラ大陸であっても、最後に残すことができる。
「“最後の大陸”は、ある意味、人類最後の砦として地上に落ちる。だからわたしたちは出来るだけ早く最後の大陸を決めて、移住し、準備をしなければならない」
意志のこもった言葉だった。
それだけで今回の会議にかけるリズアートの想いがうかがえる。
「ねえ、ベルリオット。あなたは、どの大陸が最後まで残っていて欲しい?」
「そりゃ、リヴェティアだろ」
「そう。それがリヴェティアの民として当然の答え。王としても、自分の国が最後に残ってくれた方がいいに決まってる。それに、この絶望的な状況を乗り越えられたとき、最後に残った大陸の王が得られる利権は大きいと思うわ」
「今からあとのことを考えたってしかたないだろ」
「わたしは利権にはあまり興味がないけれど、いかなる状況においてもリーヴェの民が幸せでいられることを優先したいと思ってる。だから、先のことを考えてしまう。他の王にもそういった考えの人は多いと思うわ」
それは王として当然の責務である、ということだろう。
彼女の言うことはもっともで、ベルリオットは意見できなかった。
もちろんそれは王としての考えを肯定するものだ。
シグルへの対応を優先すべきだ、という自分の考えは変わっていない。
「だからおそらく今回の会議は、最後の大陸をどこにするかが焦点になるでしょうね」
「ぎすぎすした感じになりそうだな」
「もう、どろっどろのどろどろよ。それが予想できていたから、エリアスの申し出も許したってわけ。彼女、他の王にかみついちゃいそうだし」
言いながら、リズアートが大げさにため息をついた。
今回、エリアスはリズアートの護衛を自ら辞退し、代わりにベルリオットを護衛に指名した。
ユングもそれを承諾し、今に至る。
しかし腑に落ちない。
リズアートに問い詰められても、エリアスは辞退した理由を一切話さなかったという。
……絶対なにかあるよな。
話してくれるとは思えないが、機会があれば自分も訊いてみよう、とベルリオットは思った。
操縦しながら、ユングが無表情で口を開く。
「陛下。それではわたしが腹を探り合うような会議に向いている、ということにはなりませんか?」
「あら、違うの?」
「困りましたね。これは早々に印象の改善を行いませんと」
ユングの眼鏡が、陽光を受けてきらりと輝いたように見えた。
これまで幾度となく彼の謀にはめられた身としては、思わず邪推してしまいそうだった。
「見えてきたわね」
明るめの声色でリズアートが言った。
まだ距離があるためはっきりとは見えないが、これまでの緑だらけの景色とは違い、青々とした土地が前方に映っていた。
聖都メルヴェロンド。
これから七大陸王会議が行われる場所だ。
◆◇◆◇◆
そろそろ姫様もメルヴェロンドに着いた頃でしょうか……。
エリアス・ログナートは、王都リヴェティアの貴族居住区を訪れていた。
ブーツのかかとをひびかせながら、石畳の上を歩く。
ひと気は少ないが、すれ違う度に注目を浴びる。
あまりいい気はしないが、慣れたものだった。
それら他人の視線を意識の外に追いやり、目的地へと向かう。
今回、リズアートの護衛を辞退したのには理由があった。
モノセロスやそれ以上のシグルが現れたとき、リズアートを自身の力だけで守れる自信がなかった。だから万が一のことも考え、今回の護衛はベルリオットに任せることにしたのだ。
モノセロス五体を同時に屠り、さらには新種のドリアークをも斃した彼ならば、安心してリズアートを任せられる。
今後、シグルとの戦いはさらに激化するだろう。
だが今の自分には力がない。
強大なシグルに対抗できる力がない。
このままでは自分自身も生き残れず、また守りたいものも守れない、と思った。
だから……。
エリアスは、目的地――トレスティング邸に着いた。
玄関前の鐘を鳴らすと、それほど待たずに扉が開けられる。
「エリアス様? どうしたのですか?」
中から姿を現したのは、メルザリッテ・リアン。
トレスティング家のメイドだ。
こちらの真剣な顔を見てか、彼女は目をぱちくりとさせている。
構わずにエリアスは用件を告げる。
「どうか、わたしに稽古をつけてください」
力を得なければならないと思ったとき。
メルザリッテ・リアンの名前が頭に浮かんだ。
人づてに聞いた話だが、グラトリオが引き起こした事件の折、彼女は王都に押し寄せた大量のシグルのほとんどを、たったひとりで退けたという。
しかもその中にはモノセロス十体と、未知のシグルも含まれる。
強くなるには、彼女に教えを乞うしかない。
それが、エリアスの出した答えだった。
メルザリッテが困ったように眉尻を下げる。
「また、ですか……」
言って、体を開いた。
遮られていた家の中が窺えるようになる。
と、奥に見知った人物が立っていた。
独自の赤い騎士服を着込む、小柄な騎士。
リンカ・アシュテッドだ。
「どうしてリンカが?」
そう口に出してから、つい先ほどメルザリッテが「また」と言っていたのを思い出した。
つまり、リンカも同じ用件で訪ねている、ということだ。
「たぶんエリアスと同じ。ベルがいないときじゃないと、なんか教えてもらいにくかったし」
同じだった。
ただ自分の場合はリズアートの護衛もあるため、なかなかその機会を作れない。
だから今回の護衛辞退は、その機会を作るためでもあった。
リンカが、メルザリッテに視線を送る。
「で、今お願い中」
「わたくしではなく、ベル様にお願いする手もあったのでは」
「それは無理です」「なんかいや」
偶然にもリンカと声が重なった。
「どうしてですか?」
「それは……彼は本能的に動いている気がして――」
「あたしはなんか悔しいから」
エリアスが濁そうとした答えを、リンカが繕うことなく発した。
もちろん自分の答えも嘘ではなかったが、そちらの方が端的に今の心情を言い表している。
正直に気持ちを伝えられる彼女が羨ましい、とエリアスは思った。
メルザリッテが苦笑する。
「教えるのは向いていないかもしれませんが、ベル様も色々と考えておられるのですよ」
「あ、いえ。彼を馬鹿にしているわけではなくて」
「わかっています」
こちらの言葉を遮ったメルザリッテが、顔を俯かせた。
はぁ、と短いため息をついたあと、ふたたび面を上げる。
「お二人から頼まれたとあっては、こちらが折れるしかなさそうですね」
「では……!」
「ひとまず場所を移しましょうか」




