◆第七話『反転世界』
本日最後の座学。
室内にひびく教師の声が、ベルリオットには面白いぐらい頭に入ってこなかった。
心なしか背骨が痛い。
きっと慣れない姿勢、背筋を伸ばし続けているからだろう。
それもこれも左隣に座る女生徒のせいだ。
リズアート・ニール・リヴェティア。
つい先ほど教室にやってきては、これから訓練生として一緒に学ぶというのだ。
初めは国王も強く反対していたらしい。
だが護衛にエリアスを伴うことで渋々許してくれた、とリズアートが笑いながら語った。
ちなみにそのエリアスは、ベルリオットのすぐ後ろ辺りで直立不動の構えで訓練生たちに睨みをきかしている。
おかげで室内は涼しい。
下手な真似はできない。
とにかく今まで一度も話したこともない、というか近づくことさえ許されなかった存在が、今、手を伸ばせば届く距離にいる。
それがどれだけの重圧を周囲に与えているのか、この王女殿下は果たして自覚しているのだろうか。
ちらりと隣に目をやると、口元をわずかにつりあげたリズアートが目に入る。
これは確実に自覚している。
自覚した上で楽しんでいる顔だ。
そもそも、この王女は授業をまともに聞いてすらいないのではないか。
というのも、なぜか先ほどからこちらにばかり視線を向けているのだ。
リズアートがどの席に座るか、という問題になったときもそうだ。
彼女は自ら進んでベルリオットの隣の席を指定した。
今思えば、こうしてベルリオットを観察するために隣の席を選んだのではないか、とさえ思う。
「ベル、やっぱりなにかしたんじゃないの?」
小さな声で、リズアートとは反対側に座るナトゥールが訊いてきた。
「んなこと言われても……」
なぜここまでして、リズアートはベルリオットを観察するのか。
理由としては《剣聖》ライジェルの息子だから、としか思い浮かばない。
ただその興味も、教室に来る前、丘陵地帯で会ったことで失ったとベルリオットは思っている。
いや、むしろ失望しただろう。
ライジェルの息子なのに、と。
もっともベルリオットがそう思うだけで、リズアートはまだ満足していないのかもしれない。
期待を持たれても、ベルリオットからしてみればまったくもって迷惑な話である。
とりあえず、早くこの窮屈な環境から抜け出したいと願うばかりだ。
そうベルリオットが思ったとき、鐘が鳴る。
授業の終わりを知らせる合図だ。
「よし、これまで。次は訓練区で演習だ。遅れないようにな」
教壇から教師が退散すると、室内がまた静謐な空気に包まれる。
誰も席をたたない。
原因は言わずともリズアートの存在だ。
誰もが好奇の目を向けているにもかかわらず、リズアートに話しかけたりはしない。
「やっぱり王女って身分を隠していた方がよかったのかしら」
「いや、顔でわかるだろ」
「はぁ~、ほんと王女って面倒」
机に頬杖をつきながら、つまらなそうに愚痴をこぼすその姿からは、とても王女の風格は感じられなかった。
エリアスが慌て、リズアートをたしなめる。
「ひ、姫様。そのようなっ」
「エリアス、訓練校にいるときぐらいはわたしの好きなようにさせて欲しいわ」
「で、ですがわたしも国王様から姫様を任されている身なので……」
「もうっ、そのお堅い性格、なんとかならない? そんなんじゃ男に好かれないわよ?」
「なっ!? わ、わたしは別に男などっ!」
顔を真っ赤に染めたなったエリアスを、リズアートがくすくすと笑う。
しんっとした室内に、彼女たちのやり取りはよくひびく。
と、ベルリオットを挟む形で、恐る恐るといった感じではあるが、ナトゥールが声をかける。
「あ、あのっ!」
「あら、あなたは……。さっきはベルリオットの居場所を教えてくれてありがとう」
先刻、ベルリオットが丘陵地帯にいることをリズアートに教えたのはナトゥールだ。
すでに二人は面識がある。
「えっと、名前は?」
「ナトゥール・トウェイルです。トゥトゥとお呼びください、姫様」
「じゃあ、トゥトゥ。わたし、リズって呼んでってお願いしたはずだけど?」
「あっ、ごめんなさい……。じゃ、じゃあ……リズ……さま」
「うーん、様もどうにかならない? それと、できれば敬語もやめて欲しいわ」
「で、ですが……」
ナトゥールは困惑している。
リヴェティア国民にとって、王族は神に近しい存在として敬われている。
いきなり一般人と同様に扱えと言われたところで、かなりの抵抗があるはずだ。
周囲を見渡す。
他の訓練生はいまだに遠巻きに見ているだけだ。
ただ好奇心には勝てないらしく、近づくタイミングを窺っているように見える。
ため息をつきつつ、ベルリオットは口を開く。
「ナトゥールはこういうやつなんだ。ここはそれで許してやってくれ」
「う~ん……。まあ、仕方ないか」
「というか、あんたは自分の存在がどれだけすごいのかを自覚するべきだな」
「そうです。誰もが皆、この男と同じように無礼極まりない行動ができるとは思わない方がよろしいでしょう。というより、できる方がどうかしています」
ベルリオットを見下ろしながら、エリアスが言った。
たしかにそうかもしれないが……いちいち棘があるな、こいつは。
なにか俺に恨みでもあるのか。
そう心の中で悪態をつくベルリオットだが、あとが怖いので決して口には出さない。
「わかってるわよそれぐらい。でも、やっぱり同年代の友達っていうのは憧れるものなのよ。まあ、いいわ。今はそれで折れてあげる。でも、いつかは、ね?」
「……はいっ」
リズアートの微笑みに、ナトゥールの緊張も解けたようだ。
笑顔で迎えていた。
これまでのやり取りは他の訓練生も見ていたはずだ。
きっとリズアートの親しみやすさを感じ取ったのだろう。
様子をうかがっていた訓練生たちが、リズアートの周りに一気に集まってきた。
彼らに囲まれ、リズアートの姿が見えなくなる。
ベルリオットは席を外した。
教室から出て行こうとすると、エリアスに行く手をふさがれる。
「ありがとうございます」
なぜか軽く頭を下げられた。
「い、いきなりなんだよ?」
「いえ、あなたが無礼な行動を見せることで、他の者が姫様に接しやすくなりました」
「そうなることを見越して、わざと俺がそうして見せた、と?」
「……違うと?」
「買い被り過ぎだ。あいつがそうしろって言ったから、俺は言われるまま普段通りにしてるだけだよ」
「そうですか」
「そうだよ」
言い残し、ベルリオットはエリアスの脇を通り過ぎた。
がやがやと騒がしい教室をあとにする。
群れる、というのがあまり得意ではなかった。
それに、このあとに行われる演習のことを考えると、皆から離れたかった。
外に出ると、また丘陵地帯方面へと足を向ける。
「どこに行くつもりなのかしら?」
後ろ手から、声がかかった。
透き通り、それでいて凛呼としたこの声は聞き覚えがある。
振り返ると、リズアートが仁王立ちしていた。
腰に手を当て、ご立腹の様子である。
「なんであんたがここに」
「あなたがどこかに行こうとしてたから。みんなから聞いたわよ、ベルリオット、あなた授業をサボるつもりでしょう?」
「……」
「今、一瞬だけど目を下に向けたわね。動揺した証拠だわ」
ベルリオットは思わず舌打ちした。
なんとも目ざとい王女様だ。
とはいえ今さら誤魔化しても仕方ない。
肩をすくめ、おざなりに答える。
「あいつら余計なことを……。ああ、そうだよ。俺は今からサボりですよっと。でも、仕方ないだろ? 演習はアウラを使った訓練だ。そして俺はアウラを使えない」
「だからと言って授業に出なくていい理由にはならないわ」
「じゃあ指を加えて見てろとでも言うのか? はっ、ごめんだね。大体、俺のサボりをあんたにとやかく言われる筋合いはないな」
「ええ、ないわね」
「なら――」
「ただわたしが許せないだけよ。それに、たとえアウラを使えなくても、いつかきっと学んだことが力になるはずだわ」
そう答えたかと思うと、リズアートの姿がふっと消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
高速で移動した彼女は、いつのまにかベルリオットの足元にしゃがみこんでいた。
両足を掴まれ、ベルリオットは体勢を後ろに崩してしまった。
背中を地面に打ちつける。
「いってぇ……。お、おい! いきなりなにすんだよっ!」
「なにって、わがままな子どもを訓練区に連れて行くのよ」
「誰が子どもだ! って――」
リズアートの身体を濃い緑色の燐光が包んだ。
背中から溢れ出るアウラが翼を象ると、ふわり、とリズアートの身体が浮く。
当然、リズアートに掴まれているベルリオットも、だ。
一気に加速し、翔ぶ。
「うぉぁあああ――」
足を持たれているため、頭を下に吊るされている状態だった。
いつも見ていた景色が反転していた。
切りつけるような風が顔面に直撃する。
無駄な経路を飛行しているとしか思えない動きで、リズアートは空を翔ぶ。
振り子のように頭を動かし、ベルリオットは暴れる。
が、相手はアウラを使っているのだ。
どれだけ暴れようとも、まったくぐらつかない。
「お、おい放せっ!」
「あら、放してもいいかしら。落ちたら死ぬんじゃない?」
「や、やっぱり放さないでくれっ!」
ふふふ、と楽しそうに笑うリズアートを見ながら、ベルリオットはついに抵抗を諦めた。
どうやら、とんだお姫様に目をつけられてしまったようだ。
これもきっと親父のせいだ。
そうに違いない。
今日このときほど、ライジェルに恨みを向けたときはなかった。