◆第十六話『騎士の背中』
同日夜。
王都西端、アシュテッド邸の自室にて。
リンカ・アシュテッドは出かける準備をしていた。
濃淡様々ではあるが、赤系統の色を持った調度品が多くある広々とした部屋の中。
端に置かれた鏡面台の前に座り、髪を後ろで結い上げていく。
下ろせば背中まであるほどの長い髪だ。
そのままでは戦い辛い。
切ってしまえばいい、と言われたこともあるが、自分自身短い髪は似合わないと思っていた。
だから必要に迫られない限り切るつもりはなかった。
ちなみに出かけるといっても私用ではない。
これから王城の夜間警備の任に就くのである。
王城警護には、最低二人以上の騎士団内序列一桁代の騎士が常駐することになっている。
そのため、騎士団長のユング、女王の護衛を務めるエリアスを除いた序列一桁代の王城騎士が持ち回りで担当していた。
リンカの序列は十位だが、先日の事件の折、一桁代の騎士が数人殺害されたため、必然的に一桁代扱いになっている。
独自の騎士服を許されているのもそのためだ。
髪を結い終えた。
次は唇にルージュを塗り、爪にも化粧を施していく。
爪に塗るのは樹脂を加工したもの。
隣国ファルールでしか造られていない高級品だ。
女性の王城騎士で本格的に化粧をしている人間など自分の他にはいない。
いたとしても、せいぜい軽くルージュを塗ってある程度だ。
これは、どうせ化粧をしたところで激しい戦闘の中ではすぐに落ちてしまうから、という理由が大きい。
まったくもってその通りだが、幼い顔立ちに劣等感を抱く自分にとって化粧は必須だった。
子どもみたいな意地っ張りであるという自覚はある。
それでも他人に舐められたくない思いが勝ってのことだった。
腕を伸ばし、手の平をかざす。
爪化粧を綺麗に塗れた。
まだ乾いていないが王城に着くまでまだ時間がある。
それまでには乾くだろう。
もう一度鏡で顔を確認したとき、左眼の傷跡が目についた。
じっと見つめる。
左手でゆっくりと傷跡をなぞる。
この傷に思うところはない。
騎士を志した時点で傷を負うことぐらい覚悟している。
ただ他人に怖がられたり、痛々しい目で見られるのも嫌だったが、なにより同情されるのが一番嫌だった。
前髪をさっと下ろし、左眼にかかるように整える。
リンカはさっと立ち上がり、部屋から出た。
部屋は二階にあった。
二階には他に三室のみ。
他大陸の貴族の家にしては少ないかもしれない。
だが、敷地の限られた王都リヴェティアは土地がとかく高く、馬鹿でかい屋敷を持つのが難しい。
だからこれでも、リヴェティア内では大きい方に当たるのである。
階段を下りていると、わずかに軋む床の音にまぎれ、一階のリビングから声が聞こえてきた。
リンカは足を止める。
「あなた、やっぱりわたしもう我慢できないわ」
「リンカのことか」
「また大怪我をしてくるんじゃないかっていつもいつも心配で……それにあんな顔じゃ、もうきっと相手だって」
「帝国ならそうした医術に長けた人間がいるかもしれない。伝を当たってみよう。せめて見た目だけでもどうにかできないか……」
「でも、あの子が素直に聞いてくれるかしら……」
両親の声だった。
父の名はトリンド。母はアイシャ。
二人はどうやら、リンカの負った傷について話しているようだった。
余計なお世話だと思った。
そこまでして傷を治すつもりなんてないし、そもそも治せるとは思えない。
第一、その傷を治すための理由が結婚のためと言うのが納得いかなかった。
気分が悪い。
聞かなかった振りをして、そのまま屋敷を出ようと思った。
両親がその言葉を口にするまでは――。
「これも、全部彼のせいよ……」
「まったくだ。本当に余計なことをしてくれたものだよ」
両親の言う“彼”とは、ライジェル・トレスティングのことだ。
リンカにとって彼は命の恩人である。
だからこそ両親の言葉が許せなかった。
体の奥底に生まれた熱が、一瞬で暴発したような感覚に見舞われた。
気づいたときにはリビングに躍り出ていた。
「あの人は関係ないでしょ!」
叫んだ。
黄金色の優しい光が灯る部屋の中、いくつもの華美な調度品が並ぶ。
その内のソファに、隣り合って座る両親が眼を剥いていた。
瀟洒な衣服に身を包んだ彼らは、いかにも貴族といった装いである。
父のトリンドが立ち上がる。
「リンカ……聞いていたのか」
「お父様だってあの人に命を救ってもらったのに、そんな言い方って――」
「もちろん彼には感謝はしている。だが、それでお前が騎士になるとなれば話は別だ」
「あの人に非はないじゃない。あたしが騎士になったのだって、あたしがそうしたいから、なっただけ」
この話は、これまで何十回と繰り返してきたことだった。
だが今回ほどリンカは頭にきたことがない。
トリンドの顔つきが厳しくなる。
「騎士にならなければ、そんな傷を負うこともなかっただろう」
「可愛い娘が傷つくのを黙って見ていられないのよ」
「まだ間に合う。リンカ、今すぐにでも騎士を辞めて――」
「ふざけないで!」
大声を出して、リンカはトリンドの言葉を遮った。
その先を言われるとトリンドのことを嫌いになってしまうかもしれない。
それだけ自分にとって騎士であることは譲れないことだった。
リンカは俯き、右手を胸に当てながら、過去を思い出す。
「あのとき、あたしは騎士になるって誓った。あの人みたいに誰かを護れる立派な騎士になるんだって。そしてこうして騎士になれた。それだけじゃない。リヴェティアが誇る王城騎士にまでなったの」
力がものを言う騎士の訓練校では、貴族の出だからと大きな顔ができるわけではない。
むしろ、なぜ貴族の家の子がいるのかと馬鹿にされた。
幼い顔だからというのも舐められる要因だったのだろう。
一期生のときは馬鹿にされっぱなしだった。
それでも誰よりも訓練して、小柄なりにどう戦えばいいのか、色々悩んで、そうして強くなって。
卒業するときには同期の誰よりも強くなれたのだ。
絶対にあの人みたいになるって、決めたから。
ずっと諦めなかった。
リンカは顔を上げて、トリンドを見据える。
「あたしは騎士を辞める気なんてない」
言うや、振り返った。
「リンカ!」
もう言うことはないと思った。
後ろからトリンドの声が聞こえてきたが、構わずに走り、屋敷を飛び出した。
リンカの持ち場は天空の間だった。
なんでも、近々に王城警備の大幅な見直しをするらしい。
それまでの間、今までは神聖な場ということで騎士を配置することのなかった天空の間を、臨時で一桁代の騎士が担当することになったとのこと。
どうして今になって大幅な見直しをすることになったのか。
それは先日のグラトリオが起こした事件に起因するのだろう。
だがそもそも、王城騎士がわんさかとひしめくこの場所に、潜入する馬鹿がいるとは到底思えなかった。
それでも任務は任務だ。
与えられたことはしっかりとこなさなければならない。
ただ、天空の間はさほど広くないので警備自体は簡単だ。
加えて一番高い場所にあるため、人目につきにくい。
少しぐらい体勢を崩しても誰も気づかないだろう、と決めこんだ。
壁に背を預けて、ずるずると腰を下ろす。
はぁ、とため息をつく。
先ほど屋敷で親と揉めたことが頭から離れなかった。
本当に胸糞が悪かった。
いくら奥歯を噛みしめても、なかなか怒りが収まらない。
やがてあごが疲れてきて、勝手に力が抜けた。
けれどもやもやしたものは胸の中に残ったまま全然晴れてくれない。
自分の親が恥ずかしかった。
娘の安全を想うことは親として当然なのかもしれない。
いや、当然なのだろう。
自分だって、大切にしてもらっているのはわかっている。
だが命の恩人に対して、あの態度はどうかしている。
やりきれない思いがふたたび溢れ出てきそうだった。
憎んでしまいそうになるが、そこまでだ。
それ以上はいかない。
なにがあったとしても自分を生んでくれた親なのだ。
本心から憎むことはできなかった。
だからこそ色々なことを認められないのが悔しくて、悲しかった。
空を見上げる。
満天に輝く星々はどれも綺麗で。
あのときも、こんな風に星が綺麗な夜だった。
今から約十四、五年前のことだろうか。
リンカがまだ五歳の頃。
その日は、母親がファルールの実家に帰っていて父親と二人きりの夜だった。
父親が所有する浮遊島に用事あるとのことで出かけることになったのだが、幼いリンカは屋敷にひとり残るわけにも行かず。
結局、父親と共に出かけることになった。
飛空船に乗って西方へ向かう。
「リンカ、もう少しだからな」
隣から父の声が聞こえてくる。
速度重視型の飛空船に乗っていた。
二列二席ずつの四人乗りだ。
リンカが返事をする。
「うん。でも、今日ってサイヤク日なんでしょ? 大丈夫なの?」
「大丈夫だ。《災厄日》と言っても、外縁部……つまり大陸の外側で、騎士が現れるシグルを全部倒しちゃうからな」
「じゃあ、安心だね」
ああ、とトリンドが頷いた、そのときだった。
視界が揺れた。
全身を強く叩きつけられた感覚ののち、ふたたび強い衝撃に襲われる。
反射的に目を瞑っていたからかもしれない。
一瞬なにが起こったかわからなかった。
ただ、目を開けたとき、リンカは飛空船の外で倒れていた。
目の前にある飛空船は上部硝子が砕けていた。
なにがあったのだろう。
なんだか全身がひりひりする。
ゆっくりを周りを見回す。
「リンカ!」
ふいにトリンドの叫び声が聞こえてきた。
途端、弾けたような感覚とともに周囲の音が鮮明に聞こえてきた。
地鳴りのような重い足音。
音の方へ目をやると、そこには視界全体を覆い尽くすほどの巨大な獣がいた。
真っ黒な体。
実際に見るのは初めてだったが、あれがシグルだとリンカは咄嗟に悟った。
鼻上部から突き出る太い角が、リンカの体を貫かんと猛烈な勢いで迫ってくる。
リンカはただ、漠然と怖いと思った。
これからどうなるかなんて考えられなかった。
眼前に迫るシグル。
瞬間、紫の光が視界に割り込んだ。
轟音と同時、近くまで迫っていたシグルが地面をえぐりながら不恰好に吹っ飛んでいく。
なにが起こったかわからなかった。
そしていつの間にか目の前に男が立っていた。
「もう大丈夫だ、嬢ちゃん。お前は俺が護ってやる」
そう肩越しに告げられた。
大きな背中をした男だった。
纏ったマントには、翼を模った模様が描かれている。
「おじさん、だれ?」
「俺か。俺は……そうだな……どこにでもいる、ただのおっさんだ」
嘘だった。
ただのおっさんどころではなかった。
まるで激流を思わせる動きで濃紫の光を纏い、男は飛翔した。
ふたたび動き出した巨大なシグルの前へと、その身を躍らせる。
瞬時に造りだした剣を片手で持ち、シグルの顎下に潜り込ませる。
全身を捻るようにして振り上げられたその攻撃は、天まで届くのではないかというほどの凄まじい突風を起こした。
顎を抉られたシグルが慟哭する。
静かな夜に、その声はよく響いた。
それでも生気を失わないシグルに男はみたび斬りかかる。
ぶつかっては弾け、またぶつかりにいく。
男の一撃一撃が鈍い音をひびかせる。
荒々しくも洗練されたその一振りは、着実にシグルの身を削っていく。
「リンカ、今のうちだ!」
トリンドが駆け寄ってきた。
リンカは、シグルと戦う男を指差す。
「でも、あのおじさんが……」
「あの人は騎士だ! だからここは彼に任せればいい!」
アウラを纏ったトリンドに抱かれた。
飛翔したトリンドとともに、その場から遠ざかる。
眼下では、先ほどの男が未だシグルと戦っていた。
真っ暗な夜に、いくつもの光の線が描かれては消えていく。
その光景が、幼いリンカにはとても綺麗に思えた。
それから数日後。
自分を襲ったシグルが、防衛線を突破して王都に進行中だった――後にモノセロスと呼ばれることになった凶悪なシグルであったこと。
そして命を救ってくれた男が、後に《剣聖》と謳われることになる、リヴェティア史上最強の騎士ライジェル・トレスティングであることを知った。
あの大きな背中は、今でも忘れられない。
ライジェル・トレスティングは、リンカが騎士を志すきっかけになった尊敬すべき人だ。
だからこそ――。
あの人の子が、ベルリオットであることが許せなかった。
ちょうどこの天空の間の下、王城前庭でのことだ。
現女王誕生祭の折、モノセロス襲撃の記憶が蘇る。
突如、参戦したベルリオットが凄まじい勢いでモノセロスを斃していった。
すごいと思った。
彼がライジェルの子ではあることは有名だったし、リンカも知っていた。
だから心が躍った。
直後だった。
ベルリオットが後ろへ受け流したモノセロスが、ちょうど後ろにいたリンカのもとへ突撃してきたのだ。
いきなりだったため、また流されることを想定していなかったため、リンカは直撃を受けた。
そのときに左眼に傷を負ってしまったのだ。
焼け付くような痛みに悲鳴を上げそうになったが、必死に痛みを堪え、身を起こした。
自分の不注意だ。
そう割り切って、戦いの行方を追った。
そのとき、残りのモノセロスと戦うベルリオットの姿を見て、戦慄を覚えた。
彼は笑っていたのだ。
まるでモノセロスと戦えたことが嬉しいというような、狂気染みた顔だった。
周りで何人もの貴族、騎士が倒れる中、彼は笑いながら戦っていたのだ。
結局、モノセロスは彼の手によってあっさり全滅した。
彼なくして事態に収集はつかなかっただろう。
だが、あれは。
あんなのは、自分の知る騎士ではない。
とても、自分の知るライジェル・トレスティングとは似ても似つかない、ただ力に溺れただけの化け物だった。
思い出したせいか、左眼の傷がわずかにうずいた気がした。
かかった前髪と肌の間に手を割り込ませる。
傷をさする。
たとえ周りの人間があいつを騎士と認めようと、あたしは絶対認めない……。
「ふぁ~……」
夜が明けた。
寝不足だ。
帰ったらすぐ寝よう、と考えたところで、昨晩、親と喧嘩したことを思い出した。
どうしようかな……。
このまま屋敷に帰るのは、なんだかこちらが降参したみたいに思われるのではないか。
そんな子どもじみた考えが生まれ、リンカはそれを尊重した。
どこかの宿泊施設にでも泊まろう、と。
ただその前に、騎士団本部の方で警備の交代報告をしなければいけない。
面倒くさいが、それをしなければユングのねちねちとしたお叱りを受けることになる。
それだけはごめんだ。
騎士団本部に入る。
まだ早朝ということもあってか、中の待機室はすかすかだった。
事務を担当する騎士に交代報告をする。
と、横合いから声がかけられる。
「アシュテッド卿、おつかれさまです」
ユング・フォーリングスだった。
「おつかれさまです。……ユングさんっていつ寝てるんですか」
「よく寝ていますよ」
「そんな風には見えないんですけど」
「では寝ていないのかもしれませんね」
「はぁ……」
この人は、本当にいつもなにを考えているかわからない。
掴みどころがなさすぎて、好きになれなかった。
「まあ、そんなことよりも。警備のおつかれついでに、ひとつ頼まれてくれませんか?」
「……任務ですか? 申し訳ないんですけど眠いです」
「大丈夫ですよ。簡単な任務ですから」
「なら」
仕方ないか、と思って聞くことにした。
もともとユングが命令すれば、リンカは断れる立場にはない。
だが、このときほど自分の軽率な判断を悔やんだことはなかった。
そして心の中で叫んだ。
どこが軽い任務なのだろうか、と。




