◆第七話『潜入』
時刻は二十時半。
すっかり暗くなった今、地上から見た満天の星は綺麗に輝いて見えるだろう。
そしてその中に一つ、小粒程度の光が混ざっていたとしても気づく人はいまい。
王城の遥か上空。
人が生身で空を飛べる限界高度に、ベルリオットは微量なアウラを以て待機していた。格好は濃紺の訓練校服。余計なものは持ってきていない。
さすがにきつくなってきたな……。
昼間からぶっ続けで浮遊しているせいか、かなり体がだるかった。
加えてアウラは想像力、つまり脳で制御している面が大きいこともあって精神的な疲労も蓄積していた。
なぜこんな場所に、そんなにも前から待機しているのか。
ユングからの命令とも言える提案のせいで、ベルリオットはリズアートに会うために王城内へと忍び込むことになった。
とはいえ、王城内は騎士たちによる厳重な警備が成されている。
普通の潜入方法では城内に入る前に見つかるのがオチだ。
そう、普通のやり方では。
城内には、一つだけ広範囲に渡って騎士が配置されていない場所があった。
天空の間である。
恐らく神聖な場とされているからだろう。
穴らしい穴は天空の間を置いて他になく、第一歩を踏み入るにはそこしかない。
だが天空の間を足がかりにすると言っても、その前には城壁にて騎士たちが待ち構えている。
飛行し、城壁を越えようとすればアウラの光で気づかれてしまう。
となれば残された道は一つしかない。
王城の遥か上空からの、垂直落下だ。
ベルリオットが使うアウラは幸いにも青色。
昼間の青空を背景にすれば比較的見つかりにくいと言える。
だから昼間のうちに王城の上空に移動、待機した。
昼間の内に行動に移らなかったのは、陽の光がある内では王城の白壁がそのまま背景色となり、落下中にベルリオットが異物として視認されやすいからである。
とはいえ、陽の光がない夜なら夜でアウラの光が目立つ。
だが、ある方法を使えば、アウラを使わずに天空の前へと降り立つことができる。
これからすることを改めて想像すると股間が縮み上がった。
眼下に王城を収めながら、ごくりと唾を飲み込む。
今さらためらっても仕方ない。
よし、行くか……。
意を決し、ベルリオットはアウラの取り込みを止めた。
直後、体に重力が宿る。
ぐんっ、と下方へと引きずられるように落ちていく。
アウラを使わずに落下すればいい。
それがベルリオットの導き出した答えだった。
しかし想像以上の恐怖に己の決断を即座に後悔する。
叫びそうになった。
必死に口を閉じ、代わりに心の中で悲鳴をあげた。
切り裂くような風が耳をつく。
眼球に空気がぶつかり、まともに開けていられなくなる。
が、ほんの少しの辛抱だと思い、堪える。
すでに天空の間は目前に迫っていた。
このまま落下すれば命はない。
視界が天空の間の床で埋め尽くされた瞬間、ベルリオットはアウラを取り込み、放出した。
がくん、と頭が、手が、足が天上にはねる。
数瞬だけ慣性が働いただけで、勢いはすぐに収まった。
即座にアウラの取り込みを止め、四散させる。
地に這う獣のごとく、うつ伏せの格好で降り立った。
大した音が出なかったことにほっと安堵するが、頭を振って即座に気持ちを入れ替えた。
一瞬でもアウラの光を見られていたら怪しまれる。
いくら暗闇と言えど目を凝らせば見つかる可能性は低くないのだ。
音をたてないよう細心の注意を払いながら、小走りで玉座の間側へと向かう。
天空の間と玉座の間をへだてる壁には重厚な鉄扉があった。
式典、祭典時以外は閉められているのか、はたまた夜間だからか。
予想通り閉まっていた。
壁上部にある硝子からは光が漏れていない。
夜遅くに誰かが謁見に来るなどありえないし、わざわざ玉座の間を使う必要もない。
中に人がいる可能性は低いだろう。
壁に背中を預け、ベルリオットは座り込んだ。
天空の間には膝ほどの高さを持った石塀があるため、しゃがんでしまえば他の場所から姿を見られることはない。
耳をすましてみる。
静かなものだった。
もし侵入者――ベルリオットを見つけていたなら、騎士たちの慌しい音が響いていたことだろう。
ふぅ、とひと息つく。
第一段階は問題なく越えられたが……これからが本番だな。
ユングが見せてくれた資料のおかげで騎士の配置はすべて頭に入っている。
だからと言って、簡単にリズアートのところまで行けるかというとそういうわけではない。
なにしろ正規の通路はすべて騎士たちの監視が行き届いているのだ。
およそ道とは言えない場所を通って行かなければならない。
ユングの情報によると、今の時間、リズアートは居住区にある自室で休んでいるらしい。
居住区は王城の北側、つまり大城門から向かって裏側にある。
王族関係者や、警備を任された騎士しか立ち入りが許されていない。
王城の中でもっとも警備が厳重な区域である。
無茶だとわかっているが、ここまで来てしまえばもう前に進むしかない。
音をたてないよう両頬を叩き、気合を入れなおした。
四つんばいで動き出す。
足場は玉座の間を囲むように造られていた。
右回りに進む。玉座の間の裏手側までは足場がなく、道は途切れていた。
ユングに見せてもらった騎士の配置が描かれた図には、城内の構造も載っていた。
ただ、それは城内の構造を記すための図ではなく、あくまで騎士の配置を記すものだったらしい。
ゆえに城内の構造について、ベルリオットは大まかな情報しか持っていなかった。
石造の欄干から顔を覗かせ、辺りの様子を探る。
ベルリオットがいる第三階層には玉座の間と天空の間しかない。
従って見下ろす形になる。
目に付いたのは吹き抜けの回廊から漏れる燭台の光だ。
一、二階層には回廊が入り組んでいて、騎士の姿もちらほらと窺えた。
灯りがある中、騎士の目を逃れて三階層から一階層へと下りるのは至難の業だ。
それに一度下りてしまえば再び上がるのは困難だし、行動範囲も限定される。
限界まで居住区に近づいてから下りた方がいいだろう。
とりあえず騎士に見つからずに移動するには回廊の屋根を通るのが安全そうだった。
とはいえ、この場所から見える二階層の回廊までは距離がある。
アウラを使えない今、とても飛び移れる距離ではない。
かといって壁を伝って行くのも無理があった。
平らなわけではないのだが、出っ張りが地面に対して垂直に伸びる形なため、足場がないのだ。
横への移動は不可能と言っていい。
ただ、上下の移動だけなら恐らく可能だ。
ちょうど出っ張りの間隔がベルリオットの体が収まる程度だった。
指の力と、足を左右に広げて自らを挟み込むようにすれば登れそうである。
玉座の間の外壁は、一定の高さまでは長方形だが頂上部分は鋭く尖っている。
頂上部分まで登ってから裏手側に回れば、そこから二階層の回廊まで壁を伝って降りられそうだった。
経路を決めると、ベルリオットはさっと辺りを確認してからすぐさま壁を登り始めた。
見上げたときはそれほど高くないと思っていたが、いざ登ってみると相当に高かった。
つんざくような風の音が耳に吹きつける度に、背中に嫌な汗が流れる。
足は大して辛くなかったが、その分指先の負担が半端なかった。
出っ張りがそれほど突き出ていないため、満足に掴めないのだ。
それでもなんとか登りきり、頂上まで辿り着いた。
頂上部は膝高の突起物に囲まれていた。
その突起物を支えに、座り込んで一休みする。
額の汗を拭うと、視界一杯に広がる王都の夜景が映った。
どこか優しく感じられる、家々から漏れる山吹色の灯り。
それらを反射して光を帯びた、レニス広場から伸びる川。
王都を囲む城壁に等間隔で置かれた篝火。
アウラを使えるようになったおかげで、もっと高い所まで行けるようになったのに。
視界に広がる景色は、ベルリオットが今までに見たどんな景色よりも綺麗だと思えた。
どうしてなのかはわからない。
もしかすると自分の手で、足で登った場所から見ているからかもしれない。
大事なのは高さじゃない。自分の力でどこまで登れるか、だ。
「……なんてな」
柄にもないことを思って、ベルリオットは自嘲した。
裏手側へと回ると、地上が見えないほどの高さにふたたび股間が縮み上がった。
保険とも言えるアウラを使わずに、この高さを下りなければならないのだ。
ためらっても仕方ない。
予めしのばせていた手袋をはめ、下り始める。
登るときとは違い、ずり落ちるような形だ。
焦らずゆっくりと下りて、やがて地に足がついた。
手袋の指先は摩擦で穴が空いてしまい、もう使い物にならなさそうだった。
外し、ポケットにしまい込む。
途端、どこからか話し声が聞こえてきた。
即座にしゃがみこみ、ベルリオットは這いつくばった。
声は下から聞こえてくる。この回廊配備の騎士だろうか。
だがこの回廊の真下に配された騎士はいなかったはずだ。
団長、話が違うんですが!
とユングに恨みをつづるも虚しく、声は段々と近づいてくる。
自分の心臓音がはっきりとわかるほど聞こえてきた。
もしかしたら心臓音で居場所がわかってしまうのではないか。
そんなありえない考えが脳裏を過ぎり、焦りが増していく。
足音と共に、声が真下にまで来た。
緊張が最高潮に達する。
騎士の数はおそらく二人。
のんきな会話をしていた。
そこに侵入者がいたなどという物騒な雰囲気は感じられない。
やがて声が通り過ぎ、小さくなっていく。
どうやら巡回の騎士だったようだ。
ほっと息をつくが、安心してはいられない。
今の騎士たちは玉座の間側へと向かっていた。
そちらはもちろん行き止まりなはずで、また戻ってくる可能性が高い。
ならば、すぐにでも移動を再開するべきだ。
左右上下に気を配りながら、ベルリオットは小走りで進み始めた。
それからいくつもの回廊の屋根を伝って移動したが、騎士と遭遇することは一度もなかった。
序盤こそ予想外の事態に見舞われたが、あとはユングから教えてもらった騎士の配置通りだったのだ。
難なく、というわけではないが、それでも危機的状況は一切生まれなかった。
ベルリオットは、ようやく居住区前までやって来た。
とはいえ、まだ二階層の回廊屋根上である。
居住区へは回廊の中からしか入れないので、屋根上から下りなければならない。
だが、この真下の回廊には見張りの騎士が一人だけいるのだ。
位置的には大体中間地点ぐらいか。
顔を出せば、たちまち見つかってしまうだろう。
古典的な方法として、どこかに小石などを投げて、音で別の場所に注意を向ける、という手がある。
だが実際は音で釣られる間なんて一瞬なものだ。
仮にその一瞬でベルリオットが行動したとしても、地に足をつけたり走ったりで音が鳴り、感知される可能性が高い。
ではどうするのか。
考えてから、ベルリオットは辺りを見回した。
先ほどまでは四方からの騎士の視線に注意しなければいけなかったのが、すぐ傍に居住区の巨大な壁があるおかげで幸いにも視線の数が減っている。
ほんの一瞬であればアウラを使っても大丈夫だろう。
アウラを使って中空を飛べば足音は鳴らない。
使用時に空気が乱れるが、それも取り込む量を絞れば最小限に抑えられるので心配はいらない。
小石はないが、代わりになるものはあった。
先ほど使い物にならなくなった手袋を取り出す。
片方を丸めてもう片方の中に入れ、口を縛った。
これで空気の抵抗にも負けず飛んでいってくれるだろう。
素材が布なおかげで、音も最小限に抑えられる。
騎士を挟んだ反対側の壁へと、ベルリオットは丸めた手袋を投げた。
騎士の注意がそちらに向いた一瞬を見計らい、屋根上から回廊の中に身を投げる。
地に足がつく前にアウラを取り込み、飛行。
居住区へと体を潜り込ませる。
居住区に入ると、真っ直ぐに伸びた通路があった。
たしかここは騎士の巡回経路だ。
ただ手前左側の通路に入れば騎士の巡回経路、視界から外れられる。
ベルリオットは迷わず左に折れた。
先には扉があった。
用途まではわからないが、中は小さめの部屋だったのは覚えている。
とりあえず纏っていたアウラを四散させた。
壁に背を預け、座り込んで一息つく。
居住区の中は生温かかった。
かといって不快になるようなものではない。
甘い花の香りと相まってむしろ心地よいとさえ感じる。
慌しい足音はないし、声も聞こえない。
角からそっと頭を出し、先ほど通ってきた回廊の様子を窺ってみたが、警備の騎士はその場から動いていなかった。
少なくともあの騎士が、ただ様子を探るためだけに居住区に来ることはない。
なぜなら騎士がどの区域を担当するかは、序列による影響が大きいらしいのだ。
中でも居住区の担当は、序列二十位以内の騎士しか立ち入りを許されていないのだと言う。
すべてユング談だ。
あの人、穴が見つかってないとか言ってたけど、絶対わかってるだろ……。
そう心の中でひとりごちた瞬間、すぐ傍の扉が開いた。
中から、侍女と思しき少女がワゴンを引いて出てくる。
ベルリオットは見上げる形。
少女は見下ろす形。
目が合った。
顔を引きつらせながら、ベルリオットは口元に人差し指を当てる。
目を瞠りながら、少女がゆっくりと首を振る。
直後、居住区に悲鳴がひびいた。




