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◆『メイドの日常』

序章前のいつもの風景。

 みしっ、と軋む音がした。

 天井からだ。

 メルザリッテ・リアンは、ベッドの上でむくりを半身を起こした。

 部屋は暗い。当然だ。

 灯りをつけていないし、なによりまだ陽が昇っていない。

 寝足りないとは思わなかった。

 そもそも眠気などという欲求はとうの昔になくしている。

 だから自分にとって睡眠行為は、体を休めるという直接的な意味合いしか持っていない。


 メルザリッテの寝室は、ベルリオットの寝室のちょうど真下に位置している。

 今しがた耳に入った天井の軋む音。

 それは我が主がベッドから下りた、一歩目の足音だ。

 何千回と聞いてきたので間違いようがない。

 日課である剣の訓練を行うため、ベルリオットはこれから外出することだろう。


 だが、ひと気の少ない夜間に、彼一人で出歩かせるわけにはいかない。

 とはいえ表立って着いて行こうとすれば拒否されてしまう。

 ではどうするのか。

 決まっている。

 こっそり影から見守るのだ。

 なるべく音を立てないよう、いそいそとメルザリッテは変装の準備を始めた。




 夜の静けさを強調するように、雑草のさざめきが耳をくすぐった。

 人が出歩いていないからだろうか。

 空気はとても澄んでいて、胸の中に格別の清涼を届けてくれる。

 メルザリッテは訓練校の丘陵地帯にいた。

 我が主を除いて、普段は訓練生に使われていない場所だ。

 丘陵地帯は僅かに盛り上がっているため、南側には崖が出来ていた。

 その切れ端に座り込み、メルザリッテは足をぶらぶらとさせる。

 この場所にいる理由は一つ。

 ベルリオットが深夜の訓練場に使っている広場全体を、見下ろす形で視界に入れられるからだ。


 ポケットから取り出した単眼鏡を右目に当てた。

 覗き込むと、すでに訓練を始めたベルリオットの姿が大きく映し出される。

 早々から激しい動きを見せていた。だが荒々しくはない。様々な型から描き出される剣の軌跡は、まさに美しいとしか言いようがなかった。

 これも毎日の訓練の賜物である。


 なぜ、ベルリオットはわざわざ深夜に訓練を行うのか。

 それは誰にも見られたくないからだ。

 まだ彼が訓練校に入って間もない頃、力を持たないベルリオットが足掻く様を見て、揶揄する輩がいた。年頃だったのもあっただろう。足掻くのは格好悪いことであると意識させられたベルリオットは、以来、深夜に訓練を行うようになったのだ。


 当時のことを思い出すと、メルザリッテは沸々と怒りが込み上げてきた。

 なぜベル様がこのような思いをしなければいけないのか、と。

 いっそベルリオットを貶めた者たちに報復してしまおうか、と考えたことは一度や二度ではない。

 だが毎晩黙々と剣を振るベルリオットの姿を見る度に、そんな感情は無駄なものであると思わせられ、気持ちが静まった。

 今日もまた、いつもと同じだった。



「今日も美味かったよ」

「はい、お粗末さまでした」

 ベルリオットが食器から手を放したのを確認してから、メルザリッテも最後の一口を含んだ。布巾で口元を拭い、立ち上がる。

 本日の朝食は、薄味の野菜スープに、野菜サラダ、野菜を詰め込んだパン、と健康的な料理にしていた。

 しかもパンは出来立て、野菜は採れたて。

 ありがたいことに知人が毎朝届けてくれるのだ。


 空になった食器をトレイに載せ、洗い場に運ぶ。

 袖をまくってから食器洗いを始めようとすると、後ろ手から「なあ」とベルリオットに声をかけられた。「はい、どうかしましたか?」と応えながらメルザリッテは振り返る。


「前々から言ってるが、朝はもう少し手抜きでいいぞ」

「なにを言ってるのですか。朝は一日の始まりなのですから、栄養のあるものをしっかりと食べていただかないと」

「でも面倒だろ?」

「ベル様のためにしたことが、メルザにとって面倒になるなんてことは絶対にありません。ええ、もう絶対です」

「まあ、お前がそれでいいならいいんだけど」

「はい、それでいいのです。ベル様に尽くすことこそが、わたくしにとってなによりの幸せなのですから」


 胸元に両手を添えて、メルザリッテは微笑んだ。

 そうすることで、心からそう望んでいることが伝わればいいと思った。

 意思が通じたのか、呆れながらもベルリオットが表情を柔らかくする。


「いつもありがとうな」

「――ッ! ベル様っ!」


 全身に熱が迸った。反射的に体が動き、食卓を跳び越えて、ベルリオットに抱きつこうとする。だがあえなく躱されてしまい、


「きゃふんっ」


 と顔から床に落ちてしまった。


「だーっ、興奮したらすぐ抱きついてくる癖、どうにかしろ!」


 ベルリオットの声が降ってくる中、メルザリッテはのそのそと体を起こした。

 座ったままの状態で、ひりひりする鼻を擦る。


「いたた……。だって今の場面は、メルザを受け止めたのち、熱く抱き合い、果ては接吻まで行く流れだったではないですか。せっかくの感動が台無しです」

「いや、さも俺が間違ってるみたいに言われてもな。あと毎回毎回さり気なく接吻までこじつけようとするな」

「つれないです。ベル様とメルザの仲ではないですか」

「そんなことまで許す仲じゃないのは確かだな」


 はっきりと言い切られてしまった。

 戯れだとわかっていても少しだけ切なくなった。

 傷つきました、とばかりにぷいっと顔をそらす。


「もういいですっ。ベル様の唇はとっくにいただいておりますから。そのときの感触を思い出して、今は我慢します」


 ふふふ、とメルザリッテは含み笑いをして、自身の唇を指でなぞった。


「おい、勝手に捏造するな」

「捏造ではありません」

「まさか、俺が寝てるときに……?」

「違います。ちゃーんとベル様は起きていました」

「ま、まったく覚えがないんだが」

 頭を抱え、ベルリオットは懸命に記憶を思い起こそうとしている。

 そんな主の姿を見ながらメルザリッテは、


 ベル様がずっと幼い頃の話ですけどね。


 と心の中で付け足した。




「行ってくる」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 と、訓練校に向かうベルリオットを見送ったのはつい先ほどのこと。

 だが、メルザリッテの視界にはベルリオットが映っていた。

 さささ、と物陰間を移動しながら、あとをつける。

 物陰に潜むたびに顔だけを覗かせ、じとーっと主の後ろ姿を見つめる。

 トレスティング邸からレニス広場までは、ひと気が少ないため、このような隠れ方が一番適しているのだ。

 逆にレニス広場からストレニアス通りに入ると人の往来が激しくなる。

 加えて隠れられる場所が少ないため、人ごみに紛れてしまう方が怪しまれない。


 ちょうどベルリオットがレニス広場に差し掛かっていた。

 メルザリッテは物陰から躍り出た。

 今度はゆらりゆらりと人陰に隠れながら、ベルリオットのあとをつける。

 そうしてベルリオットは無事に訓練学校に到着した。

 道中、何事もなかったことにほっとしつつも、まだすることが残っている。

 それはメルザリッテにとっての一大行事。


 ……ベル様の寝顔はいつ見ても最高です。


 訓練校に程近い雑木林。ある一本の木に昇って、メルザリッテは生い茂る葉の隙間から主を観察、もとい見守っていた。

 ベルリオットが登校を終えたあと、こうして半刻ほど訓練校に居座るのも日課に含んでいた。

 当然、入学当時から欠かさず続けている。


 メイドの務めですから仕方ないのですっ。


 そう自分に言い聞かせているものの、ついつい表情筋が緩んでしまう。

 と、ベルリオットを起こそうとするナトゥールの姿が視界に映った。


 ナトゥール様、近いです! 近すぎますっ! 羨ましいですっ!


 きいぃ、と声を出してしまいそうになるのを、ぐっと堪えながら見つめる。

 これもメルザリッテにとってはお馴染みの光景だった。


「さて、と。そろそろ戻りますか」




 街での買い物を済ませ、メルザリッテはトレスティング邸へと帰った。

 早速、家事を始める。

 炊事に掃除、洗濯としなければいけないことは沢山ある。

 しなければいけないことがないのは、とても退屈だ。

 そのことをメルザリッテは誰よりも知っている。

 だから今の生活になによりも充実感を覚えていた。

 この時間がずっと続けば良いな、と思う。

 だが同時に、ずっとは続かないことも理解していた。


 ふと気づけば結構な時間が過ぎていた。

 そろそろ訓練校が終わる時間だ。

 帰宅時もまた、ベルリオットを陰から見守るのが日課だった。


 やがて訪れる崩壊の時。

 知っているのは自分だけだ。

 ベルリオットは知らない。

 出来るならば、ずっと知らないでいて欲しい。

 だがそれも叶わない。

 だからせめて終わりが来るまでは。

 この平和な日常を生きて欲しい、とそう心から思っている。


 先回りして帰宅したメルザリッテは、玄関前に立って準備する。

 そして扉が開かれたとき。

 いつものように満面の笑顔で跳び込んだ。


「お帰りなさいませっ、ベル様っ!」




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