◆第三十五話『蒼翼のベルリオット』
「リズアートッ!!」
天空の間に着くなり、ベルリオットは目を剥いた。
国王暗殺事件の折に、天空の間の最先端部は破壊されているため、道が途中で切れている。
その切れ端で、リズアートがグラトリオに髪を掴み持ち上げられ、空いた手で首を絞められていたのだ。
彼我の距離は大また二十歩程度。
ここまで近づけたのは、グラトリオがなにかを叫んでいたからに他ならない。
なぜこんなことに、という疑問は二の次だった。
目の前でリズアートが殺されそうになっている。
ただそれだけが事実だった。
駆けた。
全身を深く落とし、這うような疾駆。腰から剣を抜く。左後ろに流すように構える。通路の横幅は狭くない。落下の可能性を意識の外に追いやる。
グラトリオがこちらに気づいた。驚愕に目を見開いている。だがそれも一瞬。咄嗟にリズアートを放した。両腕を眼前で交差させ、身構える。
構わずベルリオットは仕掛けた。
跳躍からの大上段。全体重を乗せた剣を振り下ろす。ベルリオットの渾身の一振りは、しかし肉を斬り裂くことはなかった。甲高い金属音がひびく。
阻んだのはグラトリオを包むアウラの鎧。彼の背からは、噴き出すように紫光の奔流が溢れ出ている。
「ぬんっ」
片腕を振り払われ、ベルリオットは剣ごと軽々と飛ばされた。
軽々、ではあったが、その勢いは凄まじいものだった。
先ほど詰めた二十歩の距離をあっという間に戻されてしまう。
刃で肉体を傷つけないよう意識していたおかげか、目立った外傷はない。
代わりに体中を擦り剥いた。ひりひりと焼き付くような痛みに襲われる。
四肢が動くことを確認する。
ゆらりと立ち上がり、グラトリオを見据える。
「なぜお前がここにいる? ディザイドリウムに行っていたはずだ」
「エリアスが戻れって言ったんだ。そいつが危ないって」
「ログナート卿か……。やはり奴を離しておいて正解だったようだな。しかし、だとしても、街には黒を置いておいたはずだが」
黒、とは黒導教会のことだろう。
「やっぱりあれもあんたの仕業か。あいつは、メルザが相手してくれてる」
「やはり、あのメイドか……」
「メルザのこと、気づいてたのか」
「並々ならぬ実力を隠しているのは気づいていた。それも踏まえ、お前を向わせれば一挙両得だと思っていたが……どうやら失敗に終わったようだな。だが今さら来た所でもう遅い。ましてやアウラも使えないお前が来たところでなんの役にも立たんぞ」
「それはどうかな。力、戻ってるかもしれないぜ」
言いながら、ベルリオットは泰然と構えた。
剣を持たない方の左手を開いたり閉じたりして見せる。
いつでもアウラを使える、という意思表示だった。
もちろんはったりだ。
グラトリオが瞳を揺らがせ、一歩後退さる。
だが効果はそこまでだった。
踏みとどまったグラトリオが、すぐに平静を取り戻す。
「いや、ありえないな。もし使えるのなら、先ほどの攻撃で使っていたはずだ」
「油断させるためかもしれないぜ」
「ならばその話をする必要はないだろう。それにもし貴様がアウラを……そう、あの赤のアウラを扱えたとしても、わたしには勝てん」
ヴァイオラ・クラスでは、恐らくルーブラ・クラスには対抗できない。
もちろん勝敗を分かつのが、アウラの質だけでないことは百も承知だ。
だとしてもベルリオットは、客観的に見ても剣の腕だけならばグラトリオに劣っていない自信があった。
グラトリオもそれを充分知っているはず。なのに。
なんだ、あの余裕は?
得たいの知れない恐怖を感じ、ベルリオットの背筋に悪寒が走る。
そんな警戒を露にするベルリオットとは違い、グラトリオはすっと澄んだ表情をした。
「わたしがなぜ、こんなことをしているのか理由を訊かないのか」
それは長年、ベルリオットを気遣ってくれていた後見人としての目だった。
ずきりと胸が痛んだ。
「正直最初はなんで団長がって戸惑いはあった。けど、実際にそいつが倒れてるのを見て……今、大陸が下降し続けてるのも、王都がシグルに襲われてるのも、全部あんたのせいだって……! それだけわかりゃ倒すのに理由なんていらねえだろ! 話したいってなら――」
実は話している間も攻撃の機会を窺っていた。
が、まったくと言っていいほど隙がなかったのだ。
実際にはいくらでもあるのだろうが、今の自分の実力では、その隙に到達する前に殺られる。
撃ち合わなくてもわかる殺気をひしひしと感じていた。
アウラが使えない上に相手が団長じゃ、分が悪いってもんじゃない……。
勝てないというのは本能的に理解している。
だが。
逃げる選択肢はない。
「――俺に倒されてから全部吐き出せばいい!」
「アウラも使えぬ分際で生意気な口を叩くなよ、ベルリオットっ!」
ベルリオットが先に踏み出した。剣は左横に流しながらの疾走。
アウラを纏ったグラトリオに走るという行為は必要ない。合わせた両手に濃紫の結晶武器――長剣を造りだし、まるで通路上を滑るようにベルリオットへと迫ってくる。その勢いや恐るべきもので瞬く間に距離が縮まる。
気づけばグラトリオの顔が眼前にあった。
野獣のごとき厳しい面の右下、燐光を撒き散らす紫結晶の剣が映る。恐らくは右下から左肩への逆袈裟、或いは右からの横薙ぎ。
まともに撃ち合えば、こちらの剣が確実に折れる。
身体能力でも敵わない。
ならば、とベルリオットは踏みとどまった。グラトリオが重心に置いた右足――踏み込み足から距離が空く。生まれた空間、眼前の中空に剣を置く。切っ先をグラトリオの胸に向ける。両手で思い切り柄を握り、次にやってくるだろう衝撃に備える。
その間にも紫結晶の剣は迫っていた。
予測通りの横薙ぎ。ベルリオットは剣を下に潜らせ、敵の剣の下腹に沿わせる。耳をつんざく音。力に反作用しないよう受け流しているのに凄まじい衝撃が四肢を軋ませる。
紫結晶の剣尖が目の前を通り過ぎる。間合いは計っていた。だがここまでぎりぎりだとは思いもしなかった。背筋が凍る感覚を必死に堪える。
目の前を通り過ぎた紫結晶の剣は、勢いのまま左に流れていく。
生まれた一瞬の硬直にグラトリオが目を瞠る。その隙をベルリオットは待っていた。すかさず踏み込む。先ほど中空に置いたままの剣を咆哮とともに突き出す。切っ先がグラトリオの胸に吸い込まれていく。
が、
「なっ!」
聞こえたのは肉を貫いた音ではなかった。
カツン、と。
たったそれだけの乾いた空虚な音。
グラトリオの胸に切っ先は届いている。なのにいくら押し込めど押し込めど、それ以上進まない。
極薄い紫の光膜が、剣の侵攻を阻む。
グラトリオが剣を下ろした。
さも残念だと言わんばかりに見下ろしてくる。
「剣の腕はさすがだな。だが、それだけだ。斬れない敵が相手では勝ち目がないぞ、ベルリオットよ」
「くそっ!」
剣を引き、踏み込みなおした。
この剣でガリオンを斬った、あのときの感覚を思い出す。叩き斬る、のではなく、斬り裂く。左下から右上へ斬り上げ。描いた剣跡をなぞるように振り下ろし、薙ぎ、薙ぎ、斬り上げ――。
甲高い音が無常にひびく。
斬れない。
二歩後退り、勢いをつけて飛び込む。
上段から首筋への振り下ろしは――しかし紫の膜によって防がれた。
あれだけの薄い膜だというのに徹せない。
今さらながらにアウラという力の強大を再認識させられる。
「そん、なっ……」
「いくらやっても無駄だ。お前が斬ったというシグルはガリオンだろう。あんな雑魚とわたしのアウラが一緒だと思ったか」
言いながら、グラトリオが首元の剣を握り、まるで棒を折るかのように容易く折った。
あっけなかった。
無理かもしれない、という考えはベルリオットの中に少なからずあった。
だが、それ以上に絶対に斬れるという自信があった。
だから目の前の現実は受け入れがたかった。
深い絶望がこみ上げてくる。
「興が醒めたわ」
俯いたベルリオットの顔に、グラトリオの右手が伸びてきた。
顔を掴まれ、持ち上げられる。
こめかみに指を減り込まれる。
「ぐぁっ――。はな、せ……っ」
引き剥がそうとしても、びくりともしなかった。
グラトリオの腕を殴るが、逆に自分の拳に激痛が走った。
当然だ。
生身の人間がアウラを纏った人間に力で勝てるわけがないのだ。
脚が中空を踊る。
もがき続けていると唐突に腹に拳を突き込まれた。
一度ではなかった。
何度も何度も、えぐるように心窩を殴られる。
臓器を潰されたか。
なにか熱いものが喉をのぼってくると思うや、口から血が噴き出た。
口からでは間に合わず鼻からも噴出する。
生ぬるい感触が顔面下部を覆う。
何度殴られたか。
意識が飛びそうになった頃、身体を振られ、放り投げられた。
幸い、と言っていいのか。
前庭に落とされたわけではなかった。
すぐに地の感触を覚える。
刹那の安堵。
だが次にグラトリオから吐き出された、ベルリオットが生かされた理由に戦慄する。
「お前が死に行く様を陛下に見させるのも良かったが、あいにくと気を失っておられるのでな。お前に陛下の死に様を見届けさせてやろう。なに、父親と同じ場所で死ねるのだ。陛下も本望だろう」
「やめ、ろ……っ」
上手く声が出なかった。
グラトリオの非情な宣言に、ベルリオットは全身を奮い立たせる。
仰向けに倒れた不恰好な体勢から、わずかな力を振り絞り、腕を突き立て上半身を起こす。上手く力の入らない脚を動かし、四つんばいになる。
見れば、グラトリオがリズアートの頭をまるで物のように掴み、天空の間の中空に突き出していた。
血の気が引いた。
天空の間は王都を見渡せるほど高い場所にあるのだ。
一般の家を基準にするならば十階建て以上に相当する。
そんな場所からアウラを纏っていない人間が落とされれば命はない。
リズアートを掴んだ手を揺らしながら、グラトリオが言う。
「なんだ、聞こえんぞ」
「や、め……ろっ!」
「そうか、やめて欲しいのか。仕方ないな……では」
リズアートの頭を掴んだ腕を、グラトリオが通路側へと引き寄せた。
その行動にベルリオットはわずかでも安堵してしまった。
表情筋を緩ませてしまった。
それを待っていたと言わんばかりに、グラトリオは血走った眼を見開き、人間と思えぬほど醜悪な笑みを浮かべた。
「やめると思ったか」
リズアートが放り出された。
直後。
ベルリオットの全身に、痺れにも似た衝撃が走った。
気づいたときにはベルリオットはよろめきながらも立ち上がり、放り投げられたリズアートの方へと跳びこんでいた。
「馬鹿が! アウラも使えぬのに自ら身を投げたか!」
頭上からグラトリオの罵声が飛んでくる。
その通りかもしれない。
飛べもしないのに自ら身を投げ出すなんて馬鹿のすることだ。
けれど身体が勝手に動いてしまったのだ。
動け、と。
彼女を、リズアートを助けろと脳が命令したのだ。
「リズアートッ!!」
浮遊感にとらわれる中、斜め下を行くリズアートを見据える。
リズアートが投げられてから即座に飛んだとはいえ、飛べない者が空中の距離を縮められるはずがない。
ましてやもともとの距離があったのだから、手を伸ばしても届きそうになかった。
地面に落ちるまで、ほんのわずかな間しかない。
その中、ただリズアートを見つめながら、懸命に手を伸ばすが距離は縮まらない。
嘲るように下から風が吹きつけてくる。
届かないのか。
この手はあいつに届かないのか。
どうして届かない。
決まっている。
力がないからだ。
どうして力がない。
いや、俺は力を持っていた。
それなのに失くしてしまった。
理由はきっと力の使い方を間違っていたからだ。
ただ自分自身のためだけに力を振るっていた。
結果、人を傷つけてしまった。
力を持つ前に戻ればいいのではないか。
戻って、力を求めたあのときの感情を思い出せばいいのではないか。
赤いアウラを纏えたあのとき、俺はなにを想っていた。
南方防衛線での、モノセロスを前にした映像が思い起こされる。
傍には気を失い倒れたリズアートとナトゥールの姿。
動けるのは自分のみ。
王城騎士でも勝てなかったモノセロスが迫ってくる。
どう見ても絶望的な状況。
だがあのときの自分は――。
そうか。そうだったのか……。
そんな単純なことで良かったのか。
悩んでいた自分が馬鹿らしくなった。
青臭いと笑われるかもしれない。
面と向かって誰かに言えば笑われるかもしれない。
だが、それが騎士であり、ベルリオット・トレスティングなのだ。
なにも恥じることはない。
そのとき、ベルリオットの脳に直接、誰かの声が響いてきた。
温かくて力強い、そして懐かしい声。
――力が、欲しいか――
ああ、欲しい。
――なぜ、力を求める――
護りたい。ただそれだけだ。
――単純だな。だがいい答えだ。
お前には力がある。
誰よりも気高く、空を翔ける天上の力が。
さあ、叫べ。
お前は、その言葉を知っているはずだ――
その不思議な声は、ベルリオットがよく知っている人物のものだった。
こんなときに親父の声が聞こえてくるってどうなんだよ。でも……。
声に導かれるように、熱いものが胸の中に形となって現れてくる。
知っている。
俺は、この言葉を知っている。
ずっとずっと昔。あの人から、教えてもらった言葉。
風を呼ぶ言葉。
胸の中から溢れ出るままに任せ、ベルリオットは叫ぶ。
「――――アウラ・ウェニーアスッ!!」
風が吹き荒れた。
切り裂くような風が身体に突きつけ、纏わりつく。
優しく、体中を撫でられる。
かといって弱々しい感じは一切ない。
例えるならばそう、風の激流。
風はベルリオットの身体を包み込み、やがて凝縮すると共に弾けた、途端――。
どくん、と心臓が跳ねた。
体中に力の奔流が押し寄せ、一気に流れ出ていく。
直後、背中を叩かれたような衝撃と共に、現れる。
ずっと思い描いていた。
夢に出ることもあった。
絵を描くときはずっとこれだった。
蒼き翼。
吹き荒れる力強さの中に、包み込むような温かさも感じる。
気づけば身体中が青い燐光に包まれていた。
青いアウラ。
見たこともない。
だが、これだけはわかる。
これが。
これこそが。
俺の、護るための力なのだ、と。
見据える先、リズアートが地に激突する寸前だった。だが――。
彼女に傍に行きたい、と。
そう脳に命令するだけで、ベルリオットは中空を翔け抜け、彼女を両手に抱けた。
手が届いた。
ずっと届かなかった距離を、今、縮められたのだ。
強く、強く抱きしめる。彼女の柔らかな肌を堪能する抱擁。だがそれは淫猥などという言葉とは無縁のものだった。
彼女を抱きながらベルリオットは飛翔し、前庭中央へと向かう。
まるで自分が風になったかのように全身が軽かった。
ふわり、と地に降り立つ。
途端、わずかな震動が足から腹へと伝わり激痛が全身を駆け巡った。
グラトリオに殴られた箇所だ。
自身が負った傷の深さに戦慄を覚えるも、奥歯を噛みしめ痛みを思考の外へ追いやる。
リズアートが呻き声を漏らした。
眉間に皺を寄せたかと思うや、恐る恐るといったようにその目蓋が開けられる。
「ベル……リ、オット……? やっぱり、来てくれたのね」
たどたどしい口調。
なのに、リズアートの表情はとても穏やかだった。
「体、大丈夫か?」
「ええ、なんとか……。それよりも……」
ベルリオットの後ろを見やりながら、目を輝かせる。
「それが、貴方の翼なのね。綺麗……」
「驚かないのか」
「前に貴方が描いた絵。あのとき、ぴったりだって思ってたから」
「そうか。……俺の、護るための力だ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
だがリズアートは馬鹿にするでもなく、ただただ優しく微笑んでくれた。
彼女を寝かせながら、遥か上空――天空の間へとベルリオットは目を向ける。
そこにはグラトリオが立っている。
驚いているのか、はたまた様子を見ているのか、動きはない。
「決着、つけてくる。あの人は俺が倒さなくちゃならない」
リズアートの瞳にかかった一房の髪を払いながら、ベルリオットは言う。
「ひとりで待てるか」
「もうっ……子どもじゃないんだから」
はにかんだリズアートだったが、すぐに真剣な表情に変わる。
「心配してくれるのは嬉しいけど、待つわけにはいかないわ。わたしが《飛翔核》に行かないと……大陸はこのまま下降し続けるの」
「なんでお前が……」
「王に課せられた使命よ」
「けどその体じゃ――」
「ベルっ!!」
聞こえてきたのは大城門側からだった。
見慣れた制服を着た、親しみのある顔がこちらに飛んでくる。
傍に舞い降りた褐色の少女に、ベルリオットは目を丸くする。
「トゥトゥ? どうしてここに」
「メルザさんから城に行って、リズ様を助けて上げてくださいって」
「メルザのやつ……」
「ベル、それって――」
やはり青のアウラが気になるらしかった。
「色々あって……な。それより、こいつを頼む」
「う、うん。任せてっ」
有無を言わさずに、抱いていたリズアートをナトゥールに預ける。
そのときリズアートから意志の強い瞳を向けられた。
普通、こういうときは心配するんじゃないか、とも思ったが、信頼してくれているのだと思えば納得できた。
それが、リズアートという少女なのだから。
「行ってくる」
「ええ」
青い燐光を散らしながら、ベルリオットは天空の間へと飛翔した。




