◆第十九話『追憶の一角獣』
資料でしか見たことがないシグルだった。
それでもあまりにも特徴が酷似し過ぎている。
なによりあれほどの威圧感を放っているのだ。
疑いようがなかった。
リズアートも察したらしく、驚愕に目を見開いている。
「どうしてシグルが……。《災厄日》は終わって今は《安息日》なのよ! しかもあんな強力なやつっ」
「お、俺だって知らねえよ!」
なぜ、もっとも安全とされる《安息日》にシグルが……しかもモノセロスがいるのか。
疑問だが、今はそれどころではない。
モノセロスが吠えた。
まるで戦いの狼煙を上げるかのごとく長く太い咆哮。
大気を震わせる音に、ベルリオットは全身の骨まで軋むような感覚に見舞われる。
モノセロスが防壁に突撃したと同時、足場が大きく揺れた。
立っていられなくなってベルリオットは思わず手をついてしまう。リズアートも同じだった。
また、モノセロスが吠えた。
防壁を確認すると爆発でも起きたかのように、モノセロスの突撃を受けた箇所が大きくへこんでいた。防壁はかなり分厚いが、先ほどの突進をもう一度受ければ穴が空くのは必至だ。
しかし、そのような考えには至らなかったのか、わずかに下がってはまた壁に突撃を繰り返している。着々と穴は広がっていくが、それでも猶予はありそうだ。
「今のうちに逃げるぞ!」
と、口にした途端、ベルリオットの視界に、幾条もの黄色い光がモノセロスに向かっていくのが映った。
王城騎士だ。
ざっと見た限りでも二十以上はいる。
呼応するように、見張りの一般騎士たちも飛び掛かる。
あれだけいるのだから、もう大丈夫だろう。
そう安堵したのもつかの間。
一斉に斬りかかった騎士たちの攻撃は、モノセロスの身体を傷つけるには至らなかった。
モノセロスの皮膚に触れた、騎士たちの結晶武器が砕け散ったのだ。
遠目からでも、騎士たちが動揺しているのがはっきりとわかった。
「姫様っ! ご無事ですかっ!?」
アウラを纏ったエリアスとナトゥールが、ベルリオットたちのもとに飛んできた。
ベルリオットの身体を支えながら、ナトゥールが心配げに防壁下のシグルを見つめる。
そこでは、今もなお騎士たちがモノセロスと戦っている。
しかし攻撃が通じない相手だ。
戦況はお世辞にも良いとは言えない。
「ベルっ。あれって――」
「……ああ。たぶん、モノセロスだ」
エリアスがうなずく。
「わたしも見るのは初めてですが、間違いないでしょう。どうして奴が現れたのか……疑問に思うところですが、今はそんなことを考えている場合ではありません。姫様はどうか安全なところへ避難なさってください。……いえ、今すぐに飛空船で王都に向かってください」
「そんなっ、逃げるなんて!」
「姫様っ! …………どうか聞き分けて下さい」
「エリアス、あなた……」
エリアスのただならぬ雰囲気を読み取ったか、リズアートは二の句を告ぐのをやめた。
傍目に見てもエリアスの表情は硬い。奥歯をかみ締め、こめかみから頬を伝ってひと筋の汗が流れ落ちる。
「ナトゥール・トウェイル。ベルリオット・トレスティング。姫様を頼みます」
ベルリオットが返事をする間もなく、エリアスは紫の燐光を纏い、防壁通路から飛び降りた。
「エリアスッ!」
悲鳴にも似たリズアートの声が響いた。
しかしエリアスは止まらない。寧ろさらに加速する。放出するアウラが強まり、翼と成った。結晶化させた武器を、両手で握り締める。
ちょうど昨日、一撃でギガントを葬ったときのように、風を切り裂きながら、エリアスはモノセロスに飛び掛かる。
「はぁあああああああっ!!」
初めて耳にする、エリアスの咆哮。
それほどまでにモノセロスが強敵なのだと、改めて実感が湧く。
照準は、眉間。
エリアスの結晶武器、紫に煌く剣が突き立つ――。
「なっ」
エリアスは驚愕に目を見開いた。
切っ先の、ほんのわずかしかモノセロスにめりこませることができなかったのだ。
モノセロスは痛がりもしない。動じもしない。
ただ、なにをされたのかと、その紫色に光る双眸がぐりっと動き、エリアスを捉える。そして振り払うように頭を激しく動かした。
たまらずエリアスは突き刺した剣を抜き取り、距離をとる。
「全力でかすり傷程度ですか……。笑うしかありませんね」
見た目には平常を保っているエリアスと違って、他の騎士たちは動揺を隠せない様子だった。
「そんな……っ! ログナート卿でも……」
「モノセロス……これほどか……」
「リヴェティアの騎士ともあろう者がシグルに恐れをなしてどうするのです! 我らが背負うは民の命! これは、なんとしてでもここで仕留めます! 続きなさい!」
後退り始めた騎士たちに向かって、エリアスの一喝が放たれた。
恐怖を押し殺すように騎士たちが雄たけびをあげる。
エリアスに続き、騎士たちはモノセロスに斬りかかる。
ときには直線的に、ときには弧を描き。
様々な動きでもって、騎士たちのアウラがモノセロスを取り囲む。
夜の深い闇を照らすその様は、まさに美しいとしか言いようがなかった。
そしてベルリオットは思う。
これがモノセロスとの対峙でなければ、どんなに良かったことか、と。
「行きましょう」
防壁通路で状況を窺っていたリズアートが、低く静かに言った。
彼女は険しい表情で唇をかみ締めていた。
リズアートが相手に背を向けるのを嫌うことをベルリオットはよく知っている。
そしてなにより、仲間を……民を見捨てることを嫌うことも。
そんな彼女が逃げの一手ともとれる言葉を吐いた。そこにどれほどの決意があったのか。
想像もつかなかった。
仕方ない、と言ってやることは簡単だ。
けれど、それは慰めにしかならない。
だから結局、無言でついていくしかなかった。
「ベル、持つよ」
「悪い……。トゥトゥ、頼む」
ナトゥールに両脇を抱えてもらい、先を行くリズアートを追いかける。
防壁通路の上を飛んでいく。向かう先は防衛線本部である尖塔。
運ばれるだけのベルリオットは前を向いている必要がないため、離れていく戦場に目を向けていた。
モノセロスに絶え間なく攻撃を仕掛ける騎士たち。しかしまるで有効打を与えられていない。そればかりかモノセロスにまるで羽虫のように扱われていた。モノセロスが乱雑に振り回した頭部に、騎士たちは振り払われ、突き飛ばされる。
あんな化け物を、親父はひとりでやったのか……。
父親であるライジェルの強さを改めて感じると同時に、モノセロスへの恐怖がさらに増した。
と、モノセロスの視線がベルリオットを射抜いた。
ぞくりと背筋に悪寒が走る。
モノセロスが前足を蹴り上げ、直立に近い体勢まで身体を起こした。低く重い声で猛々しく吠えると、それから勢いよく前足を地面に振り下ろす。
激しい衝撃波が生じ、騎士たちを襲う。エリアスでさえも耐え切れず、吹き飛ばされた。地面や防壁に身体を強く打ちつけた騎士たちは、その身を起こせずにうな垂れてしまう。
そんな騎士たちに興味を失ったか。
モノセロスが勢いよく跳躍し、防壁通路に飛び乗った。
崩れるのではないかと思うぐらい防壁通路が揺れる。
モノセロスがまた前足を蹴り上げ、直立状態になる。
それは先ほど騎士たちを吹き飛ばしたときと同じ体勢――。
「まずい、避けろ!」
ベルリオットが回避を促すも、間に合わなかった。
モノセロスの咆哮と共に放たれた衝撃波が、ベルリオットたちを襲う。
リズアートとナトゥールの悲鳴が聞こえたと同時、ベルリオットは身体に鉄球でもぶつけられたかのような感覚に見舞われる。
一瞬の浮遊感ののち、墜落。何度も何度も身体を打ちつけながら防壁通路の上を転がる。咄嗟に頭を抱え、被害を最小限に留めようと努めた。なのに衝撃は脳に響いて止まない。
勢いがなくなったあとでも視界の揺れは止まらなかった。
強く頭を打ったせいか、脳内の情報が錯綜している。
なにが起こったのか。
思考が上手くまとまらない。
防壁通路の足場や狭間胸壁を破壊しながら、モノセロスがベルリオットたちに向かって猛然と突進してくるのが見えた。石材を撒き散らされ、防壁は荒々しく崩れていく。
モノセロスとの距離がどんどん縮まっていく。
なんだかよくわからないが、このままでは死しか待っていないことをベルリオットは理解した。
そして、それに対抗する手段がないことも。
ぼろぼろの衣装、傷だらけの肌をしたエリアスが、モノセロスの後方から現れた。追い越そうとするが、力がもう残っていないためか、モノセロスと併走するのが精一杯のようだった。
モノセロスの腹部に剣を突きたて、エリアスは叫ぶ。
「この化け物がッ!! 止まれぇえええええええ――ッ!!」
しかし勢いは止まらない。
なぜエリアスがあれほどまでに必至になっているのか。
ベルリオットを助けるためか。
いや、違う。
他に護らなければならないものがあるからだ。それを思い出したとき、ベルリオットは無意識的に軋む首を曲げて、辺りを探った。
ぼやけた視界の中、リズアートとナトゥールが映った。
二人とも倒れている。ぴくりともしない。
頭を強打してしまい、意識を失っているのだろう。
手を伸ばしても彼女たちには届かない。
届いたところでベルリオットには彼女たちを助ける術がない。
彼女たちを抱えて、モノセロスから逃げることすらできない。
あまりにも非力な自分への憎悪が膨れ上がっていく。
……どうして俺には力がないんだ。護りたいものを護りたい。目の前で倒れている奴を護りたい。たったそれだけなんだ。それだけのことがどうしてできないっ!
視界が涙で滲んでいく。
力が欲しい。
弱いシグルをようやく一匹倒せる程度の力じゃ足りない。
どんな奴からも、護りたいものを護れる力が欲しい。
強く、強く両手を握り締めた。
そのとき――。
どくん、と心臓が跳ねた。
同時に、体中に焼けるような痛みが走った。身体が重い。脳も“もう立てない”と信号を送っている。なのに、ベルリオットの身体は勝手に立ち上がった。
そして――。
一歩、二歩、と。
倒れるリズアートとナトゥールの前に、足を踏み出した。
筋肉が悲鳴を上げている。けれど止まろうとは思わない。思えない。
自分が、自分でないような感覚。
意識が飛んでいる。
そう自覚しているのに、視界を映像として認識することができた。
モノセロスはもう目前。
その猛進を止めんと、腹部に剣を突きたてているエリアスが驚愕しているのが見えた。
彼女はなにをそんなに驚いているのか。
そう思考するベルリオットの視界に、赤の燐光がちらついた。
直後、モノセロスとの距離がなくなる。
轟音と共に、ベルリオットの全身に強い衝撃が走った。吹き飛ばされたのか。しかし先ほど立っていた場所から足は一歩も動いていない。
視界は真っ黒な闇で埋め尽くされていた。
が、すぐにそれがモノセロスの顔だとわかった。
ベルリオットがモノセロスの突進を受け止めたのだ。右手で角を、左手で顎を掴んでいる。
モノセロスは、後ろ足を何度も蹴ってなおも前進しようとしている。だがベルリオットが押さえている限り、いくらやっても進めない。
なんだか背中が熱かった。
背中だけではない。全身が、先ほど感じていたよりも、もっと熱くなっている。
大気に満ちる力を体内に取り込み、巡らせ、外へと還す。
この感覚を、俺は知っている。
失っていた意識が、体内を駆け巡る力の奔流によって段々と覚醒していく。
視界にちらついていた赤の燐光がさらに多くなり、やがて覆いつくすほどになる。
ベルリオットはゆっくりと前に足を進めた。モノセロスを後退させていく。
抵抗にあったためか、モノセロスが激しく暴れ始める。
「エリアス! 離れろ!」
一瞬、躊躇いを見せたエリアスだったが、すぐにモノセロスから離れてくれた。
離れてもらったのは巻き込まないため。
それほど強大な力が自分の中にあることを、ベルリオットは感じとっていた。
エリアスが離れたのを見計らって、さらに力――アウラを取り込んだ。赤の奔流が、荒々しく背中から流れ出ていく。
爆発的な加速。
モノセロスが駆けてきた防壁通路の上を押し返していく。もはやただ押し出されるがままのモノセロスの口に向かって、ベルリオットは右手を突き出した。
叫ぶ。
「――砕けろッ!!」
無骨な赤色結晶が、巨大な槍となってモノセロスを穿つ。
ぐぐもった鳴き声を残し、モノセロスの身体が弾けた。形成していた黒い靄が、夜の闇に溶け込むようにして霧散していく。
「はぁっ……はぁっ……」
モノセロスの消え行く様を、ベルリオットは空中から見ていた。
残ったのは、モノセロスによって荒らされた半壊の防壁。
「俺が……やったのか……」
自分の両手を見つめる。
いまだに信じられなかった。
しかし途中、意識があやふやだったときのことははっきりと覚えている。
あいつを……モノセロスを倒したのは紛れもなく、俺だ。
そして、この赤色のアウラ――。
「ベルリオット・トレスティング……。あなたはいったい……」
エリアスも、ベルリオットの成したその所業に驚きを隠せないようだった。
ふとエリアスのその先、倒れている二人が目に入る。
「そうだ。あいつとトゥトゥは!」
はっとなったエリアスが、いち早くリズアートの元に向かった。ベルリオットもすぐさまナトゥールの元へと飛んでいく。
「姫様っ、姫様っ!」
「おい、トゥトゥ、しっかりしろ!」
声をかけると、彼女たちから反応が返ってくる。
「……エリ、アス……」
「ベル……」
二人の無事を確認でき、ベルリオットとエリアスは互いに顔を見合わせ笑顔をこぼした。
「誰か、無事な者はいませんか! すぐに救護を! 王都への救援要請もすぐに手配して下さい!」
エリアスが叫ぶ。
その声が、ベルリオットには段々と小さくなっていくように聞こえた。
良かった……。俺、こいつらを護れたんだよ……な……。
リズアートたちが無事だったことに安堵したためか。張り詰めていた緊張が解けたらしい。突如、全身が激しい痛みに襲われ、ベルリオットは立っていられなくなった。同時に脳が焼ききれるような感覚にも見舞われ――。
視界が暗転した。
◆◇◆◇◆
遥か上空へと力強く伸びる木々、優しい風に揺られる色とりどりの草花。
それらの合間を縫って、またはそれらそのものから生え出るように結晶の塊が顔を覗かせていた。青と赤色でうっすらと彩られる。結晶を挟んでも向こう側が見えるほど恐ろしく純度が高い。
豊かな緑や結晶に囲まれた泉では、様々な生き物が集まり、水浴びをしている。
実態を持たないアウラで構成された――精霊たちも、優しげな表情を見せながら泉の上をたゆたう。
暖かで心地よい世界。
浮遊大陸の遥か天上の世界。
ここはアムールの住まう世界。
「ついに……目覚めたようです」
泉の畔に立つ、女が言った。
足先まで伸びた長い青みがかった銀髪。染みひとつ見当たらない真っ白な肌。欠点がなくなるまで何度も何度も整えられた、まるで人形のような貌。すらりと伸びた手足。彼女の美しさを際立たせる、単調な造りの水色のドレス。
どれもが、超然たる雰囲気を醸し出していた。
「ようやくか。ったく、おっせーなぁ」
近く、岩に腰掛ける男がいた。
まるで流離い人を思わせる、陳腐な外套に身を包んでいる。歳は四十代。精悍な顔つき、外套の上からでも窺えるほど筋骨隆々とした身体が特徴的である。
穏やかな表情で、女が言う。
「仕方ありません。そういうものですから」
「護るために、ってやつか?」
「正しき力を振るうために、必要な誓約です」
「ふむ、アムールってのは難儀なもんだな」
男は肩を竦めて言った。
それに対し、女は答えなかった。一度目を伏せ、泉の水面へと目をやる。
「ここから始まるのです。目の前に差し出された光と闇を前に、人は、迷い、疑い、混乱することでしょう。ですから、あの子には標となって欲しい。そして願わくば我らアムールと人との架け橋にもなって欲しいのです」
「えらい大役を担わされちまったもんだな。あいつも」
「酷だ、と思いますか」
「そりゃあな。けどまー、酷いとは思っても責める気にはならねえな」
「どうして、でしょうか」
「決まってるだろ。おかげであいつと出逢えたってことだよ」
「あなたに任せて本当に良かったと思います」
「あいにくと半ばで離脱しちまったけどな」
おどけた風に言う男だったが、その瞳には後悔の念が込められていた。
憂うように、女が目を細める。
「あの子の力はまだ眠っています。目覚めるまでに、なにもなければ良いのですが……」