◆二十五話『メルザリッテ・リアン』
多くの日の光が樹冠によって遮られていた。
空気はひんやりと冷たい。少し湿った地面には大樹の根があちこちから見え隠れしている。どれも苔がふんだんに生えているため、踏まないように気をつけなければならない。
ベルリオットは幾本もの枝をまとめて肩に担いで歩いていた。
どれも乾燥したものばかりだ。服が濡れたり、ぬめぬめとした感触を伝えてきたりといったようなことはない。
ただ、身の丈よりも大分長いため、先端の葉が地面をこすってしまっていた。
かさかさという葉擦れの音が静かな森の中によく響く。
開けた場所に出た。
遮られることなく射し込む日の光に思わず目を細めてしまう。前は見えないが、勝手知ったる場所だ。荒々しく刈り込まれた雑草のうえを止まらずに歩いていく。
目が光に慣れると、雑草の生えていない箇所が映った。
そこには木造の机や椅子が何組か置かれていた。どれも無骨だが、機能的な問題はない。
「戻ったか」
端のほうに置かれた椅子にひとりの男が座っていた。
長く疎遠だったためにぼやけはじめていたが、いまや毎日顔を突き合わせているので間違えるはずもない。父のライジェルだ。
ベルリオットは彼のそばまで行き、担いできた幾本もの枝を下ろした。
「これぐらいでいいか?」
「おー、助かる」
ライジェルは片手に持った刃物で、もう片方の手に持った木の塊を削っていた。木の塊とはいっても取っ手までついたカップを見事に模っている。
あとは表面を削りさえすれば、専門の職人が作ったものとなんら変わらない出来だ。
器用なものだ、とベルリオットはあらためて思う。
「まだいるならとってくるけど」
「いや、充分だ。こういうのはな、必要なときに必要な分だけとればいいんだ。……よし、これぐらいでいいか」
ライジェルが木のカップから視線を外すと、なにか気づいたようにこちらをじっと見てきた。
「髪、伸びたな」
そう言われて、ベルリオットは自身の髪を指で弄った。
たしかに肩にかかるぐらい伸びてしまっている。
「あれから結構経ったしな」
「もう三ヶ月ぐらいになるか」
ライジェルがすっと視線を上げる。
釣られて、ベルリオットも空を仰いだ。
七つの大陸は、すでに狭間へと飛び立った。
もう、その姿を確認することは叶わない。
ベルリオットは「それにしても」と口にする。
「最近はシグルの襲撃も減ったな。前はひっきりなしに来てたのに」
「こっちとしちゃ楽でいいんだがな」
大陸が上昇した初日のことだ。穴から現れるシグルをすべて押さえ込むことに成功したものの、あまりの数の多さに撤退。その後は地上を転々としながらシグルの襲撃を退けていた。
ほとんど休む間もない日々が続いた。
だが、一ヶ月ぐらい経った頃だろうか。
襲ってくるシグルの数が急激に減ったのだ。
「あちらも無駄に数を減らすだけだと気づいたのかもしれませんね」
草を踏みしめる音とともに、覚えのある声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこにメルザリッテが立っていた。湿った服入りの籠を両手で抱えている。
近くの川に服を洗いに行ってくれていたのだ。
「ただいまです」
「ああ、おかえり」
ベルリオットの返事に満足気に微笑んだのち、彼女は木の枝で簡易組みされた物干し竿に洗濯物を干していく。穏やかな風にあおられ、草葉とともに服が揺れる。
ひどく自然を感じさせてくれる光景だ。
「しっかし、拠点を変えて正解だったな」
ライジェルが言った。
彼は周囲の緑を目に収めながら、とても和やかな表情を浮かべていた。
その気持ちはベルリオットにもよくわかった。
「ああ。水もあるし、食糧も獲れるし、言うことないな」
「あとはふかふかのベッドがあれば良かったのですけれど……もちろんわたくしとベルさまが一緒に寝るための――」
「あ、親父。ちょっと水浴びしてくるから見張り頼む」
「おー、行ってこーい」
父のおざなりな返事を受け、ベルリオットは歩きだす。
と、目の前にメルザリッテが割りこんできた。彼女は洗濯物――ベルリオットの下着を両手で力強く握りながら真剣な表情を向けてくる。
「ベルさまっ、見張りはわたくしにお任せくださいと何度も言っておりますのにっ」
「メルザから守ってもらうための見張りだ」
「あぅ」
/////
ベルリオットは拠点からほど近い場所にある、広い湖に足を運んだ。
ほとりで服を脱いだのち、足先から順に湖の中へと入っていく。
温かな空気と相反して、さすがに水の中は冷たい。
とはいえ、一度慣れてしまえば心地よいとさえ思える温度だ。
腰まで浸かったのち、両手でくみ上げた水を顔にかけた。
つい先刻までじめじめとした樹林の中を歩いていたこともあり、少し汗をかいてしまっていた。それらが取り払われ、一気に爽やかな気分で満たされる。
湖は隙間なく大木に囲まれていた。おかげで視界が悪い。
だが、逆にいえば誰にも見られないという安心感がある。
もちろん覗こうと思えば簡単に覗ける。そして、覗こうと思う者もこの地上にはひとりしかいない。ふと視線を感じて振り返れば、メルザリッテが木陰に隠れていたなんてことは一度や二度ではなかった。
まあ、今回は親父に頼んだし、大丈夫だろ……。
こんなにも広い湖を裸の自分が独り占めにしている。
なかなかに解放感あふれる状況に、ベルリオットはわずかながら高揚した。
水の中へと飛びこんだ。
視界が薄い青で満たされる。誰にも汚されることなく放置された湖だからか、ひどく澄んでいた。おかげで底に群生する水草や、魚を代表とした多くの水中生物を容易に視認することができた。
ふと前方に巨大な裂け目を見つけた。細長い道が湖の側面から延びている格好だ。川だろうか。一旦、水面まで浮上したのち、上から確認してみた。その川らしき場所の水面は、大樹が作り出した天然の門によって塞がれている。
こっちのほうは来たことがなかったな。
ベルリオットは好奇心に突き動かされた。天然の門を水中から潜る。大樹に日の光を遮られているからか、少し暗かった。とはいえ、まったく見えないわけではない。構わずに突き進んでいく。
やがて終わりが見えた。同時、くっきりと日の光が射し込む場所に出た。
先ほどと同等か、それ以上の広さの湖だ。
と、前方に自然から明らかにかけ離れたものを見つけた。全体的に流線型で表面はくすんだ白色に染められている。そして、なによりとてつもなく巨大だった。それもすべてがあらわになっているわけではなく、一部が湖に浸かっているといった状態のようだ。
これは……?
ベルリオットは既視感を覚えた。
ありえない、と思いつつも慌てて水面へと浮上する。
そこに映ったものを前に思わず目を見開いてしまった。
間違いない。
かつて、ガスペラント帝国がルッチェ・ラヴィエーナに造らせた最大級の飛空船――。
「飛空戦艦……!」
だが、明らかにおかしかった。
リヴェティアを始めとした連合国とガスペラント帝国との間に行なわれた戦争の最後、たしかに飛空戦艦はガルヌによってその動力である飛翔核を破壊され、狭間から落ちた。
だというのに、目の前の飛空戦艦にはほとんど損傷が見られない。強いてあげるならば、正面に取りつけられた巨大な円筒が根元で折れているぐらいだ。
なぜ、このような状態で残っていたのか。
ベルリオットはすぐに答えに辿りついた。飛空戦艦の胴体に大量の枝が絡みついていたのだ。その枝を辿ると、とてつもなく太い幹を持つ大樹に行きついた。ほとりに生えたその大樹は湖の中へと多くの根を伸ばしている。
あれほど大きく、しなる木はひとつしか考えられない。
間違いない。キノカリだ。
しかし、ファルール大陸のある湖のほとりにしか生えない特殊な大樹だったはずだ。それが、どうしてこんなところに生えていたのか。よく見てみれば周囲にはほかにもキノカリの姿を認めることができた。
その光景を前にすれば、こちらのキノカリが起源だと思わざるを得なかった。
けど、こんな偶然があるなんて……。
キノカリが緩衝材代わりになり、さらにその先にある湖に飛空戦艦が落ちたことで被害を最小限にとどめられたということか。
もちろん飛空戦艦の頑丈さもあってのことだろう。
だが、これは奇跡としか言いようがない。
ともあれ目の前の飛空戦艦をどうするか、とベルリオットはひとりうなる。
アウラを使えば引き上げられなくもない。
だが、さすがにひとりでは骨が折れそうだ。
とりあえず親父たちを呼んでくるか。
/////
「話には聞いてたが、ほんと馬鹿でけぇな」
「俺も最初に見たときは驚いたよ。こんなでかい飛空船が存在するのかってな」
「さすがはラヴィエーナの子孫ってとこか……うへっ、苔でぬめってやがる」
ベルリオットはライジェルとともに飛空戦艦の操舵室にいた。すでに引き上げは終わっているため、浸水箇所はない。が、ところどころに水気が残っているため、ひどく滑りやすかった。
硝子張りの前面。その少し手前には大小様々な水晶が埋めこまれた台座が並んでいる。それらは飛空戦艦を動かすために使うものだ。
ライジェルが中央の台座前に立った。
なにやらアウラを流しこもうとしているようだが、水晶は一向に反応しなかった。
「どこも大きく壊れてないみてーだからもしかしたらって思ったんだが……さすがに動きやしねえか」
「飛翔核が壊されてるしな」
「飛ぶとこ見てみたかったんだがな、残念だ」
言って、ライジェルが肩をすくめた。
すでに大陸が完全に浮遊したいま、地上でシグルの殲滅に当たる意味はほとんどない。
仮に飛翔核の力を持ったまま飛空戦艦が動きだしたのなら、喜んで狭間の世界に戻るところだ。
だが、それが叶わないことである、とベルリオットは充分に理解していた。だから落胆はしていないはずなのに、ライジェルがこちらを気遣うようにおどけながら喋りだした。
「ま、なかなか住み心地の良い拠点になりそうだし、充分な収穫だろ」
「だな」
父のお節介にくすぐったさを感じながら、ベルリオットはそう短くこたえた。
ふと、静かな足音が聞こえてきた。音のほうを見やると、操舵室の入り口でメルザリッテが立っていた。
「そっちはどうだった?」
彼女には機関室やその周囲の部屋の探索を任せていた。
その結果報告を聞きたかったのだが、なにやら声が届いていないようだった。考え事をしているのか、俯いたままぼーっと突っ立っている。
「おい、メルザ?」
「あ、は、はいっ」
ようやく気づいたらしい。
はっとなったメルザリッテが顔をあげた。
「いくつか非常食を見つけたのですが、どれも食べられる状態ではありませんでした」
「これが落ちてから結構経ってるもんな」
「ですが、メルザとベルさまが一緒に寝るためのベッドは見つかりました」
「なんで〝一緒に〟がついてんだ。ていうか、それ絶対ひとつじゃなくて複数あるだろ」
「はっ、いますぐ処分してまいります」
「余計なことするなっ」
ベルリオットは頭に手を当てながらため息をついた。
「どんだけ一緒に寝たいんだよ……」
そう呟きながらも、呆れとは別のものが胸の中を占めていた。
先ほどメルザリッテが見せた物憂げな表情が気になって仕方なかったのだ。
横目で彼女の様子をうかがうと、手拭を噛みながら「お慈悲を~!」と涙を流していた。
ベルリオットは生まれた安心感からか思わず軽く噴き出してしまう。
大丈夫だ。
いつもとなにも変わらない。
お調子者のメルザリッテだ。
/////
ベルリオットはまどろみの中で、しっとりとしたものが額に触れるのを感じた。
だが、それは不快に感じるものではない。
むしろ心を落ちつかせてくれるような、懐かしい想いを抱かせてくれる。
いつだったか、こんな風にしてもらったことがあったな……。
そんなあやふやなことを考えていると、近くに感じていた温もりが遠ざかっていくのを感じた。待ってくれと叫びたいのに声が出ない。風も吹いていないのに、冷たい空気が一気に押し寄せてくるような感覚に見舞われる。
気づけば、ベルリオットは目を覚ましていた。弾かれるようにして上半身を起こしたのち、なぜか荒くなった息を整えながら周囲を見回した。
手を伸ばせば、大半の壁を触れてしまうほどに狭苦しい部屋だ。調度品はこじんまりとした机がひとつしかない。ほかには壁に棚が埋め込まれているぐらいで、ひどく殺風景な場所だった。
これまで野宿をしていたときのような、自然をまったく感じられない造りだ。
一瞬ここはどこなのか、と思ったが、すぐに記憶を漁り、答えを見つけた。
そういえば飛空戦艦に拠点を移したんだっけか。
ベルリオットは緩慢な動きでベッドから出た。上着が湿って気持ち悪い。どうやら寝汗をかいてしまっていたようだ。このままでいるわけにもいかず、面倒だと思いつつも結局着替えることにした。
さて、どうするか、と自問する。もう一度寝なおそうにも、そんな気分ではなかった。先ほど寝ているときにいやな気分になったからかもしれない。
少し散歩でもするか、と軽い気持ちで部屋を出ることにした。
細長い通路を歩いていく。この辺りは艦内に設けられた居住区だ。先ほど使っていたのは士官室なので個室だったが、一般騎士用の部屋は先ほどの広さの部屋に二から四人が寝るという。酷い待遇だと思う反面、限られた空間しかない飛空戦艦の中では仕方のないことかもしれない、とも思った。
通路を進んだ先、機関室の二階に行き当たった。中央を囲うように回廊が設置されており、欄干を隔てた先、どこからでも一階を見下すことができた。
くねくねと何度も折れ曲がった細長い円筒があちこちに見られた。それらの大半は機関室のあらゆる場所から伸び、中央に置かれた重厚な台座に繋がっている。
台座の上には欠損した飛翔核が乗っている。
言うまでもない。
あれこそが、この飛空戦艦の動力部であったものだ。
「ごめんなさい、アルシェラ。あなたを付き合わせることになってしまって……」
ベルリオットは目を瞬かせた。
台座の前にメルザリッテが立っていたのだ。
メルザ……?
なにやら物憂げな表情で、じっと上半分を失った飛翔核を見つめている。
ベルリオットは隠れるつもりもないのに自然と足音を制限してしまった。ただ、メルザリッテは、すでにこちらの存在に気づいていたのか。
ベルリオットが一階についたとき、彼女は動じることなく微笑みながら出迎えてくれた。
「……眠れなかったのですか?」
「あ、ああ。メルザもか?」
「そう、ですね」
なにか詰まったような言い方だった。
ただ、そのことについて問い詰める気は起こらなかった。訊きづらい雰囲気だったというのもあるが、ほかに気になることがあったのだ。
「なあ、メルザ。さっき口にしてたアルシェラって……」
「聞かれてしまいましたか」
「悪い。盗み聞きするつもりはなかったんだが」
メルザリッテはとくに怒ることも困ることもしなかった。
ただ、ちらりと飛翔核を見たのち、その対面へと歩を進める。壁に張りつく格好で横向きに設置された細長い円筒。そこに彼女は腰を下ろした。
「よろしければ眠気が来るまで少しお話でもしませんか」
断る理由はない。
ベルリオットは抵抗なく、メルザリッテの隣に座った。円筒が設置された場所は腰よりも少し低い高さなため、座るのにはちょうど良かった。
「静かですね。とてもシグルの支配する地上とは思えません」
「親父が見張り番してくれてるからだけどな」
「では、メルザはライジェルさまに感謝しなければなりませんね。こうしてベルさまと二人きりでお話できる機会を下さったのですから」
メルザリッテがしとやかに笑ったのち、すっと視線を上げた。
その見つめる先は機関室のどれでもない。
もっと遠くを見ているようだった。
「アルシェラのことでしたよね」
「ああ。もし話したくなかったらいいんだ」
「お気遣い感謝いたします。ですが問題ありません。アルシェラもベルさまに話すことを望んでおりますから」
言いながら、メルザリッテが右手で左肩の辺りをそっと撫でた。
そんな彼女を見つめながら、ベルリオットは口を開く。
「同化、してるんだよな」
「やはりお気づきでしたか」
「さすがに、な。クティを狭間に残したのもそれが大きな理由だ。幼い頃に辛い目に遭ったあいつだから、これからの……たとえ一時であっても平和な時間を自分のために過ごして欲しくてさ」
教会の者として人々を導いて欲しい。
そうした想いを告げることで彼女を狭間に縛りつけたが、自分にとってそれは建前だった。親しい者として、やはり彼女の幸せが第一だ。戦いに明け暮れるかもしれない、この地上に連れてくるわけにはいかなかった。
「ベルさまらしいです」
メルザリッテがかすかに息を漏らしながら笑みをこぼす。
なんだか仕方のない人だ、と言われているような気がした。
「わたくしとアルシェラの場合、ベルさまとクティのような関係ではありませんでした。ただ、お互いに宛がわれた相手として手を組んでいたといったところでしょうか。少なくともわたくしはそうでした」
「意外だな。メルザならすぐに仲良くなってそうなのに」
「生まれた頃のわたくしは、ただベネフィリアさまを護ることしか頭にありませんでしたから。ほかの感情は……あの頃はほとんどなかったように思います」
メルザリッテが視線を下げながら自嘲するように語った。
感情のない彼女の姿などベルリオットには想像できなかった。
喜怒哀楽が激しくて、お調子者で、少しばかり……いや、かなり過保護なメイドというのが大まかな印象だ
ただ、時折、氷のように冷たい表情を見せるときがある。
もしかすると、それこそが昔の彼女の名残なのかもしれない、と思った。
「ただ、月日が流れ、アルシェラとの同化が完全に終わったとき、感じたのです。初めて空虚な感覚を。ずっとそばにいた者がいなくなるという寂しさを。……あのときを境に、わたくしに心という芽が生まれたのかもしれません。ただ、それは花開くことなく、ただ暗い感情をわたくしの中に残しただけに終わりました」
メルザリッテが話を続ける。
「そして来たるシグルとの大戦。わたくしはベネフィリアさまの命を受け、人を護るためにただただ剣を振りつづけました。いえ、人を護るなどという理由は本当はなかったのです。ただ、ベネフィリアさまに命じられたから、という理由しかありませんでした」
彼女は淡々と語りながらも、ぐっと両拳を握りしめていた。
そんな彼女を見守りながらベルリオットはただ静かに耳を傾けつづける。
「激戦に次ぐ激戦を乗り越え、生き延びたわたくしは新たな命をベネフィリアさまより受け賜りました。それは狭間に世界にて、ベネフィリアさまの子……ベルさまを育てる、というものでした。初めはなぜわたくしなのか、という想いで一杯でした。ですが、なぜベネフィリアさまがわたくしにベルさまを託されたのか。それは、ベルさまと出逢ってから、すぐに気づくことが出来たのです」
これまで強張っていた彼女の表情がふっと和らいだ。
穏やかな笑みを浮かべながら開いた両の手を見つめる。
「ベネフィリアさまの……母の温もりを早くに失ったからでしょう。わたくしの腕の中でベルさまは泣いてばかりでした。困惑したわたくしは、なんとかあやそうとしたものの、うまくいかず。慣れないことをしたからでしょうか、その……こ、こけてしまいまして」
言って、彼女は少しはにかむ。
「もちろん、とっさに庇ったのでベルさまにお怪我はありませんでした。ただ、また泣かれてしまうのではと心配ですぐにお顔をうかがったところ、わたくしは見たのです。ベルさまが初めて笑ったところを。……そのとき、わたくしの中でなにかが弾けました。きっと遠い過去、自身の中に生まれた芽がようやく花開いたのだと思います。気づけば、わたくしは笑っていました」
いまのメルザリッテも笑っていた。
飾ることのない、優しい笑みだ。
きっと当時の彼女もこのような顔をしていたのだろう。
ベルリオットは嬉しい反面、覚えていないのが少し残念に思えた。
「それ以来、わたくしの心はベルさまとともにありました。ベルさまが笑えば、メルザも笑顔になりました。ベルさまが悲しめば、メルザも悲しくなりました。ベルさまに怒られると、メルザはすごく悲しくなりました」
彼女が話す通りだった。
幼き頃から、メルザリッテのいなかった日常などなかった。
記憶をさかのぼれば、必ずどこかに彼女の姿を見つけることができる。
自分にとってメルザリッテ・リアンは、紛れもなくそばにいて当然の存在だ。
「これまで空っぽだったわたくしの心には、どんな感情も新鮮で、まるでアウラのようにすっとわたくしという存在に溶け込んでいきました。そして、気づいたのです。ベネフィリアさまは、きっとわたくしに心を与えるため、ベルさまを託してくださったのだと」
メルザリッテが「ベルさま」と言いながら立ち上がると、こちらに向きなおった。
「メルザは、ベルさまと一緒に過ごせて本当に幸せでした。この胸に刻まれた温かな記憶。なにがあっても一生、忘れません」
その改まった態度にベルリオットは思わず戸惑ってしまう。
「おかしなやつだな。べつにこれから別れるわけでもないのに」
そう言うと、メルザリッテが眉尻を下げた。
ベルリオットは心がざわついた。
得体の知れないものが腹の底からせりあがってくる。
「……メルザ?」
うかがうように彼女の名を呼んだ。
しかし、返事はない。
メルザリッテはこちらに背を向けると、欠損した飛翔核のほうへと歩きだした。
かつかつ、という足音が静かな機関室内に響く。
「クティがアムールの翼になるところを直に見ていますから、精霊がアウラの光そのものになれることはご存知ですよね」
こちらの返事を待たずに話が継がれる。
「実は、精霊と同化したアムールにもそれは可能なのです」
そう口にしたとき、ちょうど彼女は欠損した飛翔核の前にたどりついた。その真っ白な手で、そっと飛翔核に触れる。
その後ろ姿は、ひどく儚げだった。
「なんで、いまそんなこと――」
「これよりわたくしの身と引き換えに飛翔核を再生いたします」
メルザリッテが振り返るなり、そう言い放った。
「は……? いきなりなに言ってんだ……?」
ベルリオットは、メルザリッテの言葉をうまく理解できなかった。
頭の中にはしっかりと入っている。
だが、理解することを拒むように頭の中が真っ暗だった。
メルザリッテが淡々と説明をはじめる。
「飛翔核の力をもってすれば狭間の空域へと到達することは可能でしょう。そうすれば、また狭間に戻ることが――」
「そんなことを訊いてるんじゃない!」
ベルリオットは思わず大声をあげてしまった。
機関室に自身の声が反響する中、脳内にばらついた言葉の中で、もっとも受け入れがたいものを掴み取った。
顔を上げ、恐る恐る口にする。
「命を犠牲にってどういうことだよ。まるで、いなくなるようなこと……」
「飛翔核は創造主によって命あるものとして造られました。アムールの器と先ほどお話した精霊の力。そして、わたくしの命があれば飛翔核を再生させることができます」
「……ふざ……けんなよ……」
ベルリオットは、ようやくメルザリッテの言葉をすべて理解することが出来た。
気づいたときには湧き上がった怒りが外へと出ていた。
「ふざけんな! たとえ、それが可能だったとして、なんでそんなことする必要があるんだ!? わけがわかんねえよ!」
「わたくしは、ベルさまからたくさんのものを与えていただきました」
「だから自分の命を犠牲にして俺に未来を与えようっていうのか!? そんなもの俺は望んでない! 勝手に決めんな!」
あふれ出る気持ちは止まらない。
「大体、メルザの未来はどうなるんだよ! おまえは生きたくないのかよ! なんもないところだけど、ここには俺と親父がいる! 昔とそのまんまだ! これじゃだめなのかよ!」
「……メルザはもう、長く生きました」
その言葉は静かに放たれたのに、すとんとベルリオットの中に入ってきた。
メルザリッテが微笑んでいた。
そこに諦観はいっさい感じられない。
あるのはただひとつ。
慈愛だけだ。
「ベルさまが、まだ狭間での未来を捨て切れていないことを知っております」
「そんなことおまえにわかるわけが――」
「わかります。まだ赤ん坊だった頃から、いまに至るまで誰よりもベルさまを見てきましたから」
こちらを真っ直ぐに見ながらメルザリッテが微笑んできた。
無理だ、と思った。
彼女の前では隠し事などできるはずがない。
彼女の言うとおりだ。
地上に来てからも、幾度なく狭間に住まう人たちの顔が脳裏に浮かんでいた。
時間とともに忘れていくだろう、と初めは思っていた。
だが、それは大きな間違いだった。
日に日に恋しく思う気持ちが増していくのだ。
だから、後悔がないと言えば嘘になる。
だが、それでも自分で選んだ道だ。
「たとえそうだったとしても……おまえを失ってまで、俺はそんなもの欲しくはない……っ!」
ベルリオットは叫び、訴える。
だが、メルザリッテは返事をしてくれない。
それが彼女の決意の固さをいやおうなく伝えてくる。
「嘘……だろ? なあ、メルザ。嘘だって言ってくれ!」
どうにかして彼女を引きとめられないか。
半ば狂騒状態に入った頭で言葉をひねりだしていく。
「そうだ、ベッドで一緒に寝たいって言ってたよな。だったら、いくらでも一緒に寝てやるから! それだけじゃない。ほかにもなにかしたいことがあるなら言ってくれ。俺に出来ることならなんでもするから、だからっ!」
自分の言葉が、機関室に何度も何度も虚しく響きわたる。
と、すぐそばから足音が聞こえた。
叫んでいたため、いまのいままで気づけなかったのだろう。
音のほうを見やれば、ライジェルが立っていた。
「親父……」
ライジェルがどうしてこの場にいるのか。
見張り番はどうしたのか。
そのような疑問が脳裏を一瞬過ぎったが、ベルリオットはすべてを取っ払った。
いまはただ、メルザリッテのことで頭が一杯だった。
「親父からもなんとか言ってやってくれ! メルザのやつ、自分の命と引き換えに飛翔核を蘇らせようとして――」
ライジェルの達観したような表情を見て、ベルリオットは気づいてしまった。
彼はもう知っている。
そのうえで、この場に来たのだ、と。
「もう、いいのか?」
「はい。お時間をいただいて、ありがとうございます。ライジェルさま」
「気にすんな。こんぐらいお安い御用だ」
ライジェルはひどく落ちついていた。
それが、ベルリオットには許しがたかった。
「なんでだよ……メルザがいっちまうんだぞ! 親父はいいのかよ!」
「良いわけねえだろ!」
即座に返ってきた怒声にベルリオットは思わず気圧されてしまう。
「けど、それでもあいつが決めたことだ。家族が己の信じた道を行くってんだ」
見れば、ライジェルの全身が震えていた。
その両手も強く強く握られている。
「だったら! しっかり送ってやんなきゃなんねえだろうが」
「……親父」
ベルリオットは自身の愚かさを悔いた。
三人家族として長い時間をともに過ごしてきたのだ。
ライジェルだって辛くないわけがない。
いまだメルザリッテを行かせたくないという想いは消えていない。
だが、己の感情を必死に抑えようとするライジェルの姿を目にしたからか、ベルリオットは心が次第に落ちついていくのを感じた。
「ベルさま」
ふいにメルザリッテに呼ばれ、振り返る。と、額に湿った感触を覚えた。ふわり、と甘い匂い。少し青みがかった銀の髪が頬をさらりと撫でていく。
そこでようやく額に口づけをされたのだと気づくことができた。
ベルリオットが思わずあっけにとられてしまう中、メルザリッテが顔を離し、悪戯っ子のような笑みを向けてきた。
「お口にしてしまおうかとも思いましたけれど、止めておきました。やっぱり、お口はベルさまの大切な方にとっておかなければなりませんしね」
言って、彼女は後ろ歩きで離れていった。
そして台座のそばに立ち、飛翔核に指先を触れさせる。
ベルリオットはおぼつかない足取りでメルザリッテのあとを追う。
「頼む……メルザ……頼むから!」
「どうか、あなたさまの未来が幸せで満たされますように」
「行かないでくれ……!」
そう叫びながら、ベルリオットは駆けた。
一気に距離を詰め、彼女の身体へと手を伸ばす。が、その手がなにかに触れることはなかった。彼女を掴めなかった手を握りしめ、まっすぐに前を見つめる。
無数の青白い燐光に包まれる中、メルザリッテの身体が透けていた。彼女の色は、いまも徐々に薄くなっている。だが、はっきりと彼女が笑ったことだけはわかった。
「ベルさま、ありがとうございました」
「メルザっ!!」
ベルリオットはもう一度、手を伸ばした。
その瞬間、メルザリッテの色がなくなった。代わりに周囲に浮かんでいた青白い燐光が弾けるように散った。それらは流れるように舞い上がり、そばに置かれていた飛翔核へと吸いこまれていく。まるで結晶武器が形勢されるかのように飛翔核の欠けていた上半分がすぅと生成される。
飛翔核が再生したのちも光が止むことはなかった。
まるで胎動するように飛翔核の中で光が明滅している。
それはなにより力強く。
なにより温かい。
まさしく、飛翔核が生きていることを証明していた。
一気に明るくなった機関室の中、ベルリオットは膝をついた。
頬を伝う大量の涙が、ぽたぽたと床に落ちていく。
全身に力が入らなかった。
鳴動する飛翔核を見つめながら、ただただ静かに泣くことしかできなかった。
本当にメルザリッテは消えてしまったのだろうか。
そんな思いが、いまだ脳裏を駆け巡り続ける。
だが、なにも掴めなかった両手がいやおうにも現実を突きつけてくる。空虚で満たされた手の中には、なにも残っていない。
屋敷に帰ったときは、いつも花開くような笑みで迎えてくれた。気分が落ちこんでいるときは、わざとふざけて元気づけてくれた。辛いときや悲しいときは、なにも言わずにそばにいてくれた。
無償の愛を与え続けてくれた。
優しく包みこんでくれる彼女の温もりを、もう感じることはできない。
「男がいつまでも泣いてんじゃねぇ」
ライジェルの言葉に応えることはできなかった。
涙が止まらないのだ。
胸の中がぽっかりと空いてしまっている。
なにものでもそれを埋めることなどできない。
この感覚。
ライジェルが死んだかと思われた、あのときと――。
「俺のときとは違う。言っただろ、あいつはあいつ自身で選んだんだ」
そう口するライジェルもまた、ただ真っ直ぐに飛翔核を見ていた。
だが、その瞳は涙で濡れてはいない。
ベルリオットはもう一度、飛翔核へと視線を戻す。
「誰よりおまえの幸せを願った、メルザの想いを無駄にすんな」
ライジェルの言葉が心の奥底にまで響きわたる。
俺の幸せ……。
どれだけ平和な時間を過ごせたとしても、そこにメルザリッテはいない。
そう考えただけでも胸が張り裂けそうだった。
果たして、メルザリッテのいない世界で幸せを得られるのか。
正直、自信がなかった。
だが、それでも。
メルザリッテが望むのなら――。
「帰るぞ、ベル」
ライジェルに頭を荒々しく撫でられる。
鬱陶しいと思ったが、いまはそれが気を楽にしてくれた。
ベルリオットは袖で涙を拭ったのち、ゆっくりと立ち上がった。
いまや生気に満ちあふれた飛翔核を見つめながら、右手で胸元の服を強く掴んだ。
その先に収められたメルザリッテの温もりを思い出しながら、静かにうなずく。
「……ああ」




