◆第十五話『対の種、想い』
溝の中は息苦しく、暗かった。
天井より注がれる光とも言えない明かりは頼りにならない。
自身が纏う青の光を辺りに散らしながら、メルザリッテ・リアンは翔ける。
視界にはひとつの影が映っていた。
両目に傷痕が見られる人型のシグル。その身の回りには暗がりであってもはっきりとわかる禍々しい黒煙が揺らめいている。
シグルの三柱に位置する、ジディアスだ。
メルザリッテは一対の剣を両脇へ流しながら敵へと迫った。右手を大きく振り、水平に斬りかかる。敵の横腹を捉える――直前、黒の大剣が割りこみ、阻まれてしまう。ジディアスの持つ大剣だ。厚く、幅広に加え、切っ先は尖っていないという特徴的な形状をしている。
メルザリッテはすかさず左手側の剣を挟みこむ形で薙ぐ。敵は一本の大剣を両手で持っているため、片側はがら空き状態だ。いけるか、と思った瞬間、初めに見舞った剣が、ジディアスの黒の大剣に巻き込むようにして弾かれてしまった。さらにその勢いを利用し、こちらが新たに繰り出した薙ぎまでも払われてしまう。
やはりそう簡単にはいきませんか……!
ジディアスの行動は迎撃だけでは終わらない。
肉迫し、無防備になったこちらの胸元へと剣を振り下ろしてくる。
両腕は敵によって弾かれ、後方へ流れている。
いまから普通に腕を引き戻しても迎撃には間に合わない。
メルザリッテはとっさに自身の体を横向きに回転させた。自然と追随する腕の勢いをそのままに回転斬りを繰り出す。が、敵のほうが充分な勢いがついていたためか、衝突後に押されてしまう。
さらに体をひねり、もう片方の剣も敵の大剣へとぶつけることで押し返した。だが、弾き返すまでは至らない。途中で勢いは止まり、膠着状態へと入る。
ぎりぎりと結晶が擦れる音が耳につき、メルザリッテは思わず顔を歪めてしまう。
「思い出すな! かつて、きさまと戦ったのもこの場所だった!」
ジディアスが叫んだ。
結晶の向こう側に、喜びに満ちあふれた顔が見える。
約二千年前に行なわれたシグルとの大戦の話だ。
初めこそ拮抗していたものの、止め処なく湧いてくる敵軍勢を前に、アムールと人間の陣営は十日と待たずに疲弊しきった。
その時点でこちらの敗北は必至だったように思う。
そんな状況を覆すため、メルザリッテは地上の敵本拠地である冥獄穿孔へと単身で乗りこんだ。そのときに立ちふさがったのが、シグルの三柱――ジディアス、ドゥラオス、ヴェリスだ。
三柱とは一日、いやそれ以上の時間を戦った。
だが、ついには冥獄穿孔を破壊するには至らなかった。
当時のことを思い出すと、いまでも後悔の念がこみ上げてくる。
「まさか単身で乗りこんで来る者がいようとは、当時は驚いたものだ。だが、きさまにはそれだけの価値があった。我ら三柱を一度に相手しても対等にやりあえるだけの強さがあった」
ジディアスの声がわずかに震えはじめる。
「目を奪われたとき、俺は思った。きさまを殺したいと。オウルさまの命ではない。初めて俺自身が心からそうしたいと思ったのだ」
昂ぶる感情を抑えられないといった様子だった。
その声は徐々に大きくなっていき、ついには叫びへと変貌する。
「ずっと待っていたッ! きさまとまた対峙できるこのときをッ!」
互いの得物を弾きあった。距離がひらくやいなや、メルザリッテは右手に持った剣を投げはなった。一直線に敵へと向かった剣は敵の大剣によって簡単に打ち払われてしまう。が、本命はそれではない。
メルザリッテは無数の神の矢を放った。
一点にではなく、敵の回避場所をも奪う広域への攻撃だ。
敵が瞬時に生成した障壁に神の矢が次々に衝突しては飛び散り、消滅していく。しかし、じりじりと敵を後方へ押しやっている。
その間を利用し、メルザリッテは失った剣を再生成した、瞬間――。
ジディアスが咆哮をあげた。同時、障壁を解くや、その手に持った大剣を目にも留まらぬ速さで振るいはじめる。剣の奇跡が黒の刃となり、勢いを持って周囲に浮遊する神の矢をなぎ払っていく。
しかし、すべての神の矢が撃ち落とされたわけではない。十数もの結晶の刃が敵を貫かんと迫っていく。
ジディアスが後方へと飛び退き、さらにはこちらに背を向けて翔けはじめた。溝の外壁を沿うように猛烈な速度で進んでいく。とても神の矢では捉えきれない。
メルザリッテは敵の背を追いかけながら、左手側に広がる壁に体を寄せる。
神の矢で無理ならっ!
左手に持った剣を振り払い、壁を荒々しくえぐった。
直後、前を翔けるジディアスの側面をつく形で、すぐそばの壁から先の尖った結晶柱が飛び出す。戒刃逆天だ。
ジディアスの不意はつけたようだが、捉えるにはいたらなかった。上方へとたやすく躱されてしまう。
こちらとて一度で仕留められるとは思っていない。予め敵の回避する方向を読んでいたメルザリッテは新たに戒刃逆天を出現させる。勢いよく突き出た結晶が敵の腹を貫かんと迫る。が、接触の直前で黒の大剣によって打ち砕かれた。
まだ!
メルザリッテは幾度も戒刃逆天を出現させる。ジディアスの飛行の軌跡を追って青の柱が壁から伸び、一本の道のごとく連なっていく。
本来、戒刃逆天は地面から出現させるものだが、第一に固定できる場所があり、第二に固定する場所に意識を集中できさえすれば、たとえ壁や天井だろうが生成は可能だ。
ジディアスが舌打ちし、壁から距離を置いた。そのまま弧を描いて体の正面をこちらに向けると、勢いよく向かってくる。
「相変わらず小ざかしい真似ばかりだな!」
メルザリッテは交差させた一対の剣で敵の振り下ろしを受け止めた。数瞬の競り合いののち、一本の剣をわずかに傾ける。敵の攻撃が後ろへ流れはじめたところを見計らい、傾けた剣から手を放す。自由になった手を素早く振るいながら、ふたたび剣を生成。敵の懐へと滑らせる。
慌てて飛び退こうとした敵の腹を、こちらの剣の切っ先がわずかにかすめる。傷口は浅い。だが、ジディアスが自身の腹から噴き出た黒煙を見て、苛立ったように口をかみ締めていた。
小ざかしいという敵の言葉を否定する気はない。
ただ、その小ざかしいと言われる戦法でこれまで生き残ってきたのもまた事実。
約二千年前、三柱を前にひとりで対等に渡り合えたのも自身が持つ技の数々を駆使したからこそだ。
自分にはこれしかない。
メルザリッテはジディアスが飛び退くことを予測し、その背後に予め神の矢を生成していた。無数に生み出したときのような細かいものではない。腹をすべて抉るほどの太さを持っている。
ジディアスの背に神の矢が突き刺さる、直前――。
その背から生えていた黒翼が大きく蠢いた。
それは荒々しくはためくと、そばまで迫っていた神の矢を弾き飛ばす。
「なっ!?」
「ぬるいな」
ジディアスがだらりと両腕をたらした。
完全に脱力しきっている。
「きさま……この二千年、なにをやっていた」
傷を負っているため、その瞳が、いまどんな感情を宿しているかはわからない。
だが、もし目が開いていたら、おそらく失望に満ちていただろう。
それほどの落胆が声の調子からうかがえた。
「俺は二千年という長いときを己の研鑽に費やした。目が見えずとも、すべてのものを把握できるほどにもなった。わかっているだろう、きさまを斃すためだ。だというのに、なんだ……これは」
メルザリッテは敵の話を聞くつもりなどなかった。
二本の剣の腹を合わせながら、敵との距離を瞬時につめた。無防備な敵の腹目がけて薙ぎの一撃を繰り出す。が、敵の腹ではなく、衝突したのはジディアスが右手に持った大剣だった。
片腕で受け止められるはずがない。そうメルザリッテが思った直後、自身が持った剣は払い上げられていた。剣に引きずられ、両腕が頭上後方へ追いやられる。
片腕でッ!?
ジディアスが体を横回転させた。
その勢いのまま回し蹴りを放ってくる。あまりに速かったうえ、先の攻撃の反動で回避行動がとれなかった。
敵のかかとが腹にめり込んだ。痛みを感じるよりも早く視界がぶれていた。勢いよく飛ばされ、壁へと激突した。全身に襲いくる衝撃にメルザリッテは思わず呻いてしまう。
飛ぶという意識が頭から抜けていた。
体が壁から離れ、落下をはじめる。自然と顔も下向いたそのとき、眼前にジディアスの顔が映る。
メルザリッテははっと目を見開いた。
本能の赴くまま全力で身を横へ移動させる。と、先ほどまで隣接していた壁にジディアスの大剣が突きこまれた。穿たれた壁を中心に亀裂が一瞬にして広がり、次の瞬間には広範囲にわたって壁に穴があけられる。
攻撃の余波か、凄まじい突風に見舞われ、メルザリッテは吹きとんだ。不恰好な体勢のまま溝の底へと落ちていく。歯を食いしばり、なんとか体勢を整えた。だが、一息つく間もなく、ふたたびジディアスが迫ってくる。
メルザリッテは垂れ下がっていた腕を持ち上げる。
痺れはあるが、動かないわけではない。突き出された敵の初撃をいなす。そのまま距離を置こうとするが、敵がそれを許してくれない。接近戦が始まり、互いの剣を打ち合わせる。
接触すれば腕ごと剣を後ろへ弾かれた。そのたびに全身を使って腕を引っ張り、なんとか引き戻す。辛うじて敵の攻撃を迎え撃てているものの、いつ体勢が大きく崩れてもおかしくない。
約二千年前では、ジディアス一体に遅れをとるようなことは絶対になかった。
それがいまは完全に立場が逆転してしまっている。
なぜ、これほどまで差が……っ!
そう疑問を浮かべながら、メルザリッテは剣を振るいつづける。
「昔のきさまはどこへいった! 冷酷だったあの感じはどこへいった!」
苛立ったように叫んだジディアスが黒の大剣を放り捨てた。
メルザリッテは咄嗟に警戒した直後、絶好の機会だと判断した。敵の首を両断せんと両手に持った大剣を振るう。が、敵が伸ばした両手によってあっさりと受け止められてしまった。敵の手に天精霊の剣がわずかにめり込み、黒煙を噴き出させたが、それだけだ。斬り落とすまでには至らなかった。
「なんとも無意味な戦いだ」
ジディアスが大口を開け、黒球を生成しはじめる。
あまりに至近距離すぎた。いまさら剣を手放し、回避しようにも間に合わない。
迫る脅威を前に、メルザリッテの中に諦観にも似た感情が巡る。
先の大戦時に比べ、ジディアスが強くなったことは否めない。
己を研鑽し続けたという言葉はどうやら本当のようだ。
だが、差が開いたのはそれだけではないかもしれない。
メルザリッテは思う。
敵の言うとおり、昔の自分だったなら遅れをとらなかったかもしれない、と。
ベネフィリアを護るため、という存在理由しかない。
ただただシグルを斃すことだけしか存在価値を示せない。
アムールにおいての異端者。
シグルを恐れる者ではない。
シグルを蹂躙する者である。
自らの意思で動いていたわけではなく、ただ本能の赴くままに動いていた。
あの頃のように動ければ――。
ふいに冷たい一滴が体の奥底に落ちたような気がした。
それは静かに全身へと広がっていき、まるで自分の身体が自分のものではないような感覚に襲われる
だが、感覚はより鮮明だ。
指の先はもとより、髪の毛一本。果てはその先に広がる空気すらも感じられる。
懐かしい感覚だった。
――そうだ、自分はずっとこうだった。
数瞬前、心の中に生まれた諦観が消えうせた。
メルザリッテは剣を手放し、自ら前へと飛び出た。右手を前へと突き出し、障壁を生成。眼前の黒球へと押し当てる。
すでに黒球は放たれていた。右手に凄まじい衝撃がはしるが、構わずに押しこむ。ジディアスの呻くような声が聞こえたと同時、障壁と黒球が弾け飛んだ。
青の結晶片が辺りに煌く中、仰け反ったジディアスが映る。
メルザリッテは両手に剣を生成しながら、敵が体勢を整えるよりも速く肉迫した。右手に持った剣を敵の腹へと突き出す。とっさに体をずらされ、直撃とはいかなかったが、その左腹を抉った。
ジディアスが苦痛で顔を歪ませながら、刃と化した手を突き出してくる。
メルザリッテは身体をわずかに横へずらすだけで、構わずに残していたもう片方の剣を振り下ろす。敵の手に右肩をえぐられると同時、こちらの剣の切っ先が敵の右肩から腹を深く斬り裂いた。ジディアスの口から唸り声が漏れる。
メルザリッテは自身の傷の痛みなどどうでもよかった。ただただ敵を両断できなかったことを悔いた。
敵がすばやく後退しはじめる。追うようなことはしなかった。代わりに両手に持った剣を明後日の方向へと投げ、中空で静止させる。
その間、目にしているすべての空域を自身の意識化に収めた。あたりに結晶を生成しはじめる。やがて出現したのは十本の結晶の刃。それらはただの神の矢ではない。すべてが天精霊の剣だ。
さらに天精霊の剣の周りを彩るように通常の神の矢も生成する。
その数、九十。
暗い溝の中が煌く青の光で灯される。
脳には激痛が走っている。
だが、メルザリッテはそれを痛みと認識しなかった。
神の矢を一斉に放った。
ジディアスは目が見えずとも事態を把握できているのだろう。逃げることは不可能であると悟り、自身を包みこむように円形の障壁を生み出した。直後、次々に障壁へと神の矢が衝突していく。そのたびにジディアスの周囲に無数の結晶片が飛び散り、その姿を目視できなくなった。
すべての神の矢が放たれ、周りで煌いていた結晶片も霧散した。
やがてあらわになったジディアスの身体には幾つもの穴が穿たれていた。小さな傷を数えればきりがない。あちこちから黒煙が漏れ出ており、見るからに満身創痍といった様子だ。
だが、生きている。
息の根を止めなければ、とメルザリッテは無造作に動き出そうとする。
と、ジディアスが傷だらけにも関わらず口もとを緩めた。
「そうだ、それでこそ俺が求めていた姿だ! ようやく俺もすべてを捨てる覚悟ができる!」
そう叫ぶや、右手を自身の胸へと突き刺した。
直後、穿たれた胸から黒煙が噴き出した。ジディアスの身が黒煙によって荒々しく包みこまれていく。やがて翼の先まで到達した黒煙は輪郭線をなぞるように舞いはじめる。
姿かたちに大きな変化は見られないが、その様子は明らかにこれまでとは違う。
感じる威圧感は、まるで猛獣の放つそれだ。
本能的に脅威を感じとったメルザリッテは空中で静止した。
その直後、ジディアスの接近を許してしまった。敵はいつの間にか生成していた黒の大剣を手に攻撃を繰り出してくる。
迎え撃とうにも体勢が悪い。
メルザリッテは即座に回避行動をとる。と、先ほどまで浮いていた場所をジディアスが勢いよく通りすぎていった。そのまま止まることなく溝の壁に激突。轟音とともに大穴を作り、あちこちに破片を飛び散らす。
ジディアスの動きは止まらなかった。
すぐさま壁を蹴り、またもや向かってくる。
「グァアアアッ!!」
その叫びには先ほどまでの知性を感じられない。
すべてを捨てるとは、そういうことか――。
メルザリッテは前へと翔けながら両手に剣を生成し、交差する。一瞬のうちに敵との距離が詰まり、互いの剣が衝突。凄まじい衝撃が全身に襲いくる。
結晶を挟んだ向こう側で、ジディアスが開けた口から鋭い歯を覗かせている。
敵は知性だけではなく、理性すらも失っている。
その証拠に敵の腕がみちみちと音をたてていた。同じ部位から噴き出す黒煙も多く見える。おそらく己の身を犠牲に限界を超えた力を出しているのだろう。
ぐいぐいと敵の剣に重みが増し、徐々に押しこまれていく。
メルザリッテは焦ることなどしなかった。
さらに剣を持つ手に力をこめる。ジディアスと同様、みちみちと肉が音をたてはじめる。剣を押し返し、競り合いは拮抗する。
どちらからともなく剣を弾いた。至近距離で互いに連撃を繰り出しあう。攻撃の間隔があまりに短く、衝突音が途切れていないかのような錯覚を抱いてしまう。
メルザリッテは剣を振りながら神の矢を周囲に生成し、放つ。が、それらはすべてジディアスに到達する前に消滅した。敵もまた黒の結晶を周囲に生成し、こちらの神の矢を撃ち落したのだ。
互いに一点に留まることはなかった。
溝の中を縦横無尽に飛び回り、また壁をえぐりながら結晶を激突させる。
互いに防御は二の次だった。
攻撃を繰り出すたびに互いの身に傷が刻まれていく。
血が、黒煙が舞う。
まったくの互角。
このままではきりがない。
だったら、さらに力を込めれば――。
メルザリッテはさらに限界を超えるよう身体へと命令する。
肩から腕、手へと熱がこもっていく。
指も、剣の柄をより強く握りしめようとする。
と、ふいに指が痺れに襲われた。
痛くて動かせないわけではない。
そもそもいまの自分には痛みなど問題にならない。
メルザリッテはすぐに悟った。
これが傷つくことも厭わずに戦い続けた結果なのだろう、と。
こちらの動きが鈍ったのを瞬時に察知したか、ジディアスが好機とばかりに大振りの剣を振るってくる。
剣で受けようにも手が動いてくれない。
気づけば、腕すらも上がらなくなっている。
唯一、命令を聞いてくれるのは脳だけだった。
すぐさま自身の前に分厚い障壁を生成する。が、ジディアスの攻撃を完全に防ぎきることはできなかった。振り下ろされた大剣によって障壁ごとメルザリッテは溝の底へと勢いよく落とされる。
砕けた青色結晶片が舞い散る中、追撃をしかけてくるジディアスの姿が映った。
黒の大剣の切っ先が自身の胸へと向かってくる。
なぜジディアスはまだ動けているのか。
同じく身を犠牲にして戦っていたというのに――。
単純に約二千年もの間、己を磨くことだけに費やした結果だろうか。
では自分は、二千年をかけてなにも得ていなかったということだろうか。
死が間近に迫っていることを悟ったとき、ただ目の前の敵を斃すことだけに支配されていた意識が薄れた。
冷たかった心に温かいものが流れこんでくる。
これまでの記憶が映像として浮かんでは消えていく。
二千年どころではない。
ベネフィリアの次に生まれた存在として、もっと長いときを生きた。
流れた記憶は相応に膨大な量だ。
だが、多くが色あせていた。
ただ与えられた使命をまっとうするために生きていた。
そこに自分の感情という名の色はいっさいない。
ふと、ある映像が流れたとき、メルザリッテの心が跳ねた。
それは自分が生きてきた時間に比べれば本当に短い時間の記憶だ。
しかし、どんな記憶よりも色濃く、そして心を温めてくれる。
――自分にもある。
ジディアスのように長いときかけて築き上げたものではない。
十七年。
たったそれだけのときでも自分は大きなものを得た。
与えられた意思ではない。
護りたい、という意思を自ら手に入れた。
心から大切だと思える相手を見つけることができた。
ベルさまのためにわたくしは……。
――生きなければならない。
そう思ったとき、ごく自然に身体が強張った。
呼応して、ぴくりと指先が動く。
どうして動いたのか、自分でもわからなかった。
と、先ほどまで感じなかった痛みが一気に押し寄せてきた。
あちこちが焼けるようだ。
だが、身体は動いてくれる。
剣を振れる。
まだ戦える。
ジディアスの黒の大剣が手を伸ばせば届く距離にまで迫っていた。その切っ先がこちらの胸元に突き刺さる、直前。メルザリッテは右手に持った剣を振るい、敵の剣を弾いた。
死に体だった者が動き出したからだろう、ジディアスが警戒し、距離を開けようとする。
メルザリッテは即座に間合いを詰め、もう片方の剣を敵の頭上へと振り下ろした。敵の黒の大剣が割り込み、直撃には至らなかったが、その身を突き落とした。
眼下で静止したジディアスへとメルザリッテは叫ぶ。
「ベルさまのために、ここで死ぬわけにはいかないッ!!」
ジディアスを取り囲むように十本の天精霊の剣を生成した。逃げ場を失ったジディアスが一瞬、硬直する。それを機にメルザリッテは一対の剣を手に一気に降下。同時に十本の天精霊の剣も放った。
ジディアスが咆えた。その背から噴き出た黒煙によって五本の剣が弾け飛ぶ。さらに剣を振るった。切り刃から出た飛閃によって、さらに五本の天精霊の剣が砕け散る。
一瞬にして神の矢として生成した天精霊の剣が消滅させられてしまった。
さらに敵は黒球を放ってくる。
メルザリッテは片方の剣を黒球へと勢いよく投げ、相殺した。
青の結晶片と黒煙が飛び散る中から、黒の大剣を突き上げるようにして構えたジディアスが猛りながら飛び出てくる。
「ぁああああああああ――ッ!!」
メルザリッテもまた咆えた。
一本の剣に全身の力を乗せ、突っこむ。
互いの剣の先が凄まじい音をたてて接触する。硬直したのは一瞬だった。すぐさま黒の大剣に亀裂に走り、弾け飛んだ。噴出した黒煙を吹きとばしながら、メルザリッテはさらに進み、青の剣をジディアスの胸へと突き刺した。ジディアスが慟哭を上げながら、青の剣を掴んでくる。が、構わずにメルザリッテは敵の身体ごと押し込んだ。凄まじい速度で溝の中を降下していく。深さを増すごとにジディアスの身体から黒煙が噴き出し、ついにはその身が消滅した。
最後は音すらなかった。
残った静けさの中に自分の荒々しい呼吸音だけが響く。
それが、ようやくジディアスを斃したという実感を与えてくれた。
本当に強大な敵だった。
いまでも勝てたことが信じられないほどだ。
では、どうして勝てたのか。
それは言葉にせずとも明白だった。
メルザリッテは剣から手を放し、脱力した。
ここまで感情をむき出しにしたのは初めてだった。
なぜだろうか。
清々しい気分で一杯だった。
頬が緩みかけるが、すぐに顔を引き締めた。
ジディアスは斃したが、戦いは終わっていない。
イジャル・グル・オウルを斃さなければ、この大戦は終わらない。
メルザリッテは溝の底から中央にそびえる冥獄穿孔を見上げた。
ベルさま、いま、行きます……!




