◆第十三話『健闘』
風を裂くほど速く翔けても抉るほど強く地を蹴っても、リンカ・アシュテッドはヴェリスを振り切ることはできなかった。
捉えられたと同時、黒の長剣が迫りくる。
リンカは細めた目で攻撃の軌道を正確に読んだ。
頭部を狙った突き――。
頭をそらしたのち反撃に転ずる、とそう体に命じた。
だが、動きだした直後、頬に痛みが走った。
遅れて視界の端から鮮血が散った。
完全に躱したと思ったのに敵の攻撃を受けてしまう。
これが一度目ではなかった。
目では敵の動きを追えているが、体がついてこないのだ。
おかげで昨日の防衛線での戦いに続いて、今回もすでに多くの斬り傷が刻まれてしまっている。
ヴェリス相手では回避は悪手だ。
とはいえ――。
リンカは反撃に移行しようとした身体を制した。
敵による振り下ろしが迫っていたのだ。すぐさま両手に持った短剣を逆手から順手に持ち直し、交差させる。敵の黒剣が甲高い音をたてて衝突する。
辛うじて受け止められたものの、ぐいぐいと押しこまれてしまう。
骨が軋む。手首が折れそうだ。
「きさまには圧倒的に足りない! そう、純粋な力が!」
そう叫びながら、ヴェリスが押しこむ力をさらに強めてきた。
これ以上は受け止められない。
リンカはとっさに剣の腹の角度を調節しながら、なんとか折れないように敵の黒剣を下方へと受け流した。大きく飛び退いたと同時、先ほどまで立っていた場所に敵の攻撃が振り落とされた。荒々しい音とともに砂塵が舞い上がる。
眼前の光景を目にしながら、リンカは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
ヴェリスは速さが並外れているためそちらに目が行きがちだが、力も相当なものだった。
とてもではないが、まともに打ち合えば力負けしてしまう。
自身の剣を見やると、どちらもひびが入っていた。
放り投げて霧散させるなり、新たな剣を両手に造り出す。
と、凄まじく鈍い音がどこからか聞こえた。
即座に音のほうへ目を向けると、剣を構えたエリアスの後ろ姿が映った。その奥には拳を振りぬいた格好のドゥラオスが立っている。どうやらエリアスが敵の攻撃を受け止めたらしい。
ただ、その破壊力ゆえか。
エリアスは二の足で立ったまま地を抉りながら、こちらに突き飛ばされてくる。ようやく勢いが止まったとき、彼女はくずおれそうになるのを剣を突き立てて堪えていた。
そんな彼女を横目にしながら、リンカは声をかける。
「エリアス、このままやって勝てる自信は?」
「……悔しいですが、不可能としか言えません。そちらは?」
「無理」
「そう、ですか」
明らかに不利な状況にも関わらず互いに達観しているな、とリンカは思った。
「あたしたちに残された道はひとつしかない」
「ですね。ただ、お願いしたいことが――」
「わかってる」
リンカはそうこたえるやいなや、ヴェリスに向かった。
牽制に神の矢を二本放つが、あっさりと払われてしまう。
「勝てないとわかっていながらなおも挑んでくるか。その気概、賞賛に値する」
ヴェリスもまた地を這うように翔けてくる。
互いに両手に持った剣を左右の後ろへ流した格好だが、その移動速度は段違いだった。
ふとした瞬間にヴェリスの姿がぶれる。
気づいたときには、視界の大半をヴェリスの顔によって占められていた。
「ならば、わたしも全力で相手させてもらおう」
ぞわりと身の毛がよだった。
リンカはとっさに剣を地に突き立て、急停止した。さらに突き立てた剣の腹に足を叩きつけ、直角に曲がる。敵との距離が空くなり、もう片方の剣を投げつけた。当然、それで敵を傷つけられるとは思っていない。
投げつけた剣が破壊される間に、リンカは両手に剣を生成しなおした。直後、ヴェリスがみたび肉迫してきた。高速の連撃を無数に繰り出してくる。
リンカは後方へ飛び退きつつ、それらをなんとかさばいていく。
余裕はいっさいなかった。
攻撃の軌道を予測し、体を動かす。
この動きは意図して行なっているわけではなく、ほぼ無意識に行なわれているものだ。
つまり確証のないものに身をゆだねている。
このひどく曖昧な状況に不安がないわけではない。
ただ、それでもヴェリスが相手では、訓練によって自身に染み付いた動きにすがらなければとても対応できなかった。
本当に一瞬の油断すらも許されない。
少しでも隙を見せれば裂かれるのは肉だけでは済まない。
たびたび中空に舞う自分の血を見つめながら、リンカは本能のおもむくまま剣を振り続ける。
「相手をなぶるのはわたしの趣味ではない!」
「だから早く死ねっていうの!?」
「結果は見えている!」
「死ぬつもりはないっ」
空で戦うような真似はしない。障害物となるものがいっさいない空では、純粋な機動力勝負になるからだ。その点、地上近くでは地を蹴ったり地に剣を突き立てたりすることで急な方向転換や緩急をつけた飛行がしやすい。
ドゥラオスと戦うエリアスの姿が映った。
彼女のことは常に視界の端に収めていた。
ただ、眼前の敵であるヴェリスに集中しているため、その動きを正確に追うことはできていない。はっきりとわかるのは、エリアスの表情が多くの時間において苦悶に満ちていることだけだ。
「意識がそれているぞ」
ヴェリスの声が聞こえたと直後、リンカは交差した二本の剣を上方へ払われた。大きく空いた腹に敵の回し蹴りが飛んでくる。躱すこともできず、まともに受けてしまう。
無理に抗えば腹を蹴破られる。瞬時にそう判断したリンカは、逆らわずに不恰好な体勢のまま突き飛ばされた。幾度か地面の上を跳ね、ようやく勢いが止まる。
息苦しさに襲われ、うずくまったまま何度もむせ返る。
足音が近づいてきた。
リンカは片膝を立て、なんとか身を起こし、顔もあげた。
その先に映った光景を前にぼそりとつぶやく。
「思ってたより早かった」
「ついに心が折れたか」
目の前に立ったヴェリスが、こちらを見下ろしながら言った。
その顔がひどく残念がっているように見えた。
敵が期待していたよりも、自分は弱かったということだろうか。
きっとそうなのだろう、とリンカは思った。
だが、勝負の結果は相手の評価によって決められるわけではない。
「心が折れた? そんなこと誰が言った」
「なにを言っている」
「あたしはまだ諦めてない」
リンカは鋭い視線をヴェリスに向ける。
その光の消えていない瞳を前にしてか、ヴェリスが怪訝な表情を浮かべた。直後、自身に影が落ちたのを察知し、弾かれるように振り返った。
リンカにはずっと見えていた。
思ってたより早かった、という先の言葉。
それはエリアスが来るまでの時間についてだった。
彼女は剣を力任せに振り下ろしながら、ヴェリスに飛びかかっていく。
「はぁぁああ――!!」
「ッ!!」
ヴェリスは即座に体ごと向きなおし、重ねた二本の黒剣でエリアスの攻撃を受け止めた。凄まじい衝突音が辺りに響く。さすがのヴェリスでも不覚をとった中、エリアスの渾身の一撃を受けるのは容易ではなかったらしい。足が地面に食い込み、さらにその身が硬直した。
リンカは地を蹴り、ヴェリスに飛びかかった。
全身に痛みがはしるが、奥歯をかみしめて堪えた。
なにがなんでも、この機を逃すわけにはいかないのだ。
ヴェリスの背を刻むように剣を傾けた。
切り刃がヴェリスの身に振れる、瞬間。
かすかに敵の体がぶれたような気がした。
リンカは構わずに剣を振りぬき、そのままヴェリスとエリアスの脇を通り抜けた。
たしかに斬った感触はあった。
だが、これは。
リンカが振り返ったとき、そこに舞っていたのは黒い腕だった。
あの肉をそいだような洗練された細腕や刃物のように鋭い手は、間違いなくヴェリスのものだ。ヴェリスの姿を見たとき、やはり肩から下――左腕がなかった。
この一振りでヴェリスを葬るのが理想の結果だった。
ただ、これまで有効な攻撃をいっさい加えられていなかった相手だ。
これは大きな収穫と言える。
それに――。
仕留められなかったけどっ!
「リンカ、そちらは任せました!」
聞こえてきたエリアスの声にリンカは剣を構えることで応じた。
ドゥラオスが間近まで迫っていた。
エリアスのあとを追ってきていたのだろう。
しかしその狙いは、いまや飛びだしてきたリンカに変わっている。
打ち下ろすように放たれた巨大な拳が襲いくる。
想像以上に速い。けど、あいつに比べたらッ!
リンカは身体を空へとわずかにそらした。地面に激突した敵の拳から腕の上を駆け抜け、ドゥラオスの頭部側面に二連撃を見舞う。が、あまりに硬く浅く刻む程度に終わった。
ならば、ともう一度攻撃を加えようとするが、ドゥラオスの手が迫ってきていたので即座に離れた。勢いのまま通り抜け、敵の背後へと回る。
傷をつけられた怒りからか、ドゥラオスが低いうなり声をあげながらこちらに向き直る。
完全に標的は自分に向けられたことを確認したリンカは、よし、と心の中でうなずいた。
とりあえず第一の目的は果たした。次は……。
リンカは片方の剣の切っ先をドゥラオスに向ける。
「デカブツ。いまからあんたの相手はあたしだ」
◆◇◆◇◆
左腕を失ったヴェリスが傷の断面を押さえながら大きく後退した。
忌々しいとばかりに歪めた顔で舌打ちをする。
「……小ざかしい真似を」
「きさまらを倒すため、わたしたちは全力を尽くしているだけだ」
エリアス・ログナートは自身の結晶剣を強く握りしめながら、ヴェリスへと鋭い眼光を向けた。
「きさまらを倒すためならば、どんな手でも使ってみせる」
「人の騎士とやらは卑怯な真似はせんと記憶していたが」
「わたしの騎士の道はいかにして民を、仲間を守るかにある。勝ち方になどこだわるつもりはない」
一年前の自分ならば絶対に言わないであろう言葉だ、とエリアスは思った。
掲げた目標のためならば、たとえどんな手を使ってでも達成する。
そう思うようになったのは、すべてはベルリオット・トレスティングに出逢ってからだ。
どれだけ傷ついても決して歩みを止めない。剣を落とさない。
ただひたすらに走り続け、剣を振り続ける。
そんな彼の姿を見ているうちに、考え方が変わったのだ。
戦い方がどれだけ無様でもいい。
守りたいものを守れるのであれば――。
そう強い意志を心に宿しながら、あらためてヴェリスを睨んだ。
ヴェリスが傷口を押さえていた右手をゆっくりと下ろすと、先ほどまでの憎悪に満ちた表情を消した。泰然とした様子で訊いてくる。
「なるほど。きさまもまたリンカ・アシュテッド同様、誠の戦士ということか。名を聞こう」
「エリアス・ログナートだ」
「わたしはオウルさまを支える三柱のうちの一。ヴェリスだ」
姿かたちは違えども、その立ち居振る舞いや人の騎士となんら変わらなかった。
ただでさえシグルには少し前まで知能はないと思っていたのだ。
そんな相手が言葉を話し、くわえて確固たる己の矜持を持っている。
なんともやりにくい。
しかしそれこそがヴェリスというシグルの強さの根源である、とエリアスは思った。
間違いなく、この戦いの肝は、いかにしてヴェリスを斃すかにかかっている。
ヴェリスがいまや一本となった片腕に黒剣を生成した。切り刃側が反るように少し湾曲している以外、特に目立ったところはない。
「ではログナートとやら……いくぞ」
気づいたときには、すでにヴェリスの体がぶれはじめていた。これほどまでに静かな動き出しは見たことがない。
エリアスはその場から動かずに正面へ向かって飛閃を縦に放った。だが、当然のごとく躱されてしまう。
ヴェリスが飛閃の左方から一気に間合いを詰めてくる。
「避けることもままならぬか! アシュテッドに比べればッ」
彼我の距離が十歩というところで敵は剣を突き出したはずなのに、直後には眼前まで切っ先が迫っていた。
リンカはこんな相手と戦って……ですがッ!!
エリアスは腰を落とし、全身の力を剣に込めて振り上げた。敵の剣の腹を捉え、弾くようにして返す。
攻撃を返されたからだろうか、ヴェリスが一瞬だけ驚愕していた。だが、すぐに顔を引き締めるやいなや飛び退く。休む間もなく突っこんでくる。
距離を置かれたと同時、エリアスはまたもや飛閃を放った。
今度は飛閃の右方へ避けたヴェリスが、先ほどよりも速く距離を詰めてきた。肉迫と同時、こちらの腰目がけての薙ぎを放ってくる。
エリアスは敵の薙ぎへと向かって剣を思いきり振り下ろした。黒剣をはたき落とし、地面へと押しつける。いま、敵の体はがら空きだ。エリアスはすぐさま剣を返し、突きを放つ。が、ヴェリスは黒剣を捨てて後退した。
「なぜついてこられるッ!?」
その顔は人と違えど焦りが見て取れた。
エリアスは距離を詰めることはせず、その場で剣を構えながらこたえる。
「気づいていなかったのですか。リンカがずっとわたしの視界の中で戦ってくれていたことに。おかげであなたの動きを捉えられるほどには目が慣れました」
自分にはリンカほどの速さはない、とエリアスは自覚している。
ヴェリスの動きについていくなど不可能だ。
しかし、目だけ追えればいくらでもやりようはある。
「目だけ追えても――ッ!」
こちらの落ちつき払った雰囲気を読み取ったか。
ヴェリスが苛立ったように声を荒げながら踏み出した。今度はいきなり正面から来るようなことはなかった。こちらの周囲を円を描くように回りはじめる。あまりの速さに黒い壁に囲まれているのではないか、と錯覚してしまいそうだ。
ふっとヴェリスの体がぼやけた。
くる、と思った瞬間に、エリアスはぼやけた箇所に向かって飛閃を放った。影が右方へ移動する。
「目だけ追えればッ!」
敵が間合いを詰めるよりも早く、また影が明確な形となるよりも早くからエリアスは剣を振りはじめる。本来なら空振りに終わるところだろう。だが、ヴェリスが相手ではそれが適当だった。
結晶の打ち合う音が辺りに響き渡る。
エリアスは、以降も幾度に渡って同じような方法で敵の攻撃を迎え撃っていく。
その間、ずっと立ち位置を変えていなかった。
ヴェリスは自分よりも圧倒的に速く動けるため、下手に動けば死角を作るだけになる。
そういった戦術的な理由もあるが、ほかにも理由があった。
動きたくとも動けないのだ。
昨日今日とドゥラオスと交戦した際に負傷した体が、すでに限界を迎えている。常に悲鳴をあげている。辛うじて上半身は動くものの、下半身は立っているだけでもやっとの状態だった。
あと少し……あと少しだけ……っ!
そうエリアスが自身に言い聞かせたとき。
肉迫したヴェリスが攻撃を繰り出す途中でぴたりとその動きを止めた。
「なぜその場から動かないのかと思っていたが……そういうことか」
これまで飛閃を使うことで敵の進行経路を限定していたのだが、さすがに気づかれたようだ。ヴェリスが攻撃もせずに下がった。
「ならば――ッ!!」
ふいにヴェリスの姿が視界から消えた。
エリアスは瞬時に頭を振って左右をたしかめてみるが、どこにも見当たらない。
そこまで認識するやいなや、エリアスは天を両断するように剣を振った。直後に訪れたのは虚空を斬る虚しい音ではない。結晶の打ち合う音だ。
遅れて空を見上げると、そこにはヴェリスの姿があった。
「視界にいなければ……ここしかない」
悔しさをあらわにしたヴェリスが飛び退いた。
またすぐに仕掛けてくるかもしれないとエリアスは身構えたが、その様子はない。
なにやらヴェリスは腕を下ろし、ただじっとこちらを見据えている。
「どうやらわたしはきさまを過小評価していたようだ。この非礼、許してもらいたい」
「……まるで手を抜いていたような口ぶりですね」
「当然だ。手など抜いていない。だがそれは、いまのわたしが出せる力のすべての話だ。わたしは、わたしのすべてを投げ打ち、きさまに相対しよう」
「なにを――」
ふいにヴェリスが自身の胸へと右手を刺しこんだ。むせるように声を漏らし、わずかに体を前へと折る。その顔を苦痛に歪めながら、とつとつと語りはじめる。
「いま、このときをもってわたしはオウルさまからいただいた楔を解き放った。楔が完全に失われたとき、わたしは自我を失うが……本能の赴くままにきさまを食らうだろう」
言い終えるがいなや、右腕を胸から引き抜いた。直後、ぽっかりと空いた穴から黒煙が勢いよく噴き出した。それは瞬く間にヴェリスの身を包みこみ、這い回りはじめる。痛みを伴うのか、ヴェリスがもだえながらうなり声をあげる。
やがて黒煙が弾けるように散った。
外見的に大きな変化は見られない。
ただ一点、瞳が真っ赤に染まっているぐらいだ。
ふとヴェリスがこちらを見ながら、にたりと口を歪ませた。
それはまるで猛獣が小動物を狩るかのような雰囲気をかもし出していた。
エリアスは背筋がぞくりとした。体が後退の一手を示してくる。
だが、逡巡の間すらなく、それは迫ってきた。
ヴェリスの顔が間近にあった。
剣を持ってすらいない右手を刃物のごとく振り上げてくる。
間に合うか。
半ば本能敵に剣を割りこませた。だが、敵の手と接触するやいなや亀裂が走った。即座に上半身を仰け反らせる。顎のすぐそばを、鋭い音をたてて黒の手が通り抜けていく。残った数本の前髪が音もなく切られ、中空をはらりと舞う。
エリアスはちらりと自身の剣を見た。
刃が半分に折られている。切断面はまるで磨かれたかのように平らだ。あれほどまでに荒々しい攻撃だったのに、なんと恐ろしい切れ味か。
これでは使い物にならない!
すぐにでも造り直さなければ、と思った直後、視界が黒で埋め尽くされた。敵が手を伸ばしてきたのだ。躱す間もなかった。顔面を掴まれ、後方へ追いやられる。風を切る音が耳をつく。凄まじい速度だ。
どれほどの距離を進んだのか。それがわかったのは背に衝撃を受けたときだった。冥獄穿孔の外殻へと後頭部を打ちつけられた。さらに外殻面をなぞるように押しやられていく。
エリアスはうめくことすらままならなかった。すでに意識が朦朧としている。だが、まだ体は動く。右手に結晶剣を造りだす。何万、いや、何十万回と繰り返してきた動作だ。たとえ意識が飛びかけていても造作ない。
渾身の力を込めて敵の横腹目がけて剣を振り払った。感触はない。しかし、顔を圧迫していたものは失せた。開けた視界の中、空を背にヴェリスが飛び退いたのが映る。
ようやく解放されたのか。だが、ほっと安堵することもなかった。後頭部がやけに熱くて、左手を当ててみた。べとりと生温かいものが手につく。目の前に持ってくると、それが血であることがわかる。
赤い……。
そんな当たり前のことをのん気に思ったとき、ふらっと体が揺れた。片膝をついてしまう。剣を地に突き刺し、前のめりに倒れることだけはまぬがれた。だが、どうにも膝に力が入ってくれない。いや、膝だけではなく、あらゆる部位が応じてくれない。
ふいに視界の右端からリンカがこちらに飛んでくるのが見えた。ただ、後ろ向きという不恰好な体勢だ。
その奥に巨大なシグル――ドゥラオスが立っているあたり、おそらく敵の攻撃を受けてしまったのだろう。ドゥラオスの様子も先刻とは打って変わって禍々しい黒煙に包まれている。ヴェリス同様、狂騒状態へと入ったのだろうか。
すぐそばの冥獄穿孔の外殻にリンカが背中から衝突した。鈍い音が響く。
苦悶の表情を浮かべたあと、彼女は前のめりに地面にくず折れる。
受け止められれば良かったのだが、そんな体力すら残っていなかった。
ただせめてもと、エリアスは安否を確認する。
「大丈夫……ですか?」
「そう見える?」
リンカが顔だけを上げ、力なく聞き返してくる。
自分も相当に重傷だが、彼女も同じぐらいか、それ以上にぼろぼろだ。
大丈夫であるはずがない。
エリアスは視線を正面へと戻した。
いつの間にか、ヴェリスとドゥラオスが並んでいた。
こちらを見ながら、まるで勝ち誇るように悠々と立っている。
これで自分は終わってしまうのだろうか。
シグルとの決戦の行く末を見届けることなく終わってしまうのだろうか。
エリアスは自身に疑問を投げかけたところ、きっとそうなるのだろう、と返ってきた。
相手のほうが数段も力が上だ。
奴らに勝てないことは初めから本能的に悟っていた。
それでも口や心の中では勝つつもりだ、と言っていたのは、そんな心構えでなければ、奴らとまともに戦えなかったからだ。
足止めという目的すら果たせなかったからだ。
「……どうやら、ここまでのようですね」




