◆第六話『闇の王』
「オウル……」
そう名乗ったシグルを前にし、ベルリオットはごくりと唾を呑んだ。
実際にオウルを見たことはないし、姿かたちについても知らされていない。
だが、離れていても伝わってくるこのアウラの質量。
相手が並々ならぬ力を持っていることをいやおうなく知らせてくる。
言葉よりもよっぽど信憑性が高い情報だ。
ただ、仮に本当に目の前のシグルがオウルだとして、ひとつだけ疑問が残る。
ベルリオットは喉からひねり出すように言葉を漏らす。
「地底から出られなかったんじゃないのか」
「その通り、我の肉体は強大すぎるゆえ、いまも地底という世界に縛られている」
「じゃあ、いま、ここにいるおまえはいったいなんなんだ? 偽者だっていうのか?」
「偽者とは少し違うな。この体はベリアルの肉体を乗っ取っただけの、言わば仮初の姿といったところだ」
「そんなことが……」
出来るのか、と。
そうベルリオットが思ったとき、オウルがこちらの心情を悟ってか、蔑むような冷めた目を向けてくる。
「よもや、この戦いに備えていたのは、きさまらだけだと思ってはいまいな」
まさしくその通りだ。
なにも時間が進んでいたのは狭間の世界だけではない。
当然、シグルたちの世界も同様に時間が進んでいる。
とはいえ、まさかオウルが地上に来るとは思いもしなかった。
オウルが地上には来られないという、メルザリッテより聞かされた情報が結果的に間違っていたということになる。
きっとメルザリッテも想定外の方法でオウルは地上に来たのだろう。
彼女を責めるべきではない。むしろオウルが地上に来る可能性を提示できなかった自分にも責任がある。ただ、すべてはもう起きてしまったことだ。
仮初の肉体とはいえ、どのようにしてオウルが地上へとやって来たのか。
疑問は募るばかりだが、いまは、それにとらわれているときではない。
なにしろ対峙しているのは〝絶対に勝てない〟と言われた相手なのだ。
背筋を流れる汗のせいか。
やけに冷静に回る頭を律し、ベルリオットは天精霊の剣を力強く握った。
目の前の敵だけに意識を集中させる。
オウルとの距離は五十歩程度といったところか。
近くはない。だが酷く近く感じる。
機を計らんと足を前へすべらせようとするが、下半身が強張って動いてくれない。
いつの間にか呼吸も荒くなっていた。
まるで深い湖の底に沈んだような、そんな感覚に襲われる。
「どうした、来ないのか? 来るなら我が奴らを止めているいまのうちだぞ」
ゆったりとした口調でオウルが告げてきた。
ベルリオットは促されるように目だけを動かして周囲を確認する。
オウルが現れたときのまま、ほかのシグルは聖なる光の外側で動きを止めていた。
内側で暴れていたシグルに関してはどうやら外側へといったん撤退したようだ。目の届く範囲で戦闘中の光景は見られない。
「別に全員でかかってきても構わんぞ。といっても動ける者がいればの話だが」
シグルが引いたことにより周辺の騎士は手が空いている。
だが、剣を構えたまま誰一人として動けないままだった。
オウルに気圧されてしまっているのだ。
それは両脇で控えるトウェイル姉妹も例外ではない。
俺がやるしかない……!
「ぁあああああああああ――ッ!!」
ベルリオットは自身を鼓舞せんと咆哮をあげた。
血が激しく巡り、冷え切っていた体が一気に熱くなる。
呼応するように自身を取り巻く青の燐光が荒々しく舞った。
少しでも間を置けば確実に覚悟が鈍る。
そう思ったベルリオットは咆哮を終えるやいなや、地を蹴って飛翔。瞬時に距離を詰めた。正面間近で地を蹴り、オウルの右手側につける。
敵に動きはない。
それどころかこちらを見てすらいない。
舐められているのか。
ただ動きについて来られていないのか。
どちらにせよ、やるべきことは同じだ。
斬るしかない。
ベルリオットは敵のこめかみから首、肩を斬り裂く軌道で剣を振り下ろした。
遮るものはなにもない。
いけるッ――!
ふっと黒い影が視界に割り込んだ。
直後、ベルリオットはそれ以上、剣を振り下ろせなくなった。
いったいなにが起こったのか。
それを理解できたのは、オウルが言葉を発したときだった
「さすがは天精霊の剣といったところか。なかなかに硬い」
オウルの右手によって、ベルリオットの一撃が受け止められていた。
いや、正確には右手ではない。
右手の人差し指と親指だ。
まるで豆をつまむかのように剣の腹に指を当てている。
ベルリオットは眼前の光景をすぐには受けいれられず、思わず絶句してしまう。
だが、オウルが指に力を入れはじめ、剣が軋みだしたのをきっかけに、はっとなった。
オウルの手を蹴り上げ、敵の手から剣を放した。いったん距離をとったのち、間を置かずに飛びかかっていく。オウルはこちらに目を向けているものの、体の向きは初めからまったく変わっていない。右側面をさらしたままだ。
迎撃の構えをとる必要もない、ということか。
舐めやがって……!
ベルリオットは右後ろへ流していた剣を敵に肉迫すると同時に左上へと振り上げる。渾身の力を込めた振りだ。これなら、と確信を抱いた一撃は敵の掌によってはたくようにして弾かれた。
「なっ……!?」
ベルリオットは思わず愕然としてしまう。
しかし、オウルの蔑むような目が視界に映った瞬間、頭が熱くなり、体が自然と動きだしていた。
斬り下ろしからの斬り上げ。勢いを殺さずにふたたび振り下ろし。薙ぎ、薙ぎ――。
斬りへの攻撃が遅れてしまう突きは入れなかった。
ただひたすらに斬るための攻撃を繰り出し、攻撃間隔を縮めていく。
さながら終わりのない連撃だ。
腕がちぎれるのではないか、と思うほど回転がどんどん上がっていく。
すでに数え切れないほどの攻撃を加えた。
だが――。
いまだ傷ひとつ負わせられていない。
すべてが敵の右手に防がれている。
それに敵はまだ初めに下り立った場所から一歩も動いていない。
意地でも動かないつもりなのか。
それなら!
ベルリオットは地面へと剣を突きつけた。斬るのではなく、叩きつけるようにして荒々しくえぐる。土煙が巻き上がる。小規模だが、充分だ。オウルの体を砂煙がゆるやかに包んでいく。
目くらましが通用する相手ではないぐらいわかっている。ただ、やれることはやろうと思ったのだ。ベルリオットはオウルの背後へと回り、わずかに距離を置いた。剣の切っ先をオウルへ向けたまま、深く引き絞る。低い大勢から一気に前へと突撃する。
「ぉぉおおおお――――ッ!!」
砂塵の中へと剣の切っ先が入った直後、なにかと衝突した。
きぃん、と耳の奥底に響くような金属音が鳴る。
ベルリオットは手から腕へと痺れるような感覚に見舞われ、思わず苦悶した。
この感触はなんなのか。
オウルの体なのか。
疑問を抱くよりも早く解答が得られた。
ベルリオットが繰り出した攻撃によって砂塵が吹き飛び、オウルの姿があらわになったのだ。
天精霊の剣は結晶壁によって防がれていた。黒い靄を纏ったそれには精緻な模様などない。おそらくとも言わず、オウルが造り出したものだろう。
あっけにとられていると、黒い結晶柱が地面から勢いよく飛びだしてきた。腹を突き上げられ、ベルリオットは宙へと投げ出される。苦しい。すぐに体勢を整えなければ、という思いが先立った。
だが、そんな間など許さないとばかりに頭頂部を掴まれる。
オウルの手だ。
頭上を越える格好でオウルの正面へと運ばれると、その勢いのまま地面へと背中から叩きつけられた。ベルリオットはむせかえりながら、大きく跳ね返る。ふたたび地面に落ちる前に、今度は顔の正面からわしづかみにされた。そのまま日にかざすかのように持ち上げられる。
敵の指がみちみちと頭部に食い込む音が聞こえた
ベルリオットはあまりの痛みに天精霊の剣を思わず手放してしまう。
「ぐぁっ……」
「無駄な小細工だ」
視界が黒い手で埋め尽くされる中、冷め切った声が聞こえてくる。
どうにかして敵の手から抜け出さねばならない。
敵の手首を握りつぶさんとしてみるが、まったく指がめり込まない。
試しに叩いてみてもびくともしない。
このままでは本当に頭を握りつぶされる。
「主っ!」「ベルっ!」
ティーアとナトゥールの声だ。
しかも近い。
まさか助けに来てくれたのか。
だが、相手はオウルだ。
ベルリオットは安堵よりも恐怖のほうが勝った。
「「はぁああああああッ――――!」」
トウェイル姉妹の叫びが途絶えたのと同時、虚しい金属音が響いた。
見なくともわかる。
二人の攻撃では、オウルの体に攻撃を徹すことはできない。
「失せよ」
その言葉とともにオウルの体を中心に激しい風が吹き荒れた。トウェイル姉妹の悲鳴が聞こえてからのち、二人の気配がそばからなくなった。
二人の安否が心配だ。
しかし、自分のほうもまずい。
もうまともな思考が働かなくなってきた。
『ベルさま、もっかい造るから! 手!』
遠のきかけた意識の中、クーティリアスの声が脳に響いた。
半ば無意識に右手の指を折り曲げる。と、そこへなにかが形成されていくのを感じる。棒状で少し冷たい。そして、この重さ。
間違いない。
天精霊の剣を造ってくれたのだ。
すかさずそれをオウルの腕へと振り下ろそうとする。
が、半ばで叩かれるような衝撃に襲われた。視界が黒一色だけでなくなっている。
そこで初めて、ベルリオットは自分が投げられたのだと気づいた。
地面を何度か跳ね、勢いが止まる。
体を打ちつけた痛みはあまり感じなかった。
それよりも頭がくらくらするほうが問題だった。
剣を突きたてて、よろめきながら立ち上がる。
トゥトゥとティーアは……?
首を振ってみる。
少し離れた場所ではあったが、ちょうどベルリオットの左右で彼女たちを見つけることができた。だが、どちらも倒れたままだ。息はあるのか、ここからでは確認できない。
彼女たちの命がなくなってしまったかもしれない。
自分を助けるため、動いたばかりに――。
そう思った瞬間、ベルリオットは自身の中に満ちていた恐怖が怒りとなっていくのを感じた。
声にもならない声で叫ぶ。
しかと足を踏み込み、地から抜き取った剣で虚空を二度斬り裂いた。切り刃から放たれた光の刃が十字に重なり、地を抉りながら突き進む。さらにオウルの周りを囲むように二十の神の矢を生成し、一気に放つ。
それらが一斉にオウルへと到達する、寸前。オウルがかっと目を見開いた。同時、その肉体を中心に黒い風が吹き荒れる。黒い風に触れた瞬間、神の矢は弾かれ、飛閃は音もなく消滅してしまう。
ベルリオットは思わず唖然としてしまうのを堪え、次なる攻撃へと意識を移行する。オウルの遥か上空に《神の種》を作り出していた。すぐさま空中維持の意識を頭から切り離す。青の巨大結晶塊が大気を震わしながら落ちていく。
「いけぇえええええッ!!」
オウルが黒い風を纏うのをやめ、代わりに右手を天に向けて掲げた。
《神の種》がオウルの掌へと激突する。凄まじい轟音が響く。地面に軽くめり込んだオウルの足を中心に長い亀裂が辺りへ一瞬にして延びた。
周囲の状況は荒れているが、当のオウルはまったくの無表情だった。右手で《神の種》を受け止めながら、変わらずこちらを見ている。まったく堪えていないらしい。
「まだだッ!!」
ベルリオットはさらに《神の種》を造り出していた。その数、十。先ほどオウルに頭を掴まれていたこともあってか、後頭部が割れるように痛かった。長く空中維持を続ければ、とても意識を保っていられない。即座にオウルへとすべての《神の種》を落とした。
まるで巨大な猛獣がいななくかの如く大気が震える。
視界の中、オウルに動きはない。
この状況でも動かないというのか。
まさかこれでも通用しないというのか。
そんな疑念を抱いたとき、様々な角度から《神の種》がオウルへと激突した。
巻き上がった砂煙が突風に乗せられ、一気に周囲へと広がっていく。
周囲が砂煙で覆われ、様子はほとんどうかがえない。
オウルはどうなったのか。
しとめるほどには至っていないだろう。
だが、あれほどの《神の種》の受けたのだ。
わずかな損傷程度は与えられているに違いない。
そう思ったとき、先ほどよりも強烈な突風に襲われた。
砂煙が一瞬にして吹き飛んでいく。
辺りの様子があらわになるやいなや、ベルリオットは思わず目を瞠った。
正面の少し離れた場所に出来た大きな窪み。
その中心にオウルがまったくの無傷で立っていたのだ。
「なんとも非力な。やるならば、これぐらいやってもらわんとな」
オウルは《神の種》を受け止めるために上げていた手をそのままにしながら言った。
直後、オウルの手より少し上空に黒い玉が出現した。それは弾けるように広がると、黒い粒となってある形へと変わっていく。
細長い棒状の先端に、尖った刃物を取り付けた形状。槍だ。
だが、それは人が持つような槍ではない。
大きさが巨大な塔を思わせるほどもある。
生成された黒槍結晶を禍々しい黒い靄が包みこんでいく。
その姿はなにものも貫くというよりも、呑みこむと言わんばかりだ。
あんなものをまともに食らえばひとたまりもない。
だが、自分の背後には防壁があり、そこには多くの騎士が控えている。
ベルリオットは瞬時に振り返った。
「逃げろぉおおおおお――――ッ!!」
そう叫んだ瞬間だった。
ぞわりと背筋が凍るような感覚に見舞われた。
正面へ向き直ると、眼前に黒槍結晶が迫っていた。黒光りした先端がいまにも自分を破壊しようとしている。
とっさに天精霊の剣を割り込ませた。右手で柄を持ち、左手で剣の腹を支える。剣に黒槍結晶の先端が衝突する。同時、手から腕、全身へと凄まじい衝撃がはしった。とても踏みとどまってはいられない。二の足で地を削りながら、勢いのまま後方へ追いやられていく。
別の衝撃が背を襲った。荒く砕けた石の破片を目で捉え、防壁に直撃、崩壊させたのだと気づいた。ただ、防壁に激突しても勢いは止まらなかった。このままでは王都まで飛ばされるのではないか。冗談ではなく、そう思えるほどの凄まじい力がいまもなお全身を襲ってきていた。
天精霊の剣からかすかに軋む音が聞こえた。このままでは持たないかもしれない。
ベルリオットは黒槍結晶が空へ向かうよう剣の腹をわずかに傾けた。足首が地面に食いこむ中、咆哮を上げながら上方向へと思い切り押し出す。
耳をつんざくような音を鳴らしながら黒槍結晶が天精霊の剣を削り、上方へとそれていく。勢いを落とすことなく空へ突き進んだそれは小さくなり、やがて見えなくなった。
ベルリオットはだらりと腕を下げた。手から天精霊の剣がこぼれ落ち、消滅した。放したくて放したわけではない。手や腕がしびれて持っていられなかったのだ。
さらにその場に膝をついてしまう。
全身が鉛のように重い。
動かなければならないのに動けない。
くそっ……!
いかにオウルが強いと言えど、死力を尽くせばどうにかできるかもしれないという思いが心の隅にあった。それだけ青の光や天精霊の剣が強大で、自分の周りで起こった危機を何度も救ってくれたからだ。
だが、今回は違う。
オウルが相手ではわけが違う。
――格が違いすぎる。
「こんなものか。ベネフィリアの子と聞いてもしやと思ったが、我がわざわざ出向くほどではなかったな」
いつの間に距離を詰めたのか、オウルが正面上空まで来ていた。
落胆の声を漏らしながら、ゆっくりと地に下り立つ。と、こちらを警戒することなく背を向けてきた。そして防壁側にいる騎士たちへ向かって両手を大きく左右に広げる。
「見るがいい、色なき者たちよ! きさまらが望みはいま、このイジャル・グル・オウルの手によって倒される! 絶望せよ! そしてきたる我らが闇の世界を享受するのだ!」
そう高らかに叫んだのち、オウルがこちらに向き直った。
面白くないとばかりに鼻を鳴らすと、刃物のごとく尖らせた手を引き絞る。
「終わりだ。ベネフィリアの子よ」
逃げなければ殺されてしまう。
だが、いまだ体が動いてくれなかった。
自分はここで終わってしまうのか。
狭間の世界を守ることなく終わってしまうのか。
そんなのはいやだ。
だが、どうすることもできない。
ベルリオットはあまりの悔しさに強く強く唇を噛んだ。
口内に血の味が広がる中、黒の手がこちらを貫かんと迫ってくるのが見えた。
怯えたわけではない。
ただ静かにそっと目を閉じた。
真っ暗な闇の中で、そのときをじっと待った。
死ぬとどうなるのか。
そんないまさらな考えが脳裏を過ぎる。
死ぬ前に、あんなことしておけば良かったなどという想いは浮かばなかった。
ただただ深い深い闇の底へと沈んだような感覚に陥る。
そうしてすべての意識が途切れかけたとき――。
がきん、と甲高い音が聞こえた。
ベルリオットは一瞬にして意識が引き上げられ、はっとなったように目を開けた。
目の前にひとりの男が立っていた。
粗雑な革の軽装に身を包んだ格好だ。
服の上からでもわかるほど肉体は筋骨隆々としている。
男を挟んだ向こう側で、オウルが下がっているのが見えた。
まさか、目の前の男がオウルの攻撃を防いだというのか。
と、男が肩越しに振り返った。
「なんだ、もしかして諦めたのか? そんな情けないやつに育てた覚えはないぞ」
ベルリオットは瞠目した。
かきあげられたぼさぼさの髪。
勝ち気だが、しかしたしかな慈愛を宿した瞳。
余裕に満ちた口もと。
少し皺が深くなっただろうか。
それ以外、遠い昔に見たときからなにも変わっていない。
かつてリヴェティア騎士団の団長を務めた男。
狭間の世界で最強と謳われ、剣聖と呼ばれた男。
そして自分を育ててくれた――。
「よう、ベル。大きくなったな」
ライジェル・トレスティングがそこに立っていた。




