◆第四話『深淵』
エリアス・ログナートは右方から迫り来る巨大な拳を飛び退いて避けた。
拳に付随していた猛烈な風によって髪が荒々しく踊る。
当たらないという確信はあった。だが、その一撃に秘められた破壊力を目の当たりにし、背筋が凍るような感覚に見舞われる。
こんなものをまともに食らったらひとたまりもないッ!
エリアスの眼前には、ギガントよりもさらに大きな体躯を持つシグルが立っていた。
高さにいたっては防壁をも上回るほどだ。
ギガントは角塊を積み上げたような体だが、目の前のシグルに角ばっているところはほとんどない。頭部、関節を除いた箇所がまるで人の筋肉のように隆起している。また、下半身よりも上半身のほうが二倍近くも大きい。足だけは大きめのようだが、どう見ても不安定な形だ。
もっとも特徴的なのは頭部両側から外へ向かって生えた極太の角だろう。
ほかのシグルにはない立派なそれは、象徴的なものを意味しているように見えた。
この北方防衛線に襲撃をしかけているシグルの中でもっとも上の位だろう、とエリアスは直感的に悟った。
二本角が口をかすかに開けた。金属が軋むような音が漏れる。
言葉を話そうとしているのか。
はたまたもう話しているのか。
どちらであっても聞き取れない以上、会話は不可能だ。
それに敵は、すでに次の攻撃を繰り出してきている。
エリアスは左方から迫る敵の拳を先ほどと同様に後方へ躱した。
敵の攻撃は初速こそ遅いものの、瞬きひとつする間にはかなりの速度まで到達する。
油断はできない。
エリアスは両手で持った剣を腰に構え、すぐさま攻勢に転じようとする。が、自身に落ちた影にはっとなる。視線を上げると、そこにはすでに敵のもう片方の拳が間近に迫っていた。避けられない。
とっさに剣を盾代わりに構えた。
間を置かずして全身に凄まじい衝撃がはしる。敵の拳が剣に衝突したのだ。足が地面に深くめりこんだ。あらゆる骨が悲鳴をあげている。エリアスは歯を食いしばりながら、剣の状態を確認した。予想通りだった。すでにひびが入っている。もう折れる。
ぱりんと音がした。
剣が折れた。ぐんと迫った敵の拳に視界のすべてが埋め尽くされる。エリアスは剣が壊れる直前、自身の体を背中から倒していた。とっさの判断だった。敵の拳との間に生まれたわずかな隙間に生成した障壁を割りこませる。
形状など気にしていられなかった。ただ分厚い壁を意識したものだ。
障壁を大胆に傾け、敵の拳を迎える。かなり角度をつけたはずなのに一瞬にして亀裂が入っていた。だが、受け流すことには成功した。障壁をすべるようにしてそれた敵の拳が地面へと激突し、大穴を穿つ。
その傍ら、エリアスは弾かれるようにして突き飛ばされた。地面の上を何度も跳ねる。
衝撃を殺すためにあえて踏ん張らなかったとはいえ、思いのほか転がってしまった。体中にすり傷ができたのがわかった。胸をうちつけたこともあり、むせてしまった。だが、この程度ならば問題ない。
エリアスは転がる勢いを利用し、立ち上がった。すぐさま体勢を整える。
少し離れた場所に立つ二本角はまだ地面に拳を打ちつけていた。その状態のまま、こちらへと顔を向けてくる。また口を開けた。出てきたのは金属の軋む音ではない。猛獣の雄たけびのような声だった。
戦場に響き渡ったそれは、敵味方問わず多くのものを硬直させた。
エリアスもまた、全身がびりびりとひりつくような感覚に見舞われた。敵に斬りかかろうとしていた意識がそがれた。
力の差がありすぎる……!
ふと視界の端で何者かがこちらに向かってくる姿が映った。
浅黒い肌に全裸の男。
マルコだ。
「エリアス殿ッ!! いま、助けに――」
「来ないでください!」
エリアスは剣を造りなおしながら叫んだ。
柄を握るとき、両手に痛みがはしった。
どうやら先ほど二本角の攻撃を受けた際、あまりの衝撃にしびれてしまったようだ。
マルコに悟られないよう、手に力を入れてしびれを抑えこむ。
「ほかの戦線はどうするのですか! あなた方が抜ければ一気にこの防衛線は崩れます!」
「し、しかし――」
「あれが強敵であることはわかっています。もちろん、わたしひとりで手に負えないことも。それでも、止めてみせます」
エリアスは二本角を見据えながら、意志を込めて告げる。
「どうか任せてください」
「……わかった」
眉を顰めるその表情から苦渋の判断だったことがわかった。
この選択しかないことを彼もわかっているはずだ。
その上で助けに来てくれた。
感謝します、と心の中で告げながら、エリアスはふたたび二本角を注視した。
二本角がゆっくりとこちらに向き直った。その膝をわずかに折る。
来るか、とエリアスは身構えた直後、思わず目を見開いてしまう。
二本角が跳躍したのだ。それも並ではない高さまで到達している。弧を描きながら空を飛んだのち、あわせた両手を槌の形で振り下ろしてくる。
あまりに挙動が大きかったため、エリアスはたやすく落下地点を読んだ。
防壁側へと避ける。
二本角の攻撃が地面に激突した。轟音とともに激しい揺れに見舞われる。二本角の両手が接触した箇所を中心に亀裂が外側へと一気に走る。それは目で追える距離を越えて伸びていく。
二本角が立っている場所より向こう側の地面が崩落したのが見えた。それらが地上に激突したのか、衝突音が遠く聞こえてくる。
それに混ざって騎士の動揺する声もあちこちから聞こえた。
大陸の地表から底までは、かなりの距離があるはずだ。相応に分厚い。簡単に破壊できるものではないはずだが、二本角はたった一撃で破壊してしまった。
その恐ろしい破壊力にエリアスは思わず戦慄してしまう。
二本角がそばの縁へと広げた両手を伸ばした。自身と同等ほどの大きさを持った巨岩をえぐりとると、エリアスのほうへと投げてくる。
「なっ……!?」
いま、エリアスは防壁を背にしていた。
巨岩を避けることはできるが、避ければ防壁へと直撃してしまう。あれほどの大きさを持っているのだ。あっさりと防壁は破壊されるだろう。当然、そこで戦っている者たちも無事ではすまない。
一瞬の逡巡後、エリアスは剣を振り下ろした。
虚空を刻んだ斬撃が光の刃となり、空を翔ける。飛閃だ。
それは巨岩を捉え、縦に両断する。二つにわかれた巨岩が互いの距離をわずかに空けた。生まれた空間はエリアスが通れるほどの距離だ。回避行動は必要ない、とそう思ったとき――。
巨岩の後ろに大きな影が見えた。すぐに二本角の右拳だとわかった。巨岩の陰に隠れて距離を詰めてきていたのだ。巨岩をはるかに上回る速度で迫ってくる。あっさりと巨岩を破壊した右拳が、エリアスの視界を占める。
エリアスは左へ身を投げようとした。だが、飛閃を放ったあとに生まれたわずかな硬直が解けるよりも早く、敵の拳が間近に迫った。
ここまで速くッ!?
エリアスは腕を無理やりに動かし、剣を体の前へと運んだ。接触後、目に映ったのは砕け散った自身の剣だった。全身に凄まじい衝撃が襲いくる。
視界に無数の横線が流れる。どうやら自分は突き飛ばされたらしい。体の自由がきかない。いま、どこにいるのかもわからない。
なにかに激突した。鈍い衝突音が頭に響く。
どさり、と音をたてて尻から不恰好に地面についた。
ふいに体内から力が抜けていくような感覚に見舞われる。
きっと身体が無意識にアウラを取り込むことをやめたのだろう。
「ログナート卿!!」
意識が朦朧する中、何者かの声が響いた。
それは幾つも聞こえてくる。
ぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていく。
こちらの顔を覗きこんでくる数人の騎士たちの顔が映る。
どうやら声をかけてくれていたのは彼らのようだ。
エリアスは目だけを動かし、周囲の様子をうかがった。
視界の端に、どこまでも伸びる高い壁が見えた。
どうやら防壁まで突き飛ばされたらしい。
視線を正面へ戻すと巨大なシグルが映った。
二本角だ。
なにやら両拳を地面に何度も叩きつけながら、雄たけびをあげている。
揺れる地面、空気を震わす声が体に響き、エリアスは思わず呻いてしまう。
「ログナート卿をお守りしろッ!」
「あれを自由にさせるなッ!」
周辺で戦っていた騎士たちが一斉に二本角へと向かい始めた。
さらに防壁上で構えるサジタリウス部隊も攻撃に加わる。
ざっと見ても軽く百を超えているだろうか。
多くの騎士がアウラの光を引きながら戦うさまは綺麗としか言いようがない。
だが、映る光景はとても非情だ。
二本角の身体に触れたサジタリウスの光線は弾かれ、騎士の結晶武器はことごとく破損していた。傷ひとつ付けられていない。
エリアスは痛みを堪えながら、よろよろと立ち上がる。
「下がり、なさい……!」
そう声を出したものの、二本角と戦う騎士たちに届きそうになかった。
二本角は様子見をするように騎士たちの動きを目で追っていた。だが、しばらくするとのそりのそりと動きだした。両拳を左右に大きく振り回す。たったそれだけの攻撃で騎士たちを一掃してしまう。
突き飛ばされた騎士たちがあちこちで倒れ、呻く。
攻撃が徹らないとわかったサジタリウス部隊も手を止めてしまっている。
二本角が周囲の騎士たちを見回したあと、興味をなくしたように目をそらした。ほかの戦線へとのそりのそりと歩きはじめる。
それを目にしながら、エリアスはほぼ無意識にアウラを纏いなおしていた。造り出した長剣を両手で握る。自分を突き動かしているのはなにか。それすらも自覚できないまま飛翔する。痛みを感じない。感覚が麻痺しているのだろうか。ただ、手は動かせる。剣は握れる。
瞬く間に二本角に接近した。背後から飛びかかり、首と肩の間に剣を突きたてる。ぐさり、という音。柄に引っかかるまで刃が一気に刺さった。
「……どこへ行く」
さしたる痛みを与えられなかったようだ。
二本角に動揺した様子は見られない。
それどころかゆっくりとこちらへ顔を向けてくる。
おそらく先ほどの戦いを経て、相手にならないと思われたのだろう。
それでもいいと思った。
相手にどう思われようと自分がするべきことは変わらない。
エリアスは自分の身体よりも巨大な顔を持つ敵へと、威圧するように告げる。
「きさまの相手は、このわたしだ」
◆◇◆◇◆
メルザリッテ・リアンは東方防衛線を縦横無尽に翔け回っていた。
順手に持った一対の剣。その攻撃範囲に入った敵を片っ端から斬り裂いていく。一般の騎士では斃すことが困難なシグル――モノセロスやドリアーク、ベリアルが視界に入ればもちろん逃さない。神の矢、飛閃を使い分けて瞬時に葬り去る。
大陸が地上に到達してから、いまだ苦戦は強いられていない。
むしろ楽なぐらいだ。
メルザリッテが思っていたよりも、リヴェティアの騎士団が奮闘していることが大きな要因だろう。加えて大陸を覆う光の膜――聖なる光の存在が大きい。
これが聖なる光ですか……。
シグルを排除しながら、メルザリッテは聖なる光をちらりと見やった。
たしかに足止めにはなっている。
だが、仮に聖なる光が破られた場合を考慮すると決して良い状況とはいえない。
溜まったシグルが一斉になだれ込んでくるからだ。
現に聖なる光のそばにはギガントが近づいてきている。
あれが持つ破壊力は相当なものだ。
簡単に聖なる光に大穴を開けられてしまうだろう。
最悪の事態を避けるためにも、出来る限り外の数を減らしておかなければならない。
「あ、相変わらず凄まじいですね」
「頼もしいったらありゃしねぇよ」
そばから声が聞こえてきた。
《牢獄の鎌》ことホリィ・ヴィリッシュと《破砕拳》のオルバ・クノクスだ。
決戦が始まってからというもの、メルザリッテは彼、彼女らの戦いぶりにも目を向けていたが、どちらもめざましい戦果をあげていた。さすがはリヴェティアが誇る王城騎士といったところか。人の中では抜きん出た戦闘能力を持っている。
オルバらと背を向け合う格好でシグルを迎撃しながら、メルザリッテは思う。
ちょうど良かった、と。
「お二人とも、大陸圏内に侵入したシグルの排除をお願いしてもよろしいですか?」
「かまわねぇけど、先生はどうすんだ?」
「わたくしは少し外へ出てきます」
「外って、そんな散歩みたいに――」
動揺するオルバを置いて、メルザリッテは早速とばかりに真上へ向かって飛んだ。
聖なる光を内側から破壊し、大陸圏外へと躍り出る。
と、聖なる光にへばりついていたシグルたちが一斉に向かってきた。
これは都合が良い、と思う。
聖なる光の外で中を目指すシグルも減るからだ。
メルザリッテは聖なる光を外側をなぞるように降下し、シグルの大群へと突っこんだ。内側とは比べ物にならない数だ。どこを見ても大半が黒で埋まっている。だが、周囲にシグルしかいないほうが、自分にとっては戦いやすい。
体を横回転させながら、また腕を素早く振りながらシグルをなぎ払った。あまり手間のかからない飛閃を主な遠隔攻撃の手段として用い、遠くのシグルにも攻撃を加えていく。
外へ出てからすでに三百以上のシグルを排除しているが、まだまだ少ない。
メルザリッテは戦う場所を空中から徐々に地上へと移していく。
ギガントが近寄ってきたのが見えた。
さらにドリアークが高度を下げ始める。
いましかない。
メルザリッテは右手を天へと振り上げた。直後、呼応するように周辺の地表から光の針が無数に飛び出る。戒刃逆天だ。
光の針は多くのシグルを串刺しにしていく。いま、周囲に気遣わなければならない相手はいない。そのため、これまで狭間の世界で使ってきたものとは規模も数も段違いだ。
日の光を反射し、あちこちで結晶が煌いている。
千か、それ以上のシグルを仕留めただろうか。
悪くない数だ。
しかし、まだ消滅していないシグルの姿も見られた。
多くがベリアルやドリアーク、ギガントだ。
とはいえ、戒刃逆天によって体を貫かれているため動きが止まっている。
メルザリッテは瞬時に造り出した光の矢を放ち、生き残ったシグルに止めを刺した。
そこかしこから黒煙があがり、シグルが消滅していく。
かなりの数を斃したが、この程度では敵の勢いをそぐことはできないとわかっていた。
離れた場所では、いまもシグルの群れがリヴェティア大陸へと侵入を続けている。
一見して先の見えない戦いだが、いまは終わりがあると信じて戦い続けるしかない。
メルザリッテは辟易することなく、次の戦場へと飛び立った。
瞬間、全身に怖気が走った。
感じたのは大陸とは逆方向からだ。
すぐさまそちらへと体ごと向ける。
前方にシグルの大群は見えなかった。
ただ、まったくいないというわけではない。
閑散とした荒地の上に人型のシグルがゆっくりと下り立った。
その数、二十。
どれも鳥獣のごとく前へと突き出した頭部、鋭い三本の鉤爪を伸ばした手足。その体を簡単に包みこむほどの大きな翼を生やしている。まさしくドリアークがそのまま人型になったといっていい姿だ。
彼我の距離は三十歩ほどか。
メルザリッテは眉根を寄せながら、ぼそりと呟く。
「メギオラ……ですか」
以前、狭間の者たちと作戦会議を開いたとき、メルザリッテはいまの自分と同等の力を持った存在がシグル側にはいると伝えた。
その存在こそ目の前のメギオラだ。
オウル直下の三柱。
その下に位置する位を持っている。
「ほう、俺たちを知っているか。ということは大戦を生き残ったアムールか」
答えたのは中央に立つメギオラだ。
そのメギオラは、ほかとは違って額と思しき箇所から三本の角を生やしている。
まさしく、メギオラの統率者たらしめる風貌だ。
「……ジディアス」
「これは驚いた。俺の名前も知っているとはな。もしや二千年前に手合わせしたことがあるのか?」
「さて、わたくしはあなたと戦った覚えなどありませんが」
「だろうな。俺と対峙して生き残った者などいない……たったひとりを除いてな」
言いながら、中央のメギオラ――ジディアスは自身の目に掌を当てた。
ジディアスの両目はどちらも開いていない。
太い斬り傷が刻まれ、塞がれているのだ。
「忌々しい過去だ」
ジディアスは吐き捨てるように言ったあと、おもむろに一歩、二歩と下がった。
「さて、くだらない話はここまでにしてさっさときさまを排除するとしよう。見たところ、きさまを殺せば、この辺りは簡単に制圧できそうだしな」
ほかのメギオラが前へと歩み出てくる。
どうやらジディアスは静観するらしい。
とはいえ――。
どうする、とメルザリッテは自問しながら身構えた。
メギオラの一体程度であれば、どうにかできる。
ただ、相手の数は約二十。
正直に言って勝ち目はない。
だが、逃げるという選択肢はない。
逃げれば、たちまち東方防衛線が陥落する。
一体のメギオラが翼を広げ、飛翔した。
それを皮切りにほかのメギオラも空へと飛び立ち、一気に向かってくる。
悩んでる暇などない。
メルザリッテは両手に持った剣を前方へと投げた。さらに神の矢を生成。数にして約五十。それらを一気に放つ。空を翔けた結晶の刃がメギオラの群れへと到達するが、すべてが虚空を進むだけに終わる。すべてのメギオラが素早く、最小限の動きで回避したのだ。
けん制にもなれば、と思っていたが、それすらもかなわなかったらしい。
メルザリッテがふたたび両手に剣を造り出したとき、メギオラたちが大口を開けた。そこに人の頭ほどの黒球が生成するやいなや、次々に放ってくる
ドリアークが放つものと酷似しているが、速さが段違いだ。気づけば眼前に迫っている。メルザリッテは紙一重のところでなんとか黒球を回避していく。が、相手は始めから一撃で仕留める気はなかったらしい。こちらの動きを制限し、包囲していたのだ。避けきれない距離まで黒球が迫った。新たに生成した二本の剣を交差させ、黒球を受け止める。衝撃を殺しきれない。二の足で地をえぐりながら後方へと突き飛ばされる。
勢いが止まるよりも早く、メギオラが接近してきた。肉をえぐりとらんと鋭い鉤爪が迫る。先ほどの黒球を受けたことで手がしびれている。このまま受ければ弾かれるのは必至だ。メルザリッテはとっさに身を真横へ投げた。地面に一度体を叩きつけたあとすぐさま起き上がる。と、ほかのメギオラの足が迫っていた。
もうしびれは和らいだ。ふたたび剣を交差させ、メギオラの踏みつけを受ける。骨が軋むような衝撃に襲われ、メルザリッテは思わず顔をゆがめてしまう。
渾身の力をこめて、メギオラの足を弾き飛ばした。直後、背後で空気の乱れを感じとった。すぐ近くまで敵が迫っている。
とっさに振り向こうとするが、間に合わなかった。背中を斬り刻まれた。焼けつくような痛みに見舞われる。うめき声をあげてしまう。そのまま前へと倒れこみそうになるが、必死に踏みとどまった。振り向きざまに剣を払い、接近していたメギオラを遠くへ押しのける。
息つく暇はない。離れた場所で浮遊する複数のメギオラがなにもない中空で鉤爪を振った。その斬撃が黒い刃となって突き進んでくる。色こそ違うが、まさしくそれは飛閃だ。
背中の傷の痛みを堪えながら、メルザリッテは飛び退いて躱していく。
「どうした、そんな戦い方では俺たちを殺せんぞ!」
遠くで見物しているジディアスの声が聞こえた。
その通りだった。
こんな戦い方ではメギオラを斃すことなどできない。
だが現状、どんな戦い方をしたところで勝てる見込みはない。
それほど戦力差に開きがあるのだ。
戦いながら、メルザリッテはある結論に至っていた。
このメギオラとの戦闘、勝とうとしてはならない。
ただ敵を引きつけ、回避に専念すること。
それこそが、いまの自分にできる最善の策である、と。
ジディアスの声が聞こえてくる。
「まさか俺たちをこの場に引きつけていれば、ほかの場所が楽をできるとでも思っているんじゃないだろうな」
見抜かれていた。
メルザリッテは、自分がメギオラたちさえひきつけてさえいれば、ほかの騎士が……ベルリオットがなんとかしてくれると思ったのだ。
こちらの考えに勘付いたジディアスだが、まったく焦っていない。
それどころか楽しそうに笑っている。
「だとすればとんだ勘違いだな。もちろん、俺たちがこの侵攻において重要な立ち位置にいることは間違いない。だが、北と西にも俺ほどではないが、なかなかに骨のある奴が向かっているぞ」
ジディアスを含めた三柱。
おそらく、その残りの二柱が向かっているのだろう。
それらと過去の大戦で戦ったことはあるが、たしかに恐るべき戦闘能力を持っていた。だが、絶望的な状況であるかと問われれば、そうではないと思った。
やはりベルリオットが存在している限り、希望は消えていない。
彼が守っているのは南方防衛線だが、伝令の報せを聞けば、きっと北と西方のどちらの防衛線も立て直してくれるはずだ。
そうメルザリッテが胸の底に静かな想いを抱いたとき、ジディアスがさらなる情報を付け足してきた。
「それに南側には――」
◆◇◆◇◆
正面から黒い影が迫っていた。
人型をしたそれはベリアルだ。
伸ばされた手には日の光を受けて煌く鋭い爪。
ベルリオットは天精霊の剣を押し出し、爪ごと敵の体を突き刺した。
ぐさり、と小気味の良い音が鳴る。
ベルリオットはまだ手を止める気はなかった。
突き刺した剣を勢いよく下ろしていく。
股下まで斬り裂いたところで敵の口からうめき声が漏れた。
ベリアルの身体が音もなく黒煙と化し、消滅していく。
次の敵は――ッ!?
ベルリオットは空を翔けながら頭を振って周囲を探る。
が、危険度の高いシグルは見当たらなかった。
目に入るのはガリオンやアビスぐらいだ。
ベルリオットは目に入れていた力を抜いた。
ゆっくりと息を吐きながら、体をわずかに弛緩させる。
「少し余裕が出てきたな」
言いながら、肩越しに目だけで振り返った。
背後にはトウェイル姉妹が浮遊していた。
彼女らは近くを飛んでいたアビスをなぎ払ったあと、正面を警戒しつつこちらに目を向けてくる。
「これもあれのおかげだね」
ナトゥールがある一方を見ながら言った。
そちらには大陸を覆っている光の膜が見える。
ベッチェ・ラヴィエーナが狭間に残した遺産。
聖なる光だ。
ルッチェから話は聞いていたので、その存在については知っていた。
ただ、効力について不透明だったため、あまり過度な期待はしないで欲しいとも言われていた。が、いざ発動されてみれば、この結果だ。
見事に多くのシグルの足止めに成功している。
「ただ、こうなってくると、よりギガントが邪魔になってくるな」
そう口にしたティーアの顔つきは険しかった。
彼女の視線の先には、聖なる光に張り付かんとするギガントがいる。
これまでとは違って二の足で立つそれから繰り出される一撃の威力は、凄まじいの一言だ。おかげでギガントの攻撃によって開けられた穴は、ほかのシグルが攻撃したときとは比較にならないほど大きかった。
聖なる光は常に開けられた穴を修復しようとするが、一瞬とはいかないらしい。そのため、大穴が開けられるたびに一気に多くのシグルの侵入を許してしまっていた。
ベルリオットはギガントを見やりながら、剣を握る力を強める。
「外に出て斃してくるか。二人はどうする?」
「もちろん、お供する」
「わ、わたしも!」
「わかった。無理だと思ったら、すぐに内側まで引いてくれ」
彼女らがうなずいたのを確認したのち、ベルリオットは外縁部へ向かって翔けはじめた。
と、そのとき目に映るすべてのシグルが動きを止めた。
聖なる光の外側にいるものも同じだ。
さらにベルリオットから向かって左右へと一気にわかれていく。
その異様な光景を前にし、ベルリオットは地上に下り立って身構えた。
そばに下り立ったトウェイル姉妹が動揺の声を漏らす。
「これはいったいどういうことだ?」
「もしかしてベルから逃げてる、とか……?」
「シグルだぞ? まさか、そんなことは――」
ない、とベルリオットが言おうとしたときだった。
周囲の空気が一変した。ひどく生温かい。この世であってこの世ではないような不思議な感覚だ。しかし、体内は明らかに冷えている。嫌な汗が背筋を流れていく。
心臓の鼓動が早まった。
どくんどくんと響く音がうるさい。
だが、それが皮肉にもいまの自分を正気足らしめる材料となっていた。
いつの間にか前方の上空に黒い影が浮いていた。
鳥獣を思わせる巨大な翼をはためかせるそれは、ベリアルと似た形状をしていた。
ただ、まったく同じというわけではない。
頭部のあちこちから後ろへ流れるように幾本もの角が生えている。また肩や小翼羽、足の裏などといった箇所からも極太の角と思しきものが飛びだしている。
なにより特徴的なのは、その身体を形成する色だ。
どこまでも深い黒。
日の光さえもまったく反射していない。
闇そのものとしか言いようがない。
ずっと見ていると吸い込まれそうな、そんな錯覚に見舞われてしまう。
その闇のシグルはいっさいの抵抗を受けず、聖なる光を音もなく通過する。
どうやら、あれにとって聖なる光は障害にすらならないらしい。
闇のシグルは、ベルリオットと向かい合う格好で大陸の地へと静かに下り立った。
「主」
「ベル……」
「二人とも絶対に手は出すなよ。死ぬぞ」
不安がるトウェイル姉妹に、ベルリオットはそう忠告することしかできなかった。
彼女たちは手足だけでなく全身を震わしている。
立っているだけで精一杯としか言いようがない状態だ。
闇のシグルが目を細め、紅の瞳でこちらを射抜いてくる。
「きさまがベネフィリアの子か?」
その声は低く、すぅっと耳に入ってきた。
まったく不快にはならない。むしろ耳触りが良いぐらいだ。
しかし、あまりにも心地が良すぎて逆に癪に障った。
「そうだと言ったら」
「なにもない」
語る言葉は少ない。
いったいなにを考えているのかわからない。
ただ、わかることといえば、相手に余裕があるということだ。
無理もない、と思う。
それほどまでに力に開きがある。
決してこちらが勝っているのではない。
相手のほうが勝っているのだ。
こんな奴がいたのか……!
ベルリオットは嫌な汗をかきながら、喉から言葉をひねりだす。
「おまえ、いったい何者だ?」
確実に並みのシグルではない。
自分と同等の力を持った存在がいる、とメルザリッテが話していたが、それでもないと思った。たしかにメルザリッテの力は疑いようもなく優れているが、目の前のシグルは明らかに彼女すらも遥かに凌駕している。
もったいぶるように間を空けたのち、闇のシグルがゆっくりとその口を開けた。
「我はシグルの王にしてきさまらを滅ぼすもの――」
「イジャル・グル・オウルだ」




